大山巌の情報(おおやまいわお) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大山 巌さんについて調べます
■名前・氏名 |
大山巌と関係のある人
高木兼寛: 陸軍卿・大山巌の夫人・捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立しアメリカ合衆国長老教会宣教師M.E. リード(Mary Ella Butler Reade)らによる看護教育を開始。 児玉源太郎: 満洲軍総参謀長として満洲に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。 大隈重信: 大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した。 阿井景子: 『情愛 大山巌夫人伝』光文社時代小説文庫 2012 菊池紗矢香: 幕末動乱美少女伝(2024年、大山巌、春日左衛門) 児玉源太郎: 日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。 橋本綱常: 明治17年(1884年)、陸軍卿大山巌の随員として欧州に渡り、万国赤十字条約加盟のために奔走した。 蜂須賀茂韶: 訪仏した大山巌陸軍卿の視察団の接待、日仏間郵便為替条約の批准、国際度量衡委員会の会議参加など。 西郷従道: 従兄の大山巌と、会津出身の山川捨松の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。 乃木希典: 明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。 大隈重信: 4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した。 東郷平八郎: 日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満洲軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。 川路利良: 旅団長は大山巌(後の第2代大警視)が引き継いだ。 山田風太郎: 三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。 山県有朋: 12月7日に大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、12月24日陸軍卿を辞任した山縣は参議のまま初代参謀本部長となった。 西郷隆盛: 明治3年2月13日(1870年3月14日)、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒動の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。 西郷隆盛: 大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 山県有朋: 薩軍挙兵前の1月28日に、不穏な鹿児島情勢を警戒し、山縣は陸軍少輔大山巌や熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を滞在中の京都から命じて、小倉の歩兵第14連隊から一個中隊を派遣して長崎港の防備を固めた。 小村寿太郎: 12月7日、桂の葉山別邸で、伊藤と大山巌を除く、山縣・井上・西郷従道・松方正義の4人の元老に桂・小村を加えた元老会議が開かれた。 西郷従道: 内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。 明治天皇: 外務大臣に陸奥宗光、内務大臣に井上馨、大蔵大臣に渡辺国武、陸軍大臣に大山巌、海軍大臣に仁礼景範、司法大臣に山縣有朋、逓信大臣に黒田清隆、農商務大臣に後藤象二郎、文部大臣に河野敏鎌という、これ以上に有能な顔ぶれは想像しがたい構成となり、前政権より効果を上げ、長期に政権を保つことができた。 松方正義: 薩摩閥の元勲たちの中では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道・大山巌は軍人然としていて政治的野心に乏しく、年齢やキャリアや財政政策の明るさから薩摩閥の中核となったのは松方だった。 徳富蘇峰: 『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。 明治天皇: 明治15年(1882年)1月4日に太政官に出御した天皇は、陸軍卿大山巌に対し、「軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)を下した。 児島襄: 主な著書は、初期は『太平洋戦争』、『東京裁判』、『戦艦大和』などが、大著では『天皇』、『大山巌』、『日露戦争』、『平和の失速』、『日本占領』、『講和条約』、『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』など多数ある。 大正天皇: これを受け大山巌が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった有栖川宮威仁親王が東宮賓友に任じられた。 本山白雲: 大山巌元帥像 乃木希典: 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。 西郷従道: 西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。 明治天皇: 明治16年(1883年)の鹿鳴館開会式の夜会において日本人女性で舞踏に加われたのは、アメリカ滞在経験がある大山巌夫人の捨松、津田梅子、永井繁子、洋行経験のある井上馨夫人武子と娘末子、イタリアから帰国した鍋島直大夫人栄子、ロシアから帰国した柳原前光夫人初子ぐらいであったが、明治17年(1884年)10月27日に華族夫人向けの舞踏会練習会が催され、以降毎週日曜日の夜には舞踏会の練習会が開催された。 |
大山巌の情報まとめ
大山 巌(おおやま いわお)さんの誕生日は1842年11月12日です。鹿児島出身の軍人のようです。
栄典、家族・親族などについてまとめました。兄弟、家族、卒業、事故に関する情報もありますね。
大山巌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大山 巌(おおやま いわお、旧字体:大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。 同藩の有馬新七らに影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋騒動では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。 戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。また、12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行った。これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称され、後に日露戦争まで長く使用された(弥助は大山の幼名から)。 会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し、翌日後送されている。そのため、実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。このとき篭城側(会津藩側)は主だった兵がほとんど出撃中で、城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重とわずかな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。 維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。 西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり、第1次伊藤内閣において最初の陸軍大臣となった。 1884年2月16日、陸軍卿として、川上操六・桂太郎2大佐らを従え、欧州兵制視察のために横浜を出発し、1885年1月25日、帰国した。 日清戦争(1894年 - 1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任し、元帥に列せられた。 1903年6月22日、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出した。日露戦争(1904年-1905年)では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め(1904年6月20日)、日清日露ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。ドイツライプチヒの新聞は、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるとは考えられないとして、大山は長年ロシアに苦しめられてきたフィンランド人であると報道した。 大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバーとしても活動した。ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている。大正4年(1915年)4月23日には内大臣となり、宮中入りした。 大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。 臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだった。 那須に葬られた。墓所は栃木県那須塩原市。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多数収蔵され、資料館に展示されている。 栄典明治4年4月25日 - 正六位 1875年(明治8年)2月24日 - 正五位 1879年(明治12年)12月16日 - 従四位 1880年(明治13年)5月24日 - 正四位 1884年(明治17年)12月27日 - 従三位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1895年(明治28年)12月20日 - 正二位 1916年(大正5年)12月10日 - 従一位 1877年(明治10年)11月9日 - 勲二等旭日重光章 1882年(明治15年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1890年(明治23年)1月21日 - 銀製黄綬褒章 1895年(明治28年)
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章 1898年(明治31年)1月20日 - 元帥 1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章、菊花章頸飾、明治三十七八年従軍記章 1907年(明治40年)9月21日 - 公爵 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1916年(大正5年)
12月11日 - 国葬(葬儀執行:12月17日) 1883年(明治16年)
4月13日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1884年(明治17年)2月4日 - プロイセン王国:クロラネン第一等勲章 1885年(明治18年)2月9日
ロシア帝国:白鷲大綬章 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章 1891年(明治24年)
5月27日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章 1906年(明治39年)
7月24日 - プロイセン王国:王冠有功大綬章 12月27日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア 家族・親族父:大山綱昌 母:競子(大山綱毅女) 兄:大山成美…妻は西郷隆盛の妹・安 弟:大山誠之助…妻は西郷隆盛の娘・菊草 先妻:沢(伯爵吉井友実長女、死別)
次女:美津子(夭折) 三女:芙蓉子(細川潤次郎長男・細川一之助室) 四女:留子(1882-1973)伯爵渡邊千秋の次男で嫡子の千春室(1918年に死別)。佐々木信綱に師事し、渡辺とめ子、竹島きみ子の名で歌集を出し、女性文芸誌『火の鳥』を創刊した。 後妻:捨松(会津藩家老 山川浩の妹、日本最初の女子留学生の一人、大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性)
五女:久子(男爵井田磐楠室) 六女:永子(流産) 次男:柏 従兄弟:西郷隆盛、西郷従道 大山綱良との血縁関係はない。
2024/06/26 19:25更新
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大山巌と同じ誕生日11月12日生まれ、同じ鹿児島出身の人
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