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後藤新平の情報 (ごとうしんぺい)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

後藤新平の情報(ごとうしんぺい) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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後藤 新平さんについて調べます

■名前・氏名
後藤 新平
(読み:ごとう しんぺい)
■職業
政治家
■後藤新平の誕生日・生年月日
1857年7月24日 (年齢1929年没)
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
岩手出身

後藤新平と同じ1857年生まれの有名人・芸能人

後藤新平と同じ7月24日生まれの有名人・芸能人

後藤新平と同じ出身地岩手県生まれの有名人・芸能人


後藤新平と関係のある人

津田英三: 復興せよ! 〜後藤新平と大震災2400日の戦い〜(2012年1月22日 / 読売テレビ系列)


床次竹二郎: この年の12月5日、飯野吉三郎の招待で、水野錬太郎・鈴木喜三郎・後藤新平・赤池濃・山梨半造・田中義一・大倉喜八郎らと、待合「宇佐美」を訪れている。


長与専斎: 石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった。


鶴見俊輔: 母方の祖父は政治家・後藤新平、同曾祖父に政治家・安場保和。


前田一世: 非破壊検査PRESENTS 復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い(2012年1月22日、よみうりテレビ)


松方幸次郎: 駐日ソ連通商代表部と数十回におよぶ折衝を重ねたのち、後藤新平の秘書だった森孝三を伴い8月27日に敦賀港を出港。


杉原千畝: 後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」というものであった。


板垣退助: この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている。


大川周明: これは、初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことによる。


佐野利器: 9月末には、内務大臣後藤新平が帝都復興院を置いて総裁に就き、その依頼で佐野も帝都復興院理事・建築局長に就任し、関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進したが、これに消極的で拙速主義を取り、予算を削減しようとする副総裁宮尾舜治、理事・計画局長池田宏らと対立した。


関根正明: 復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い


山本権兵衛: 山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどした。


鶴見俊輔: 1922年6月25日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる。


飯田基祐: 復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い(2012年1月22日、読売テレビ) - 佐野利器 役


堤康次郎: 28歳の時、当時逓信大臣だった後藤新平の口利きで、渋沢栄一の娘婿とゴム会社の共同経営者となったが、現場の要の工場長が結核で倒れてしまった。


相馬半治: 1898年(明治31年)に児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平が民政長官となってからは、統治方針の重点を土豪鎮圧から産業育成へと切り替え、新渡戸稲造を招いて精糖奨励法を作らせ、現地企業として台湾精糖を設立させたが、収益は小さかった。


細川護煕: これらの貢献により、第6回後藤新平賞を受賞。


宮脇昭: 2015年(平成27年) - 後藤新平の会から第9回後藤新平賞を受賞


一海知義: 『決定版 正伝 後藤新平』鶴見祐輔 藤原書店 全8巻 2004-2006。


高野長英: 岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英・後藤新平・斎藤実)の一人として扱われている。


古本新之輔: 復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い(2012年1月22日、読売テレビ) - 十河信二 役


椎名悦三郎: 川島と椎名は戦前から関わりが有り、また二人は後藤新平を介しての親類や側近としての繋がりも持っていた。


鶴見祐輔: 1926年(大正15年)、米国からの帰国後、後藤新平が前年から展開していた政治倫理化運動に参加し、帰国報告を兼ねて日本各地で遊説。


佐野学: 日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。


水野錬太郎: 1923年(大正12年)8月26日に加藤首相が死去し第2次山本内閣に代わるも、9月1日に関東大震災があったため後任の内相(後藤新平)が決まるまで(9月2日)陣頭指揮をした。


原敬: 内務大臣の後藤新平は政友会の助力を得るため、政友会党員であった水野錬太郎を次官とし、実質的な内務大臣とした。


鶴見祐輔: 1933年(昭和8年)1月に帰国してから約3年間、編集室を市政会館において後藤新平伝を執筆、並行して『プルターク英雄伝』を翻訳。翌1934年(昭和9年)に『プルターク英雄伝』を発行し、1935年(昭和10年)夏に『後藤新平』全四巻を脱稿。


小市慢太郎: 復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い(2012年1月22日、YTV) - 太田圓三 役


一海知義: 2007年『正伝 後藤新平』校訂で毎日出版文化賞特別賞受賞。


島安次郎: 技術幹部として蒸気機関車等の開発に手腕をふるいつつ、当時鉄道院総裁だった後藤新平の指示で国鉄の広軌化(広軌改築。


後藤新平の情報まとめ

もしもしロボ

後藤 新平(ごとう しんぺい)さんの誕生日は1857年7月24日です。岩手出身の政治家のようです。

もしもしロボ

卒業、事件、現在、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1929年に亡くなられているようです。

後藤新平のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

後藤 新平(ごとう しんぺい、旧字体:後藤󠄁 新平󠄁、1857年7月24日〈安政4年6月4日〉- 1929年〈昭和4年〉4月13日)は、日本の医師、官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。

愛知医学校長兼病院長。台湾総督府民政長官。南満洲鉄道(満鉄)初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の南方・大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事した。

仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は本家筋の後藤家の出身で遠縁に当たる。今日では高野長英と後藤新平と斎藤実を指して「水沢の三偉人」と称するが、新平が幼少期を過ごした江戸時代末期には、高野長英とのつながりから「謀反人の子」として、新平はいじめられる幼少期を送った。

1867年、11歳で留守邦寧の奥小姓となる。

廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。安場が岩倉使節団に随行後に福島県令となり、その縁で16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めもあって、17歳で須賀川医学校に入学。同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。ここで彼は目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、明治15年(1882年)4月6日に岐阜の神道中教院で開催された板垣退助の政論演説会で、板垣が暴漢に刺され負傷する事件が発生。後藤が板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。

明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれ、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。

明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893年)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監された。最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。

内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島・宇品港似島(似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という思想だった。

まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカ合衆国から新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。また、欧州留学中に知り合った林学者の河合鈰太郎を招聘し、河合は阿里山の森林資源調査、ひいては阿里山森林鉄路の開通に多大な成果をもたらしている。衛生局時代に知り合った医学者の高木友枝は、台湾でのペストやマラリア撲滅を実現するために後藤が招聘し台湾総督府医学校校長および設立した総督府研究所の所長に据えた。

当時は中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で蔓延しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法を採らなかった。

後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。

しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬(創立者の星一が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている。

明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満洲に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては、彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満洲における権益独占を好まず、盛んにアメリカを引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また日露戦争後も北満洲に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり、伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図したりしている(ただしこの会談は伊藤がハルビンで暗殺されたため実現しなかった)。

当時の日本政府では満洲における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)2月24日-昭和4年(1929年)4月13日)。

拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演して物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時公布された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(1922年)6月5日、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「伯は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ(中略)、学生も親むべき学長先生として、慈父に対するやうな心安さを感じてゐた」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。

大正9年(1920年)5月12日には、早稲田大学の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」と題する講義を行っている。

当時の後藤邸は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、昭和第一高校の前に在る文京区立元町公園の辺りであったと言われる。

第2次桂内閣で逓信大臣・初代鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)7月14日 - 明治44年(1911年)8月30日)、寺内内閣で内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)・外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)、第2次山本内閣で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日)等を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。

組閣の真っ最中に関東大震災の洗礼を受けた第2次山本内閣では、後藤が内務大臣兼帝都復興院総裁として速やかに震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時の国家予算の約1年分の巨額予算のため、財界や政友会からの猛反対に遭った。その上、後藤のお膝元である帝都復興院も、積極派の副総裁・松木幹一郎、建築局長・佐野利器らと、消極派で拙速主義を採り予算を削減しようとする副総裁・宮尾舜治、計画局長・池田宏らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった。さらに総理の諮詢に応じて重要な案件を審議し最終的に政府案を承認した震災復興審議会では、枢密院の大物として政官界に大きな影響力を持つ伊東巳代治が得意の憲法論で復興院案反対の急先鋒となり、11月24日の会合では3時間にわたって熱弁を奮い原案を糾弾、結局これで審議会の大勢は原案の大幅削減に傾いてしまった。結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。震災復興計画の方法について、後藤は19世紀中葉のフランス第二帝政下でセーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが行った「パリ改造」を参考に、土地を地権者から大胆に収用する手法を採ろうとした。しかし日本は土地に対する絶対的な私有感覚が極めて強く、財産権の内在的・外在的制約(大日本帝国憲法第27条2項、日本国憲法第29条2項3項)に対する理解が浅かったため、地主や地権者の激しい抵抗を受けることとなった。

道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車道・歩道間に緑地帯を持つという大規模な構想で、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。

今日では行幸通りなどにそれに近い形で建設された姿を見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もある。昭和通りは、高速道路や立体交差化により昭和40年代以降大きく姿を変えたが、巨大に設計したことが功を奏し現在も大動脈としての役割を果たしている。

後藤は地方自治のプロとして、小学校を地域の中核とする地域コミュニティの再編を進めた。一方で、後藤が帝都復興計画の模範としたパリ大改造は、為政者にとって厄介なものだったフランス革命以来のパリの地域コミュニティを破壊することを隠れた目的としていたため、不可避的に付随して、旧来の地域コミュニティの結束点をかなりの部分破壊してしまったという問題を指摘する者もいる。

後藤が満鉄時代に関わったロシア帝国は第一次世界大戦後期のロシア革命で崩壊し、社会主義/共産主義を掲げるソビエト連邦(ソ連)が成立した。後藤は東京市長だった大正12年(1923年)、国民外交の旗手として、ソ連の外交官アドリフ・ヨッフェと伊豆の熱海で会談し、ソ連との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは、当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣された。黎明会を組織した内藤民治と田口運蔵等の社会主義者だけでなく、右翼団体「黒龍会」の内田良平も、中華民国の北京にいるヨッフェに使者を送って仲立ちにあたった。一部から後藤は「赤い男爵」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、日露関係が正常化される事を展望していた。

大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った。大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。

昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問してスターリンと会見、国賓待遇を受ける。少年団日本連盟会長として渡航。その際、少年達1人が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食べ渡航したという。当時の情勢的に日中露の結合関係の重要性(新旧大陸対峙論)は後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘されるが、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、ソ連側から盗聴されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。

なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、第3次桂内閣の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。

明治36年(1903年)11月20日、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。

昭和4年(1929年)4月4日午前7時過ぎ、岡山で開かれる日本性病予防協会総会に向かう途中、米原駅付近を走行中の急行列車内で、一等寝台のコンパートメントから起き上がり窓際へ出ようとしたところを、後ろによろめいた。口から泡を吹き、呼んでも意識がなかった。後藤にとっては3度目となる脳溢血だった。たまたま同じ列車に乗り合わせた財部彪(元海軍大臣)らが駆け付け、次の大津駅で降ろすことも検討されたが、病院が充実した京都駅へ向かった。京都駅では列車を停めたまま、医学博士の松浦武雄が乗り込んで強心剤を数回注射するなど治療に当たった。松浦はさらに、京都駅長の許可を得て列車の窓ガラスを破って後藤の身体をホームに用意した担架に寝かせて駅貴賓室に移したが意識は戻らず、京都府立医科大学医院に入院したまま4月13日に死去した。戒名は天真院殿祥山棲霞大居士。

三島通陽の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

平成31年(2019年)4月、台湾の台北にある臨済護国禅寺にあるデスマスクが新平本人の物であると分かった。3つ作られたデスマスクのうちの1つで、新平が生前親しくしていた台湾の実業家の辜顕栄が献納したものである。

1886年(明治19年)7月8日 - 従六位

1892年(明治25年)

    2月22日 - 正六位

    12月12日 - 従五位

    1897年(明治30年)8月20日 - 正五位

    1898年(明治31年)5月30日 - 従四位

    1903年(明治36年)7月10日 - 正四位

    1906年(明治39年)11月30日 - 従三位

    1911年(明治44年)7月20日 - 正三位

    1929年(昭和4年)4月13日 - 正二位

    1895年(明治28年)11月30日 - 勲六等単光旭日章

    1897年(明治30年)12月28日 - 勲五等瑞宝章

    1901年(明治34年)6月27日 - 勲三等瑞宝章

    1902年(明治35年)12月4日 - 勲二等旭日重光章

    1903年(明治36年)11月20日 - 貴族院議員章

    1906年(明治39年)

      4月11日 - 男爵

      11月13日 - 勲一等旭日大綬章

      1908年(明治41年)11月24日 - 金盃一組

      1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章

      1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章

      1920年(大正9年)9月7日 - 旭日桐花大綬章

      1922年(大正11年)9月25日 - 子爵

      1928年(昭和3年)11月10日 - 伯爵

      1929年(昭和4年)4月13日 - 帝都復興記念章

      1908年(明治41年)

        2月3日 - プロイセン王国:王冠第一等勲章

        9月14日 - ロシア帝国:白鷲大綬章

        1910年(明治43年)7月15日 - ブラウンシュヴァイク公国:ハインリヒ・デス・レーウェン第一等勲章

        1918年(大正7年)7月13日

          イギリス帝国:大英帝国勲章一等

          支那共和国:一等大綬嘉禾章

          1919年(大正8年)12月26日 - ベルギー王国:王冠第一等勲章

          内務大臣に在任中、度重なる雑誌発禁処分により窮した大杉栄の不意の訪問を受ける。「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」と言う大杉に対して後藤は「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです。」と応え、「政府が僕らの職業を邪魔するからです。」「が、特に私のところへ無心にきたわけは。」「政府が僕らを困らせるんだから、政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かろうと思ってきたんです。」「そうですか、分かりました。」というようなやりとりの後、300円を大杉に手渡している。大杉によれば、伊藤野枝の遠縁にあたる頭山満から紹介された杉山茂丸に、台華社での交渉で山口孤剣と白柳秀湖を例に挙げて「国家社会主義ぐらいのところになれ」と軟化を迫られ、すぐその家を辞したものの、杉山の口から後藤新平の名前が度々出たことから後藤への無心を思いついたと語っている(『大杉栄自叙伝』より)

          金権政治家の典型で、「黄金万能主義の権化」といった形で度々批判された。問題にされがちだったのは台湾民政長官時代に樟脳の専売利権で結びついた、「政商」と言われた金子直吉の率いる鈴木商店との関係であった。

          医学が専門だったが、ドイツ留学時代に統計の重要性を痛感し、よくドイツの統計局に訪ねていたため、現地人に統計に対する理解の深さを買われて、1890年にドイツで初めて国勢調査が行われた際には、統計局長から招待されたという。

          東京市長時代、3人の補佐役(永田秀次郎、池田宏、前田多門)を「畳屋」と称した。畳屋の由来は"畳"の旧字体疊(3つの"田"の下に"宜"がある)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでおり、「東京市政は永田・池田・前田の3人に任せておけば宜(よろ)しい」の意である。他にも「サンタクロース」(「三田苦労す」の捩り)という別名もある。

          軽井沢では、新渡戸稲造とともに1918年に「軽井沢夏期大学」を開設(校舎はあめりか屋設計。現存せず)、この催しは戦前戦後の一時中断を挟み、現在まで毎年続けられている。また、若き日の堤康次郎に沓掛(現・中軽井沢)周辺の開拓を勧めたのは後藤であり、この堤の事業はのちの西武グループの原点となった。加えて堤には前述の東京での事業と同様、軽井沢で開発する道路の幅員は広く設計するよう助言、それは1925年に開通した県道43号線(通称「プリンス通り」)で実現されている。

          日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

          上記の巡回の一環で、同じ水沢出身で朝鮮総督の斎藤実を訪ねた際の挨拶では、「吾輩がかような子供っぽい服装をして来たのは偶然ではない。理由がある。今この会長をやっているため普及宣伝ということもあるが、朝鮮であろうが、内地だろうが常にこうである。そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。稚気がないといかんということを念頭においているので、自分を律する意味においても、常にこういう服装をしているのだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ」と語った。

          晩年はソビエト連邦との国交回復に尽力する一方、数の論理で支配される政党政治を批判し、倫理確立による選挙粛正を唱え全国を遊説した。

          シチズン時計の名付け親でもある(後藤と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」と、市民を意味するCITIZENの名を贈った)。

          虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し、何も言わずに貸した。その後、正力の事業は成功し借金を返そうとしたが、もう既に後藤はこの世の人ではなかった。そこで、正力は後藤の故郷である水沢町(当時)に恩返しを図るべく借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館(後藤伯記念公民館)が建設された。

          地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。

          現在の駐日中華人民共和国大使館は後藤邸の跡地である。

          美濃部亮吉は東京都知事時代に「私は後藤新平とよく政策とかが似ているといわれるが、どうしても都知事と総理大臣の給料を同じにすることができなかった」と発言したが、後藤は東京市長の給料を全額東京市に寄付していた。

          後藤は巷で「大風呂敷」の他、「この際主義」とも呼ばれ、関東大震災時に「この際」という言葉が伝播して羽田空港や乗馬場建設など皆が震災を機に「この際」やろうではないかと声を上げた。そのことを社会主義者の演歌師添田唖蝉坊が風刺して「コノサイソング」という演歌を歌い始めた。庶民はこの風刺演歌をさらに替え歌にして甘粕事件を風刺した。

          後藤は1902年の視察以来アメリカの台頭を強く懸念するようになり、日本・中国・ヨーロッパのユーラシア大陸が連携して対抗するべきだと考えていた。

          駄場 (2007, pp. 261–266)は、戦間期の日本において最も有力な反米親ソの政治家だった後藤新平は、下に見るように、親族に多くの著名な左翼活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現代まで続いた。そのため、米ソ対立の冷戦イデオロギーの下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった第二次世界大戦後の日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないか、としている。また同書では、このことと、後藤直系官僚から、岩永裕吉(同盟通信社社長)、下村宏(朝日新聞社副社長)、岡實(大阪毎日新聞社会長)、正力松太郎(読売新聞社社長)、前田多門(東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友杉山茂丸の玄洋社における後輩緒方竹虎が朝日新聞社主筆として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことが相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないか、としている。

          また、日本で左翼というと「反皇室」というイメージを抱かれがちであるが、下の鶴見和子と美智子皇后、鶴見良行と秋篠宮文仁親王の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、皇族と太いパイプを持っている。

          文化人類学者の綾部恒雄によれば、後藤新平はフリーメイソンであった。フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、1892年の第5回万国赤十字会議に日本赤十字社委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている。ボーイスカウト運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている。

          『海水功用論 附海浜療法』春曦書楼、1882年3月。 

          『国家衛生原理』後藤新平、1889年9月。NDLJP:836881。 

            『国家衛生原理』(3版)後藤新平、1923年8月。NDLJP:971387。 

            『国家衛生原理』小野寺伸夫解題、創造出版、1978年11月。 

            『衛生制度論』後藤新平、1890年9月。NDLJP:836717。 

              滝沢利行 編『衛生制度論』大空社〈近代日本養生論・衛生論集成 第8巻〉、1992年10月。 

              『後藤新平君演説筆記』宮部政厚筆記、大日本私立衛生会神戸支会仮事務所、1892年11月。NDLJP:783115。 

              『後藤内務衛生技師演説筆記』西本茂吉筆記、赤穂郡役所、1892年12月。NDLJP:836882。 

              『後藤内務技師演説筆記』永木誠太郎筆記、兵庫県明石郡役所、1893年1月。NDLJP:836883。 

              『疾病保険法』柳下釧之助、1893年3月。NDLJP:800528。 

              『赤痢病ニ関スル演説筆記』小林常吉、1893年4月。NDLJP:835272。 

              『大国民之歌』山田源一郎作曲、如山堂、1909年10月。NDLJP:855532。 

              立石駒吉 編『後藤新平論集』伊藤元治郎、1911年1月。NDLJP:992298。 

              平木照雄 編『処世訓拾遺』如山堂、1911年5月。NDLJP:757181。 

              田中収吉 編『青年訓』宝文館、1912年3月。 

              『日本植民論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第8巻〉、1915年9月。NDLJP:933426。 

              『日本膨脹論』通俗大学会〈通俗大学文庫 第3編〉、1916年2月。NDLJP:933452。 

                『日本膨脹論』大日本雄弁会、1924年9月。 

                菊地暁汀 編『修養の力』東盛堂書店、1918年11月。NDLJP:959288。 

                『自治生活の新精神』新時代社、1919年2月。NDLJP:933341。 

                三戸十三 編『後藤男修養』日本書院、1919年6月。NDLJP:961902。 

                『自治の修養』東亜堂〈袖珍名家文庫 第5編〉、1919年9月。NDLJP:933318。 

                『自治生活の新精神』内観社、1920年12月。NDLJP:964844。 

                『日本植民政策一斑』拓殖新報社、1921年3月。NDLJP:980879。 

                『後藤男爵真男児の鉄腕』日本書院、1921年2月。NDLJP:961797。 

                『江戸の自治制』二松堂書店、1922年3月。NDLJP:968651。 

                『日本膨脹論』大日本雄弁会、1924年9月。NDLJP:977651。 

                『人生と燃料問題(記念講演大会、燃料協会創立三週年記念大会)』燃料協会出張所、1925年7月。NDLJP:10566529。 

                『公民読本』 少年の巻、東京宝文館、1926年1月。NDLJP:942906。 

                『公民読本』 青年の巻、東京宝文館、1926年1月。NDLJP:942907。 

                『公民読本』 成人の巻、東京宝文館、1926年1月。NDLJP:942908。 

                『人生と燃料問題(大正一四年六月二七日燃料協会創立三週年記念大会に於ける講演)』燃料協会出張所、1926年1月。NDLJP:10566583。 

                『普選に直面して政治の倫理化を提唱す』普選準備会、1926年5月。NDLJP:1019381。 

                『政治の倫理化』大日本雄弁会、1926年9月。NDLJP:1019432。 

                『政治倫理化運動の一周年』政教社、1927年6月。 

                『道徳国家と政治倫理』政教社、1927年12月。NDLJP:1465820。 

                『ロシアより帰りて』朝日新聞社〈朝日民衆講座 第6輯〉、1928年3月。NDLJP:1100157。 

                『日本植民政策一斑・日本膨脹論』中村哲解題、日本評論社〈明治文化叢書〉、1944年12月。 

                拓殖大学創立百年史編纂室 編『後藤新平 背骨のある国際人』拓殖大学、2001年4月。ISBN 9784990068523。 

                後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 編『自治』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、2009年4月。ISBN 9784894346413。 

                後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 編『官僚政治』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、2009年6月。ISBN 9784894346925。 

                後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 編『都市デザイン』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、2010年5月。ISBN 9784894347366。 

                後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 編『世界認識』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、2010年11月。ISBN 9784894347731。 

                鈴木一策 編『国難来』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、2019年9月。ISBN 9784865782394。 

                平木白星・案 編『後藤新平の劇曲平和』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、2020年9月。ISBN 9784865782813。 

                後藤新平研究会 編『政治の倫理化』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、2021年3月。ISBN 9784865783087。 

                楠木賢道編・解説 編『国家とは何か』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、2021年9月。ISBN 9784865783254。 

                勃古『普通生理衛生学』 上巻、忠愛社、1888年2月。 

                  勃古『普通生理衛生学』 上巻(訂正3版)、忠愛社、1888年12月。NDLJP:1083993。 

                  勃古『普通生理衛生学』 中巻、忠愛社、1888年2月。 

                    勃古『普通生理衛生学』 中巻(訂正3版)、忠愛社、1888年12月。NDLJP:1083995。 

                    勃古『普通生理衛生学』 下巻、忠愛社、1888年2月。 

                      勃古『普通生理衛生学』 下巻(訂正3版)、忠愛社、1888年12月。NDLJP:1083996。 

                      ギユンテル『黴菌図譜』後藤新平、1893年10月。NDLJP:834072。 

                      ヨゼフ・オルツェウスキー『官僚政治』冨山房、1911年11月。 

                      フリードリッヒ・パウルゼン『政党と代議制』冨山房、1912年6月。NDLJP:784193。 

                      ハンス・デルブリユツク『政治と民意』有斐閣、1915年4月。NDLJP:952422。 

                      パウルゼン『政党政策と道徳』通俗大学会〈東西時論 第4編〉、1916年3月。 

                      アーネスト・チー・ウヰリアムス『英国の改造と貿易』後藤新平、1920年1月。 

                      ビスマルク 著、有賀長雄・花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 編『ビスマルク演説集』 上巻、ビスマルク演説集刊行会、1919年1月。NDLJP:957449。 

                      ビスマルク 著、有賀長雄・花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 編『ビスマルク演説集』 中巻、ビスマルク演説集刊行会、1919年5月。NDLJP:957450。 

                      ビスマルク 著、有賀長雄・花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 編『ビスマルク演説集』 下巻、ビスマルク演説集刊行会、1919年6月。NDLJP:957451。 

                      後藤新平、直木倫太郎、竹内六蔵、佐野利器、渡辺銕蔵、倉橋藤治郎『帝都土地区画整理に就て』工政会、1924年4月。NDLJP:978443。 

                      後藤和子 「後藤はあの通り大雑把ですから、誰にでもお交わりをしておりますため、随分望ましくない人も周囲におりますので、これだけが誠に心配でなりません」

                      広島市南区似島には1938年(昭和13年)に似島第一検疫所の創設に尽力した後藤新平像が造られ、金属類回収令を避けるために3分割されて防空壕に保管されていた時期もあったが、1992年(平成4年)に似島学園内に移設・建立された。その後、2024年(令和6年)に後藤新平像は海岸沿いへ移設され、その際に説明板が新たに設けられた。

                      近藤真彦(青年期)/森繁久彌 - 『大風呂敷 後藤新平~時代をクリエートした男~』(テレビ東京開局25周年記念特別番組。1989年4月10日放映)

                      津嘉山正種 - 『復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い』(讀賣テレビ放送制作のドキュメンタリードラマ。2012年1月22日放映)

                      岩渕龍巳(少年時代〜青年)、星鴉宮(中年時代〜晩年)、髙橋力(最晩年)-『新平さんの大風呂敷 -郷土の先人 後藤新平物語-』奥州市民劇・奥州市文化会館Zホール(2022年(令和4年)3月12日〜13日上演)

                      次男、平八は、藤沢喜士太、やす夫妻の養子、藤沢平八。やすは、菊池平八郎の従妹、菊池謙二郎、後藤の内相時の秘書官、菊池忠三郎の妹。

                      甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩、義孫に法学者の内山尚三、曾孫に歴史家の鶴見太郎を持つ。

                      また、後藤の孫娘(長男・後藤一蔵の娘)は味の素創業家・鈴木忠治の六男で三菱自動車販売社長を務めた鈴木正雄に嫁ぎ、鈴木正雄の娘(すなわち後藤の曾孫)は元内閣総理大臣・桂太郎の曽孫に嫁いだ(桂の娘婿である長崎英造の孫)。

                      ^ ロシア革命直後は、アメリカへの対抗を目的として、シベリア出兵積極論者であった。

                      ^ 後藤新平は、その最後の訪ソで1928年1月7日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている。鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年)865頁による。

                      ^ 佐野学が2度の共産党一斉検挙をタイミングよく免れていることから、佐野学を後藤新平や公安警察が共産党に送り込んだスパイであるとする者もあるが、そう断定する証拠は示されていない(近現代史研究会編『実録 野坂参三 共産主義運動“スパイ秘史”』マルジュ社、1997年)。

                      ^ 鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。

                      ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。

                      ^ 小田実ほか「呼びかけ」1965年4月15日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。ベ平連への批判的文献

                      ^ “関東大震災後に帝都復興を成就した後藤新平の凄さ”. yahooニュース. (2017年9月6日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/400f7aa74171bab9155100cf38fd8d9194780cc5 2020年2月28日閲覧。 

                      ^ 『日本の有名一族』、177頁、179頁。

                      ^ “「第4の偉人」になれない小沢元代表”. 日本経済新聞. (2011年5月26日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2400Y_U1A520C1NNH000/ 2024年5月23日閲覧。 

                      ^ 越澤明『後藤新平―大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉、34頁。 

                      ^ (繁体字中国語)被遺忘的歷史謎團 阿里山森林鐵路誕生的真相2011-03-01,蘇昭旭

                      ^ 河合 鈰太郎 コトバンク

                      ^ 小高健 (1988-07-30). “血清薬院”. 日本医史学雑誌 (日本医史学会) (第34巻第3号): p392. ISSN 0549-3323. http://jsmh.umin.jp/journal/34-3/386-413.pdf. 

                      ^ 劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)81-116頁、189-190頁、194-195頁。

                      ^ 拓殖大学創立百年史編纂専門委員会『拓殖大学百年史 大正編』学校法人拓殖大学、2010年、97頁

                      ^ 『拓殖大学百年史 大正編』97-98頁

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                      鶴見祐輔『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年/勁草書房、1965-1967年)

                      『〈決定版〉正伝 後藤新平』全8巻(一海知義校訂、藤原書店、2004-2007年)

                        『正伝 後藤新平 別巻 後藤新平大全』(御厨貴編、同上)。類書ほか多数

                        『後藤新平の「仕事」』(藤原書店編集部編「後藤新平の全仕事」、藤原書店、2007年)

                        星亮一『後藤新平伝 未来を見つめて生きた明治人』平凡社、2005年

                        山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』草思社、2007年

                        田中重光『赤い男爵 後藤新平』叢文社、2011年

                        杉森久英『大風呂敷』(毎日新聞社、1965年、新版(上下)、1999年、2023年/集英社文庫(上下)、1989年)

                        郷, 仙太郎『小説 後藤新平‐行革と都市政策の先駆者』学陽書房〈人物文庫〉、1999年。ISBN 978-4313750883。 

                        信夫清三郎『後藤新平 科学的政治家の生涯』(博文館、1941年)

                        北岡伸一『後藤新平 外交とヴィジョン』(中公新書、1988年) ISBN 9784121008817

                        小林道彦『日本の大陸政策 1895-1914 桂太郎と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 9784816501944

                        駄場, 裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』南窓社、2007年6月。ISBN 9784816503542。 

                        浅野豊美『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年)、ISBN 4-815-80585-7

                        ワシーリー・モロジャコフ 著、木村汎 訳『後藤新平と日露関係史---ロシア側新資料に基づく新見解』藤原書店、2009年。ISBN 4894346842。 

                        越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』(ちくま新書、2011年) ISBN 978-4480066398

                        『震災復興 後藤新平の120日 都市は市民がつくるもの』(後藤新平研究会編、藤原書店、2011年) ISBN 978-4894348110

                        『時代が求める後藤新平 自治/公共/世界認識』(藤原書店、2014年) ISBN 978-4894349773

                        『一に人二に人三に人 近代日本と「後藤新平山脈」100人』(後藤新平研究会編、藤原書店、2015年) ISBN 978-4865780369

                        『後藤新平と五人の実業家 後藤新平の全仕事』(後藤新平研究会編、藤原書店、2019年) ISBN 978-4865782363

                        渡辺利夫・奥田進一編『後藤新平の発想力』(成文堂、補訂版2015年)

                        渡辺利夫『後藤新平の台湾 人類もまた生物の一つなり』(中公選書、2021年)ISBN 978-4121101136

                        『別冊環 後藤新平―衛生の道』(後藤新平研究会編、藤原書店、2023年)ISBN 978-4865783810

                        王道の狗(安彦良和)

                        天の血脈(安彦良和)

                        季刊誌『環【歴史・環境・文明】』29号(2007年春)、特集「世界の後藤新平/後藤新平の世界」、藤原書店、2007年4月

                        小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』(幻冬舎新書、2007年9月)ISBN 9784344980556

                        日本の改軌論争

                        震災復興再開発事業

                        文装的武備

                        新旧大陸対峙論 - 松岡洋右日本外相や、ナチス・ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相らの日独伊ソ四国同盟構想に先駆けて、後藤が抱いていたユーラシア大陸諸国の連携論。旧大陸はアフロ・ユーラシア大陸、新大陸はアメリカ州などを指す。

                        郷仙太郎 - 歴史小説『小説 後藤新平 -行革と都市政策の先駆者-』で後藤を描いている。

                        星新一 - ノンフィクション小説『人民は弱し 官吏は強し』や『明治の人物誌』で後藤を描いている(星の父星一は、後藤の盟友杉山茂丸の書生であった)。

                        阿南常一 - 後藤の側近として帝都復興に参画。

                        森戸辰男 - 社会政策を専攻する森戸と交流があった(『森戸辰男とその時代』森戸文書研究会、p14)。

                        石黒忠悳 - 後に軍医総監となる石黒により才能を見出され、長與專齋への推薦で中央官界入りし、相馬事件で失脚後も石黒の児玉源太郎への推薦で官界に復帰した。

                        しんぺい - JR九州肥薩線の人吉駅 - 吉松駅間で運行していた列車で、列車名称は後藤に由来。

                        相馬事件 - この事件に連座して一時収監される。

                          奥州市立 後藤新平記念館

                          後藤新平の会(任意団体) - 2007年、生誕150周年を機に「後藤新平賞」を創設した

                          国立国会図書館 憲政資料室 後藤新平関係文書(MF:後藤新平記念館蔵)

                          後藤新平(近代日本人の肖像(国立国会図書館))

                          桂太郎 1898-1907

                          桂太郎 1907-1913

                          小松原英太郎 1913-1919

                          後藤新平 1919-1929

                          水野錬太郎 1930-1945

                          児玉秀雄 1945-1946

                          児玉秀雄 1946

                          東洋協会

                          テンプレート拓殖大学学長

                          桂太郎 1900-1904

                          桂太郎 1904-1907

                          桂太郎 1907-1912

                          小松原英太郎 1912-1915

                          小松原英太郎 1915-1917

                          小松原英太郎 1917-1919

                          後藤新平 1919-1925

                          後藤新平 1922-1926

                          後藤新平 1926-1929

                          事務取扱/学長 永田秀次郎 1929/1929-1943

                          事務取扱 大蔵公望 1943-1944

                          宇垣一成 1944-1945

                          事務取扱 大蔵公望 1945

                          下村宏 1945-1946

                          事務取扱/学長/総長 高垣寅次郎 1946/1946-1951/1951-1952

                          総長事務取扱 鈴木憲久 1952

                          総長事務取扱/総長 鈴木憲久 1952-1953/1953

                          松村䏋 1953-1954

                          矢部貞治 1955-1964

                          安東義良 1964-1967

                          中曽根康弘 1967-1970

                          豊田悌助 1970-1978

                          事務取扱 植田美與志 1978-1979

                          高瀬侍郎 1979-1991

                          石沢芳次郎 1991-1993

                          大堺利實 1993-1999

                          坂田勝 1999-2003

                          武田哲夫 2003-2005

                          渡辺利夫 2005-2013

                          高橋敏夫 2013-2015

                          川名明夫 2015-2021

                          鈴木昭一 2021-

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                          大久保利通

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                          大久保利通

                          伊藤博文

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                          山県有朋

                          山県有朋

                          西郷従道

                          品川弥二郎

                          副島種臣

                          松方正義

                          河野敏鎌

                          井上馨

                          野村靖

                          芳川顕正

                          板垣退助

                          樺山資紀

                          芳川顕正

                          板垣退助

                          西郷従道

                          末松謙澄

                          大隈重信

                          内海忠勝

                          児玉源太郎

                          桂太郎

                          芳川顕正

                          清浦奎吾

                          原敬

                          平田東助

                          原敬

                          大浦兼武

                          原敬

                          大隈重信

                          大浦兼武

                          大隈重信

                          一木喜徳郎

                          後藤新平

                          水野錬太郎

                          床次竹二郎

                          水野錬太郎

                          後藤新平

                          水野錬太郎

                          若槻礼次郎

                          浜口雄幸

                          鈴木喜三郎

                          田中義一

                          望月圭介

                          安達謙蔵

                          中橋徳五郎

                          犬養毅

                          鈴木喜三郎

                          山本達雄

                          後藤文夫

                          潮恵之輔

                          河原田稼吉

                          馬場鍈一

                          末次信正

                          木戸幸一

                          小原直

                          児玉秀雄

                          安井英二

                          平沼騏一郎

                          田辺治通

                          東條英機

                          湯沢三千男

                          安藤紀三郎

                          大達茂雄

                          安倍源基

                          山崎巌

                          堀切善次郎

                          三土忠造

                          大村清一

                          植原悦二郎

                          片山哲 (臨代)

                          木村小左衛門

                          廃止

                          内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣

                          内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官)

                          建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣

                          厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣

                          内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官)

                          文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官)

                          神社本庁総長(宗教法人化)

                          内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長)

                          外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官)

                          内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長)

                          烏丸光徳

                          烏丸光徳

                          大木喬任

                          壬生基脩

                          由利公正

                          大久保一翁

                          楠本正隆

                          松田道之

                          芳川顕正

                          渡辺洪基

                          高崎五六

                          蜂須賀茂韶

                          富田鉄之助

                          三浦安

                          久我通久

                          岡部長職

                          肥塚龍

                          千家尊福

                          阿部浩

                          宗像政

                          久保田政周

                          井上友一

                          阿部浩

                          宇佐美勝夫

                          平塚廣義

                          中川健藏

                          牛塚虎太郎

                          長谷川久一

                          藤沼庄平

                          香坂昌康

                          横山助成

                          館哲二

                          岡田周造

                          川西實三

                          松村光磨

                          大木喬任

                          楠本正隆

                          1889(明治22)年-1898(明治31)年は府知事が職務を執行

                          松田秀雄

                          尾崎行雄

                          阪谷芳郎

                          奥田義人

                          田尻稲次郎

                          後藤新平

                          永田秀次郎

                          中村是公

                          伊沢多喜男

                          西久保弘道

                          市来乙彦

                          堀切善次郎

                          永田秀次郎

                          牛塚虎太郎

                          小橋一太

                          頼母木桂吉

                          大久保留次郎

                          岸本綾夫

                          大達茂雄

                          西尾寿造(兼関東信越総監)

                          広瀬久忠(兼関東信越総監)

                          藤沼庄平

                          松井春生

                          安井誠一郎

                          飯沼一省

                          安井誠一郎

                          安井誠一郎

                          東龍太郎

                          美濃部亮吉

                          鈴木俊一

                          青島幸男

                          石原慎太郎

                          猪瀬直樹

                          舛添要一

                          小池百合子

                          小笠原長行

                          山口直毅

                          仁和寺宮嘉彰親王

                          山階宮晃親王

                          三条実美

                          伊達宗城

                          東久世通禧

                          澤宣嘉

                          山階宮晃親王

                          伊達宗城

                          澤宣嘉

                          澤宣嘉

                          岩倉具視

                          副島種臣

                          (副島種臣(外務事務総裁))

                          寺島宗則

                          井上馨

                          井上馨

                          伊藤博文

                          大隈重信

                          青木周藏

                          榎本武揚

                          陸奥宗光

                          西園寺公望

                          大隈重信

                          西徳二郎

                          大隈重信

                          青木周蔵

                          加藤高明

                          曾禰荒助

                          小村壽太郎

                          林董

                          寺内正毅

                          小村壽太郎

                          内田康哉

                          桂太郎

                          牧野伸顯

                          石井菊次郎

                          本野一郎

                          後藤新平

                          山本權兵衞

                          伊集院彦吉

                          松井慶四郎

                          幣原喜重郎

                          田中義一

                          幣原喜重郎

                          犬養毅

                          芳澤謙吉

                          齋藤實

                          廣田弘毅

                          有田八郎

                          林銑十郎

                          佐藤尚武

                          宇垣一成

                          近衛文麿

                          有田八郎

                          阿部信行

                          野村吉三郎

                          松岡洋右

                          豊田貞次郎

                          東郷茂徳

                          東條英機

                          谷正之

                          重光葵

                          鈴木貫太郎

                          吉田茂

                          芦田均

                          岡崎勝男

                          岸信介

                          藤山愛一郎

                          小坂善太郎

                          大平正芳

                          椎名悦三郎

                          三木武夫

                          愛知揆一

                          福田赳夫

                          木村俊夫

                          宮澤喜一

                          鳩山威一郎

                          園田直

                          大来佐武郎

                          伊東正義

                          櫻内義雄

                          安倍晋太郎

                          倉成正

                          宇野宗佑

                          三塚博

                          中山太郎

                          渡辺美智雄

                          武藤嘉文

                          羽田孜

                          柿澤弘治

                          河野洋平

                          池田行彦

                          小渕恵三

                          高村正彦

                          田中眞紀子

                          小泉純一郎

                          川口順子

                          町村信孝

                          麻生太郎

                          高村正彦

                          中曽根弘文

                          岡田克也

                          前原誠司

                          松本剛明

                          玄葉光一郎

                          岸田文雄

                          河野太郎

                          茂木敏充

                          林芳正

                          上川陽子

                          岩屋毅

                          榎本武揚

                          後藤象二郎

                          黒田清隆

                          渡辺国武

                          白根専一

                          野村靖

                          末松謙澄

                          林有造

                          芳川顕正

                          星亨

                          原敬

                          芳川顕正

                          曾禰荒助

                          大浦兼武

                          山縣伊三郎

                          原敬

                          堀田正養

                          後藤新平

                          林董

                          後藤新平

                          元田肇

                          武富時敏

                          箕浦勝人

                          田健治郎

                          野田卯太郎

                          前田利定

                          犬養毅

                          藤村義朗

                          犬養毅

                          安達謙蔵

                          望月圭介

                          久原房之助

                          小泉又次郎

                          三土忠造

                          南弘

                          床次竹二郎

                          岡田啓介

                          望月圭介

                          頼母木桂吉

                          山崎達之輔

                          兒玉秀雄

                          永井柳太郎

                          塩野季彦

                          田辺治通

                          永井柳太郎

                          勝正憲

                          村田省蔵

                          寺島健

                          八田嘉明

                          小松茂

                          塩原時三郎

                          塩原時三郎

                          松前重義

                          (心得)新谷寅三郎

                          一松定吉

                          三木武夫

                          冨吉榮二

                          降旗徳弥

                          小沢佐重喜

                          後藤新平1906.11.13-1908.7.14

                          中村是公1908.12.19-1913.12.18

                          野村龍太郎1913.12.19-1914.7.15

                          中村雄次郎1914.7.15-1917.7.31

                          国沢新兵衛1917.7.31-1919.4.12

                          野村龍太郎1919.4.12-1921.5.31

                          早川千吉郎1921.5.31-1922.10.14

                          川村竹治1922.10.24-1924.6.22

                          安広伴一郎1924.6.22-1927.7.19

                          山本条太郎1927.7.19-1929.6.19

                          山本条太郎1929.6.20-1929.8.14

                          仙石貢1929.8.14-1931.6.13

                          内田康哉1931.6.13-1932.7.6

                          林博太郎1932.7.26-1935.8.2

                          松岡洋右1935.8.2-1939.3.24

                          大村卓一1939.3.24-1943.7.14

                          小日山直登1943.7.14-1945.4.11

                          山崎元幹1945.5.5-1945.9.30

                          スカウティング

                          『スカウティング・フォア・ボーイズ』

                          スカウト教育法

                          スカウトのおきて(英語版)

                          スカウトのちかい(英語版)

                          スカウトのモットー(英語版)

                          ウッドバッジ(英語版)

                          ガールスカウト

                          レンジャー (ガールスカウト)(英語版)

                          ジャンボリー

                          スカウター(英語版)

                          独立スカウティング(英語版)

                          スカウティングに関する論争(英語版)

                          ポップカルチャーにおけるスカウティング(英語版)

                          スカウトの一覧(英語版)

                          スカウティングにおける最高位の章の一覧(英語版)

                          スカウティングの部門(英語版)

                          ビーバースカウト

                          カブスカウト

                          ボーイスカウト

                          ベンチャースカウト

                          ローバースカウト

                          テンダーフット(英語版)

                          ブラウニー(英語版)

                          ジュニア・シニア(英語版)

                          レンジャー(英語版)

                          エアスカウト

                          エクステンション・スカウティング(英語版)

                          ローンスカウト(英語版)

                          ローンガイド(英語版)

                          シースカウト

                          ロバート・ベーデン=パウエル

                          オレブ・ベーデン=パウエル

                          アグネス・ベーデン=パウエル

                          ダニエル・カーター・ビアード(英語版)

                          フレデリック・バーナム(英語版)

                          ロウリー・ドリング(英語版)

                          ベア・グリルス

                          ウィリアム・ヒルコート(英語版)

                          ラズロ・ナジ

                          アーネスト・トンプソン・シートン

                          フランシス・ベイン(英語版)

                          ベーデン=パウエル・ハウス(英語版)

                          ブラウンシー島

                          エディス・メイシー会議場(英語版)

                          フォックスリース(英語版)

                          ギルウェル・パーク

                          カンデルステッヒ国際スカウトセンター(英語版)

                          アワカバニャ(英語版)

                          アワシャレー(英語版)

                          パックス・ヒル(英語版)

                          パックス・ロッジ(英語版)

                          フィロモントスカウト牧場(英語版)

                          サンガムスカウトセンター(英語版)

                          ヨーロッパスカウト連合(英語版)

                          国際スカウト・ガイド組合(英語版)

                          世界スカウト騎士団(英語版)

                          亡命スカウト

                          ヨーロッパ国際スカウト・ガイド連合(英語版)

                          ガールスカウト・ガールガイド世界連盟(英語版)

                          独立スカウト世界連盟(英語版)

                          世界独立スカウト機構(英語版)

                          世界スカウト機構

                          ギンガングリ(英語版)

                          国際スカウティング収集家協会(英語版)

                          最古のスカウト組織一覧(英語版)

                          野外教育

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                          IdRef

                          後藤新平

                          日本の都市計画家

                          植民政策学者

                          19世紀日本の医師

                          貴族院勅選議員

                          昭和時代の貴族院議員

                          大正時代の貴族院議員

                          明治時代の貴族院議員

                          在職中に死去した日本の貴族院議員

                          東洋協会の人物

                          拓殖大学学長

                          日本放送協会の人物

                          大正時代の閣僚

                          明治時代の閣僚

                          日本の内務大臣

                          東京市長

                          日本の外務大臣

                          日本の鉄道官僚

                          逓信大臣

                          日本の拓務官僚

                          南満洲鉄道の人物

                          台湾総督府の人物

                          日本の内務官僚

                          南洋協会の人物

                          名古屋大学出身の人物

                          シベリア出兵の人物

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                          日本のフリーメイソン

                          日本の伯爵

                          日本の子爵

                          日本の男爵

                          勲一等旭日桐花大綬章受章者

                          勲一等旭日大綬章受章者

                          勲二等旭日重光章受章者

                          勲三等瑞宝章受章者

                          勲六等単光旭日章受章者

                          大英帝国勲章受章者

                          白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)

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                          1857年生

                          1929年没

                          関東大震災

                          青山霊園に埋葬されている人物

                          外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年11月

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2024/11/10 09:25更新

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