吉川勇一の情報(よしかわゆういち) 市民運動家、評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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吉川 勇一さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉川勇一と関係のある人
ウィルフレッド=バーチェット: 吉川勇一訳『立ち上がる南部アフリカ』上下巻、サイマル出版会、1978年 小熊英二: 鶴見俊輔、小田実、吉川勇一らのベ平連について小熊は『<民主>と<愛国>』で評価しているが、大学紛争期の全共闘をはじめとする新左翼に対しては、批判的なスタンスを取っている。 小田実: このとき「関西部落問題研究会」は、応対に出た吉川勇一に対し、重いスパナを手の中で回す、吉川の机に太い錐を突き刺して脅す、丸めた新聞紙で吉川の頭を殴るなどの狼藉を働き、対話はほとんど成立しなかった。 小田実: 市民の暦 鶴見俊輔,吉川勇一共編 朝日新聞社 1973 |
吉川勇一の情報まとめ
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吉川 勇一(よしかわ ゆういち)さんの誕生日は1931年3月14日です。東京出身の市民運動家、評論家のようです。
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略歴、人物などについてまとめました。事件、結婚、解散、卒業、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。84歳で亡くなられているようです。
吉川勇一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉川 勇一(よしかわ ゆういち、1931年3月14日 - 2015年5月28日)は、元ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)事務局長など市民運動家、翻訳家。元英語教師(予備校講師・専門学校講師)、元大学非常勤講師。ソ連崩壊によるソ連共産党秘密文書公開で、日本共産党の不破哲三委員長(当時)から、ソ連のスパイと認定された。 東京大学在学中に日本共産党に入党し、武装闘争を志向する、党内では多数派だが東大では少数派の所感派の活動家として頭角を現し、旧国際派は役職に就かせないという共産党中央の指示で東京大学学生自治会議長に就任した。山村工作隊、東大ポポロ事件、砂川闘争などに参加し、講和・安保両条約発効に抗議する全学ストライキを指導して退学処分を受けた後は、共産党員として専従活動家の道を歩み、全学連書記局員、日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局員(組織部長)、日本平和委員会事務局員、同常任理事などを歴任して実務能力を身につけ、所感派の山村工作隊出身ながら「日本共産党第6回全国協議会(六全協)」後も党に留まり、1958年4月には、後藤新平の義理の姪婿で鶴見和子・俊輔姉弟と姻戚に当たる平野義太郎の仲人で結婚していたが、1965年、前年の原水爆禁止世界大会で共産党の方針に反対意見を表明したことで党から除名処分を受ける。 同年小田実代表のベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)の2代目事務局長になり、1974年のベ平連解散まで務める。1967年10月、空母イントレピッド号から米兵4名が脱走した「イントレビット号事件」を契機に、ベ平連の中に米兵脱走を支援する「JATEC」が組織された際にもかかわったとされる。JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs - 反戦脱走米兵援助日本技術委員会)はその後2年間に16名の脱走米兵をスウェーデンなどに脱走させることに成功した。米軍と日本の公安当局の捜査にもかかわらず、中立国移送までの経路や経緯は秘密に包まれていたが、1990年代にソ連の機密文書が公開され、JATECの脱走兵の移送にKGBが協力していたことが明らかになった。吉川本人も、後に共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「(ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」、「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」とソ連政府の協力を得て脱走米兵をシベリア経由で送り出していたことを明らかにしている。 吉川勇一とソ連の関係は、共産党の職業活動家として日本平和委員会常任理事だった1963年当時から問題とされていた。不破哲三は『日本共産党にたいする干渉と内通の記録 - ソ連共産党秘密文書から 上』(新日本出版社、1993年)で、「ソ連大使館での六回にわたる会談とセナトロフ(引用者注:ソ連大使館二等書記官)・メモが雄弁に語るように、吉川と吉田(引用者注:吉田嘉清。原水爆禁止日本協議会事務局主任)は、もっとも密接な連携のもとに、ソ連と内通して秘密工作をはじめた二人でした」と吉川を激しく非難している。吉川はベ平連事務局長就任後の1966年、吉川と同時期に親ソ派として共産党を除名された志賀義雄らの「日本のこえ」に参加した。 ベ平連の解散後、小田実、色川大吉らを中心とした「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)(1980年 - 1994年)に参加するが、1987年に小田の東京都知事選挙への出馬の是非を巡って日市連内で対立が起こり会を離れる。1988年、マルチイシューの市民運動を目指す「市民の意見30の会」を結成。その後は市民意見広告運動にも力を注いだ。 長く代々木ゼミナールの英語講師を務めた。 2015年5月28日、慢性心不全のため死去。84歳没。 略歴1931年 東京生まれ 1948年 旧制埼玉県立川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)卒業、旧制浦和高等学校入学 1952年 東京大学文学部社会学科中退 1965年 日本共産党除名。ベ平連事務局長に就任。 1970年 - 1972年 名古屋学院大学非常勤講師(倫理学、外書講読、社会学ゼミ - ミニコミ論) 1971年 - 1998年12月 代々木ゼミナール英語科講師。英語が最も苦手な学生を対象とした週4コマの「ベイシック英語ゼミ」を長年にわたって担当(講座の開設は、土師政雄の「ベイシック数学ゼミ」に倣ったもの)。当時の講義の一部は『吉川のベイシック英語』(代々木ライブラリー)に公開されている。 1974年 ベ平連解散 1980年 - 1985年 日本ジャーナリスト専門学校英語科講師 1988年 「市民の意見30の会」結成 2000年 - 2001年 恵泉女学園大学非常勤講師(担当講座「アメリカとアジア」) 2003年 市民意見広告運動を始める 2015年 死去 人物頑なまでに主張を一貫させ、日本共産党の方針に反対した言論を展開したかどで、同党から除名処分を受けたりした。晩年においても真剣な言論活動を行い、「喧嘩ジジイ」とまで言われ、周囲に波紋を広げることがあった。 反面、機知に富んだ感覚も持ち合わせ、そのため教条的な左翼運動だけでなく「ええかげん」なベ平連運動の主体にもなった。既存の左翼運動での知識、経験とベ平連の思想の豊かさが市民運動家としての背景になっている。ちなみにベ平連に参加するきっかけは、ベ平連主催の企画でベトナムの地図を描くことができる人が必要だったから吉川が紹介されたことである。 晩年は運動経験の共有、継承にも力を入れており、吉川のサイトでは晩年の著作を読むことができる。吉川没後も、2023年現在吉川の個人サイトは維持されている。(最終更新は死去約2年前の2013年12月04日) なお1966年志賀義雄らの日本のこえに参加、その系譜を引く新左翼政党である共産主義労働者党にも参加し中央委員を務めたが、1971年同党分裂後はどの後継集団にも参加しなかった。 2024/06/24 10:42更新
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yoshikawa yuuichi
吉川勇一と同じ誕生日3月14日生まれ、同じ東京出身の人
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