もしもし情報局 > 9月1日 > 教育者

新渡戸稲造の情報 (にとべいなぞう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

新渡戸稲造の情報(にとべいなぞう) 教育者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

新渡戸 稲造さんについて調べます

■名前・氏名
新渡戸 稲造
(読み:にとべ いなぞう)
■職業
教育者
■新渡戸稲造の誕生日・生年月日
1862年9月1日 (年齢71歳没)
戌年(いぬ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
岩手出身

新渡戸稲造と同じ1862年生まれの有名人・芸能人

新渡戸稲造と同じ9月1日生まれの有名人・芸能人

新渡戸稲造と同じ出身地岩手県生まれの有名人・芸能人


新渡戸稲造と関係のある人

上代タノ: 東京帝国大学への進学を望んだが女子の入学が認められず、同大教授だった新渡戸稲造に留学希望の手紙を書き、新渡戸の斡旋により1913年から4年間米国ウェルズ・カレッジで学ぶ。


乃木希典: 『中央公論』1912年10月号特集「乃木大将の殉死を評す」に、加藤弘之・新渡戸稲造・東条英教・石川半山らが執筆した。


矢内原忠雄: 『内村鑑三と新渡戸稲造』日産書房、1948年7月。


トマス=カーライル: 山路愛山、内村鑑三・新渡戸稲造およびその門下生たちの矢内原忠雄・畔上賢造等に多大な影響を与えた。


西川光二郎: 札幌農学校に入学し新渡戸稲造の教え子となる。


城戸裕次: 新渡戸稲造の台湾


松本重治: 1930年の京都における第3回太平洋会議以来、新渡戸稲造の薫陶を受けていた。


田中舘愛橘: 大正11年(1922年)、国際連盟により新渡戸稲造事務局次長が事務を受け持つ国際連盟知的協力委員会が設立された。


内村鑑三: その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。


北村透谷: 1891年(明治24年)2月、芝三田聖坂のフレンド教会で新渡戸稲造夫婦と出会う。


高田博厚: 新渡戸稲造


後藤新平: アメリカ合衆国から新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。


須知徳平: 『新渡戸稲造と武士道』青磁社 1984


津田仙: 没後、内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表し、津田の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。


鶴見祐輔: 同年10月に新渡戸稲造が死去し、一高などで追悼演説を行なった。


内村鑑三: 一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。


徳冨蘆花: しかしこれを不敬演説という非難が起こり、校長新渡戸稲造らが譴責処分とされることになった。


エドマンド=バーク: なお、新渡戸稲造はその主著『武士道』の冒頭に、「ヨーロッパにおいてこれ〔武士道〕と姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。


吉屋信子: この頃、新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。


トレイ=ヒルマン: 来日後は日本人の気質の勉強のため新渡戸稲造の『武士道』を読んでいたという。


近衛文麿: 当時華族の子弟は学習院高等科への進学が通例だったが、一高校長であった新渡戸稲造に感化され同校を選択した。


津田梅子: アリス・ベーコン(梅子を助けるためにアメリカから来日)、大山捨松、瓜生繁子、新渡戸稲造、巌本善治、上野栄三郎、桜井彦一郎(櫻井鴎村)らの協力者の助力を得た梅子は、1900年(明治33年)7月、華族女学校教授 兼 女子高等師範学校教授の官職(高等官5等、年俸800円。


瀬谷佳子: “第2回 新渡戸稲造記念 遠友みらい塾(11/19)”. . 一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会 (2015年12月15日). 2020年5月1日閲覧。


外山正一: この新入生が新渡戸稲造である。


相馬半治: 1898年(明治31年)に児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平が民政長官となってからは、統治方針の重点を土豪鎮圧から産業育成へと切り替え、新渡戸稲造を招いて精糖奨励法を作らせ、現地企業として台湾精糖を設立させたが、収益は小さかった。


上杉治憲: 米沢史研究家の小野榮は、鷹山を尊敬していると述べたのは、ケネディではなく、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている。


柳田國男: 1922年(大正11年)、新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。


セオドア=ルーズベルト: 新渡戸稲造の『武士道』に感銘し、自ら何冊か買って友人に読むようにプレゼントした。


前田多門: 帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。


西東栄一: 伝記シリーズ・新渡戸稲造(学研 1985年 描きおろし)


新渡戸稲造の情報まとめ

もしもしロボ

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)さんの誕生日は1862年9月1日です。岩手出身の教育者のようです。

もしもしロボ

右翼や皇室研究者からの批判、人物などについてまとめました。現在、事件、病気、卒業、結婚、脱退に関する情報もありますね。71歳で亡くなられているようです。

新渡戸稲造のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、旧字体:新渡戶 稻造󠄁、文久2年8月3日〈1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年〉10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。

国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。

陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて盛岡藩校作人館に入り {{未検証}} 、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。

稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。

翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の旧制第一高等学校、東京大学教養学部)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。

15歳になった1877年9月になると、札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にもかかわらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した。後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯に幾度となく読み返した。

農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。

その後、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(英語版)(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツ(ドイツ語版)やブッヘンベルガー(ドイツ語版)により創始されていたことを知った。この間『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれている。

その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位も受けた。同年、牧野伸顕文相の意向で日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911-1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

札幌農学校に教授として勤めるかたわら、妻メアリーと共に遠友夜学校を1894年に設立し、恵まれない境遇の子供たちに無償で授業を行った。この学校は、宮部金吾、有島武郎、半沢洵といった札幌農学校(のちに北海道帝国大学)の教員や学生が運営や教師を務め、半世紀にわたり続いた。新渡戸は初代校長を務めた。

アメリカから来日した宣教師サラ・クララ・スミスが女子教育を志して札幌に女学校を設立すると(1887年)、新戸部は札幌農学校の同窓生でキリスト教徒としても知られる佐藤昌介や大島正健、宮部金吾らと共にこれに協力した。新渡戸は教師として英文学を教えた。当初スミス女学校と呼ばれた学校に新渡戸は北星女学校の名を提案して採用され(1894年)、現在の北星学園へとつながっている。北海道庁から貸与されていた校舎の期限切れに際し、校舎購入に新渡戸が尽力したとされる。

1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかしフランスの反対に遭って実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(現新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。

1932年(昭和7年)、第一次上海事変勃発直後の2月4日に、講演のため訪れた愛媛県松山市で地元新聞記者を前にオフレコで語った

「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」

「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」

との発言が新聞紙上に取り上げられた。当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々を送った。

翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。10月15日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となった。享年72(満71歳没)。墓所は多磨霊園。

右翼や皇室研究者からの批判

前項にある「この国を滅ぼすのは軍部の人たちだ」「上海事件は正当防衛ではない」という発言を、右翼思想家から攻撃され「非国民」とまで呼ばれている(松山事件)。

『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)は、明治天皇へのキリスト教徒の不敬を弾劾した井上哲次郎や『君が代』と『古事記』を英訳したバジル・ホール・チェンバレンなどから内容を激しく批判された。同著の日本版が刊行された直後にも「古(いにしえ)からの史実を全く無視した、キリスト教徒の考えた自分勝手な思想である」「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」との指摘が、「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」を持論とした津田左右吉らによってなされている。

人物

キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。

非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ『偉人群像』には、伊藤博文や桂太郎、乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

エリザ・シドモアら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。

2024/06/12 06:02更新

nitobe inazou


新渡戸稲造と同じ誕生日9月1日生まれ、同じ岩手出身の人

立花 一男(たちばな かずお)
1942年9月1日生まれの有名人 岩手出身

9月1日生まれwiki情報なし(2024/06/16 14:19時点)

宇佐美 淳(うさみ じゅん)
1910年9月1日生まれの有名人 岩手出身

宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980年5月9日)は、日本の俳優。宇佐美 淳也、宇佐美 諄の芸名でも活躍した。本名:駒木 五郎。 岩手県二戸郡姉帯村出身。東京農業大学中退後に…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
新渡戸稲造
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

東京女子流 D☆DATE Snow Man 猿岩石 フェアリーズ 新選組リアン X21 ココリコ カスタマイZ さくら学院 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「新渡戸稲造」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました