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山本権兵衛の情報 (やまもとごんべい)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

山本権兵衛の情報(やまもとごんべい) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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山本 権兵衛さんについて調べます

■名前・氏名
山本 権兵衛
(読み:やまもと ごんべい)
■職業
軍人
■山本権兵衛の誕生日・生年月日
1852年11月26日
子年(ねずみ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

山本権兵衛と同じ1852年生まれの有名人・芸能人

山本権兵衛と同じ11月26日生まれの有名人・芸能人

山本権兵衛と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


山本権兵衛と関係のある人

床次竹二郎: なお同年には山本権兵衛から貴族院の勅選議員になることを勧められた。


財部彪: 財部は兵学校15期クラスヘッドであり、クラスメートの広瀬武夫が、財部の岳父となる山本権兵衛に「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」と言ったように、最初から出世が約束されていたとも言える。しかし財部は、山本権兵衛の女婿として、山本の威光により異例の速さで進級し、「財部親王」と陰口を叩かれた。


清浦奎吾: それでも海軍大臣以外の人選は順調に進んだが、海軍は政友会に近い山本権兵衛前首相の影響下にあり、後継海相の選出は難航した。


竜崎勝: 第9話「日英同盟」、第10話「小村寿太郎」 - 山本権兵衛


伊集院彦吉: 1923年9月に成立した第二次山本権兵衛内閣では外務大臣となったが、内閣が虎ノ門事件で総辞職したために3ヶ月の在任であった。


山本五十六: 井上成美大将は、海軍大学校教官時代の山本が軍政と軍備の関係について着目・研究したことを航空重視の姿勢と合わせて「実に卓見と申すべく」と高く評価し、一等大将に山本権兵衛と加藤友三郎、山本と米内は条件付きの一等大将と格付けしている。


床次竹二郎: 床次は鹿児島出身であり、松方正義と牧野伸顕が宮中に、山本権兵衛が海軍に、という図式である。


小村寿太郎: 新橋駅では、「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」などという散々な罵声を浴びせられた小村を、出迎えた首相の桂と海相の山本権兵衛は両脇を挟むようして歩き、爆弾でも投げつけられたら共倒れの覚悟で首相官邸まで彼を護衛している。


尾崎行雄: 第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党。


西園寺公望: 山縣有朋の死後、牧野宮相や松方によるご下問の範囲を山本権兵衛や清浦奎吾に拡大し、元老を再生産しようという動きや、枢密院が諮問範囲に加わるように求める動きはあったが、西園寺はその動きを認めなかった。


吉岡平: 『宇宙一の無責任男』シリーズの第2巻「明治一代無責任男」は、主人公のタイラー達がタイムワープの影響で明治時代(日清戦争時)の日本にタイムスリップするストーリーであるが、この作品にはマコト・ヤマモトの直接の先祖として山本権兵衛が、他に東郷平八郎、森鴎外、谷干城等が登場する。


東郷平八郎: 日露開戦前の緊迫時期の明治36年(1903年)10月、海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、日高壮之丞に代わり常備艦隊司令長官に任命される。


西園寺公望: 山縣は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した山本権兵衛海軍大将が後継首相となった。


長与専斎: 実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、幕末の志士・松方正義、後藤象二郎、首相経験者の山本権兵衛、加藤高明、幣原喜重郎、そして師にあたる緒方洪庵や福沢諭吉とも親戚関係である。


水野哲: 3時間ドラマ「海は甦える」(1977年8月29日・TBS)山本権兵衛の少年時代役


財部彪: 妻の「いね」は、山本権兵衛(海軍大将)の娘。


徳川家達: 実際、当時の家達は貴族院の院内会派には所属していなかったが、政治的立場としては衆議院の立憲政友会に近く、政友会の連携によって成立した西園寺公望内閣や、再び立憲政友会との連携によって成立した第1次山本権兵衛内閣に好意的だったが、1914年(大正3年)のシーメンス事件で山本内閣が窮地に陥り、貴族院内でも幸倶楽部派を中心に山本内閣追及が強まり、特に勅選議員の貴族院議員・村田保が執拗に山本内閣を攻撃した。


朝吹四郎: 妻の登茂子は内閣総理大臣も務めた山本権兵衛の孫で、伯爵山本清の三女である。


八木沼純子: 母方の祖父は外務省官員の樺山資英(鹿児島市長・樺山可也の子)、母方の祖母は実業家の松方乙彦(松方正義の八男で、岳父は山本権兵衛)の娘。


西郷従道: 内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。


石坂浩二: 坂の上の雲(2009年11月29日 - 2011年11月25日、NHK:山本権兵衛役)


牧野伸顕: 山本権兵衛と三浦梧楼から、山縣閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退している。


山県有朋: 山縣ら元老会議は西園寺に首相就任を依頼したが断られ、西園寺の提案する山本権兵衛海軍大将を奏薦することとなった。


三島弥太郎: 1913年(大正2年)2月28日、山本権兵衛内閣に大蔵大臣としての入閣の打診を受けるも辞退。


辰巳柳太郎: 日本海大海戦(1968年、東宝) - 山本権兵衛


元田肇: 当初は大成会・国民協会・帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原敬内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。


米内光政: 井上大将は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛・加藤友三郎・米内の三人だけであった。


植芝盛平: 秋、「すごい武道家がいる」という浅野正恭の紹介により盛平を知った海軍大将竹下勇に招かれて上京、伯爵山本権兵衛等各界要人の前で演武を披露、感銘を受けた山本の依頼により青山御所で侍従・武官に指導を行う。


中部慶次郎: これ以外にも鳩山一郎・鳩山由紀夫・小川平吉・岸田文雄・鈴木善幸・麻生太郎・正田英三郎・安西孝之・三木武夫・齊藤了英・藤山愛一郎・田中角栄・田中直紀・池田勇人・池田行彦・中曽根康弘・5代目太田清蔵・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・津軽義孝・中内㓛・坂野常礼・宮原旭・清水満昭・豊田章一郎・豊田達郎・飯田新一・鮎川義介・西園寺公望・橋本龍太郎・河野洋平・河野太郎・久邇宮邦彦王・仙石政敬・梅溪通虎・正力亨・池坊専永・五島昇・大隈信幸・北野隆興・竹中統一・米内光政・竹下登・金丸信・小沢一郎・山本権兵衛・松方正義・山下亀三郎・岡崎忠・伊藤次郎左衛門・下条進一郎・安倍晋三・安倍晋太郎・岸信介・佐藤栄作・佐藤信二・木内重四郎・岩崎弥太郎・加藤高明・幣原喜重郎などと縁戚関係にある。


西園寺公望: 8月24日、加藤首相が病死すると、西園寺は「切腹する覚悟」までして、山本権兵衛元首相を首相に推薦した。


山本権兵衛の情報まとめ

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山本 権兵衛(やまもと ごんべい)さんの誕生日は1852年11月26日です。鹿児島出身の軍人のようです。

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生涯、人物などについてまとめました。事件、卒業、結婚、現在、家族に関する情報もありますね。

山本権兵衛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ / やまもと ごんのひょうえ、旧字体:山本 權兵衞、1852年11月26日〈嘉永5年10月15日〉- 1933年〈昭和8年〉12月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級伯爵。

海軍大臣(第5代)、内閣総理大臣(第16・22代)、外務大臣(第35代)などを歴任した。

薩摩藩士の息子として生まれ、戊辰戦争に従軍した後、昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮で学び、1877年に海軍少尉に任官。1891年に海軍大臣官房主事に就任し、海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年に海軍省主事に就任し、1895年には海軍少将として軍務局長に就任。日清戦争では実質上海軍機務を取り仕切って「権兵衛大臣」と呼ばれた。1898年に海軍中将に昇進し、海軍次官を経て、第2次山縣内閣に海軍大臣として入閣して以降、第4次伊藤内閣、第1次桂内閣でも海軍大臣を務め、日露戦争の難局を突破した。同時期に海軍大将に昇進し、日露戦争後には伯爵位を与えられた。1913年の大正政変の後、立憲政友会と手を結んで組閣し、第16代内閣総理大臣に就任。軍部大臣現役武官制の廃止などの改革にあたったが、翌1914年にはシーメンス事件が発覚し、引責辞任。1923年に再度組閣し、第22代内閣総理大臣に就任したが、同年中に虎ノ門事件で引責辞任した。

島田謹二(比較文学者)は、山本の名「権兵衛」のヨミについて「『ごんのひょうえ』は誤りで、『ごんべえ』が正しい」旨を述べている。

生涯

生誕から海軍兵学寮卒業まで

薩摩国鹿児島郡の鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれた。元服前の幼名、元服後の仮名(通称)はいずれも権兵衛。元服後の諱は盛武。10歳で薩英戦争及び戊辰戦争に従軍。

戊辰戦争後、1869年(明治2年)に当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と 海軍軍人への道を歩むことになった。海軍兵学寮では実戦を体験した山本らの学生は、実戦を体験していない近藤真琴などの教官に素直に従わないこともあった。「教官はそう言われるが、実戦での体験では、そのようなことは無い」と批判するのが常套手段であった。

西郷隆盛が明治政府から下野した時は、1874年(明治7年)に西郷を追って鹿児島へ一時的に帰省するも、西郷自らの説得により海軍大輔・川村純義に詫びを入れ兵学寮に戻った。同年に海兵2期卒業、 席次は17人中16席。

青年士官時代

1877年(明治10年)の西南戦争時は、派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で初めてその事実を知った。同年海軍少尉任官。

1878年(明治11年)、新潟県の農業・津沢鹿助の三女・登喜子と結婚した。薩摩閥の海軍士官が、士族ではなく平民の娘と結婚することは、当時としては異例のことであった。

薩摩閥のエリートとしての言動は問題を起こすこともあり、海軍中尉時代に海軍卿・榎本武揚によって非職にされたが、順調に海軍士官としての経験を積んだ。

「天城」艦長の後、1887年(明治20年)に海軍大臣伝令使となり、海軍次官・樺山資紀の欧米視察旅行に一年以上随行した。1889年(明治22年)、大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。

本省勤務

1891年(明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。

山本は海上権という新しい概念を陸軍首脳へレクチャーし、それ以後、日清戦争における陸海軍の作戦が比較的スムーズに進んだ。 当時海軍軍令部は独立しておらず、陸軍参謀本部の中に含まれていた。山本は軍令部の独立を主張し、その独立までには10年の歳月が掛かった。

日清戦争後は、三国干渉から将来のロシア帝国の脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。当時の山本は軍務局長であったが、新聞各紙で「権兵衛大臣の独断専行」という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められたが、海軍大臣の西郷従道は、すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせた。

特に将官8人、尉佐官89人に及ぶ士官のリストラには、現役の軍令部長の中牟田倉之助さえも対象となる世界の海軍でも例を見ない大リストラであり、山本と個人的に親しかった士官も容赦なく整理対象とされたので、個人的批判が巻き起こった。山本に全てを任せた西郷従道さえも、一時は疑問を呈したが、緊急の場合には、予備役を召集すれば良いとの説明に最終的には同意した。

海軍大臣時代

1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。

帝国海軍の戦力を、ロシア帝国海軍太平洋艦隊に対抗できるレベルまで引き上げた。

士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。

国内の製鉄所・造船所を整備し、戦時における修理・補給体制を充実させた。 また当時の燃料としては最高級の英国炭を全艦船の燃料として採用した。

艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。当時の日本では脚気が問題であったが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になった。

外交では日英同盟を積極的に支持し、海軍条項を早期に同意するなど、外務省に協力した。この功績により1902年(明治35年)、小村寿太郎らと共に男爵に叙せられる。

国内での艦船の新造を振興する一方で日英同盟に配慮して英国へ発注し、また戦後の好意を期待して米国にも発注するなど、広い視野をもって行動した。また日英同盟によって当時世界の主要港を支配していた英国を中立化し、ロシアのバルチック艦隊の日本海までの長期航海における補給・修理・休養を出来る限り妨害して、日本海海戦前に疲労させた。

官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部の独立を達成し、明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めた。 また陸軍の大陸への兵站を守る海上権をまず第一義に考え、日露戦争ではウラジオストク艦隊、次いで陸軍との協同作戦により旅順のロシア太平洋艦隊を全滅させ、船舶の通行の安全を図った。

開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。 開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。

日露戦争以後

1906年(明治39年)1月、信頼する斎藤実に譲るかたちで、海軍大臣を辞任する。1907年(明治40年)9月、伯爵に陛爵。

西郷従道亡きあとの、陸軍首脳とも強い繋がりのある海軍の重鎮の一人として存在感を強め、また藩閥に属するも、政党および国会を尊重し、伊藤博文の 立憲政友会に好意的な立場をとるなど、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣の候補に名前が挙がるようになった。

総理大臣時代

1913年(大正2年)、同じ薩摩閥の元老・大山巌の支持で山本に組閣の大命が下る。松方正義が1898年(明治31年)1月に辞任して以来15年振りの薩摩出身者であり、2月20日に政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。

6月、文部省官制を改正し、内務省宗教局が扱っていた宗教行政を、新設の文部省宗教局に移管し 、このことで当時行き詰まっていた皇道宣布運動を再度推進した。

第1次山本内閣は、軍部大臣現役武官制を事実上廃止し、それ以後は陸軍大臣が決まらないので組閣出来ないといった、軍部の横暴が抑止された。 しかし、ドイツの国内事件からシーメンス事件が検察によって調査され、海軍高官への贈賄疑惑をめぐり内閣は瓦解し、1914年(大正3年)4月16日、総辞職した。

次の第2次大隈内閣で海軍大臣となった八代六郎は、山本と斎藤実を予備役に編入した。 井上良馨と東郷平八郎の両元帥は、この人事に反対するも、山本は人事は海軍大臣の専管事項であり、将来の人事行政に重鎮達が口を挟む悪例を残さないために、素直に大臣の命令に従い1914年(大正3年)5月11日に予備役となった。その後、第一次世界大戦やその後の海軍軍縮にも海軍の長老としての公的な発言は全くしていない。

1922年(大正11年)の高橋内閣総辞職の際、元老の一人西園寺公望は病中であり、松方正義は、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)より枢密院議長の清浦奎吾とともに山本を協議に加える許可を得た。三者の協議により加藤友三郎に大命が降下することとなったが、これは松方と宮内大臣牧野伸顕をはじめとする薩摩閥が、山本を将来の元老とするための措置であったともされる。一方で西園寺は山本が宮中に接近することを警戒し、山本の枢密院議長就任に対して反対している。

加藤友三郎首相の急死に伴い内田康哉外務大臣が内閣総理大臣を臨時兼任していたところ、関東大震災発生翌日の1923年(大正12年)9月2日、約9年の時を経て加藤と同じく海軍出身の山本に再度の組閣が命じられた。推薦を行ったのは西園寺であり、「来るべき総選挙を公平に行はしめ、財政・行政整理を断行せしむる」ためであるとされた。

山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどした。加藤友三郎内閣から引き継いだ大臣には、女婿である海軍大臣の財部彪もいた。しかし同年12月27日に起きた摂政宮が共産主義者の難波大助に狙撃された虎ノ門事件の政治的責任を自ら取り、辞表を提出した。摂政宮と元老も辞表を却下するなどして慰留したが、翌1924年(大正13年)1月7日に内閣は総辞職した。

晩年

東京日日新聞1924年6月19日記事では両元老亡き後の元老として山本の名が挙げられるなど、経歴から見ても元老に適格であるという観測も行われていた。しかし内大臣平田東助は元老を西園寺の代で消滅させる意向を持っており、山本は不適格であると考えていた。西園寺もこれに同意しており、山本が元老となることはなかった。牧野はその後も山本を枢密院議長などの重職に就けようと活動したが、山本は一貫して反対し続けた。

1933年(昭和8年)3月30日、妻の登喜子が死去し、山本自身も前立腺肥大症のため同年12月8日、芝区高輪台町の32番地(現在の東海大学付属高輪台高等学校)の邸で薨去。享年81。墓所は青山霊園。

人物

私生活は質素かつ清廉潔白であり「俸給の半分で生活している」と評されていた。酒は飲まず、タバコも吸わない。碁や将棋、勝負事もまったくやらない。仕事が終わるとまっすぐ家路につき、家族と一緒に夕食をとって、夜は早いうちに床につく規則正しい生活を心がけた。布団の上げ下ろし、シャツのほころびや靴下のつくろいも自分でやった。

愛妻家で、恋愛結婚で結ばれた登喜子夫人を生涯に渡って愛し続けた。

首相在任中、海軍に入隊する皇族が少なかったこともあり、伏見宮博恭王の待遇について「宮様に、ご迷惑がいかないようにせよ」と申し継ぎを出した。この申し継ぎは後々の海軍でも重要視され、伏見宮の海軍での影響力を高める結果となった。

幾つかの文献で元帥となっている場合があるが、上記のとおり山本が元帥だった事実は無い。

「ごんべえ」「ごんのひょうえ」二つの読み方が通用しているが、音読み、訓読み以外で名の読み方が二通りある日本の首相経験者には他に近衛文麿(「あやまろ」「ふみまろ」)の例がある。山本も近衛も、本来の読み方である前者が体裁が悪いため別の読み方をさせたものである。

薩摩藩の郷中では勇猛さで知られた。罪人の遺骸を使った冷物取りひえもんとりではたびたび一番乗りの功名を手にし、新刀で試し切りを行う権利を得た。

昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に、疎開中の皇太子・明仁親王へ宛てた手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第一次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として、大山巌及び山縣有朋とともに山本をあげている。

2024/06/11 23:13更新

yamamoto gonbei


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