井田磐楠の情報(いだいわくす) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
井田 磐楠さんについて調べます
■名前・氏名 |
井田磐楠と関係のある人
大山巌: 五女:久子(男爵井田磐楠室) |
井田磐楠の情報まとめ
井田 磐楠(いだ いわくす)さんの誕生日は1881年2月24日です。東京出身の政治家のようです。
卒業に関する情報もありますね。1964年に亡くなられているようです。
井田磐楠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)井田 磐楠(いだ いわくす、1881年(明治14年)2月24日 - 1964年(昭和39年)3月29日)は、日本の陸軍軍人、男爵、貴族院議員、大政翼賛会常任総務。最終階級は陸軍少佐。戦後、A級戦犯として逮捕された。 本籍岐阜県。井田譲陸軍少将の二男として、父の在勤地ウイーンで生まれる。父の死去に伴い1890年1月18日、男爵を襲爵。慶應義塾(慶應義塾幼稚舎)、学習院中等科を経て、1901年11月、陸軍士官学校(13期)を卒業、翌年6月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。1904年から始まる日露戦争では旅順・奉天の戦いに従軍。陸士生徒隊付、野戦砲兵第16連隊付、同連隊中隊長、陸士教官などを歴任し、1919年4月、砲兵少佐に進級し野戦砲兵第13連隊付となり、翌月予備役に編入された。同年9月から1922年まで東京帝国大学文学部で聴講生として学ぶ。 1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選(1945年12月12日まで在任)、在郷軍人の政治団体三六倶楽部に関わる。1935年、美濃部達吉の天皇機関説に対し、菊池武夫らと貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議し、岡田啓介内閣を批判。以後ファシズム運動に熱を入れ、大政翼賛会発足と同時に常任総務となる。 戦後の1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し、井田を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)が出され、A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留された。1947年9月、釈放。その後公職追放となる。 1941年(昭和16年)5月1日 - 正三位 1937年(昭和12年)9月7日 - 勲三等瑞宝章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 妻 井田久子(大山巌元帥の四女) 養嗣子 井田正孝(陸軍中佐・実業家) 義兄 棚橋一郎(姉ときの夫) 義兄 坊城俊延(姉てつの夫、坊城俊賢の岳父) 義弟 山田軍太郎(妹ゆみの夫、陸軍少将) ^ 『官報』第1965号、明治23年1月20日。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁、53頁。 ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、140頁。NDLJP:1276156。 公職追放の該当事項は「興亜滅共連盟理事長瑞穂クラブ常務理事翼賛常任総務」。 ^ 『官報』第4321号「叙任及辞令」1941年6月5日。 ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
ISNI VIAF 日本 大日本帝国陸軍軍人 貴族院男爵議員 昭和時代の貴族院議員 日露戦争の人物 太平洋戦争の人物 A級戦犯容疑者 公職追放者 ウィーン出身の人物 陸軍士官学校 (日本)の教員 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 学習院中・高等科出身の人物 慶應義塾幼稚舎出身の人物 1881年生 1964年没 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 12:32更新
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ida iwakusu
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