林董の情報(はやしただす) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
林 董さんについて調べます
■名前・氏名 |
林董と関係のある人
大久保利通: 林董 松本良順: 外務大臣の林董は実弟。 小村寿太郎: 原敬や星亨といった異才を見出して登用する独特の眼力をもっていた陸奥には、原、加藤高明、林董の「三羽ガラス」と呼ばれる側近がいた。 潮田江次: 妻は伯爵林董の長男で東洋織布社長・富士紡績取締役の林雅之助の長女ラク(学習院女学部卒)。 木村俊夫: 林董 ヘンリー=ダイアー: 林董が教師団の任用(契約)の手続きを行い、さらに1873年の日本までの渡航に同伴した。 松本良順: 実弟 林董 小村寿太郎: チャールズ・ハーディング駐露大使とマグドナルド駐日公使の報告を受け取ったイギリス外相のランズダウン侯は同盟改定の必要を感じ、3月24日に林董公使を呼んで改定交渉を打診した。 倉成正: 林董 小村寿太郎: 一方、1901年7月15日、イギリスに帰国中のクロード・マクドナルド駐日公使が日本の林董駐英公使に対し、恒久的な日英同盟について打診したことから日英提携の動きが活発化し、7月31日、林はイギリス外相ランズダウン侯爵と協議に入った。 小村寿太郎: 駐英大使だった林董の外相就任にともない、6月6日、小村が後任大使としてイギリスに赴任するよう指示を受けたのである。 福澤捨次郎: 明治24年(1891年)11月に外交官林董の娘菊(1874年生)と結婚、2男2女を儲けた。 根本正: (同年3月付外務次官林董宛根本正探検復命書)。 アーサー=バルフォア: また外相ランズダウン侯爵も駐英日本公使林董に対して「ロシアの満洲撤兵に関する協定が日露間だけで締結されるなら、日英同盟によって具現した日英の協調関係は弱まらざるを得ない。 小村寿太郎: 元老会議終了後、小村は反対なしで日英同盟推進路線が可決されたことを林董駐英公使に報告し、続いて閣議決定された日本側による協約修正案を伝えた。 佐藤志津: 義叔父 林董 外務大臣逓信大臣を歴任、伯爵 ビクトリア女王: これを聞いたヴィクトリアは素直に日本に感謝し、駐英日本公使林董に「貴国が派兵を約束してくださったと聞いて感謝の念に堪えません」と述べている。 岩崎久彌: 三女:綾子(1908年7月8日~2018年1月11日)福澤諭吉の孫・堅次(諭吉次男・捨次郎と林董伯爵令嬢・菊の次男)に嫁ぐ。 |
林董の情報まとめ
林 董(はやし ただす)さんの誕生日は1850年4月11日です。千葉出身の外交官のようです。
現在、兄弟、事件、病気、引退、趣味、姉妹、解散に関する情報もありますね。1913年に亡くなられているようです。
林董のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)林 董(はやし ただす、1850年4月11日(嘉永3年2月29日) - 1913年(大正2年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。 嘉永3年(1850年)、下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の蘭方医佐藤泰然・たき夫妻の末子として生まれた。幼少期に佐倉藩の藩校成徳書院(後に千葉県立佐倉高等学校)にて学ぶ。文久2年(1862年)、姉つるの夫で江戸幕府御典医林洞海の養子となり林董三郎と改名、両親と横浜に移り住み初めはアメリカ商社ウォルシュ・ホール商会の館員やアメリカ領事館通訳ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)から英語を学んだが、本格的な英語を学ばせたい養父の望みで宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンのヘボン塾(後の明治学院大学)に通い、クララ夫人から英語や西洋事情を学んだ。また医療と著作活動に献身するヘボンにも影響を受け、後に友人へ送った手紙で彼への深い尊敬を記している。 慶応2年(1866年)、幕府の開成所で行われた留学試験に合格、留学生として川路太郎・中村正直・外山正一・箕作奎吾・大六(後の菊池大麓)兄弟らとイギリスへ渡りユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、キングス・カレッジ・ロンドンで勉強していたが、慶応4年(明治元年、1868年)6月に幕府滅亡と戊辰戦争勃発のため帰国を命じられ、旅費の工面がつかない所をパリ万国博覧会訪問のためヨーロッパへ来ていた徳川昭武ら使節団に合流、昭武の援助で日本へ帰国した。 帰国後は従兄の山内堤雲と共に縁戚の榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。翌明治2年(1869年)の敗戦後に捕らえられ、弘前藩へ預けられるも黒田清隆の働きかけで明治3年(1870年)4月に釈放、英語教師、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングの翻訳官を務めた後、兄松本良順の紹介で陸奥宗光と知り合う。翌4年(1871年)の陸奥の神奈川県知事赴任に伴い横浜へ戻り県庁へ出仕、続いて外務省に転勤して伊藤博文と陸奥の保証で二等書記官に選ばれて岩倉使節団に加わり、再度の外遊へ赴いた。 使節団一行とフランス滞在中、本国の工部省からの要請で工部大学校設立準備のため、外国人教師雇用を命じられた。これは伊藤の盟友で工学校設立を急いでいた工部少輔山尾庸三の指示があり、彼と外国人教師雇用を約束していた伊藤の命令でヘンリー・ダイアーを始めとする外国人教師雇用の交渉をまとめ、明治6年(1873年)5月に使節団より一足先に帰国、工部大輔に昇進した山尾のもとで工部大学校設立に尽力した。以後工部省に移り工部省権大書記官まで進み、明治15年(1882年)に宮内省書記官も兼任、同年の有栖川宮熾仁親王のロシア皇帝アレクサンドル3世戴冠式列席に随行した。戴冠式自体は延期され目的は果たせなかったが、ヨーロッパ訪問中に憲法調査に来ていた伊藤と出会い、オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義に伊藤が参加した時に3回同席した。一方で外国本の翻訳・刊行も手掛け、ジョン・スチュアート・ミルの『経済論』、テートの『訓蒙天文略論』、ジェレミ・ベンサムの『刑法論綱』、リーバーの『自治論』などを翻訳・刊行している。 翌明治16年(1883年)に帰国、明治18年(1885年)の伊藤による内閣制度誕生につき工部省が廃止されると、代わりに新設の逓信省へ大書記官として就任、駅逓局長、内信局長を歴任した後、明治21年(1888年)に香川県知事、明治23年(1890年)に兵庫県知事を経験した。明治24年(1891年)に日本を訪問したロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)の接待と5月に起こった大津事件の処理に関わった。大津事件で第1次松方内閣の外務大臣青木周蔵が引責辞任、旧知の榎本武揚が後任の外相になると、同年6月に外務次官に任じられ外務省へ戻り、榎本の外交を支えた。 続く第2次伊藤内閣の外務大臣に就任した陸奥の下でも次官として外交を支えた。明治28年(1895年)に原敬通商局長らと日清戦争の処理(下関条約)と三国干渉の対応に追われ、病気の陸奥に代わり三国干渉で交渉を担当、5月に清へ特命全権公使として赴任、11月に遼東還付条約を締結した(この間10月に日清戦争の功績で男爵に叙せられる)。明治30年(1897年)に第2次松方内閣下の駐露公使に任命されロシアへ赴任(スウェーデン・ノルウェー特命全権公使も兼任)、明治32年(1899年)のオランダのハーグで開かれた万国平和会議に委員として出席、翌明治33年(1900年)に駐英公使となりイギリスへ移り住んだ。この頃からイギリスとの同盟を主張しており、明治28年5月に『時事新報』でイギリスの同盟を説いていたほか、明治31年(1898年)では朝鮮半島における日本の利益伸長を主張、ロシアから提案された協商の締結を本国へ打診すると共にイギリスとの結びつきも構想していた。 明治34年(1901年)、ドイツ代理大使エッカルトシュタインから日独英三国同盟の提案が行われ、これをきっかけにして日英間の交渉が始まった(ドイツ本国はロシアと対抗する不利益を懸念したため離脱)。林は本国の指示でイギリス外務大臣の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと交渉を重ね、明治35年(1902年)1月30日、ロンドンで第一次日英同盟を調印した。この功績で2月に子爵に昇叙されたが、交渉中にロシアと接触していた伊藤の行動に怒り、日英同盟締結直後の3月に本国へ宛てた報告書で伊藤と随行員の都筑馨六への怒りを書き綴ったが、後に伊藤の訪露は止むを得ないことだったと思い直している。 また明治36年(1903年)5月、イギリスのエンパイア・ロッジ・ナンバー2108にてフリーメイソンに入会。翌37年(1904年)には同ロッジのマスター(総責任者)に就任。日本人初のロッジ・マスターとされる。 日露戦争後の明治38年(1905年)12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となった。それに伴い林は初代駐英大使に任命され、日本の外交官としては初めての特命全権大使となった。同年に第二次日英同盟を締結、明治39年(1906年)に日本へ帰国して西園寺公望首相の下で外務大臣として入閣(第1次西園寺内閣)。この頃には伊藤との関係が修復されたらしく、外相就任には彼と井上馨・山縣有朋ら元老の意向を受けた西園寺の任命があってのことだった。 翌明治40年(1907年)に日仏協約・日露協約・第三次日韓協約と次々締結、列強協調態勢を作り上げた。英露協商の締結もあって日本は三国協商に加わる形で四国協商の一角を担い、この功績により伯爵に叙せられた。ところがアメリカの移民問題で駐米大使になっていた青木周蔵が独断でアメリカと交渉したことに激怒、青木を更迭してアメリカと移民渡航制限(日米紳士協約)を結んだ。かたやナショナリズムが台頭した中国とも満洲善後条約で確認された満洲の利権を巡って対立が生じ、国内でも桂太郎ら政治家たちに非難される中、明治41年(1908年)の倒閣で外相を辞職、明治42年(1909年)から翌43年(1910年)にかけて口述筆記『後は昔の記』を制作・刊行。 明治44年(1911年)に西園寺が再び政権を樹立すると、前回の困難に懲りて外相ではなく逓信大臣として第2次西園寺内閣へ入った。一時外相も臨時の形で兼ねたが、外交は内田康哉が担っていた。大正元年(1912年)に内閣総辞職で引退。翌大正2年(1913年)7月10日に脳溢血のため葉山で死去、享年63。墓所は東京都港区の青山霊園(墓じまいされ立体埋蔵施設2区に移された)と神奈川県大磯町の妙大寺にある。 歴史学者由井正臣からは執着に乏しく野心も無いと評されるが、「趣味に豊富に、諸芸に通じ、事物を冷眼に見る」との評もある。また福澤諭吉からも「学者風人物」と評され、飄々とした人柄が指摘される一方、何かこだわりがあったらしく突如激怒することもあったという。外交方針は日英同盟を基軸に据える多角的同盟・協商網を模索することが主眼で、この方針は小村寿太郎とも共通しており、両者のどちらか一方が外相の場合はもう一方が公使または大使として二人三脚で日本外交を進めていった。 慶応2年に幕府留学生に選ばれた理由は、林の回想録によると開成所で行われた英文和訳・和文英訳の試験に合格したからだが、菊池大麓からは留学生の中で初めから英語が話せたと評された。岩倉使節団に選ばれた時も英語力が注目され、英文口訳が流れるほど早く筆記者が追い付かず困るほどだったといわれ、同行した久米邦武からは並外れた能力を驚かれている。藩閥出身では無い林が出世出来たのは才能に目を付けた陸奥の期待による所が大きく、第2次伊藤内閣で外相となった陸奥から外務次官留任の形で重用された。 回想録『後は昔の記』では冷静な観察眼と特定の人物に対する評価が記され、明治24年の大津事件は一部の新聞による反露報道にも責任があったとして当時の記事を挙げている。一方で駐露公使時代に皇帝となったニコライ2世に拝謁、大津事件を思い出して恐縮したり、明治28年に下関条約で清側の交渉全権李鴻章が狙撃された事件(李鴻章狙撃事件)を思い返して暗殺の無益さを批判している。人物評価は青木周蔵・榎本武揚については辛辣で、青木とは肌が合わなかったらしく悪口を露骨に書き、榎本は正直・律儀と長所を挙げながらも思慮がなく人の言う所を承諾する短所も書き「朋友としては此上もなき人なれども、官吏としては共に事を執るに困る人なり」と評している。 陸奥とは明治4年から明治30年まで26年もの長い付き合いがあり、日英通商航海条約締結による不平等条約改正(条約改正)の成功を讃え、「氏は素より温厚篤実の士にあらず。寧ろ捷知を以て自ら誇るの人なれども、理義に明かに人情に通じよく人を恕する」とその人柄を詳細に書き記している。林が陸奥の訃報に接したのは駐露公使赴任中の明治30年8月で、回想録に「生涯最高の知己を失いたり」と嘆いている。両者の長い付き合いは陸奥と林の対称的な性格や、共通した経歴(投獄された経験・非藩閥出身)、国運安泰に全力を尽くす外交官としての姿勢があったからとされる。 嘉永3年(1850年)2月29日、誕生。幼名信五郎。 文久2年(1862年)6月、幕府医家林洞海の養子となり、林董三郎を称す。 慶応2年(1866年)10月26日、幕命により英国留学生(キングス・カレッジ・ロンドン)となり、横浜より出航。 慶応4年(1868年)6月、横浜に帰航。その後幕府海軍副総裁榎本武揚に従軍し、開陽丸乗組見習となる。8月、蝦夷函館に赴く。 明治2年(1869年)5月、蝦夷函館政権降伏し、捕虜となり、弘前藩預けの上、禁錮に処せらる。 明治3年(1870年)4月、禁錮の処分を解かれ、横浜に赴く。 明治4年(1871年)9月、神奈川県奏仕出仕に就き、維新政府の地方官僚となる(神奈川県知事は陸奥宗光)。10月、岩倉具視遣外使節団(岩倉使節団)随行二等書記官に異動。11月、外務省七等出仕を兼帯(工部大輔伊藤博文へ依頼による)。11月12日、横浜より出航。時に林董三郎を称す。 明治6年(1873年)5月、横浜に帰航。6月9日、工部省工学寮の工学助(奏任六等)を兼帯(奏任六等外務省二等書記官)し、工部大学校設立に従事(工部卿は伊藤博文)。 年月日不詳、工部寮少丞に異動。 年月日不詳、工部省権大書記官に異動。さらに工部省大書記官に異動。 明治15年(1882年)4月、奏任四等宮内省大書記官を兼帯(有栖川宮熾仁親王の欧州歴訪随行員となったため)。月日不詳、参事院員外議官補を兼帯。 明治16年(1883年)2月、宮内省大書記官の兼帯を解く。 明治18年(1885年)12月22日、工部省廃止に伴い、新設の逓信省大書記官に異動。 明治19年(1886年)3月3日、高等官(勅任官)二等逓信省駅逓局長に異動(第1次伊藤内閣。逓信大臣は榎本武揚)。 明治20年(1887年)3月10日、逓信省内信局長に異動。 明治21年(1888年)12月3日、香川県知事に転出。 明治23年(1890年)3月、兵庫県知事に転出。 明治24年(1891年)6月15日、高等官(勅任官)一等外務次官に転出(第1次松方内閣。外務大臣は榎本武揚)し、外務省総務局長兼帯。8月16日、総務局廃止に伴い、同局長兼帯罷む。 明治28年(1895年)5月21日、外務次官の任を終える。任 特命全権公使。6月22日、清国駐剳特命全権公使として着任(第2次伊藤内閣。外務大臣は陸奥宗光)。10月31日、男爵を授爵し、勲一等瑞宝章に叙勲受章。11月8日、遼東還付条約締結。 明治28年(1896年)7月21日、日清通商航海条約締結。11月2日、清国駐剳特命全権公使の任を終える。 明治30年(1897年)5月25日、露国駐剳特命全権公使として着任(第2次松方内閣。外務大臣は大隈重信)。同日、スウェーデン並びにノルウェーの特命全権公使を兼帯。 明治32年(1899年)9月5日、露国駐剳特命全権公使・スウェーデン並びにノルウェーの特命全権公使の任を終える。12月27日、勲一等旭日大綬章に叙勲受章。 明治33年(1900年)7月6日、英国駐剳特命全権公使として着任(第2次山縣内閣。外務大臣は青木周蔵)。 明治34年(1901年)7月21日段階で従三位。 明治35年(1902年)2月27日、子爵に昇叙。第一次日英同盟締結に活躍し成功を得る。 明治37年(1904年)、不平等条約の改正外交に現場として活躍。 明治38年(1905年)12月2日、駐英公使が大使に昇格するに伴い、英国駐剳特命全権大使となる(第1次桂内閣。外務大臣は小村寿太郎)。第二次日英同盟締結に活躍。 明治39年(1906年)3月19日、英国駐剳特命全権大使の任を終える。 4月1日、勲一等旭日桐花大綬章に叙勲受章。5月19日、外務大臣として入閣(第1次西園寺内閣)。以後、日仏協約・日露協約・第三次日韓協約(反故条約)締結に及ぶ。 明治40年(1907年)9月14日、伯爵に昇叙。 明治41年(1908年)7月14日、西園寺内閣総辞職に伴い、外務大臣を辞す。 明治43年(1910年)5月段階で正三位。 明治44年(1911年)8月30日、逓信大臣(第2次西園寺公望内閣)となり、外務大臣を臨時兼任。10月16日、外務大臣臨時兼任を解く。 大正元年(1912年)12月5日、西園寺内閣総辞職に伴い、逓信大臣を辞す。 1873年(明治6年)11月15日 - 正六位 1886年(明治19年)11月16日 - 正五位 1888年(明治21年)12月6日 - 従四位 1893年(明治26年)12月27日 - 正四位 1899年(明治32年)12月20日 - 従三位 1906年(明治39年)10月20日 - 正三位 1913年(大正2年)7月10日 - 従二位 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲一等瑞宝章 1899年(明治32年)12月27日 - 旭日大綬章 1902年(明治35年)2月27日 - 子爵 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章 1907年(明治40年)9月14日 - 伯爵 1891年(明治24年)
10月29日 - ハワイ王国:王冠第一等勲章 1896年(明治29年)12月17日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星 1907年(明治40年)7月27日 - 大韓帝国:大勲位瑞星大綬章 1910年(明治43年)2月14日 - ロシア帝国:赤十字有功章 実父:佐藤泰然 実母:たき 実兄:山村惣三郎・松本良順 義兄:佐藤尚中 - 父の養嗣子 実姉:きわ - 三沢精確(良益)に嫁ぐ 姪婿:三沢元衛(今村信行弟)・緒方惟準(緒方洪庵次男)・箕作麟祥・田村初太郎 - きわ・三沢精確夫妻の娘きみ・よしえ・もと・さく姉妹の夫 養父・義兄:林洞海 養母・実姉:つる 義兄弟・甥:林研海・西紳六郎 - 洞海・つる夫妻の実子 義兄弟・姪婿:榎本武揚・赤松則良 - 洞海・つる夫妻の娘たつ・さだ姉妹の夫 従兄弟:山内作左衛門・山内堤雲 - 父の姉妹の息子、堤雲は妻の姉の夫で義兄でもある 妻:操(1858年 - 1942年) - 蒲生重民の娘、山内作左衛門の養女 長女:菊(1874年 - 1968年) - 福澤諭吉の次男・福澤捨次郎(時事新報社長)に嫁ぐ 長男:雅之助(1877年 - 1958年) - 伯爵位を継承。娘婿に潮田勢吉、小室雅夫(小室信夫の孫)。妻ユキ(横山岩二郎二女)は川崎正蔵の養女。 孫:岩崎忠雄(1909年 - 1990年) - 雅之助の長男、岩崎小弥太の婿養子 義孫:岩崎淑子(1913年 - 1994年) - 岩崎俊弥の次女、岩崎小弥太の姪で養女、忠雄の妻 『有栖川二品親王欧米巡遊日記』(編)回春堂、1883年。 『後は昔の記』時事新報社、1910年。 『後は昔の記他 林董回顧録』(由井正臣校注、平凡社東洋文庫、1970年) ジョン・スチュアート・ミル『彌児經濟論』吉松四郎、1875年 テート『訓蒙天文略論』島村利助、1876年 ホンフレー・プリドウ『馬哈黙(マホメット)伝』干河岸貫一、1886年 賓雑吾(ベンサム)『刑法論綱』干河岸貫一、1879年
『泰西政史』抄訳 回春堂、1881年 マキァヴエリ『羅馬史論』博文館、1906年 『修養の模範』訳編 丙午出版社、1909年 ^ 誕生日を2月22日とする資料もある。 ^ 林が釈放された理由は彼の才能を惜しんだ黒田の関与があったからだが、きっかけは林が榎本の脱走の趣意書『徳川家臣大挙告文』を英訳した文を受け取ったハリー・パークスがその英文の見事さに驚いたという噂を黒田が耳にしたことにあった。また敗戦で弘前藩預かりになった際、林の英語力を見込んだ官軍により先に釈放されそうになったが、林は全員の釈放を求め応じなかったことがかえって官軍に感心されたという逸話も残っている。 ^ 明治35年3月30日付の本国宛て報告書『日英同盟協約締結書』では、イギリスとの交渉中にロシアと交渉した伊藤を強く非難している。それによると、伊藤はロシアへ行く前にダブル・ディーリングの危険性を訴えた林に協商を結んではならないと説得され同意したにも拘らず、ロシアで協商について深く話し合ったことを了解に苦しむと記し、伊藤をそそのかしたとして随行員の都筑馨六にも怒りをぶつけている。ただし、駐英公使の林には日露交渉を知ることが出来ないためこの非難は林の誤解と考えられ、後に林は当時の日本の事情を考えれば止むを得ないことだったかもしれないと書いている。 ^ 林董 初版 [明治36(1903)年4月] の情報 - 人事興信録データベース ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 68-70. ^ 芳賀徹 2020, p. 128-130. ^ 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 291-292. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 70-71. ^ 芳賀徹 2020, p. 130-131. ^ 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 292. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 67,71. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 71-72. ^ 芳賀徹 2020, p. 131. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 72-74. ^ 芳賀徹 2020, p. 133-134. ^ 新版日本外交史辞典 1992, p. 842. ^ 朝日新聞社 1994, p. 1342-1343. ^ 臼井勝美 & 高村直助 2001, p. 848. ^ 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床次竹二郎 岡田啓介 望月圭介 頼母木桂吉 山崎達之輔 兒玉秀雄 永井柳太郎 塩野季彦 田辺治通 永井柳太郎 勝正憲 村田省蔵 寺島健 八田嘉明 小松茂 塩原時三郎 塩原時三郎 松前重義 (心得)新谷寅三郎 一松定吉 三木武夫 冨吉榮二 降旗徳弥 小沢佐重喜 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 鮫島尚信1870-1872 少弁務使 寺島宗則1872 大弁務使 / 1872-1873 上野景範1874-1879 森有礼1879-1884 河瀬真孝1884-1893 青木周蔵1894-1898 加藤高明1898-1900 林董1900-1905 大使館に昇格 林董1905-1906 小村壽太郎1906-1908 加藤高明1908-1913 井上勝之助1913-1916 珍田捨巳1916-1920 林権助1920-1925 松井慶四郎1925-1929 松平恆雄1929-1936 吉田茂1936-1939 重光葵1939-1941 大使交換中断1941 上村伸一1941-1942臨時代理大使 引揚1942 朝海浩一郎1951-1952 朝海浩一郎1952臨時代理大使 松本俊一1952-1955 西春彦1955-1958 大野勝巳1958-1964 島重信1964-1968 湯川盛夫1968-1972 森治樹1972-1975 加藤匡夫1977-1979 藤山楢一1979-1982 平原毅1982-1985 山崎敏夫1985-1988 千葉一夫1988-1990 北村汎1990-1994 藤井宏昭1994-1997 林貞行1997-2001 折田正樹2001-2004 野上義二2004-2008 海老原紳2008-2011 林景一2011-2016 鶴岡公二2016-2019 長嶺安政2019-2020 林肇2020- 表 話 編 歴 澤宣嘉1873(未赴任) 榎本武揚1874-1880 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1887-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 国交断絶(日露戦争) 本野一郎1906-1908 大使館昇格1908 本野一郎1908-1916 内田康哉1916-1918 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立) 田中都吉1925-1930 広田弘毅1930-1932 太田為吉1932-1936 重光葵1936-1938 東郷茂徳1938-1940 建川美次1940-1942 佐藤尚武1942-1946 国交断絶(第二次世界大戦末期から日ソ共同宣言まで) 門脇季光1957-1961 山田久就1961-1963 下田武三1963-1965 中川融1965-1970 新関欽哉1971-1973 重光晶1974-1978 魚本藤吉郎1978-1982 高島益郎1982-1984 鹿取泰衛1984-1987 武藤利昭1987-1990 枝村純郎1990-1991 枝村純郎1991-1994 渡辺幸治1994-1996 都甲岳洋1996-1999 丹波實1999-2002 野村一成2002-2006 齋藤泰雄2006-2009 河野雅治2009-2011 原田親仁2011-2015 上月豊久2015-2023 武藤顕2023- 表 話 編 歴 在ロシア帝国公使が兼轄 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1886-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 秋月左都夫1904-1907 杉村虎一1907-1911 内田定槌1912-1920 日置益1918-1920 畑良太郎1920-1924 永井松三1925-1928 武者小路公共1930-1933 白鳥敏夫1933-1936 栗山茂1937-1939 岡本季正1942-1946 引揚1946 結城司郎次1950-1952 結城司郎次1952-1954 大江晃1954-1957 島重信1957 島重信1957-1959 松井明1959-1962 鶴岡千仭1962-1966 高橋通敏1966-1968 三宅喜二郎1968-1971 日向精蔵1971-1973 上田常光1973-1975 都倉栄二1975-1978 滝川正久1978-1981 大和田渉1981-1983 越智啓介1983-1986 野村豊1987-1990 村角泰1989-1991 熊谷直博1991-1994 股野景親1994-1997 藤井威1997-2000 内田富夫2000-2004 大塚清一郎2004-2007 中島明2007-2010 渡邉芳樹2010-2013 森元誠二2013-2015 山崎純2015-2018 廣木重之2018-2021 能化正樹2021-2024 水越英明2024- 表 話 編 歴 山田顕義1873-1874未赴任 柳原前光1874代理公使1874-1875 森有礼1875-1878 宍戸璣1879-1882 榎本武揚1882-1885 塩田三郎1885-1889 大鳥圭介1889-1894 林董1895-1897 矢野文雄1897-1899 西徳二郎1899-1901 小村壽太郎1900-1901 内田康哉1901-1906 林権助1906-1908 伊集院彦吉1908-1913 山座円次郎1913-1914 日置益1914-1916 林権助1916-1918 小幡酉吉1918-1923 芳澤謙吉1923-1929 佐分利貞男1929 重光葵1931-1932 有吉明1932-1935 大使館昇格1935 有吉明1935 有田八郎1936 川越茂1936-1938 阿部信行1940 本多熊太郎1940年-1941年 重光葵1942 谷正之1943-1945 南京政府解散 芳澤謙吉1952-1955 堀内謙介1955-1959 井口貞夫1959-1963 木村四郎七1963-1966 島津久大1966-1969 板垣修1969-1972 宇山厚1972 中華民国と断交、中華人民共和国と国交樹立 小川平四郎1973-1977 佐藤正二1977-1979 吉田健三1979-1981 鹿取泰衛1981-1984 中江要介1984-1987 中島敏次郎1987-1989 橋本恕1989-1992 國廣道彦1992-1995 佐藤嘉恭1995-1998 谷野作太郎1998-2001 阿南惟茂2001-2006 宮本雄二2006-2010 丹羽宇一郎2010-2012 西宮伸一2012未赴任 木寺昌人2012-2016年 横井裕2016-2020 垂秀夫2020-2023 金杉憲治2023- 表 話 編 歴 青木周蔵1886-1889 岡部長職1889-1891 林董1891-1895 原敬1895-1896 小村寿太郎1896-1898 鳩山和夫1898 都筑馨六1898-1899 高平小五郎1899-1900 高平小五郎1900 浅田徳則1900 内田康哉1900-1901 珍田捨巳1901-1903 珍田捨巳1903-1906 内田康哉1906-1907 珍田捨巳1907-1908 石井菊次郎1908-1912 倉知鉄吉1912-1913 松井慶四郎1913-1915 幣原喜重郎1915-1919 埴原正直1919-1922 田中都吉1922-1923 松平恆雄1923-1924 出淵勝次1924-1928 吉田茂1928-1930 永井松三1930-1932 有田八郎1932-1933 重光葵1933-1936 堀内謙介1936-1938 沢田廉三1938-1939 谷正之1939-1940 松宮順1940 心得 大橋忠一1940 心得 大橋忠一1940-1941 山本熊一1941 心得 天羽英二1941 西春彦1941-1942 山本熊一1942 心得 山本熊一1942 松本俊一1942-1944 沢田廉三1944-1945 松本俊一1945 河相達夫1945 田尻愛義1945 松嶋鹿夫1945-1946 寺崎太郎1946-1947 岡崎勝男1947-1948 吉沢清次郎1948 岡崎勝男1948 太田一郎1948-1949 太田一郎1949-1951 井口貞夫1951-1952 渋沢信一1952 奥村勝蔵1952-1955 門脇季光1955-1957 大野勝巳1957-1958 山田久就1958-1960 武内龍次1960-1963 島重信1963-1964 黄田多喜夫1964-1965 下田武三1965-1967 牛場信彦1967-1970 森治樹1970-1972 法眼晋作1972-1974 東郷文彦1974-1975 佐藤正二1975-1977 有田圭輔1977-1979 高島益郎1979-1981 須之部量三1981-1983 松永信雄1983-1985 柳谷謙介1985-1987 村田良平1987-1989 栗山尚一1989-1991 小和田恆1991-1993 斎藤邦彦1993-1995 林貞行1995-1997 柳井俊二1997-1999 川島裕1999-2001 野上義二2001-2002 竹内行夫2002-2005 谷内正太郎2005-2008 薮中三十二2008-2010 佐々江賢一郎2010-2012 河相周夫2012-2013 齋木昭隆2013-2016 杉山晋輔2016-2018 秋葉剛男2018-2021 森健良2021-2023 岡野正敬2023- 表 話 編 歴 伊藤博文 久我通城 未赴任 中島錫胤 陸奥宗光 税所篤 権知事 中山信彬 神田孝平 森岡昌純 権令→県令 内海忠勝 内海忠勝 林董 周布公平 大森鍾一 服部一三 清野長太郎 有吉忠一 折原巳一郎 平塚広義 山県治郎 長延連 高橋守雄 岡正雄 小柳牧衛 白根竹介 湯沢三千男 岡田周造 関屋延之助 坂千秋 成田一郎 藤岡長敏 持永義夫 齋藤亮 岸田幸雄 遠藤直人 岸田幸雄 阪本勝 金井元彦 坂井時忠 貝原俊民 井戸敏三 斎藤元彦 表 話 編 歴 林茂平 中村貫一 林茂平 古賀定雄 新田義雄 林董 柴原和 谷森真男 小畑美稲 深野一三 徳久恒範 小野隆助 吉原三郎 荒川義太郎 末弘直方 小野田元熈 鹿子木小五郎 川村竹治 若林賚蔵 坂田幹太 佐竹義文 佐々木秀司 中川健藏 浅利三朗 三浦実生 元田敏夫 坪井勧吉 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2024/11/19 23:15更新
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hayashi tadasu
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