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西郷従道の情報 (さいごうつぐみち)
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【9月28日】今日誕生日の芸能人・有名人

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西郷 従道さんについて調べます

■名前・氏名
西郷 従道
(読み:さいごう つぐみち)
■職業
軍人
■西郷従道の誕生日・生年月日
1843年6月1日 (年齢1902年没)
卯年(うさぎ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

西郷従道と同じ1843年生まれの有名人・芸能人

西郷従道と同じ6月1日生まれの有名人・芸能人

西郷従道と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


西郷従道と関係のある人

山本権兵衛: 当時の山本は軍務局長であったが、新聞各紙で「権兵衛大臣の独断専行」という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められたが、海軍大臣の西郷従道は、すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせた。


黒田清隆: 明治25年(1892年)には松方の後任の総理大臣を推薦するため、伊藤・山縣有朋・井上馨・大山巌・西郷従道・松方と協議し、8月8日に成立した第2次伊藤内閣では逓信大臣になった。


山県有朋: しかし台湾出兵での西郷従道の独断出兵に不安を覚えた大久保は、出兵反対派であった山縣の再起用を考え、6月30日に陸軍卿に再任された。


山県有朋: しかし、内閣改造が政府の弱さを晒すことになるという井上馨の反対も有り、西郷従道の提案で参謀局は独立して参謀本部が成立することとなった。


明治天皇: これを受けて西郷従道と大隈重信は長崎に入り、いつでも軍を台湾へ出陣させられる状態を整えた。


杉山寧: 義弟(妹の夫)に伯爵小松晃道(西郷従道の孫)。


西郷隆盛: 死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。自身は西郷との面識が一切無かったキヨッソーネだが、上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている。


西郷隆盛: 次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。


友利新: 夫は西郷隆盛の弟・海軍元帥西郷従道と太政大臣三条実美の玄孫で、左大臣岩倉具視の玄孫の子。


錦戸亮: 2018年、NHK大河ドラマ『西郷どん』で、主人公の弟・西郷従道(西郷信吾)役で大河ドラマ初出演。


山県有朋: 明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。


大山巌: ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。


木戸孝允: 明治4年(1871年)7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。


三島通庸: その協議の場に左院議長・後藤象二郎、副議長・江藤新平、参事・板垣退助、陸軍少輔・西郷従道らと共に三島も参加。


大隈重信: 大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。


伊藤博文: 伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。


岩崎弥太郎: 農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論した。


古河市兵衛: 長男・古河虎之助(1887年生) - 岳父は侯爵西郷従道


明治天皇: 山田法相は驚き、西郷従道内相は激怒した。


樺山資紀: その後は、西郷従道の引きで海軍へ転じ、明治16年(1883年)に海軍大輔、同19年(1886年)には海軍次官となる。


三島通庸: 同月30日に篠原国幹、吉原重俊、西郷従道、柴山景綱等と大阪から船で日向の細島港まで護送され、自宅での謹慎を命じられる。


大山巌: 従兄弟:西郷隆盛、西郷従道


吉原重俊: この戦いで重俊は謹慎処分を解かれ、大山巌や西郷従道らとともに西瓜売りに化けて英艦に近づき切り込もうと計画したが、君命により中止となった。


山県有朋: 山縣の体調も回復した明治28年(1895年)3月7日には海軍大臣西郷従道が兼務していた陸軍大臣に就任し、第二軍となっていた大山に「陸相に復職」したと手紙を書いている。戦後の8月5日には大山、西郷従道とともに日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章を授与、伯爵から侯爵に昇叙され、貴族院侯爵議員に就任。


井上毅: 続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。


水谷百輔: 篤姫(2008年) - 西郷従道


山本権兵衛: 1891年(明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。


山本権兵衛: 山本に全てを任せた西郷従道さえも、一時は疑問を呈したが、緊急の場合には、予備役を召集すれば良いとの説明に最終的には同意した。


山本権兵衛: 1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。


木戸孝允: 西郷らが主張する征韓論や、大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止し彼らの新たな生活が立ちゆくよう構想された秩禄処分が、それぞれ逆効果となる形で実行された時には、これに激しく反発した。


西郷従道の情報まとめ

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西郷 従道(さいごう つぐみち)さんの誕生日は1843年6月1日です。鹿児島出身の軍人のようです。

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現在、事件、結婚、兄弟、姉妹、ドラマ、子役、映画、テレビに関する情報もありますね。1902年に亡くなられているようです。

西郷従道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、旧字体:西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家。最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている。

文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。

薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限、現在の鹿児島市加治屋町)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。

文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。

文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。

明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した。「従道」は諱であり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。

1869年(明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。

1871年(明治4年)7月、陸軍少将となる。

1873年(明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。

1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。

隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。

明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。

1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。

1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。

甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。

内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。

西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。

1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。

1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)8月5日には侯爵に陞爵(しょうしゃく)し、貴族院侯爵議員に就任した。

1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。

1902年(明治35年)7月18日、胃癌のため目黒の自邸で薨去。享年60(59歳没)。当初青山霊園に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。

明治4年

    7月28日 - 従五位

    12月12日 - 正五位

    1873年(明治6年)11月15日 - 従四位

    1879年(明治12年)12月25日 - 正四位

    1884年(明治17年)12月27日 - 従三位

    1886年(明治19年)10月19日 - 従二位

    1895年(明治28年)12月20日 - 正二位

    1902年(明治35年)7月18日 - 従一位

    1874年(明治7年)4月6日 - 馬具一脊・短銃一組

    1876年(明治9年)2月22日 - 勲一等旭日大綬章・明治七年従軍記章

    1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵

    1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章

    1895年(明治28年)8月5日 - 功二級金鵄勲章・旭日桐花大綬章・侯爵

    1898年(明治31年)1月20日 - 元帥

    1902年(明治35年)

      6月3日 - 大勲位菊花大綬章

      ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。

      相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。

      面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)。

      静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に別荘を所有していた(ちなみに、別荘の沖合に存する島を通称 西郷島 という)。

      横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、1875年(明治8年)には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。

      西郷農場のあった栃木県大田原市加治屋に、1903年(明治36年)建立の西郷神社に祭られている。

      陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみである(陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣)。

      従兄の大山巌と、会津出身の山川捨松の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。

      松井広吉 「丸顔で眼が太く、鬚や髪の具合までが絵にかいた達磨で、殊に腕には太い鉄の輪をはめておられるので、その羅漢的な風貌など何としてもソックリ達磨だ。候の酒量は四升に上っても平気だと聞いて驚いた。候は征台役依頼の習慣で、毎朝蓐中で嗽いをし、宴会で大酒の場合など、食事をされぬとのことだが、酒量の大なのは余も舌を巻いた」

      原田指月 「資性磊落、且つ機智に富み、激しい聴かぬ気の英傑だった」

      エドワード・S・モース 「私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った」

      両親

        父:西郷吉兵衛(1803–1852)

        母:政佐(?–1853)

        兄弟姉妹:西郷隆盛 / 西郷吉二郎 / 西郷小兵衛 / 琴 / 鷹 / 安

        兄弟:大山巌

        妻:清子(1854–1928) - 得能良介の長女

        子女

          長男:西郷従理(1874–1884) - 早世

          次男:西郷従徳(1878–1946)

          三男:西郷豊彦(1879–1959) - 陸軍少将、貴族院議員)

          四男:上村従義(1881–1937)

          五男:西郷従親(1881–1943) - 海軍機関大佐

          六男:西郷豊二(1882–1945)

          七男:小松従志(1883–1943) - 伯爵小松重春の養子

          娘:政子(1876–?) - 外交官楢原陳政の妻

          娘:栄子(1885–?) - 平岡良助の妻

          娘:桜子(1886–1985) - 公爵岩倉具張の妻

          娘:不二子(1891–?) - 男爵・実業家古河虎之助の妻

          孫:黒木従達(1917–1983) - 皇太子明仁親王(上皇明仁)の東宮侍従長

          孫:古河従純(1904–1967) - 古河合名会社社長

          曾孫:古河潤之助 - 古河電気工業社長

          曾孫:古河建純 - ニフティ社長

          曾孫:西郷正道(1953年生) - 駐ネパール大使

          玄孫:西郷真悠子(1995年生) - 女優 NHK大河ドラマ『西郷どん』で西郷桜子役を演じた。正道の娘。

          玄孫:古河潤一 - 古河林業社長

          玄孫:正林督章 - 厚生労働省健康局長

          玄孫:大藤桂子 - チェリスト

          1898年(明治31年)9月1日 日刊新聞記事から「侯爵西郷従道は永田町岡田吉右衛門の娘ナカを妾とし、政子・従親・豊二・栄子・不二子の5人を挙ぐ。ナカは新橋の桃太郎とて有名の芸妓なりき。」

          西郷氏

          従道━┳従理    ┣政子    ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋    ┣豊彦   ┣古河従純    ┗従英    ┣上村従義 ┣従竜    ┣従親   ┣従宏    ┣豊二   ┣古河従靖    ┣小松従志 ┗黒木従達    ┣栄子    ┣桜子    ┗不二子

          脚注

          [脚注の使い方]

          注釈

            ^ 貴族院の事務局に提出された履歴書並びに貴族院要覧に基づく。 ^ 終戦まで海軍省が保管整理し、戦後厚生省に移管されていた旧・海軍軍人の奉職履歴書正本から、同省の協力を得て所要の事項を転記したもの。 ^ 本書は参考文献として他箇所にも随時使用している。

          出典

            ^ (1) 衆議院・参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年(平成2年)、p.18。(2)『日本海軍史 第9巻 将官履歴(上)』財団法人海軍歴史保存会、1995年(平成7年)、p.27。 ^ 朝日日本歴史人物事典「西郷従道」 ^ 佐々木隆(2002)p.96 ^ 『平成新修 旧華族家系大成 上巻』(1996年(平成8年))p.624 ^ 西郷従宏(1997) ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、6頁。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)p.132 ^ 「西郷従道」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166000  ^ 『太政官日誌』1873年(明治6年)、第152号 ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年(明治19年)10月20日。 ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年(明治28年)12月21日。 ^ 『官報』第5712号「叙任及辞令」1902年(明治35年)7月19日。 ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年(明治17年)7月8日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年(明治22年)11月30日。 ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年(明治28年)8月6日。 ^ 『官報』第4363号「叙任及辞令」1898年1月21日。 ^ 『官報』第5673号「授爵・叙任及辞令」1902年(明治35年)6月4日。 ^ 『官報』第1205号「叙任及辞令」1887年(明治20年)7月6日。 ^ 『官報』第1211号「叙任及辞令」1887年(明治20年)7月13日。 ^ 『官報』第1265号「叙任及辞令」1887年(明治20年)9月14日。 ^ 『官報』第1211号「叙任及辞令」1887年(明治20年)7月13日。 ^ 『官報』第1282号「叙任及辞令」1887年(明治20年)10月5日。 ^ 『四十五年記者生活 松井広吉 著』 ^ 『命を棄てて』p.185 ^ 『日本その日その日』(Japan Day by Day)石川欣一訳、第11章 ^ スポニチアネックス(2018年(平成30年)1月5日) ^ Mayuko Saigo 西郷真悠子 (@315don315don) - X(旧Twitter) -(2014年10月25日 18時05分15秒 - )

          参考文献

            『平成新修 旧華族家系大成 上巻』社団法人霞会館、1996年。 西郷従宏『元帥・西郷従道伝』芙蓉書房出版、1997年。ISBN 4-8295-0183-9 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9

          関連項目

            西郷山公園

          西郷従道が登場する作品

          小説
            林真理子『西郷どん!』(2017年、KADOKAWA) 山田風太郎『エドの舞踏会』(1983年 文藝春秋、のち文庫、ちくま文庫)
          映画
            『天皇・皇后と日清戦争』(1958年 演:江川宇禮雄)
          テレビドラマ
            『海は甦える』(1977年 TBS3時間ドラマ 演:若山富三郎) 『田原坂』(1987年 日本テレビ年末時代劇スペシャル 演:西郷輝彦) 『翔ぶが如く』(1990年 NHK大河ドラマ 演:緒形直人) 『篤姫』(2008年 NHK大河ドラマ 演:水谷百輔) 『花燃ゆ』(2015年 NHK大河ドラマ 演:飯田基祐) 『西郷どん』(2018年 NHK大河ドラマ 演:錦戸亮)

          関連項目

            西郷隆盛 西郷従道家

          外部リンク

            西郷従道の墓(歴史が眠る多磨霊園) 『西郷従道』 - コトバンク
          公職
          先代山県有朋(→欠員) 大日本帝国の旗 陸軍大輔1873年 - 1875年(1874年中津田出と共同) 次代(欠員 → )鳥尾小弥太
          先代西郷従道兵部少輔(陸軍) 日本の旗 陸軍少輔1872年 - 1873年 次代(欠員 → )鳥尾小弥太
          先代川村純義 日本の旗 兵部少輔1871年 - 1872年(川村純義と共同) 次代西郷従道陸軍少輔川村純義海軍少輔
          軍職
          先代山県有朋 近衛都督1877年 - 1878年 次代山県有朋
          日本の爵位
          先代陞爵 侯爵西郷(従道)家初代1895年 - 1902年 次代西郷従徳
          先代叙爵 伯爵西郷(従道)家初代1884年 - 1895年 次代陞爵