大山巌の情報(おおやまいわお) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大山 巌さんについて調べます
■名前・氏名 |
大山巌と関係のある人
米内光政: 中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。 阪脩: ママは小学4年生(大山巌之介) 小村寿太郎: 12月7日、桂の葉山別邸で、伊藤と大山巌を除く、山縣・井上・西郷従道・松方正義の4人の元老に桂・小村を加えた元老会議が開かれた。 小村寿太郎: 内閣からは桂、小村、山本権兵衛海相、寺内正毅陸相、元老からは伊藤、山縣、井上、松方、大山巌が参加した。 ダグラス=マッカーサー: また、この旅行の際に日本で東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。 明治天皇: 軍議の臨席者は、参謀総長有栖川宮熾仁親王(薨去後には小松宮彰仁親王)、参謀次長・兵站総監川上操六、野戦監督長官野田豁通、運輸通信長官寺内正毅、野戦衛生長官石黒忠悳、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、海軍軍令部長樺山資紀、侍従武官長・軍事内局長岡沢精(ただし彼は議席には列さず、軍議中常に天皇の御側に侍立していた)、その他陸海軍参謀2名、管理部長1人(この3人は御用の時のみ呼び出される)といった軍人たちの他、文官から内閣総理大臣伊藤博文、外務大臣陸奥宗光等も臨席した。 黒田清隆: 明治25年(1892年)には松方の後任の総理大臣を推薦するため、伊藤・山縣有朋・井上馨・大山巌・西郷従道・松方と協議し、8月8日に成立した第2次伊藤内閣では逓信大臣になった。 大正天皇: これを受け大山巌が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった有栖川宮威仁親王が東宮賓友に任じられた。 山県有朋: また山縣は予算案を巡って桂内閣と対立した伊藤を仲裁したり、大山巌参謀総長の辞任問題などで桂を支援し、内閣を支えている。 阿井景子: 『情愛 大山巌夫人伝』光文社時代小説文庫 2012 山田風太郎: 三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。 明治天皇: 明治15年(1882年)1月4日に太政官に出御した天皇は、陸軍卿大山巌に対し、「軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)を下した。 大隈重信: 4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した。 桂太郎: 桂はこれに反対する目的で、川上操六、川崎祐名と連名で、大山巌陸軍大臣宛に「軍政上改革に就き建議書」を提出した(公爵桂太郎伝. 乾巻 - 『公爵桂太郎伝 乾巻』 pp.411-416)。 東郷平八郎: 日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満洲軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。 本山白雲: 大山巌元帥像 乃木希典: 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。 西郷従道: 従兄の大山巌と、会津出身の山川捨松の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。 中根鎮夫: 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に元常磐村長の大山巌の長男として生まれた。 松方正義: 薩摩閥の元勲たちの中では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道・大山巌は軍人然としていて政治的野心に乏しく、年齢やキャリアや財政政策の明るさから薩摩閥の中核となったのは松方だった。 米倉斉加年: 坂の上の雲(2009年 - 2011年、NHK) - 大山巌 役 ジョルジュ=ビゴー: ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て、1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができた。 津田梅子: 1883年(明治16年)11月、捨松は政府高官(陸軍中将・参議・陸軍卿)で18歳年上の大山巌と結婚し、政府高官夫人の立場で留学で得た学識を生かす道を選んだ。 井田磐楠: 妻 井田久子(大山巌元帥の四女) 山県有朋: 12月7日に大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、12月24日陸軍卿を辞任した山縣は参議のまま初代参謀本部長となった。 乃木希典: 特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していた。 井上馨: 伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された。 西郷従道: 内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。 佐伯大地: もののふシリーズ『瞑るおおかみ黒き鴨』(2016年9月、天王洲 銀河劇場 / 森ノ宮ピロティホール / 北九州芸術劇場 大ホール) - 大山巌 役 谷干城: 一方、四将軍派は陸軍が薩長藩閥の主流である状態に反発し、軍の人事や組織案などに口出しして軍で活動を再開、谷も四将軍派の1人として山縣と大山巌・桂太郎・川上操六ら主流派と対立、軍事方針とそれに伴う外交を巡り衝突した。 |
大山巌の情報まとめ
大山 巌(おおやま いわお)さんの誕生日は1842年11月12日です。鹿児島出身の軍人のようです。
兄弟、家族、卒業、事故、再婚、趣味、解散、現在、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。1916年に亡くなられているようです。
大山巌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大山 巌(おおやま いわお、旧字体:大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。 同藩の有馬新七らに影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋騒動では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。 戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。また、12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行った。これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称され、後に日露戦争まで長く使用された(弥助は大山の幼名から)。 会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し、翌日後送されている。そのため、実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。このとき篭城側(会津藩側)は主だった兵がほとんど出撃中で、城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重とわずかな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。 維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。 西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり、第1次伊藤内閣において最初の陸軍大臣となった。 1884年2月16日、陸軍卿として、川上操六・桂太郎2大佐らを従え、欧州兵制視察のために横浜を出発し、1885年1月25日、帰国した。 日清戦争(1894年 - 1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任し、元帥に列せられた。 1903年6月22日、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出した。日露戦争(1904年-1905年)では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め(1904年6月20日)、日清日露ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。ドイツライプチヒの新聞は、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるとは考えられないとして、大山は長年ロシアに苦しめられてきたフィンランド人であると報道した。 大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバーとしても活動した。ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている。大正4年(1915年)4月23日には内大臣となり、宮中入りした。 大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。 臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだった。 那須に葬られた。墓所は栃木県那須塩原市。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多数収蔵され、資料館に展示されている。 明治4年4月25日 - 正六位 1875年(明治8年)2月24日 - 正五位 1879年(明治12年)12月16日 - 従四位 1880年(明治13年)5月24日 - 正四位 1884年(明治17年)12月27日 - 従三位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1895年(明治28年)12月20日 - 正二位 1916年(大正5年)12月10日 - 従一位 1877年(明治10年)11月9日 - 勲二等旭日重光章 1882年(明治15年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1890年(明治23年)1月21日 - 銀製黄綬褒章 1895年(明治28年)
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章 1898年(明治31年)1月20日 - 元帥 1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章、菊花章頸飾、明治三十七八年従軍記章 1907年(明治40年)9月21日 - 公爵 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1916年(大正5年)
12月11日 - 国葬(葬儀執行:12月17日) 1883年(明治16年)
4月13日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1884年(明治17年)2月4日 - プロイセン王国:クロラネン第一等勲章 1885年(明治18年)2月9日
ロシア帝国:白鷲大綬章 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章 1891年(明治24年)
5月27日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章 1906年(明治39年)
7月24日 - プロイセン王国:王冠有功大綬章 12月27日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア 父:大山綱昌 母:競子(大山綱毅女) 兄:大山成美…妻は西郷隆盛の妹・安 弟:大山誠之助…妻は西郷隆盛の娘・菊草 先妻:沢(伯爵吉井友実長女、死別)
次女:美津子(夭折) 三女:芙蓉子(細川潤次郎長男・細川一之助室) 四女:留子(1882-1973)伯爵渡邊千秋の次男で嫡子の千春室(1918年に死別)。佐々木信綱に師事し、渡辺とめ子、竹島きみ子の名で歌集を出し、女性文芸誌『火の鳥』を創刊した。 後妻:捨松(会津藩家老 山川浩の妹、日本最初の女子留学生の一人、大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性)
五女:久子(男爵井田磐楠室) 六女:永子(流産) 次男:柏 従兄弟:西郷隆盛、西郷従道 大山綱良との血縁関係はない。 大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん(児玉源太郎参謀長)、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第3軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。 桂太郎は大山の参謀総長時代の話として、次のような話を述べている。児玉、川上操六、桂が大議論を繰り広げていると、いつも大山が仲裁役となった。三人はそれぞれ理屈を述べるが、結局大山に唯々諾々と従ったという。大隈重信は世事に疎い武人と見られていた大山が新聞や雑誌を手元に置いていた常識人であったと述べている。 明治38年(1905年)12月7日にようやく東京・穏田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答との指摘がなされている。 石黒忠悳は、大山と旅をしていると、その土地々々の有名な詩を暗誦していて驚かされたと回想している。稀に和歌を読むこともあったが、てにをはの使い方などを注意されることがあっても気に留めなかったという。 従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。その体型と顔の印象から「ガマ」(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。しかもかなりの美食家であった。息子の大山柏の回想によると40cm以上もある鰻の蒲焼がのった鰻丼をペロリと完食し、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。」と愚痴をこぼしていたという。ただし、『元帥公爵大山巌』(大山巌伝刊行会編、1935年)では肥満になったのは晩年のことで、当初はどちらかというと痩せ気味であったといい、槍術を得意としたという。 大山の従兄弟である西郷隆盛の肖像画として、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画がよく知られているが、西郷は生前に写真や肖像画を残していなかったため、キヨッソーネはこの肖像画を顔の上半分を西郷従道、下半分を大山巌をモデルにして描いたといわれている。東京・上野にある西郷隆盛像などもキヨッソーネの肖像画を基にしているとされる。 大山は西洋かぶれで非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友アリス・ベーコンにも酷評されている。巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。 明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼のいわゆる「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、彼等の拠点と化していた月曜会を解散させた。以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって務めた。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理大臣候補に擬せられることを終始避け続けた。 大隈重信は大山が薩摩人でありながら、郷土の縁故をもって頼み事をされても乗らず、超越した存在として公平に振る舞い、内大臣の適任者であったと回想している。また山縣有朋も私心がなく公平であったと回想している。 大山は日本国歌となる君が代の制定にも関わっているとされることがあるが、曾孫大山格は巌が国歌制定に関わったという話は大山家に全く伝わっていないとしている。 大山巌自身の談話によれば、明治3年の末、もしくは4年の始めごろ(グレゴリオ暦では1871年)、御親兵における薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンは、国歌あるいは儀礼音楽的な物があれば、それから指導すると述べた。これを薩摩バンド隊員が当時の藩砲兵隊長であった大山に報告した際、大隊長の野津鎮雄と薩摩藩大参事の大迫貞清も臨席していた。この際に大山は「(イギリス国歌のように)宜しく宝祚の隆昌天壌無窮ならむことを祈り奉れる歌を撰むべきである」と述べ、愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」を提案したところ、野津も大迫も賛成した。大山はその後どのような経緯を経て「君が代」が国歌となったのかは知らないと述べている。ただし「君が代」を提案したのは静岡藩士の乙骨太郎乙であるという説も存在している。 大山が生前に建設した本邸は大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊した。その後大山家は、東京・表参道(穏田一丁目=当時)に広大な私邸を持っていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で焼失した。その際アメリカ軍は大山邸などを目標にしていたといわれる。 また本邸の他に静岡県沼津市、栃木県那須(当時の西那須野村、後の那須塩原市)に別荘を所有していた。このうち那須にあった別邸は、後に大山記念洋館(大山別邸)として県指定文化財となっており、県立那須拓陽高等学校が管理している。那須では農場も持っており、暇があれば山仕事に従事していたという。 現在、大山の騎馬姿の銅像が九段坂上に存在している。千代田区観光協会の解説によれば、この像は新海竹太郎の作によるもので、大正8年(1919年)11月3日に国会前庭北地区洋式庭園に建てられていたといわれているが、その後経緯は不明ながらも現在の位置に移設されたとしている。一方で、巌の曾孫で歴史ライターの大山格は、公刊伝記『元帥公爵大山巌』や二反長半の『大山元帥』を例示し、銅像は当初三宅坂の陸軍参謀本部の構内にあったとしている。大山格によれば、銅像はその後東條内閣期に金属供出され三宅坂から撤去されたが、戦後になって上野の東京芸術大学構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され、昭和39年(1964年)5月17日に現在の地に再建された。巌の子である大山柏は著書『大山元帥と雪の進軍』において、再建に協力した人々に感謝の辞を述べている。 栃木県那須塩原市にある大山の墓所参道にはモミジ・ヒノキの並木が整備されており、秋には紅葉のトンネルのような景観となる。参道の設計は山本直三郎によるもので、当初はモミジと交互に桜も植えられていたが、桜は枯れてしまったため伐採され残っていない。 明治39年に日露戦争の功を称えて、三島中洲により赤城神社 (新宿区)に巨大な石碑が建立されたが、平成22年、同神社のマンション建設に伴う建て直し時に撤去された。 大隈重信 「常識には非常に富んでおられ、決して世間の想像するが如く、世事に暗い一個の武弁たるに止まるものでは無い。しかし公はかくの如くして独楽独慎を事とする君子のおもかげはあるが、進んで積極的に悪を斥け善をなさるる如き言動には出でられない。畢竟するに公は一個の君子人であった」 山縣有朋 「沈黙寡言を以て、あるいは茫漠として捕捉する所なきが如く解する人あらんも、その聡明にして事物の推移を洞察し、大局の帰趨を達観するの明に至りては、実に敬服の外なく、更に黙々の間に人を見るの慧眼には、公を知る者の畏敬措かざる所なり」 伊藤博文「西郷翁(隆盛)は人を知って任せるし、大山は人を見て任せる。どっちも偉い」 土方久元 「徳の高い至って質素な大海の如き大量の人物であった。下に使わるる人々は誰として敬服、心服せぬ者はなかった。一言にして評せば将に将たる大将軍であった。こういう人物はただ生きているという事それだけで国家に対して利益のあるものである。即ち国宝と申すべき人物である」 桂太郎 「大山さんの偉いところは、大山さんの下僚に居った者でなければ分らぬ」 川村純義 「壮年時代から矢張り肥って居たが、酒も煙草も一切やらず、毎日の起居動作はすべて軍隊式で非常な摂生家であった。一時邸内に玉突台を設けた事もあるが、遊戯に耽るという事は決してない。無口の様だが、あれでなかなか人を笑わせる様な面白い冗談を云う事があった」 樺山資紀
「ある晩鳩ケ谷に泊った所が、隣座敷で五六人の客が芸者を揚げて大騒ぎを遣って居る。流石の大山も眠られないので癇癪を起し、宿の女中を呼んで安眠妨害だと小言を云う。女中が隣座敷へお静かにと頼みに行くがなかなか静まらぬ。大山は二三度女中を使者に遣ったが手応えがない。夜中の一時頃未だ盛んに騒いで居る。大山も堪えられなくなったと見え起き上がって鉄砲をドンドン打ち出した。隣の客が驚くまい事か芸者も客も急に静かになった」 「大山が大警視になった時、保土ヶ谷であったと思うが、三人茶店に上って昼飯を喰って居ると、表に繋いで置いた大山の犬が通りかかりの巡査に吠え附いてズボンを噛んだ。宿の女が出て詫びを云ったが巡査が承知しない。犬の飼主に出ろと云う。それから大山が平謝りに謝って勘弁しろと云うが、巡査は益々威丈高でお前の名前は何と云うか名刺を出せと如何しても諾かない。大山も仕方がないから不承々々に大警視と肩書のある名刺を出すと、巡査は飛び上がって驚き、今後は地位顛倒だ。巡査は平蜘蛛の様になって無礼を詫びる。それから警察の署長が来て謝罪するやら、こんな滑稽もあったよ」 石黒忠悳
「一見何事をも知らざるが如く、しかして何事をも知っていた。公の本領はもちろん、軍将として三軍を叱咤するにあったが、一面政治をも解し経済にも通じ、八方無凝の大才であった」 福島安正 「ああいう偉人は真似が出来ぬ。山が崩れても地が裂けてもビクともしないあの大きな所は真に天下の珍で国家の柱石である。公は中正廉潔で少しの私心ももたない。薩摩人であって薩摩贔屓をするでなく、私党私派を作ることを絶対しない。私行上何一点非難の打ち所のない立派な人で、ことに礼譲の徳に富み相手が豪い人であろうが凡人であろうがその態度に少しも差別は無い」 徳富蘇峰
「大山公は非常に公平な人で藩閥魂性などは微塵もなかった。すなわち特に子分を養ったり味方を造ったり、或いは党派を組むなど云うことは少しもなかった。常に一本立ちで堂々と天下を押し通した。この辺は現代人と余程調子が違って居る」 「大山公はまた節倹力行の人で、彼の如き高位高官の地位にありながら、驕奢をほしいままにするとか収賄するなど云うことは更になかった。彼の穏田の家を造る時の如きも、その木材は那須の自分の山林から切り出したものである。また他人から贈り物などあった時は、仮令如何程些細なものに対しても一々それ相当の返礼をしたものだ」 吉田清英
「今でこそあのように円満に見えるものの、大山公の若い時は従道さんの上を越した腕白者で、豪胆で思い切った横着者であった。そうして機敏で機略に富んで居た。併し長ずるに従い其の敏捷も機略も内に包んで外に現わさないようになった。あの人が巴里から帰った明治初年の頃は日本一の大ハイカラで加治屋町時代の叛骨弥助どんとは受け取れなかった」 末松謙澄 「大山公の人物は他の薩摩の豪傑連と等しく、小さい事務の才幹のある人ではなく、万事は下僚任せにするという人の頭目に適して居った。吾輩が嘗て書生時代に福地桜痴居士が『大山さんは愚物のような人であるが実はこの愚物のような性格で成功する人であろう』と言ったが果して其通りであった。公は大義に従って断然大西郷と砲煙の間に相見ゆる様になった。公は大義名分の為には実に一諾千金の人であった。公の国家に対する方針は大久保公と相均しく、その為め大久保公も公を見抜いて少しも疑うことなく軍隊を与えて戦場に赴かしめたのである。斯く大義名分の為に身を処するという公の大義点に比すれば、事務の才に乏しいなど言うことは論ずるに足らぬ」 吉田茂八 「御前はこの地(大山開墾地)に御出でになると必ずものさしを持って森林中へ足を入れ、手を伸ばして木を撫で『おまえは大きくなったな、去年よりは一寸大きくなった』とものさしを当てて木と話をされます。この農場が何よりも好きで此処に墓地を作りたいと言っていられました」 中西君尾 「涙っぽい方で、田中六兵衛さんの別荘で宴会のあった時、三遊亭圓朝の人情話を聞いて涙を流し、果ては鼻汁をすすられました」 ジョルジュ・デラ・ファイユ・デ・ルーヴェルゲン(オランダ語版)伯爵(ベルギー公使) 「公は常に我々外国人に接して、愉快な印象を与えられた。宮中などで山縣公と大山公に会った時の印象を区別すれば、山縣公は此方からの問あれば答えんと云う、極めて厳格な風の方であると思わるるが、大山公は何か話題を作って話しかけようと思われている様子がありありと見える、ごく平民的の方であった。公爵邸に行って種々お話している間に、公爵は外国に関する事を正確に話された。それで私は公爵が外国の書物や、外国の話に始終注意しておらるる方だと思っていました。と言うていたずらに外国の話をしてその知識を示そうという方ではなく、間々にはごく平易なお話もあり、ある時は公爵は私の最も好きなのは田園生活で、自然ほど自分を喜ばすものは無いなどと語られた」 ニコ・ミリアレッシー(ギリシャ軍事通信員) 「元帥も年を重ねられて大分頭が古いなどという人もありましたが、私はそうは思いませんでした。私は昨日独逸から帰ったばかりなどという新しい将校に会って話を聞きますが、それ等の人々の意見よりも却って老元帥の意見の方が新式で、また遥かに真に当たっているのに驚きました。私は老元帥は先天的の軍人で軍人中には珍しい遠大な計画を腹蔵していると思いました」 ^ 大山咲子(大山柏の長女)と大山健次(咲子の婿養子)の子。 ^ 現在の東京都渋谷区神宮前5丁目。 ^ 牛臥山南斜面にあった。 ^ 農場敷地は現在の西那須野駅東側、那須塩原市南町・西朝日町一帯であり、現在も別邸・門衛所・墓所がある。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。 ^ 青鉛筆『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、23面 ^ アジア歴史資料センター. ^ 20世紀初頭のライプチヒ-植物学者大野直枝のドイツ日記 増田芳雄、人間環境科学 8 9-38, 1999 帝塚山大学人間環境科学研究所 ^ 伊藤之雄 2016, p. 102-103. ^ 『官報』号外「叙任」1914年04月23日。 ^ 「大山巌」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166100 ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。 ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。 ^ 『官報』第1308号「叙任及辞令」1916年12月11日。 ^ 『官報』第307号「授爵・叙任及辞令」1884年7月8日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第1971号「彙報」1890年1月27日。 ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。 ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。 ^ 『官報』第4363号「叙任及辞令」1898年1月21日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。 ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。 ^ 『官報』号外「勅令」1916年12月11日。 ^ 『官報』第1311号「故大山内大臣葬儀」1916年12月14日。 ^ 『官報』第178号「賞勲叙任」1884年2月5日。 ^ 『官報』第482号「賞勲」1885年2月12日。 ^ 『官報』第2350号「叙任及辞令」1891年5月4日。 ^ 『官報』第2372号「叙任及辞令」1891年5月29日。 ^ 『官報』第6828号「叙任及辞令」1906年4月7日。 ^ 「元帥陸軍大将侯爵大山巌外二名外国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112619400 ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。 ^ 大山侯令嬢信子逝く『新聞集成明治編年史. 第九卷』林泉社、1940、p412 ^ 渡辺とめ子コトバンク ^ 西村文則 1917, p. 225. ^ 明治功臣録刊行会編輯局 1917, p. 342-343. ^ 長南政義「日本の活国宝 大山巌」『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年 ^ 西村文則 1917, p. 190. ^ 西村文則 1917, p. 188. ^ “西郷隆盛の新たな肖像画発見 NHKによる仕掛けなのか?”. 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2024/11/21 17:26更新
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ooyama iwao
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