西郷従道の情報(さいごうつぐみち) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
西郷 従道さんについて調べます
■名前・氏名 |
西郷従道と関係のある人
友利新: 夫は西郷隆盛の弟・海軍元帥西郷従道と太政大臣三条実美の玄孫で、左大臣岩倉具視の玄孫の子。 相原巨典: 春の波涛(1985年) - 西郷従道 緒形直人: 大河ドラマ / 翔ぶが如く(1990年、NHK) - 西郷従道 役 太刀山峰右衛門: 諦め切れない友綱は板垣退助や西郷従道、さらには警察署長や当時の富山県知事である金尾稜厳を動員して、1899年に友綱部屋へ入門させた。 井上毅: 続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。 大山巌: ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。 西郷隆盛: 死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。自身は西郷との面識が一切無かったキヨッソーネだが、上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている。 明治天皇: これを受けて西郷従道と大隈重信は長崎に入り、いつでも軍を台湾へ出陣させられる状態を整えた。 西郷隆盛: このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任した。 小村寿太郎: 12月7日、桂の葉山別邸で、伊藤と大山巌を除く、山縣・井上・西郷従道・松方正義の4人の元老に桂・小村を加えた元老会議が開かれた。 杉山寧: 義弟(妹の夫)に伯爵小松晃道(西郷従道の孫)。 山本権兵衛: 1891年(明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。 明治天皇: 川上操六海軍少将が接伴委員長を務め、有栖川宮、小松宮などの皇族、山縣有朋、松方正義、西郷従道、山田顕義、榎本武揚、土方久元ら各大臣、黒川通軌、黒木為楨ら陸海軍将官、愛知県知事白根専一、名古屋控訴院院長大塚正男など四十余名が臨席した。 板垣退助: 大隈首相は内閣の存続を図ったが、陸軍大臣桂太郎・海軍大臣西郷従道によって阻止され、内閣は崩壊した。 岩崎弥太郎: 農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論した。 山県有朋: 山縣の体調も回復した明治28年(1895年)3月7日には海軍大臣西郷従道が兼務していた陸軍大臣に就任し、第二軍となっていた大山に「陸相に復職」したと手紙を書いている。戦後の8月5日には大山、西郷従道とともに日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章を授与、伯爵から侯爵に昇叙され、貴族院侯爵議員に就任。 山県有朋: 黒田首相と大隈外相は山縣の支持を求め、一方で条約改正交渉反対派の閣僚西郷従道や松方正義といった薩摩の有力者は、黒田を辞任させて山縣を後継総理とすることで収拾を図ろうとしていた。 豊田穣: 『大西郷兄弟物語 西郷隆盛と西郷従道の物語』光人社 1987 のち文庫 山県有朋: 明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。 黒田清隆: 明治25年(1892年)には松方の後任の総理大臣を推薦するため、伊藤・山縣有朋・井上馨・大山巌・西郷従道・松方と協議し、8月8日に成立した第2次伊藤内閣では逓信大臣になった。 西郷隆盛: 12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治天皇: 3月には大隈重信、参議兼外務卿寺島宗則、駐清国公使柳原前光、陸軍大輔西郷従道が大隈邸に集まって台湾出兵についての具体的な計画を立案した。 山本権兵衛: 当時の山本は軍務局長であったが、新聞各紙で「権兵衛大臣の独断専行」という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められたが、海軍大臣の西郷従道は、すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせた。 大山巌: 従兄弟:西郷隆盛、西郷従道 錦戸亮: 2018年、NHK大河ドラマ『西郷どん』で、主人公の弟・西郷従道(西郷信吾)役で大河ドラマ初出演。 大山巌: ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている。 明治天皇: 黒田の態度に盟友の西郷従道や吉井友実らも憂慮し、そのような態度は聖旨に反するとして黒田の説得にあたり、また伊藤の説得にもあたった。 飯田基祐: 花燃ゆ(2015年) - 西郷従道 役 吉原重俊: この戦いで重俊は謹慎処分を解かれ、大山巌や西郷従道らとともに西瓜売りに化けて英艦に近づき切り込もうと計画したが、君命により中止となった。 本山白雲: 明治38年(1905年)、海軍省で西郷従道、川村純義の銅像建設の建議があり、数十人の彫刻家に技を競わせたところ、白雲が一位となり銅像の原型制作を任された。 |
西郷従道の情報まとめ
西郷 従道(さいごう つぐみち)さんの誕生日は1843年6月1日です。鹿児島出身の軍人のようです。
現在、事件、結婚、兄弟、姉妹、ドラマ、子役、映画、テレビに関する情報もありますね。1902年に亡くなられているようです。
西郷従道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、旧字体:西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家。最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。 薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限、現在の鹿児島市加治屋町)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。 文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。 文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。 明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した。「従道」は諱であり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。 1869年(明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。 1871年(明治4年)7月、陸軍少将となる。 1873年(明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。 1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。 隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。 明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。 1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。 1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。 甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。 内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。 西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。 1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。 1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)8月5日には侯爵に陞爵(しょうしゃく)し、貴族院侯爵議員に就任した。 1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。 1902年(明治35年)7月18日、胃癌のため目黒の自邸で薨去。享年60(59歳没)。当初青山霊園に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。 明治4年
12月12日 - 正五位 1873年(明治6年)11月15日 - 従四位 1879年(明治12年)12月25日 - 正四位 1884年(明治17年)12月27日 - 従三位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1895年(明治28年)12月20日 - 正二位 1902年(明治35年)7月18日 - 従一位 1874年(明治7年)4月6日 - 馬具一脊・短銃一組 1876年(明治9年)2月22日 - 勲一等旭日大綬章・明治七年従軍記章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1895年(明治28年)8月5日 - 功二級金鵄勲章・旭日桐花大綬章・侯爵 1898年(明治31年)1月20日 - 元帥 1902年(明治35年)
ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。 相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。 面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)。 静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に別荘を所有していた(ちなみに、別荘の沖合に存する島を通称 西郷島 という)。 横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、1875年(明治8年)には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。 西郷農場のあった栃木県大田原市加治屋に、1903年(明治36年)建立の西郷神社に祭られている。 陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみである(陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣)。 従兄の大山巌と、会津出身の山川捨松の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。 松井広吉 「丸顔で眼が太く、鬚や髪の具合までが絵にかいた達磨で、殊に腕には太い鉄の輪をはめておられるので、その羅漢的な風貌など何としてもソックリ達磨だ。候の酒量は四升に上っても平気だと聞いて驚いた。候は征台役依頼の習慣で、毎朝蓐中で嗽いをし、宴会で大酒の場合など、食事をされぬとのことだが、酒量の大なのは余も舌を巻いた」 原田指月 「資性磊落、且つ機智に富み、激しい聴かぬ気の英傑だった」 エドワード・S・モース 「私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った」
両親
母:政佐(?–1853) 兄弟・姉妹:西郷隆盛 / 西郷吉二郎 / 西郷小兵衛 / 琴 / 鷹 / 安 従兄弟:大山巌 妻:清子(1854–1928) - 得能良介の長女 子女
次男:西郷従徳(1878–1946) 三男:西郷豊彦(1879–1959) - 陸軍少将、貴族院議員) 四男:上村従義(1881–1937) 五男:西郷従親(1881–1943) - 海軍機関大佐 六男:西郷豊二(1882–1945) 七男:小松従志(1883–1943) - 伯爵小松重春の養子 娘:政子(1876–?) - 外交官楢原陳政の妻 娘:栄子(1885–?) - 平岡良助の妻 娘:桜子(1886–1985) - 公爵岩倉具張の妻 娘:不二子(1891–?) - 男爵・実業家古河虎之助の妻 孫:黒木従達(1917–1983) - 皇太子明仁親王(上皇明仁)の東宮侍従長 孫:古河従純(1904–1967) - 古河合名会社社長 曾孫:古河潤之助 - 古河電気工業社長 曾孫:古河建純 - ニフティ社長 曾孫:西郷正道(1953年生) - 駐ネパール大使 玄孫:西郷真悠子(1995年生) - 女優 NHK大河ドラマ『西郷どん』で西郷桜子役を演じた。正道の娘。 玄孫:古河潤一 - 古河林業社長 玄孫:正林督章 - 厚生労働省健康局長 玄孫:大藤桂子 - チェリスト 1898年(明治31年)9月1日 日刊新聞記事から「侯爵西郷従道は永田町岡田吉右衛門の娘ナカを妾とし、政子・従親・豊二・栄子・不二子の5人を挙ぐ。ナカは新橋の桃太郎とて有名の芸妓なりき。」 西郷氏 従道━┳従理 ┣政子 ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋 ┣豊彦 ┣古河従純 ┗従英 ┣上村従義 ┣従竜 ┣従親 ┣従宏 ┣豊二 ┣古河従靖 ┣小松従志 ┗黒木従達 ┣栄子 ┣桜子 ┗不二子 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
西郷従道が登場する作品関連項目
外部リンク
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