児玉源太郎の情報(こだまげんたろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
児玉 源太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
児玉源太郎と関係のある人
小山内薫: 児玉源太郎や芦原義信とは母方の遠戚にあたる。 新渡戸稲造: 民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。 濤川栄太: 『日本人の生き方 児玉源太郎と歴史に学ぶ「生き残る道は必ずある!」』(文芸社、2000年) 朝海ひかる: 『しみじみ日本・乃木大将』(2012年7月、彩の国さいたま芸術劇場大ホール 他) - はな/児玉源太郎 役 山県有朋: このころ児玉源太郎参謀次長が、参謀本部主導で強力な権限を持つ陸軍大総督府を設置する案を提案し、参謀本部(軍令)と陸軍省(軍政)の対立が起こった。 白瀬矗: 明治15年(1882年)、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、児玉源太郎と出会った。 古川薫: 『天辺の椅子 日露戦争と児玉源太郎』毎日新聞社 1992 のち文春文庫 山県有朋: 北京近くに大兵力を起き、また児玉源太郎台湾総督による厦門への出兵要請にも応じた。 光岡湧太郎: 翔ぶが如く - 児玉源太郎、長州藩士 役 平田東助: 陸軍および内務系官僚に広範な「山縣閥」を築いた山縣側近の中で、陸軍の側近が桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅らとすれば、平田は清浦奎吾・田健治郎・大浦兼武らと並ぶ官僚系の山縣側近として人脈を形成した。 藤田嗣治: 兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。 大正天皇: 日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。 寺内正毅: 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。 成瀬昌彦: 海は甦える(1977年、TBS) - 児玉源太郎 北村西望: 戦前の作品は、「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品を多く手がけた。 乃木希典: またこの頃の話として乃木は他隊との合同訓練ではいつも正面攻撃しか行わず、歩兵第二連隊長として佐倉(千葉県)にいた児玉源太郎との合同訓練では奇襲に敗れ児玉に揶揄われたという話も伝わっている。 乃木希典: このとき乃木は児玉源太郎らと共に大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている。 乃木希典: 山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏したが、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した。 田中義一: 日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。 立松和平: 従甥に俳優の千葉雄大、遠戚に藤田嗣治、児玉源太郎らがいる。 クレメンス=メッケル: また児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。 明石元二郎: 児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していた為、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。 小村寿太郎: 満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。 大村益次郎: 10月1日、益次郎は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に大阪八軒家に到着、そのまま鈴木町の大阪府医学校病院に入院する。 桂太郎: しかし、立憲政友会与党の内閣に違和感を感じた桂は政務に関与せず、再び辞意を示して12月に児玉源太郎と交代した。 谷干城: その際熊本鎮台司令長官から参軍に転任したが、出兵後は政府の方針に不満を抱き、高知県に逼塞、同郷の佐々木高行から帰京を促される中、明治9年(1876年)10月の神風連の乱で不平士族に殺害された、種田政明の後任として、11月に再び熊本鎮台司令長官となり、樺山資紀が参謀長、児玉源太郎・川上操六が参謀として脇を固めた。 白瀬矗: 明治23年(1890年)、仙台で児玉源太郎と再会し、北極探検への思いを伝えた。 乃木希典: 第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。 山県有朋: 山縣は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎、岡沢精など同郷人や中村雄次郎、木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。 クレメンス=メッケル: メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。 |
児玉源太郎の情報まとめ
児玉 源太郎(こだま げんたろう)さんの誕生日は1852年4月14日です。山口出身の軍人のようです。
家族、結婚、映画、テレビ、ドラマ、現在、兄弟に関する情報もありますね。1906年に亡くなられているようです。
児玉源太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体:兒玉 源太郞、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。幼名は百合若と名付けられ、長じて健、源太郎と改めた。 嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去。この時の児玉はまだ5歳と幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が児玉源太郎の姉・久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。児玉は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している。 元治元年(1864年)8月12日、義兄・次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされる。更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となった。児玉家には13歳の児玉、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、生活は困窮した。しかし、児玉の母は家名を辱めないように努めつつ、児玉らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許され、児玉は中小姓として25石の禄を与えられた。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている。 明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊。同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日に品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊する。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将をよく補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争でに生かされることとなった。 1885年(明治18年)9月30日から陸軍大学校の幹事を務め、1887年10月25日から1889年11月まで陸軍大学校の初代校長を務めた。 桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」が、ドイツからクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。 1885年3月から1888年3月までの3年間、メッケルは陸軍大学校で講義を行い、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。 台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。 明治36年(1903年)1月、故郷の生家跡地に私立図書館の児玉文庫を設立した。この図書館は阿武郡立萩図書館(現・萩市立図書館)に次いで山口県で2番目の近代的図書館とされる。児玉文庫は昭和20年(1945年)の徳山大空襲で焼失し、昭和23年(1948年)10月には公立図書館の徳山市立徳山図書館(現・周南市立中央図書館)が開館。平成31年(2019年)3月1日には周南市立中央図書館に「児玉文庫メモリアル」という愛称がつけられている。 日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉を台湾総督に留任させていた。日露戦争のために新たに編成された満洲軍総参謀長をも引き続いて務めた。 満洲軍総参謀長として満洲に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。 奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。この時、外交の進行手段をめぐって、政府(首相・外相)と元老との間で意見が分かれたが、児玉の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまった。さらに、児玉は軍事作戦を手段として講和を促進するために、樺太や満洲で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせるなどしている。 早期講和を目指す児玉の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることで、ロシアに痛撃を与えることで、ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている。 ただし、児玉もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道・道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していた。 日露戦争後、参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士。当初は青山霊園に葬られていたが、昭和初期の区画整理により東京都府中市の多磨霊園に改葬された。また神奈川県藤沢市江の島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。 ※明治5年までの日付は旧暦 慶応元年(1865年)7月13日 - 周防国徳山藩中小姓となり、源太郎忠精を称す。 明治元年(1868年)9月22日 - 献効隊半隊士令として初陣。 明治2年(1869年)8月1日 - 兵部省御雇として仕官。 明治3年(1870年)
12月10日 - 陸軍権曹長に任官。 明治4年(1871年)
8月6日 - 陸軍少尉に進級。 9月21日 - 陸軍中尉に進級。 明治5年(1872年)
7月25日 - 陸軍大尉に進級。 8月1日 - 大阪鎮台地方司令副官心得に異動。 明治6年(1873年)
10月9日 - 歩兵科二等となる。 明治7年(1874年)
8月28日 - 熊本鎮台准官参謀に異動。 10月19日 - 陸軍少佐に進級。 明治10年(1877年)2月 - 西南戦争、熊本城に籠城。 明治11年(1878年)
2月25日 - 熊本鎮台参謀副長から近衛局に異動。 12月9日 - 勲功調査御用掛兼務。 明治13年(1880年)
5月28日 - 正六位に昇叙。 明治16年(1883年)
4月18日 - 従五位に昇叙。 明治18年(1885年)
5月26日 - 参謀本部管東局長に異動。 7月24日 - 参謀本部第一局長に異動。 明治19年(1886年)9月30日 - 陸軍大学校幹事兼任。 明治20年(1887年)
10月24日 - 陸軍大学校長を兼任。 明治22年(1889年)
9月27日 - 従四位に昇叙。 明治25年(1892年)8月23日 - 陸軍次官兼陸軍省軍務局長に異動。 明治26年(1893年)4月12日 - 兼任 理事、叙 高等官一等、陸軍省法官部長に異動。 明治27年(1894年)
12月26日 - 勲二等瑞宝章を受章。 明治28年( - 1895年)
4月1日 - 臨時陸軍検疫部長を兼帯。 6月29日 - 臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動。 8月20日 - 男爵を受爵。勲二等旭日重光章を受章。 11月14日 - 臨時広島軍用水道施設部長を兼帯。 明治29年(1896年)10月14日 - 陸軍中将に進級。 明治31年(1898年)
2月26日 - 台湾総督(親任官)。台湾総督は明治31年2月-39年4月。 3月8日 - 従三位に昇叙。 明治32年(1899年)12月27日 - 勲一等瑞宝章を受章。 明治33年(1900年)12月23日 - 台湾総督のまま第4次伊藤内閣で陸軍大臣(親任官)を兼任。 明治34年(1901年)4月20日 - 正三位に昇叙。 明治35年(1902年)
3月27日 - 陸軍大臣(親任官)を免じられる。 明治36年(1903年)
7月17日:台湾総督(親任官) 兼 内務大臣(親任官)のまま、文部大臣(親任官)を兼任。 9月22日:文部大臣(親任官)の兼任を免じられる。 10月12日 - 内務大臣(親任官)の兼任を免じられる。台湾総督(親任官)のまま、参謀本部次長を兼任(参謀本部次長は明治36年10月-38年12月)。 明治37年(1904年)
6月6日 - 陸軍大将に親任される。 6月20日 - 台湾総督(親任官) 兼 参謀本部次長のまま、満洲軍総参謀長を兼任(満洲軍総参謀長は明治37年6月-38年12月)。 8月24日 - 遼陽会戦(9月4日終結)参加。 10月9日 - 沙河会戦(10月20日終結)参加。 明治38年(1905年)
9月5日 - 日露戦争終戦。 12月20日 - 満洲軍総参謀長・参謀本部次長の兼任を免じられ、台湾総督(親任官)のまま参謀本部次長事務取扱を兼任。 明治39年(1906年)
4月11日 - 台湾総督(親任官) 兼 参謀本部次長事務取扱を免じられ、参謀総長に親補される。子爵に陞爵。 4月23日 - 従二位に昇叙。 7月13日 - 参謀総長(親補職)のまま、南満洲鉄道創立委員長を兼任。 7月23日 - 参謀総長(親補職) 兼 南満洲鉄道創立委員長の現職のまま、自宅において脳溢血のため急死。特旨により正二位に昇叙。 明治40年(1907年)10月2日 - 家督相続者児玉秀雄が父源太郎の勲功により伯爵に陞爵。 旅順攻囲戦における児玉の功績によって、日本軍は児玉が旅順に到着した4日後に二百三高地を攻略した(『機密日露戦史』などの記述がある)。 ただし、そのことについては他の複数の資料から以下のように否定的な見解も示されている。 児玉らが203高地攻略を支持していたことについて、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持したとされる。第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると作戦を変更し203高地攻略を決意する。これに満洲軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍参謀の白井二郎が説得した程だった。 児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し参謀長・伊地知幸介らを論破したことについて、第三軍の参謀はほとんどが児玉と直接会っておらず電話連絡で済ましていた可能性がある。 児玉が命じた攻城砲の24時間以内の陣地変更について、実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけではないのかと検証されてもいる。 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたことについて、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた可能性がある。 これらは、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で解明が待たれている。なお、明治37年11月29日午後に、大山(総司令官)から児玉(総参謀長)へ宛てた訓令が、陸軍省『明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史(下)』(原書房〈明治百年史叢書〉、1966年)に次のように収録されている。「総参謀長へ/十一月廿九日午後/総司令官より/訓令」として、「本訓令は之を実施するに至らすして止む、十二月十三日総参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と注記し、「総参謀長派遣に関する訓令/一、貴官を第三軍に派遣す/二、余は第三軍の攻撃指導に関し要すれは満洲軍総司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す/三、貴官は明治三十七年十一月廿九日煙台を出発すへし/(終り)」(原文は旧字カタカナ)。 性格は、情に脆く友誼に厚い反面、短気で激情型でもあり、人間関係において軋轢を招くこともあった。しかし内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。 神風連の乱鎮圧の直後、東京から現地へ真っ先に送られた電報が「児玉少佐ハ無事ナリヤ」であった。当時24歳の若い少佐だった児玉にかけられた、当時の日本陸軍の期待を物語る逸話とされている。 陸軍大学校校長時に、日本軍の参謀育成のため教官として招かれたドイツ帝国陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの講義を熱心に聴講した。メッケル自身も児玉の才覚を高く評価し、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べた。 ロシアとの開戦が近づくと、内務大臣(兼台湾総督)の要職を去り、参謀次長に就任した。内務大臣から一転参謀本部の次長につくというのは左遷のように見えたが、必須の人事であった。得意満面の姿で三宅坂に現れたのを見て、参謀たちは己の勤務の重要性を悟り、次長に転出することを光栄と信じる智将の下での働き甲斐を感じた。就任の夜から参謀本部に毛布を持ち込んで泊まり込み、実戦計画の練り直しを始めた。 乃木希典とは旧知の間柄であった。児玉が東京鎮台第二連隊長時代、千葉県佐倉における演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。 児玉は乃木希典の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。 晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩み寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむというお茶目な面もあった。 千葉県佐倉市の武家屋敷通り沿いに旧宅跡がある。当時の建物は失われているが、生垣と土塁は現存しており、説明看板が立っている。台湾の国立台湾博物館には児玉の銅像が展示されている。これは戦前に後藤新平の像と共に正面エントランスに設置されていたものであるが、戦後は国民政府下、学芸員が破壊を恐れ独断で隠し、その後展示されるようになったものである。 日本独自の海底ケーブル敷設船で九州 - 台湾間を海底ケーブルで繋ぎ、さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだ。バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報は、イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアには秘密で、次々に日本に送られた。さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、日本周辺に張り巡らされ、朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦「三笠」と東京の大本営とで電信による通信が可能であった。1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。このため、大本営はいつでも、連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来た。 日露戦争の戦費調達の為に実業家の渋沢栄一を訪ね、ロシアの野心を説明し、開戦派に転向させた。 史料に基づいた実証的な児玉研究書籍も刊行されている。長南政義は、参謀本部次長・満洲軍総参謀長としての児玉の役割について詳細に検証し、児玉が内務大臣を辞めて参謀本部次長に就任した人事を「降格人事」とする通説を批判し、降格人事ではなかった旨を証明すると共に、軍という個別利益よりも国家の全体利益を重視し、将来の国家像・戦争像を精確に洞察して必要な組織制度改革を断行した「予言的改革者」としての児玉像を描いている。また、小林道彦は、統帥権を憲法的秩序に適合させようとした「立憲主義的軍人」としての児玉像を提示したが、長南政義は、新史料を使用し小林道彦の児玉理解には史料的誤読が多いと指摘している。 1874年(明治7年)3月31日 - 正七位 1880年(明治13年)5月28日 - 正六位 1883年(明治16年)4月18日 - 従五位 1889年(明治22年)9月27日 - 従四位 1894年(明治27年)10月26日 - 正四位 1898年(明治31年)3月8日 - 従三位 1901年(明治34年)4月20日 - 正三位 1906年(明治39年)
7月23日 - 正二位 1878年(明治11年)1月31日 - 勲四等旭日小綬章 1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1894年(明治27年)12月26日 - 勲二等瑞宝章 1895年(明治28年)8月20日 - 男爵・功三級金鵄勲章・旭日重光章 1899年(明治32年)12月27日 - 勲一等瑞宝章 1902年(明治35年)2月27日 - 旭日大綬章 1906年(明治39年)
4月11日 - 子爵 1892年(明治25年)9月12日
バイエルン王国:武功第一等勲章 1895年(明治28年)10月14日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール 1906年(明治39年)7月13日 - プロイセン王国:金剛石装飾剣付赤鷲第一等勲章 児玉氏家紋は二文字に三つ星。 源太郎━━┳秀雄━忠康━━━━━━━┳健 ┣貞雄━信男━幸子┳純 ┣進 ┣友雄 ┣健 ┣実 ┣常雄 ┗博 ┣国雄 ┣ヌイ ┣ヨシ ┣仲子 ┣八郎 ┣九一 ┣モト ┗ツル 家族・親族">家族・親族
長男:秀雄(1876–1947) - 大蔵官僚、貴族院議員、内務大臣など各省国務大臣を歴任、寺内正毅の長女澤子と結婚。 次男:貞雄(1879–?) - 分家 三男:友雄(1881–1961) - 分家。陸軍中将、中村雄次郎の娘みつと結婚。 四男:常雄(1884–1949) - 1932年、陸軍航空兵大佐で退官。木戸孝正(木戸孝允の甥)の娘八重子と結婚。満洲航空副社長となり、1938年社長。のち中華航空社長、大日本航空総裁をつとめた。 五男:国雄(1886–?) - 東京帝国大学法科大学政治科卒、鉄道院副参事を経て満洲大同セメント、日本石灰工業各社長。中村覚の娘節子と結婚 養女:ヌイ/縫子(1887–?) - 山口宗太郎の次女、山口十八と結婚。 長女:ヨシ/芳子(1888–?) - 立花俊吉と結婚 次女:ナカ/仲子(1890–?) - 穂積重遠と結婚 六男:八郎(1891–?) 七男:九一(1893–1960) - 内務官僚、島根県知事、厚生次官などを歴任、大森鍾一の娘幸子と結婚。 三女:モト/元子(1895–1986) - 藤田嗣雄(画家・藤田嗣治の兄で法制史学者)と結婚 四女:ツル/鶴子(1896–1982) - 木戸幸一(木戸孝正の息子、八重子の兄)と結婚 爵位は嫡男秀雄が継いだが、秀雄と澤子夫妻に息子が生まれなかったため、2人の間に生まれた孫娘貞子(1902年 - ?)の夫忠康(広幡忠朝の子、1898年 - 1990年)が婿養子に迎えられた。曾孫で忠康の息子進は映画監督・テレビ映画監督。 映画 『二百三高地』(1980年、東映東京撮影所、演:丹波哲郎) テレビドラマ 『二百三高地』(1981年、TBS、演:近藤洋介) 『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:光岡湧太郎) 『坂の上の雲』(2010年~2011年、NHK、演:高橋英樹) 『青天を衝け』(2021年、NHK、演:萩野谷幸三) ^ 兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郞」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。 ^ 現在の山口県周南市児玉町。長南政義(2019)、pp11。 ^ 正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった事を示唆。 ^ 朝日日本歴史人物事典・日本大百科全書(ニッポニカ)「児玉源太郎」 ^ 半藤 2013, 位置番号 2973-2984、陸軍大将略歴〔明治期〕:児玉源太郎 ^ 小川(2006)、p133。 ^ 小川(2006)、p134。 ^ 小林(2012)、p8。 ^ 小川(2006)、p134-137。 ^ 小林(2012)、p11。 ^ 小川(2006)、p138。 ^ 長南(2019)、pp60-61。 ^ 越澤(2011)、72-74頁。 ^ 児玉文庫と児玉源太郎 周南市立図書館 ^ 長南(2019)、pp234-235。 ^ 長南(2019)、pp318-323。 ^ 長南(2019)、pp321-323 ^ 長南(2019)、pp315-318。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)124頁 ^ 『官報』第2934号「叙任及辞令」1893年4月14日。 ^ 秦 2005, pp. 319–320, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-2.参謀本部-A.第1期(明22 - 明41) ^ 学研パブリッシング(2011)、p.59 ^ 学研パブリッシング(2011)、p.69 ^ 学研パブリッシング(2011)、p.70 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想 ^ 長南(2011a)、pp.150 f ^ 陸軍省 1966, pp. 1445–1449, 明治三十七年 - 自七月 至十二月 - 十二月七日 旅順総攻撃再興と二〇三高地の占領 ^ 学習研究社刊:歴史群像『日露戦争~陸海軍、進撃と苦闘の五百日』記述より ^ 伊藤正徳『軍閥興亡史 新装版 第一巻』潮書房光人社、2016年、235頁。 ^ 國立臺灣博物館 ^ https://www.ifsa.jp/index.php?Gkodamagentaro ^ 長南(2011a)、p129。長南(2013)、pp68-69。長南(2019)、pp138-140、215-219。小林(2012)、ppⅴ-ⅵ ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号240 ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。 ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日]。 ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。 ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。 ^ 『官報』第6843号「叙任及辞令」1906年4月25日。 ^ 『官報』第6921号「叙任及辞令」1906年7月25日。 ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。 ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。 ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。 ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。 ^ 『官報』第6920号・付録「叙任及辞令」1906年7月24日。 ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。 ^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。 ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。 ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。 ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597、小林(2012)、ppxxiv - xxv。 学研パブリッシング 編『歴史群像アーカイブ FILING BOOK volume 22(日露戦争)』学研パブリッシング(出版) 学研マーケティング(発売)〈歴史群像シリーズ〉、2011年12月。ISBN 978-4-05-606513-8。 越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月。ISBN 978-4-480-06639-8。 小林道彦『児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2012年2月。ISBN 978-4-623-06283-6。 長南政義『児玉源太郎』作品社、2019年6月。ISBN 978-4-86182-752-5
長南政義 著「第三軍参謀が語る旅順戦」、ゲームジャーナル編集部 編『坂の上の雲 5つの疑問』並木書房、2011年12月。ISBN 978-4-89063-284-8。 長南政義「児玉源太郎は名将だったのか? 〜「参謀本部次長」「満洲軍総参謀長」としての児玉源太郎の手腕〜」『國學院法研論叢』第40号(國學院大學、2013年3月) 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 明治編』(Amazon Kindle)中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。 別宮暖朗『日露戦争陸戦 「坂の上の雲」では分からない 児玉源太郎は名参謀ではなかった』並木書房、2009年10月。ISBN 978-4-89063-249-7。 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年8月。ISBN 978-4-28601-631-3。 生出寿『知将児玉源太郎 ある名補佐役の生涯』光人社、1986年7月。ISBN 4-7698-0317-6。
杉山茂丸『児玉大将伝』中公文庫、1989年8月。ISBN 4-12-201639-8。
中村謙司『史論児玉源太郎 明治日本を背負った男』光人社、2006年8月。ISBN 4-7698-1314-7。
日本博学倶楽部『日露戦争・あの人の「その後」 東郷平八郎、秋山兄弟から敵将ステッセルまで』PHP研究所〈PHP文庫〉、2004年4月。ISBN 4-569-66169-6。 兵頭二十八『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』光人社、2008年1月。ISBN 978-4-7698-1374-3。 - 著者希望の原題は『兒玉源太郎は正しかったか 奇襲開戦主義と半島防衛』。[1] 古川薫『天辺の椅子 日露戦争と児玉源太郎』毎日新聞社、1992年11月。ISBN 4-620-10464-7。
古川薫『斜陽に立つ 乃木希典と児玉源太郎』毎日新聞社、2008年。文春文庫、2011年 木立順一『偉人伝 児玉源太郎(前・後篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年4月-6月 ISBN 978-4865580112&ISBN 978-4865580129。 中川秀彦『神に選ばれた男 児玉源太郎 日本一小さな巨人』牧歌舎東京本部 2020年6月 ISBN 978-4434277177。 木村健一郎『台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎』梓書院 2021年 ISBN 978-4-87035-719-8。 児玉町 (台北市) 朝日日本歴史人物事典『児玉源太郎』 - コトバンク 中京大学 社会科学研究所 台湾史研究センター 児玉源太郎 - 近代日本人の肖像(国立国会図書館) 近代未満の軍人たち ~兒玉源太郎~ - 兵頭二十八 児玉神社(公式サイト) - 神奈川県藤沢市江ノ島鎮座 表 話 編 歴 有栖川宮熾仁親王1889.3.9-1895.1.15 小松宮彰仁親王1895.1.26-1898.1.20 川上操六1898.1.20-1899.5.11 大山巌1899.5.16-1904.6.20 山縣有朋1904.6.20-1905.12.20 大山巌1905.12.20-1906.4.10 児玉源太郎1906.4.11-1906.7.30 奥保鞏1906.7.30-1912.1.20 長谷川好道1912.1.20-1915.12.16 上原勇作1915.12.17-1923.3.17 河合操1923.3.17-1926.3.2 鈴木荘六1926.3.2-1930.2.19 金谷範三1930.2.19-1931.12.23 閑院宮載仁親王1931.12.23-1940.10.3 杉山元1940.10.3-1944.2.21 東條英機1944.2.21-1944.7.14 梅津美治郎1944.7.18-1945.11.30 表 話 編 歴 樺山資紀1895–1896 桂太郎1896 乃木希典1896–1898 児玉源太郎1898–1906 佐久間左馬太1906–1915 安東貞美1915–1918 明石元二郎1918–1919 田健治郎1919–1923 内田嘉吉1923–1924 伊沢多喜男1924–1926 上山満之進1926–1928 川村竹治1928–1929 石塚英蔵1929–1931 太田政弘1931–1932 南弘1932 中川健藏1932–1936 小林躋造1936–1940 長谷川清1940–1944 安藤利吉1944–1945 表 話 編 歴 大久保利通 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 松方正義 山田顕義 山県有朋 山県有朋 西郷従道 品川弥二郎 副島種臣 松方正義 河野敏鎌 井上馨 野村靖 芳川顕正 板垣退助 樺山資紀 芳川顕正 板垣退助 西郷従道 末松謙澄 大隈重信 内海忠勝 児玉源太郎 桂太郎 芳川顕正 清浦奎吾 原敬 平田東助 原敬 大浦兼武 原敬 大隈重信 大浦兼武 大隈重信 一木喜徳郎 後藤新平 水野錬太郎 床次竹二郎 水野錬太郎 後藤新平 水野錬太郎 若槻礼次郎 浜口雄幸 鈴木喜三郎 田中義一 望月圭介 安達謙蔵 中橋徳五郎 犬養毅 鈴木喜三郎 山本達雄 後藤文夫 潮恵之輔 河原田稼吉 馬場鍈一 末次信正 木戸幸一 小原直 児玉秀雄 安井英二 平沼騏一郎 田辺治通 東條英機 湯沢三千男 安藤紀三郎 大達茂雄 安倍源基 山崎巌 堀切善次郎 三土忠造 大村清一 植原悦二郎 片山哲 (臨代) 木村小左衛門 廃止 内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 IdRef 児玉源太郎 大日本帝国陸軍大将 明治時代の閣僚 日本の陸軍大臣 日本の内務大臣 日本の文部大臣 台湾総督 日本の子爵 日本の男爵 正二位受位者 陸軍省法務局長 勲四等旭日小綬章受章者 勲三等旭日中綬章受章者 勲二等瑞宝章受章者 勲二等旭日重光章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 功一級金鵄勲章受章者 聖スタニスラフ勲章受章者 赤鷲勲章受章者 レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者 日本の神 (人物神 軍人) 幕末徳山藩の人物 戊辰戦争の人物 箱館戦争の人物 西南戦争の人物 日露戦争の人物 南満洲鉄道の人物 児玉伯爵家 山口県出身の人物 1852年生 1906年没 多磨霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/15 01:56更新
|
kodama gentarou
TOPニュース
児玉源太郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「児玉源太郎」を素材として二次利用しています。