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小山内薫の情報 (おさないかおる)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

小山内薫の情報(おさないかおる) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小山内 薫さんについて調べます

■名前・氏名
小山内 薫
(読み:おさない かおる)
■職業
作家
■小山内薫の誕生日・生年月日
1881年7月26日 (年齢1928年没)
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
広島出身

小山内薫と同じ1881年生まれの有名人・芸能人

小山内薫と同じ7月26日生まれの有名人・芸能人

小山内薫と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


小山内薫と関係のある人

薄田研二: 1928年(昭和3年)12月、築地小劇場の創設者である小山内薫が死去すると、劇団内で対立が生じ、創設者の一人である土方与志についた薄田は、1929年(昭和4年)3月25日に丸山定夫、山本安英、伊藤晃一、高橋、細川らと脱退、土方と久保栄を迎えて新築地劇団を結成した。


舟橋聖一: また、小山内薫の門下生となった。


久保田万太郎: 7月、雑誌『太陽』に千野菊次郎の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入り、このころ島崎藤村をたずねた。


久保栄: 新編再刊改題『小山内薫』(影書房) 2009.12


山名文夫: 同期入社のデザイナーには山六郎、編集者には、小山内薫の推薦で入社し、のちに小説家となる直木三十五(当時「直木三十二」)、川口松太郎の2人がいた。


沢田正二郎: 『桃中軒雲右衛門』(真山青果作)、『切支丹信長』(小山内薫作『国定忠治』/『立春大吉』『藤十郎の恋』(菊池寛作)、『荒神山』市村座 (1927.4)


小山祐士: 在学中は小山内薫に私淑、卒業後は井伏鱒二に紹介された岸田國士に師事した。


花柳はるみ: 1924年(大正13年)の土方与志と小山内薫の「築地小劇場」に参加。


円地文子: 小山内薫に師事する。


村田実: 新劇運動から帰山教正の映画芸術協会に参加、小山内薫の松竹キネマ研究所で『路上の霊魂』を監督したことで知られる。


澤村春子: 校長の小山内薫に薫陶を受けた同期生は36人、伊藤大輔、鈴木伝明、岡田宗太郎、奈良真養らである。


及川道子: 同年秋、小山内薫の紹介で、築地小劇場に加わる。


山本安英: 1924年(大正13年)、小山内薫、土方与志によって創設された築地小劇場の創立に参加、研究生となる。


飯島綾子: 共演を重ねるうちに二人は恋仲になり、結婚に踏み込むのだが、同年12月小劇場の演出家であった小山内薫が急死。


有島生馬: 1903年(明治36年)には小山内薫の紹介で、かねてより傾倒していた島崎藤村を小諸に訪ねた際、ピサロの絵を初めて見せられ衝撃を受ける(藤村との交流は生涯続き、のちに藤村の『千曲川のスケッチ』の装丁も手掛け、藤村が没した際は生馬が葬儀委員長を務めた)。


山本安英: 同年12月に左団次一座の帝国劇場興行(小山内薫原作:『第一の世界』)で、左団次の娘役として初舞台を踏む。


村田実: 師小山内薫も監督術を絶賛している。


滝沢修: しかし、同年3月に小山内薫の急死により劇団が分裂し、滝沢は青山らの残留組の一員として新組織の劇団築地小劇場に参加するが、5月に脱退し、村山知義らの東京左翼劇場に参加する。


藤田嗣治: 小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。


杉村春子: 築地小劇場時代の杉村のいちばん強烈な想い出は、小山内薫が死の二日前に劇団員の給料を払うため、印税を出版社から前借りしたことだったという。


東山千栄子: 1928年(昭和3年)、築地小劇場創立者の小山内薫が死去し、その影響で劇団が分裂。


久保栄: 進学した東京帝国大学ではドイツ文学を専攻し、卒業とともに築地小劇場に入団、小山内薫や土方与志について演劇を学ぶ。


島津保次郎: しかし、松竹が映画事業に乗り出すことを知り、父の友人の紹介で小山内薫の門下生として、松竹キネマ蒲田撮影所に入社する。


三島雅夫: また三島は小山内薫とも親交があったと言われる。


ヘンリー小谷: 松竹は小山内薫をリーダーに映画事業に乗り出したといっても、映画の作り方を本格的に知る者は誰一人おらず、何から手を出すか、ヘンリーが来るまでは誰も分かってなかったといわれる。


千葉雄大: その立松が劇作家の小山内薫の孫と結婚しているために千葉は小山内薫から藤田嗣治(洋画家)、岡田三郎助(洋画家)と血縁こそないが縁戚関係を持つこととなる。


川口松太郎: また円玉の紹介で久保田万太郎に師事し、また久保田の紹介で小山内薫の脚本研究会に参加、やまと新聞の記者などを勤める。


藤澤清造: 1920年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌21年、経費削減を理由に馘首(解雇)される。


久保田万太郎: 1915年(大正4年)小山内薫を盟主として古劇研究会を作り、楠山正雄、木下杢太郎、吉井勇等と共に黙阿弥・南北・並木五瓶などの世話狂言の研究「三人吉三廓初買」を発表した。


ヘンリー小谷: ヘンリーが到着した同年7月19日、横浜港には、白井信太郎撮影所長、小山内薫撮影総監督、田口桜村撮影部長ら、松竹の首脳陣や蒲田の俳優たちが総出で出迎える歓迎ぶりであった。


小山内薫の情報まとめ

もしもしロボ

小山内 薫(おさない かおる)さんの誕生日は1881年7月26日です。広島出身の作家のようです。

もしもしロボ

映画、現在、母親、卒業、子役、解散、ドラマ、兄弟、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1928年に亡くなられているようです。

小山内薫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月26日 - 1928年〈昭和3年〉12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した日本の劇作家、演出家、批評家。

日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" 。

1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、トーキー(発声映画)が登場する邦画黎明期に関わった。

1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた。父は旧弘前藩士であった。5歳のとき父が38歳で早逝したことから一家で東京市麹町区富士見町へ移り住む。母親が芝居好きで、少年時代から演劇に親しむ。麹町幼稚園、富士見尋常高等小学校、府立一中を経て、旧制一高に進学。高校時代に失恋をきっかけに内村鑑三に入門。内村の主宰する雑誌の編集などを手伝ったが、まもなくキリスト教を離れた。東京帝国大学文科大学文学科に進学。1学年留年しており、英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったためともいわれる。在学中から、亡父のかつての同僚でもある森鷗外の知遇を得ており、伊井蓉峰の一座の座付作家となって舞台演出に関わったり、詩や小説の創作を行った。

1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学文学科(英文学)卒業。1907年(明治40年)、知人で木場の材木商だった数井政吉から資金援助を受け、1907年(明治40年)、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。6号まで刊行し西欧の演劇評論・戯曲を精力的に紹介した。1908年(明治41年)に書いた『内的写実主義の一女優』という文献の中で、初めて「演出」という言葉を使ったといわれる。1909年から読売新聞に連載後、1911年出版された自伝的小説『大川端』では、芸者との恋模様を描いた。

1909年(明治42年)、欧州から帰国した歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成。第1回公演にはイプセン作、鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演し。当時ヨーロッパの主導的な芸術理論となりつつあったリアリズム演劇の確立を目指し、新劇運動を起こす。20世紀初頭の日本の代表的演劇は歌舞伎で、看板役者中心の演劇であり、客は個々の役者の芸を堪能しに芝居見物に出かけた。このような演劇のあり方に対して、小山内の考えた近代演劇とは、何より戯曲を優先し、それを正しく表現する媒介としての演出、演出に基づいて初めて演技がある、というものだった。

1910年(明治43年)、慶応義塾大学部文学科の講師として迎えられ、劇文学の講義を受け持つ。

1912年 - 1913年にかけて渡欧し、モスクワ、ベルリン、ロンドンなどを訪れた。各地の劇場に通ったが、特にモスクワではモスクワ芸術座による『どん底』を2回観て、俳優・演出家スタニスラフスキーの自宅に招かれた。この時、輸入業者の夫人としてモスクワに居住していた(後の女優)東山千栄子とも面会している。

同じく渡欧していた親友・山田耕筰は、小山内との関係から演劇や舞踏への傾斜を深め、帰国後の1916年(大正5年)、小山内と移動劇団「新劇場」を結成した。石井漠はこれに加わり、創作舞踊詩を始めた。また、子役時代の水谷八重子を指導した他、藤原義江は松井須磨子の芝居を観たことと、人を介して小山内ら新劇関係者に会ったことで演劇に憧れ、演劇を志したと話している。

1919年(大正8年)、小村欣一、長崎英造、久保田万太郎、久米正雄、吉井勇らと演劇革新を目的とする「国民文芸会」を創立。1920年(大正9年)2月、松竹が映画製作に乗り出し松竹キネマ合名社を設立。3月には、この中に創設されたキネマ俳優学校に招かれ校長に就任。36名の研究生を募集し養成したが、小山内はこれを単なる学校とは考えず、これら生徒と映画を志して小山内のもとにやってきた人々を集めて実習的に映画の製作を始める。同年7月、松竹蒲田撮影所が出来て映画製作が始まると、本社理事兼撮影総監督として村田実、牛原虚彦、島津保次郎、大久保忠素、水谷文二郎らをスタッフに従え、『奉仕の薔薇』や『光に立った女』などを製作して映画界の革新を図った。そのため従来の商業路線の製作陣と対立、同年村田、牛原らスタッフ達や映画学校の卒業生らと松竹キネマ研究所を設立。その第一作として製作した『路上の霊魂』は同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり、回想場面を挿入したりする近代映画の技法をふんだんに取り入れた、日本映画初の芸術大作というべきものだった。続いて『山暮れる』と『君よ知らずや』の二本を製作するが、興行不振などを理由に1921年(大正10年)松竹キネマ研究所は解散され、小山内は松竹の取締役兼相談役に転じた。2年後にはそれも辞し、松竹から退く。

映画界に関わった期間は短かったが、伊藤大輔、北村小松、鈴木傳明、澤村春子ら、映画界の人材を育てた功績は大きい。1921年には赤い鳥社から童話集『石の猿』も出版している。

1923年(大正12年)、中山太陽堂の顧問となり、プラトン社発行の雑誌に関与。この関係で関東大震災後に一時大阪天王寺に居を定める。川口松太郎はこの頃小山内の書生をつとめた。

1924年(大正13年)帰京し、ドイツから帰国した土方与志と共に新劇最初の有形劇場である築地小劇場を創設。築地小劇場は、小山内、土方を中心に和田精、汐見洋、友田恭助、浅利鶴雄の六人の同人によって創設されたもの。和田精は和田誠の父、浅利鶴雄は浅利慶太の父である。築地小劇場は経営的には苦しむが、ゴーリキー、チェーホフらの戯曲を上演、新劇運動の拠点となった。俳優の養成は勿論、照明、音響、衣裳などにも新しい試みを行い、「演出」という言葉を創り、「演出家」という職能を確立させる等、その後の日本演劇の進展に計り知れぬ影響を与えた。

放送劇の開拓者としても知られ、1925年(大正14年)8月には開局まもないNHK東京放送局で日本初のラジオ劇『炭鉱の中』を演出。これは、放送局内に人材がいなため、小山内に依頼されたものだが、以来、ラジオドラマは新劇が手掛けることになる。また、ラジオドラマの製作を機に音響効果が飛躍的に進歩を遂げた。1927年(昭和2年)には松竹による国産発声映画の先駆作『黎明』を監督。また劇評も手掛け、1927(昭和2年)より1年間、朝日新聞で執筆した演劇時評は高い評価を得た。

1928年(昭和3年)3月、日本初公演となる『ペール・ギュント』、同年7月の『真夏の夜の夢』の演出を土方、青山とともに行い、築地小劇場での活動はピークを迎えた。しかし、同年11月、ソ連の革命10周年記念行事に招かれた際に、無理な日程で体調を崩した。同年12月25日、円地文子の最初の戯曲「晩春騒夜」上演後の謝恩会が催された日本橋の中華料理店で倒れ、脳梗塞(もしくは動脈瘤による心臓麻痺)のため急死した。享年48。戒名は蘭渓院献文慈薫居士。12月28日には築地小劇場にて葬儀が行われた。

その生涯の活動は日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。戦後、新劇は運動の域を離れ、文学座、俳優座、民芸などを中心に職業演劇の道を歩んでいる。

父・小山内建(玄洋)は陸軍軍医で、高橋お伝の遺体の解剖や、日本で初めてクロロホルムの麻酔で手術をしたことで知られる。広島鎮台病院(広島陸軍病院)院長を務め、その後広島医学校の教頭も兼任した。父の墓は広島市南区の比治山陸軍墓地にある。母・錞(しゅん)は小栗忠順の分家にあたる旗本・三河小栗氏の出で、藤田嗣治の伯母。

姉二人・兄・妹の5人兄弟で、妹の岡田八千代は18歳で作家デビューし、洋画家岡田三郎助と結婚

長男・小山内徹はミステリ翻訳家。次男・小山内宏は、戦後日本における軍事評論家の先駆者で、妻は児童作家、随筆家の小山内富子。三男・小山内喬は歌舞伎役者(市川扇升)。立松和平は長男・小山内徹の娘婿にあたり、姪は女優の東榮子(宝塚歌劇団6期生の元タカラジェンヌ、宝塚時代の芸名は關守千鳥)。三男の娘婿に演出家の杉田成道。児玉源太郎や芦原義信とは母方の遠戚にあたる。

1910年(明治43年)、谷崎潤一郎らと共に第2次『新思潮』を創刊。実質は谷崎ら青年作家の同人誌で、小山内は名貸しをしただけだった。その創刊号は、小山内自身が寄稿した小説『反古』のため、発売禁止になった。

1911年(明治44年)には日本で初めてのカフェー開店にも関わった。この店は洋画家松山省三らが、パリのカフェーのように文化人が集い芸術談義を楽しむサロン的な場所を標榜して東京銀座に開いたもので、松山と同郷で親友の小山内が「カフェー・プランタン」と命名し看板も書いた。この店は森鷗外、永井荷風、北原白秋、谷崎潤一郎、岡本綺堂、島村抱月、菊池寛ら多くの文化人が会員や常連客となった。

1918年(大正7年)5月、宝塚少女歌劇養成会が初めて東京に進出し帝国劇場で1週間の公演を行った。帝劇に足を運んだ小山内は時事新報紙上で「日本歌劇の曙光」と題して、少女歌劇のことを「こういうものから本当の日本の歌劇が生まれてくるのではないか」と評し、「この一座にはスタアという者がありません」と指摘。宝塚少女歌劇団の演出家だった高木史郎はその著書の中で「宝塚少女歌劇団全体がスターであるという宝塚少女歌劇団の基調を見事に言い当てた」と記している。

『自由劇場』郁文堂書店 1912

『第一の世界』新潮社 1922

『息子』東光閣 1924

『亭主』春陽堂 1926

『森有札』改造社 1926

『小山内薫戯曲全集第一巻』春陽堂 1926

『小山内薫戯曲全集第二巻』春陽堂 1927

『許嫁』清香社 1928

『小山内薫戯曲集』(創元文庫)創元社 1953

『小野のわかれ』(『七人』臨時増刊)1905

『夢見草』本郷書院 1906

『小野のわかれ』中庸堂 1907

『窓』(小説集)春陽堂 1908

『蝶』(小説集)水野書店 1909

『笛』(小説集)春陽堂 1910 発禁

『霧積』(小説集)春陽堂 1912

『大川端』樅山書店 1913、春陽堂 1927、春陽堂日本小説文庫 1933

『鷽』(小説集)樅山書店 1913

『一里塚』(小説集)植竹書院 1915

『盲目』四方堂 1915

『手紙風呂』(小説集)通一舎 1915

『第二の女』(小説集)通一舎 1916

『江島生島』新潮社 1916

『伯林夜話』(小説集)春陽堂 1916 発禁

『就眠前』平和出版社 1917

『黄昏の世界―或若い役者の手記―』正午出版社 1917

『英一蝶』(小説集)玄文社 1918

『手鏡』春陽堂 1918

『石の猿』赤い鳥社 1921、ほるぷ出版 1969

『足拍子』プラトン社 1924

『三つの願ひ』春陽堂 1925、ほるぷ出版 1974

『新選小山内薫集』(小説集)改造社 1927

『夢の浮橋』歌舞伎出版部 1929

『東京の消印』(『伯林夜話』の改題)創元社 1949

『お岩 小山内薫怪談集』 (幽クラシックス) メディアファクトリー 2009

『演劇新調』博文館 1908

『演劇新声』東雲堂 1912

『演劇論集』日東堂 1916

『世話狂言の研究』天弦堂 1916

『北欧旅日記』春陽堂 1917

『戯曲作法』春陽堂 1918、創元文庫 1953

『旧劇と新劇』玄文社 1919

『芝居入門』プラトン社 1924、岩波新書 1939

『演劇概論』松陽堂 1925

『演劇と文学』集成社 1926

『演劇論叢上巻』宝文館 1928

『演出者の手記』原始社 1928、洗林堂 1941

『舞台芸術』早川書房 1948

『決闘』(チエエホフ)梁江堂書房 1910

『近代劇五曲』大日本図書 1913

『星の世界へ』(アンドレエフ)金楼堂 1914

『信仰』(ブリユウ)玄文社 1919

『続近代劇五曲』 国文堂 1921

『忠義』(メエスフィルド)東亜堂 1921

『近代劇五曲』(正続二冊) 金星堂 1921

『忠義』(メエスフィルド)玄文社 1923

『休みの日』(マゾオ)金星堂 1924

『夜の宿』(ゴリキイ)金星堂 1925

『ピツパが踊る』(ハウプトマン)原始社 1926

『隣人の愛』(アンドレエフ)原始社 1926

『小山内薫全集』全8巻 春陽堂 1929〜1932、臨川書店 1975

『小山内薫演劇論全集』全5巻 未来社 1964〜1968

あおい輝彦 - 『大いなる朝』 TBS、1979年

^ その後、青山霊園に改葬された模様。

^ 死亡当時の状況について、翌日の読売新聞には「突然心臓麻痺を起こして危篤に陥ったので付近の医師を招いて応急手当を施したが遂に逝去、直(ただち)に四谷寺町七の自宅に運ん」だ(自宅には遺骸となって到着した)とあり、当時同席していた山本安英も回想で会場内で小山内は死去したと記している。これに対して『文芸年鑑昭和5年版』では、四谷区南寺町の自宅に帰宅した後死去したとする。

^ 森鴎外の『渋江抽斎』82に「町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭方医小山内玄洋・・・後建と称して・・・中佐相当陸軍一等軍医正」云々の記述がある。

^ 小山内は歌舞伎でも多くの劇評を書き、二代目市川左團次や初代中村吉右衛門とは親しく交友するなど梨園との関わりも深かった。

^ 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和5年版』新潮社、1930年、pp.13-14

^ 小山内薫 - コトバンク

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^ 演出・俳優・音楽とも、よき夢であった『中外商業新報』昭和3年8月1日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p484-485)

^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)80頁

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^ 山本安英『歩いてきた道』中央公論社〈中公文庫〉、1994年、pp.44 - 46

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井上理恵『久保栄の世界』社会評論社、1989年

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菅孝行『増補版 戦後演劇 — 新劇は乗り越えられたか』社会評論社、2003年

高木史郎『レビューの王様 — 白井鐵造と宝塚』河出書房、1983年7月

大山勝美『私説放送史』講談社、2007年1月

小山内富子『小山内薫 近代演劇を拓く』慶應義塾大学出版会、2005年2月

佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年6月

蘆原英了『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』新宿書房、2007年

岸松雄『人物・日本映画史 1』ダヴィッド社、1970年8月

城戸四郎『日本映画傳』文藝春秋新社、1956年9月

緑川亨『日本映画の誕生 講座 日本映画1』岩波書店、1985年10月

曽田秀彦『小山内薫と二十世紀演劇』勉誠出版、1999年12月

法月敏彦『演劇研究の核心 ―人形浄瑠璃・歌舞伎から現代演劇―』八木書店、2017年8月

坪内逍遥

島村抱月

松井須磨子

花柳はるみ

岡田嘉子

白井信太郎

城戸四郎

ヘンリー・小谷

岡鬼太郎

牛原虚彦

島津保次郎

村田実

徳川夢声(「路上の霊魂」の弁士)

花柳はるみ

岡田嘉子

山田耕筰

丸山定夫

千田是也

河原崎長十郎 (4代目)

小山内薫:作家別作品リスト - 青空文庫

小山内薫関連家系図

ゆかりのある人物(小山内薫):中央区観光協会

小山内薫 近代日本人の肖像(国立国会図書館)

演劇教育論の展開--小山内薫の学校劇論を中心に(法月敏彦)

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小山内薫

日本の舞台演出家

20世紀日本の演出家

日本の映画プロデューサー

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日本の男優

サイレント映画の俳優

20世紀日本の劇作家

20世紀日本のノンフィクション作家

日本の男性著作家

20世紀日本の評論家

日本の演劇評論家

文化批評家

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明治時代の読売新聞社の人物

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1881年生

1928年没

多磨霊園に埋葬されている人物

2024/11/20 12:32更新

osanai kaoru


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