山尾庸三の情報(やまおようぞう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山尾 庸三さんについて調べます
■名前・氏名 |
山尾庸三と関係のある人
木戸孝允: 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 高杉晋作: 折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎) が相談した。 井上勝: 1年経ち、ジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した癸亥丸の船長に任命され(文久3年(1863年)3月10日)、測量方の山尾庸三らと共に横浜を出航して大阪・兵庫を経由して長州藩の三田尻港まで航行した。 有島生馬: 父親が由比ヶ浜に別荘を持っていたことから、吉田清成、吉原重俊、山尾庸三、園田孝吉らといった官僚の子供たちと親しく交流した。 伊藤博文: 文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動した。 伊藤博文: 文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意し、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。 和田昭允: 和田小六・春子の長男、木戸孝允の義理の曾孫、山尾庸三の曾孫、吉川重吉の孫、木戸幸一の甥、都留重人の義弟。 小野義真: その4日後の4月18日、工部権大丞山尾庸三から大隈重信宛の手紙で小野を庶務専務とすることが提案された。 大隈重信: 『明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、三人で飲み且つ語って、夜の十一時頃迄に、各々四五升も平らげたが、我輩は未だ中々酔わなかった、然るに岩倉も伊藤も弱い者だから酔って喧嘩を始めた、岩倉が「貴様が足軽の癖に生意気なことを言う」と伊藤を叱咤すると、伊藤が「何だ、青公卿に天下の形勢が分かる者か」と罵り返した、双方共に酔っておるものだから、言葉が荒くなったのだ、スルと岩倉が大いに立腹して「参議の一人たる伊藤から、青公卿なるが故に天下の形勢は分からぬと言われては、上御一人に対し奉りて相済まぬから、止むを得ず右大臣を辞する」と言い出した。 井上馨: 翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。 浪川大輔: 長州ファイブ 上・下巻(山尾庸三) 林董: これは伊藤の盟友で工学校設立を急いでいた工部少輔山尾庸三の指示があり、彼と外国人教師雇用を約束していた伊藤の命令でヘンリー・ダイアーを始めとする外国人教師雇用の交渉をまとめ、明治6年(1873年)5月に使節団より一足先に帰国、工部大輔に昇進した山尾のもとで工部大学校設立に尽力した。 藤岡市助: 29歳だった1886年(明治19年)には帝国大学工科助教授に就任したが、同年には10か月で助教授を依願退職し、山尾庸三の尽力で東京電燈を設立した。 井上勝: 1863年(文久3年):井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤博文と共に5人でイギリス留学(長州五傑)。 アーネスト=サトウ: 参議・大隈重信、工部大輔・山尾庸三とともに西国巡遊の旅行をした。 ヘンリー=ダイアー: 伊藤博文と山尾庸三の尽力により10寮1司の組織ができあがり、山尾が工学寮と測量司の長も担うことになった。 |
山尾庸三の情報まとめ
山尾 庸三(やまお ようぞう)さんの誕生日は1837年11月5日です。山口出身の政治家のようです。
事件、現在、卒業、テレビ、映画に関する情報もありますね。1917年に亡くなられているようです。
山尾庸三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山尾 庸三(やまお ようぞう、天保8年10月8日(1837年11月5日) - 1917年(大正6年)12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。嘉永5年(1852年)江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。 文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行した。この時の癸亥丸の船長が井上勝(当時は野村弥吉)である。この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であったが、操船に不安があったため、京邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。同年4月、周布政之助は「野弥山庸両人は、儲公三田尻御着船之上ハ宿志を遂候様に、於私に精々心配可仕候間」と書いた手紙を来島又兵衛に送っている。 帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、井上馨を加えた3名の渡英が決定した。後に伊藤博文と遠藤謹助を加えて5名となった。 文久3年(1863年)、藩命により陪臣から藩の士籍に列し、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれる。 ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)において2年間英語と基礎科学を学んだ。 UCL在籍2年修了後、成績優秀者として優等賞を授与された。分析化学で4位、理論化学で10位であった。 その後グラスゴーに移り、ヒュー・マセソン (Hugh Matheson) の紹介でグラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けるとともに、アンダーソン・カレッジ(後のストラスクライド大学)の夜学コースで学んだ。その間ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン Colin Brown宅に下宿した。後に工学寮工学校都検として来日するヘンリー・ダイアーは、アンダーソン・カレッジの夜学で山尾の姿を見たと語っている。 ブラウンは、山尾が明治3年に明治政府の要職に就いたことを工部省御雇いのコリン・マクヴェインから知らされ、グラスゴーで日本の将来のために毎日仕事と勉強に勤しむ山尾の姿を思い出し、彼こそ「真のヒロー」であると述べている。 明治元年(1868年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となった。鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて伊藤博文とともに明治3年(1870年)工部省の設立に勤めた。この時、民部省内の一組織ではなく、独立した省として設立すべきと強く主張した。大久保利通の岩倉具視宛書簡に、「工部省之事も既二御治定二而、寮之筈之処山尾辞表差出終に省に御決定御発表有之候条(寮という民部省内の組織のはずだったのに、山尾が辞表を出しながら強く主張したため最終的に独立した省となることが決まった)、公も不得止御情実も被為在候や」とある。 明治4年(1871年)、工部省が10寮1司体制で始動すると、岩倉使節団副使として外遊する工部大輔の伊藤博文に代わり工部省をまとめあげるとともに、工学寮と測量司の長に就任。日本最初の実務技術者養成機関である工学校の創設に尽力し、この工学校は1877年に工部大学校と改められ、のちの東京大学工学部の前身となった。工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、1880年工部卿に就任するなど、工学関連の重職を任された。工部省として、工鉱業の現状調査、導入できる西欧の人材・技術の選定、工鉱業の発展・高度・活性化の推進、原材料や商品の輸送手段(船・港湾・灯台、鉄道、道路)の整備に尽力した。 工学校の前身である工学寮の設立には「未だ日本において為すべき工業なし、学校を立て人を作るも何の用をか為さん」などと反対論も多かったが、山尾は「仮令当時為すの工業無くも(仮に今工業がないとしても)、人を作れば其人工業を見出すべし」と工学教育の重要性を訴え、認めさせた(明治4年4月)。 ほぼ同時期の明治4年9月、「盲聾唖学校設置建白書」を起案。この意見はすぐには受け入れられなかったものの、障碍者教育の先駆けとなった。明治8年5月に盲人教育を目的とした楽善会(東京盲唖学校の前身)が発足し、明治9年3月に山尾が入会している。 明治4年、長崎製鉄所の平野富二(石川島造船所(現・IHI)創立者)に協力して製鉄所の不正経理の調査実態解明を行った。その後長崎製鉄所は民営化され、平野も製鉄所を離れたが、山尾はその後の平野の事業(印刷業・造船業など)に支援を惜しまなかった。 また、参事院議官、参事院副議長も務めた。工部省が廃止された1885年に、新たに創設された法制局の初代長官に任命され、宮中顧問官・有栖川宮別当・北白川宮別当も兼任して務めている。1887年5月24日に子爵となる。 別当として、宮家の公式な晩餐会などの祝宴に関わった記録が残されている。 1888年2月7日法制局長官を辞任し、宮中顧問官・有栖川宮別当・北白川宮別当兼任のまま、2月15日に官庁集中計画を担う臨時建築局のの第二代総裁に就任した(初代は井上馨)。山尾は、井上が進めていた計画を大幅に縮小・変更した新計画を作成し、同年9月25日に閣議決定を受けた。現在の日比谷公園と諸官庁の敷地である千代田区霞が関一丁目・二丁目はこの新計画に基づくものであり、山尾が「中央官庁街の原型を与えた」と言われる。1890年1月、臨時建築局の廃止処分とベックマン条約の満期前解約について山縣有朋大臣に上申した。臨時建築局は同3月26日に廃止され、その事務は内務省土木局が管掌することになった。 1898年退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。 明治4年には盲学校、聾学校の設置を主張する建白書を表すなど障害者教育に熱心に取り組み、1880年に楽善会訓盲院(東京盲唖学校の前身)を設立した。1915年には日本聾唖協会の総裁となっている。明治9年(1876年)に楽善会訓盲院設立認可が下りた日に因む東京盲唖学校の設立記念日12月22日(新暦)は、幕末に山尾が暗殺した塙忠宝(盲目の国学者塙保己一の息子)の命日と同じ日付(旧暦)である。 1917年、死去。 長男・次男は早世しており、三男の山尾三郎(1877年-1946年)が子爵を襲爵した。 酒が全く飲めず、お酒の燗の番をさせられていたという話がある。大隈重信の談話「明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、(中略)燗番をしていた山尾が、驚いて飛んで来て、マアマアと双方をなだめたことが有る」 英国密留学仲間(英国に最後まで残った2人)の井上勝とは工部省時代には上司(山尾)と部下(勝)の関係であったが、常に手を焼かされた。長州藩士時代は勝が身分が上だが、山尾が6歳年上である。勝が鉄道寮を大阪へ移転するようにも頼んだのに山尾が拒否したため、明治6年(1873年)7月22日に官職を辞任したこともあった。帰国した伊藤博文が両者を説得し、勝は明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められた。
勝の訃報にはいち早く自宅を訪れ、傷心の妻子に代わり弔問客の対応や通夜等の手配を行った。このため、弔問客の名簿には山尾の名前は記されてないとされる。 森有礼(薩摩藩第一次英国留学生の一人で、英国留学中に山尾・野村・遠藤に会っている)「長州之人三人も追々落会仕り観察仕候処候。一人山尾と申人ハ誠に誠実の人二而宜敷人二御座候」 ヘンリー・ダイアー(工部大学校都険(実質的な校長))「わたしの親友である山尾子爵は、工業だけでなく、産業全般に対しても多大の貢献をした。氏の名前は政治史ではさほど目立たない存在かも知れないが、静かで控えめな態度で、しかも日本を進歩させるために活動していたすべての人々の良き友として、日本のために立派な貢献をした人物の一人であることを記憶すべきである」 石橋絢彦(工部大学校卒業生)「庸三と(井上)勝とは始終反目していた。気風が合わない。庸三は温雅で勝は狷介(頑固)、年は庸三が六歳上で思慮が深い。その庸三の仕事を勝は貶していた」 荒川巳次(工部大学校卒業生)「山尾子爵は、実に質朴で剛堅の好人物で、一度子爵に近づけばヨキオジサンの感がした。高位高官の人でありながら、何でも話せる人であった。若い者の考えもよく聞いてくれた。学生上がりのわれわれをも丁寧親切に遇せられた。偉い人の生活は実に豪奢なものであったが、子爵は大きな家でもなく、身分から言えば質素な邸宅であった。子爵は謹厳この上もない人であった。江戸にいた若い頃、仲間たちが品川の妓楼に連れて行ったが、氏は端座したまま夜を明かした」 妻:種子 - 岩瀬良應の長女 三男:三郎 長女:寿栄子 - 木戸孝正(侯爵)の後妻 次女:千代子 - 廣澤金次郎(伯爵)の前妻 四女:米子 - 前島彌(男爵)の前妻 五女:鶴子 - 古谷久綱の妻 六女:亀子 - 廣澤金次郎(伯爵)の後妻 七女:酉子 - 前島彌(男爵)の後妻 八女:梅子 - 星野友次郎の妻 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位 1894年(明治27年)6月30日 - 正三位 1888年(明治21年)7月21日 - 銀製黄綬褒章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1892年(明治25年)6月29日 - 勲一等瑞宝章 1898年(明治31年)1月31日 - 旭日大綬章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1917年(大正6年)12月22日 - 旭日桐花大綬章 ^ 『官報』第1620号、大正6年12月25日、p.748。兼清正徳によれば12月21日の夜に逝去した由(『山尾庸三傳』p231)。 ^ 朝日日本歴史人物事典「山尾庸三」 ^ 元々は武士階級だったが帰農した。 ^ 萩の人物データベース ^ 吉川弘文館『国史大辞典』 ^ 長州ファイブ 周布政之助が野村と山尾を選んだ理由 ^ 『日本工学の父 山尾庸三』萩博物館 2017年 ^ コリン・ブラウンアンダーソン・カレッジ ( (Andersonian College) のユーイング音楽講師を勤め、ピットマンと一緒に『スコットランド民謡集 (J. Pittman and Colin Brown: The Songs of Scotland, 1873)』を編纂した。9頁に"Annie Laurie"、21頁に"Auld Langsyne"が収められている. ^ 泉田英雄:工部大学校創設再考、日本建築学会計画系論文集、2017年 ^ ヘンリー・ダイアー:大日本―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像, 1999年 ^ Colin Brown's Letter to Rev. Donald McVean, November 12, 1870, McVean Archives. ^ 朝日日本歴史人物事典 ^ 山尾庸三、平野富二の事業を支援した人(その2) ^ 『官報』第745号、明治18年12月23日、pp.1-3、斎藤和太郎『政府大改革之顛末 上編』静岡大務新聞社、1886年、72頁。 ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。 ^ 「日本工学の父 山尾庸三」萩博物館 2017年 ^ 『山尾庸三が臨時建築局総裁に就任した経緯に関する研究』清水英範 土木学会論文集D3 (土木計画学), Vol.74, No.5, I_1-I_18, 2018 ^ 中央新聞社 編「山尾庸三子 金魚」『名士の嗜好』文武堂、1900年、91-97頁。 ^ 東京聾唖学校 編「工学頭山尾庸三盲学聾学二校創建の建白」『創立六十年史』東京聾唖学校、1935年、5-7頁。 ^ 久田信行『盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)―建白書と暗殺事件―』 ^ 服部敏良は心臓病のためとする(『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」吉川弘文館、2010年、p29)。兼清正徳によれば脳溢血とのこと(『山尾庸三傳』p231)。 ^ 『神経衰弱及其回復』4頁 石川半山 著 明治四十二年 ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。 ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。 ^ 『官報』第1519号「彙報」1888年7月23日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 和田昭允「近代工学誕生期の先見的知性 -山尾庸三-」(『国立科学博物館ニュース』1997年6月号) 兼清正徳『山尾庸三伝 -明治の工業立国の父-』(山尾庸三顕彰会、2003年) 兼清正徳「山尾庸三」(『近現代日本人物史料情報辞典2』吉川弘文館、2005年) tysテレビ山口制作「生きた器械になりたい~時代の先駆者山尾庸三」(1997年12月27日放送)の番組を参考に、放送の5年後の2002年12月に全日空の機内誌「翼の王国」で「長州ファイブ特集」が組まれる。そして機内誌を参考に映画化に至る。 表 話 編 歴 山尾庸三 井上毅 尾崎三良 末松謙澄 神鞭知常 梅謙次郎 神鞭知常 平田東助 奥田義人 一木喜徳郎 岡野敬次郎 安広伴一郎 岡野敬次郎 一木喜徳郎 岡野敬次郎 倉富勇三郎 高橋作衛 有松英義 横田千之助 馬場鍈一 松本烝治 佐竹三吾 塚本清治 山川端夫 前田米蔵 川崎卓吉 武内作平 斎藤隆夫 島田俊雄 堀切善次郎 黒崎定三 金森徳次郎 大橋八郎 次田大三郎 川越丈雄 瀧正雄 船田中 黒崎定三 唐沢俊樹 広瀬久忠 村瀬直養 森山鋭一 三浦一雄 村瀬直養 楢橋渡 石黒武重 入江俊郎 佐藤達夫 佐藤達夫 佐藤達夫 佐藤達夫 林修三 林修三 高辻正己 吉國一郎 真田秀夫 角田礼次郎 茂串俊 味村治 工藤敦夫 大出峻郎 大森政輔 津野修 秋山收 阪田雅裕 宮﨑礼壹 梶田信一郎 山本庸幸 小松一郎 横畠裕介 近藤正春 岩尾信行 表 話 編 歴 法理文三学部綜理 加藤弘之 1877-1881 医学部綜理 池田謙斎 1877-1881 加藤弘之 1881-1886 事務取扱 外山正一 1886 事務取扱 外山正一 1886 初代 渡辺洪基 1886-1890 第2代 加藤弘之 1890-1893 第3代 浜尾新 1893-1897 第3代 浜尾新 1897 第4代 外山正一 1897-1898 第5代 菊池大麓 1898-1901 第6代 山川健次郎 1901-1905 第7代 松井直吉 1905 第8代 浜尾新 1905-1912 事務取扱 桜井錠二 1912 第9代 山川健次郎 1913-1920 第10代 古在由直 1920-1928 第11代 小野塚喜平次 1928-1934 第12代 長与又郎 1934-1938 事務取扱 佐藤寛次 1938 第13代 平賀譲 1938-1943 事務取扱 寺沢寛一 1943 第14代 内田祥三 1943-1945 第15代 南原繁 1945-1947 第15代 南原繁 1947-1951 第16代 矢内原忠雄 1951-1957 第17代 茅誠司 1957-1963 第18代 大河内一男 1963-1968 事務取扱/第19代 加藤一郎 1968-1969/1969-1973 第20代 林健太郎 1973-1977 第21代 向坊隆 1977-1981 第22代 平野龍一 1981-1985 第23代 森亘 1985-1989 第24代 有馬朗人 1989-1993 第25代 吉川弘之 1993-1997 第26代 蓮實重彦 1997-2001 第27代 佐々木毅 2001-2005 第28代 小宮山宏 2005-2009 第29代 濱田純一 2009-2015 第30代 五神真 2015-2021 第31代 藤井輝夫 2021- 辻新次 1872 辻新次 1872 柳本直太郎 1872 副長 伴正順 1872-1873 学長/校長 伴正順 1873/1873 畠山義成 1873-1874 畠山義成 1874-1876 校長補 浜尾新 1875-1877 綜理 加藤弘之 1877 学長 長谷川泰 1872 学長/校長 相良知安 1872-1873/1873-1874 相良知安 1874 長与専斎 1874-1877 池田謙斎 1877 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877 学校課長 青山貞 1877-1879 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886 心得 加太邦憲 1884-1885 山尾庸三 1871-1872 権頭/頭 大鳥圭介 1875/1875-1877 大鳥圭介 1877-1882 大鳥圭介 1882 副長 竹田春風 1882-1886 関沢明清 1877-1882 関沢明清 1882-1885 岩山敬義 1885-1886 前田献吉 1886 松野礀 1881-1886 前田献吉 1886-1889 高橋是清 1889 前田正名 1889-1890 肥田昭作 1874-1876 服部一三 1876-1877 主幹 服部一三 1877-1879 主幹 浜尾新 1877-1880 主幹/予備門長 服部一三 1880-1881/1881-1882 杉浦重剛 1882-1885 事務取扱 小林小太郎 1885 心得/予備門長 野村彦四郎 1885-1886/1886 野村彦四郎 1886-1887 古荘嘉門 1887-1889 木下広次 1889-1893 嘉納治五郎 1893 心得 久原躬弦 1893-1894 心得/校長 久原躬弦 1894/1894-1898 澤柳政太郎 1898 狩野亨吉 1898-1906 事務取扱/校長 今村有隣 1906/1906 新渡戸稲造 1906-1913 瀬戸虎記 1913-1919 事務取扱/校長 菊池寿人 1919/1919-1924 杉敏介 1924-1929 森巻吉 1929-1937 橋田邦彦 1937-1940 事務取扱 佐久節 1940 安倍能成 1940-1946 事務取扱 日高第四郎 1946 天野貞祐 1946-1948 麻生磯次 1948-1949 矢内原忠雄 1949-1950 湯原元一 1921-1927 塚原政次 1927-1934 近沢道元 1934-1940 藤原正 1940-1945 峰尾都治 1945-1949 矢内原忠雄 1949-1950 高木貞二 1950-1951 塩谷不二雄 1939-1943 事務取扱/主事 颯田琴次 1943/1943-1944 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947 事務取扱 颯田琴次 1947-1952 カテゴリ メディア 東京大学 東京大学 源流・前身諸機関 人物 ISNI VIAF 日本 日本の宮中顧問官 法制局長官 日本の参事院関係者 日本の元老院議官 工部省の人物 工部大学校の人物 造家学会・建築学会の人物 測量に関する人物 日本から密出国した人物 日本の暗殺者 日本の子爵 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 銀製黄綬褒章受章者 山口県出身の人物 周防国の人物 幕末長州藩の人物 在イギリス日本人 1837年生 1917年没 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/10/27 18:09更新
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