新渡戸稲造の情報(にとべいなぞう) 教育者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
新渡戸 稲造さんについて調べます
■名前・氏名 |
新渡戸稲造と関係のある人
内村鑑三: この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造もまた、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。 合田一道: 太平洋のかけ橋に 新渡戸稲造の生涯 北海道科学文化協会 2011.8 北国に光を掲げた人々 内村鑑三: 不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。 矢内原忠雄: 1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している。 日高晤郎: 新渡戸稲造伝「我、太平洋の橋とならん」(2002年3月2日) 田中舘愛橘: 大正11年(1922年)、国際連盟により新渡戸稲造事務局次長が事務を受け持つ国際連盟知的協力委員会が設立された。 石上玄一郎: 『牧口常三郎と新渡戸稲造』(第三文明社、レグルス文庫) 1993 須知徳平: 新渡戸稲造『武士道』(訳)講談社インターナショナル 1998 乃木希典: 『中央公論』1912年10月号特集「乃木大将の殉死を評す」に、加藤弘之・新渡戸稲造・東条英教・石川半山らが執筆した。 松村松年: 昆虫学は橋本左五郎に師事し、在学中の校長は新渡戸稲造であった。 杉森久英: 新渡戸稲造(読売新聞社 1991.12)のち人物文庫 向山好一: 尊敬する人物は新渡戸稲造。 國弘正雄: 中学時代、新渡戸稲造の伝記に感銘を受け、英語の猛勉強を開始した。 上杉治憲: 米沢史研究家の小野榮は、鷹山を尊敬していると述べたのは、ケネディではなく、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている。 津田仙: 没後、内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表し、津田の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。 幸徳秋水: 同年2月1日に、秋水に心酔していた第一高等学校の弁論部の河上丈太郎・森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演したが、校長である新渡戸稲造らの譴責問題に発展し、校内で騒動となった。 坂西志保: 1918年(大正7)同校英文専科を卒業後、新たに開学した東京女子大学(旧制、淀橋町 初代学長新渡戸稲造)に第一期生として入学。 近衛文麿: 当時華族の子弟は学習院高等科への進学が通例だったが、一高校長であった新渡戸稲造に感化され同校を選択した。 田島道治: 東京帝大時代には新渡戸稲造を敬愛し、新渡戸家に書生として住み込みをした。新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生の中心人物の1人で、無教会主義キリスト教徒であった。 上代タノ: 東京帝国大学への進学を望んだが女子の入学が認められず、同大教授だった新渡戸稲造に留学希望の手紙を書き、新渡戸の斡旋により1913年から4年間米国ウェルズ・カレッジで学ぶ。 杵渕やすお: 太平洋にかけた平和の橋 世界のために働いた新渡戸稲造(佼成出版社) 森戸辰男: 前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。 井口朝生: 新渡戸稲造 物語と史蹟をたずねて(1984年11月、成美堂出版、1996年6月、成美文庫) ISBN 4-415-06443-4 マリー=キュリー: 相変わらず着飾ることなどしなかったため、新渡戸稲造は第1回会合時の彼女の印象を「見栄えもしない愛想のない人物」と自著に残した。 西東栄一: 伝記シリーズ・新渡戸稲造(学研 1985年 描きおろし) 矢内原忠雄: 1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。 杉村陽太郎: 1927年(昭和2年)には新渡戸稲造の後任として国際連盟事務局次長に就任。 野依秀市: 1912年(明治45年)より『実業之世界』にて「自由主義者新渡戸博士の口禍をわらふ」にて第一高等学校校長・新渡戸稲造を批判。更に明治政府の秘密資金援助を受けて飛躍的に発展した『東京朝日新聞』と新渡戸稲造の関係を追及。 吉屋信子: この頃、新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。 内村鑑三: 初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。 |
新渡戸稲造の情報まとめ
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)さんの誕生日は1862年9月1日です。岩手出身の教育者のようです。
現在、事件、病気、卒業、結婚、脱退、姉妹、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1933年に亡くなられているようです。
新渡戸稲造のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、旧字体:新渡戶 稻造󠄁、文久2年8月3日〈1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年〉10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。 国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。 陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。また、新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。 稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。 作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。 上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。 翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件があったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。 明治6年、12歳の頃に東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学し、その後東京英語学校(後の旧制第一高等学校、東京大学教養学部)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。 15歳になった1877年9月になると、札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にもかかわらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。 クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した。後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。 この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までも患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯に幾度となく読み返した。 農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。 その後、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(英語版)(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。 その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)にて農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツ(ドイツ語版)やブッヘンベルガー(ドイツ語版)により創始されていたことを知った。この間『女学雑誌』に、ドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得る。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。 この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。 台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれている。 その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位も受けた。同年、牧野伸顕文相の意向で日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911-1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。 札幌農学校に教授として勤めるかたわら、妻メアリーと共に遠友夜学校を1894年に設立し、恵まれない境遇の子供たちに無償で授業を行った。この学校は、宮部金吾、有島武郎、半沢洵といった札幌農学校(のちに北海道帝国大学)の教員や学生が運営や教師を務め、半世紀にわたり続いた。新渡戸は初代校長を務めた。 アメリカから来日した宣教師サラ・クララ・スミスが女子教育を志して札幌に女学校を設立すると(1887年)、新戸部は札幌農学校の同窓生でキリスト教徒としても知られる佐藤昌介や大島正健、宮部金吾らと共にこれに協力した。新渡戸は教師として英文学を教えた。当初スミス女学校と呼ばれた学校に新渡戸は北星女学校の名を提案して採用され(1894年)、現在の北星学園へとつながっている。北海道庁から貸与されていた校舎の期限切れに際し、校舎購入に新渡戸が尽力したとされる。 1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。 1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。 エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかしフランスの反対に遭って実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。 1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(現新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。 1932年(昭和7年)、第一次上海事変勃発直後の2月4日に、講演のため訪れた愛媛県松山市で地元新聞記者を前にオフレコで語った 「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」 「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」 との発言が新聞紙上に取り上げられた。当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々を送った。 翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。10月15日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となった。享年72(満71歳没)。墓所は多磨霊園。 右翼や皇室研究者からの批判
『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)は、明治天皇へのキリスト教徒の不敬を弾劾した井上哲次郎や『君が代』と『古事記』を英訳したバジル・ホール・チェンバレンなどから内容を激しく批判された。同著の日本版が刊行された直後にも「古(いにしえ)からの史実を全く無視した、キリスト教徒の考えた自分勝手な思想である」「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」との指摘が、「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」を持論とした津田左右吉らによってなされている。 キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。 非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ『偉人群像』には、伊藤博文や桂太郎、乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。 エリザ・シドモアら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。 1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(英語版)(日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。メアリーは、夫の死から5年後の1938年9月23日、心臓病のため、療養していた軽井沢の別荘で82歳(満81歳没)で死去した。 祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩領の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。顕彰のため第二次世界大戦後、十和田市立新渡戸記念館が開設された。 このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曽祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。 また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している。 生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。 1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。 1862年(文久2年) 盛岡藩で当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。 1871年(明治4年) 兄の道郎とともに上京。叔父の太田時敏の養子となる。 1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。 1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。 1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。 1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。 1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。 1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。 1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。 1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。 1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。 1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。 1899年(明治32年) 日本初の農学博士を佐藤昌介ら7名と共に授与される。 1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。 1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。 1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。 1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。 1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。 1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。 1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任 1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。 1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。 1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。 1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。 1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。12月7日、貴族院勅選議員に任命(-1933年10月16日)。 1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。 1928年(昭和3年) 早稲田大学で連続講演を行う(「内観外望」(1933年)、「西洋の事情と思想」(1934年)に講演内容収録)。 1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。 1931年(昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。 1932年(昭和7年) 松山事件。 1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。 1891年(明治24年)12月21日 - 従七位 1896年(明治29年)9月10日 - 従六位 1898年(明治31年)9月30日 - 正六位 1904年(明治37年)5月30日 - 従五位 1906年(明治39年)11月20日 - 正五位 1911年(明治44年)12月20日 - 従四位 1927年(昭和2年)2月5日 - 正三位 1903年(明治36年)12月26日 - 勲六等瑞宝章 1908年(明治41年)12月25日 - 勲四等瑞宝章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1933年(昭和8年)10月16日 - 勲一等瑞宝章 青森県十和田市には「新渡戸記念館」(かつては市営)が、岩手県花巻市には「花巻新渡戸記念館」がある。 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫。 岩手県盛岡市与の字橋(盛岡市役所裏)に、「新渡戸稲造胸像」が建立されている。1976年、当時の千田正岩手県知事、工藤巌盛岡市長らが発起人となった募金活動により設置された。作者は、「アリスの家」のある鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えていた高田博厚。 長野県軽井沢にあった洋館別荘跡地の面する通りは「新渡戸通り」と呼ばれている。駐日米国大使のエドガー・バンクロフトは、静養先であったこの別荘で1925年に死去した。またこの別荘にはチャールズ・リンドバーグも訪れており、その折に偶然同じく来日して軽井沢に滞在していたイサム・ノグチと別荘の庭で言葉を交わしている。なおメアリー夫人は新渡戸の死去後この別荘で死去している。 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている。 新渡戸稲造を縁に盛岡市とビクトリア市は姉妹都市を結ぶ、1995年に姉妹都市提携10周年を記念して、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像(朝倉文夫作)から与の字橋の「新渡戸稲造胸像」(高田博厚作)までの中津川右岸沿いの道路が、ビクトリアロードと名付けられた。 カナダ・バンクーバーの名門ブリティッシュコロンビア大学(UBC)構内に「新渡戸稲造紀念日本庭園」がある。 カナダ・ビクトリア市(ブリティッシュコロンビア州・州都)のロイヤル・ジュビリー病院の旧ロータリーに「新渡戸稲造終焉の地」を記念した石碑があり、新病棟中庭が「新渡戸ガーデン」と命名されている。また、同市のカナダ横断ハイウェイ出発点(マイル・ゼロ)の東方約100メートル付近、フアンデフーカ海峡を挟んで対岸の米国オリンピック山脈(ワシントン州)を見渡す絶景地に新渡戸の名言「われ太平洋の橋とならん」を刻んだ記念碑がある。 『ウィリアム・ペン傳(上・下)』北海道、1894年。 『農業本論』裳華房、1898年(明治31年)9月。https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40060854。 Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company Bushido: the soul of Japan (Revised and enlarged 13th Eiton, 1908) - プロジェクト・グーテンベルク Bushido: The Soul of Japan. Inazo Nitobe. Kodansha International. (2002). ISBN 978-4-7700-2731-3
『武士道』矢内原忠雄訳(第91刷改版)、岩波書店〈岩波文庫 青118-1〉、2007年(平成19年)4月(原著1938年(昭和13年)10月)。ISBN 4-00-331181-7。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/7/3311810.html。 ハルキ文庫、2014年10月 『武士道』矢内原忠雄訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫 35〉、1991年(平成3年)6月。ISBN 4-00-007035-5。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0070350.html。 『武士道 現代語で読む最高の名著』奈良本辰也訳・解説、三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1993年(平成5年)2月。ISBN 4-8379-0563-3。http://www.mikasashobo.co.jp/book/ISBN4-8379-0563-3/?select=title&search=%C9%F0%BB%CE%C6%BB。 新装単行判、2013年9月 『いま、拠って立つべき日本の精神 武士道』岬龍一郎訳、PHP文庫、2005年8月(原著2003年9月)。ISBN 4-569-66427-X。 『武士道 現代語訳』、山本博文訳・解説、筑摩書房〈ちくま新書〉、2010年(平成22年)8月 『新訳武士道 ビギナーズ日本の思想』、大久保喬樹訳、角川ソフィア文庫、2015年(平成27年)5月 『随想録』丁未出版社、1907年(明治40年)8月。https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=41017389。
『修養』実業之日本社、1911年(明治44年)9月。https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40002278。
『修養』角川ソフィア文庫、2017年(平成29年)6月 『人生雑感』國井通太郎 編、警醒社書店、1915年(大正4年)2月。https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43045506。
『自警』実業之日本社、1916年(大正5年)10月
『東西相触れて』実業之日本社、1928年(昭和3年)10月。https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=47011088。
『西洋の事情と思想』講談社学術文庫、1984年(昭和59年) 『新渡戸稲造論集』鈴木範久編、岩波文庫、2007年(平成19年) 『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年(平成27年) 『武士道的一日一言』山本史郎解釈、朝日文庫、2021年(令和3年) 『新渡戸稲造全集』(全23巻・別巻2)、教文館、1987年完結 『明治大正農政経済名著集7 新渡戸稲造 農業本論』近藤康男編、農山漁村文化協会、1982年 『明治文学全集 88 明治宗教文学集(二)』武田清子編、筑摩書房、1975年 - 新渡戸稲造篇に、櫻井鴎村訳『武士道』、『教育の目的』、『青年修養法より』を収録。 『ABCびき日本辞典』井上哲次郎、服部宇之吉などとの共編、三省堂、1917年(大正6年)。 ^ 新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(現在の青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ) ^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた ^ 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 李登輝 小学館、2003年 ^ 鈴木満『異国でこころを病んだとき』弘文堂、2012年1月30日、211頁。ISBN 978-4-335-65152-6。https://www.koubundou.co.jp/book/b156053.html。 ^ 松隈俊子『新渡戸稲造』みすず書房、2010年12月20日(原著1969年)、204頁。ISBN 978-4-622-06226-4。https://www.msz.co.jp/book/detail/06226/。 ^ 越澤明『後藤新平――大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月7日、102-107頁。ISBN 978-4-480-06639-8。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066398/。 ^ 産業春秋『日刊工業新聞』2018年9月18日(1面)2019年2月27日閲覧。 ^ 手塚竜麿 (1979). “北海道におけるプロテスタント系女子学校の成立”. 英学史研究 1980: 1. https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1980.1. ^ “北星学園”. 2024年4月18日閲覧。 ^ 新渡戸稲造「松山市講演録」1932(昭和7)年2月 ^ 『明治三十四年陸軍中央幼年学校講演記録』より「近頃新渡戸稲造と云ふ人が武士道といふ書物を英文で書き~」 ^ アレクサンダー・ベネット『近代国家日本が創り出した武士道』(関西大学 准教授、2010年10月) ^ 菅野覚明「武士道の逆襲」(講談社・日本放送協会ほか、2004年) ^ 「新渡戸稲造」(北海道新聞社、1985年)255頁 ^ 長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」『昆蟲』 35(3号補遺), 1-"98-4" ^ 盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市」。 ^ 山本美穂子「1898年「学位令」下における北大教官・卒業生の学位取得」『北海道大学大学文書館年報』第10巻、北海道大学大学文書館、2015年3月、1-24頁、CRID 1050001202675083008、hdl:2115/59208、ISSN 18809421、2024年4月15日閲覧。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、36頁。 ^ 『官報』第2047号、昭和8年10月26日。『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、43頁。 ^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。 ^ 『官報』第3963号「叙任及辞令」1896年9月11日。 ^ 『官報』第4578号、「叙任及辞令」1898年10月1日。 ^ 『官報』第6273号「叙任及辞令」1904年5月31日。 ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。 ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。 ^ 『官報』第32号「叙任及辞令」1927年2月9日。 ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。 ^ 『官報』第7652号「叙任及辞令」1908年12月26日。 ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第2045号「叙任及辞令」1933年10月24日。 ^ 新渡戸記念館(2019年2月27日閲覧)。 ^ 「桃の節句彩る人形 花巻新渡戸記念館で展示」『岩手日報』(2019年2月17日)2019年2月27日閲覧。 ^ “中津川に温かい目”. 岩手日報. (1976年11月4日) ^ 『美の祝祭』杜陵高速印刷、2009年8月1日、158頁。 ^ 竜門社 編『渋沢栄一伝記資料 第38巻 (社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 第9)』(渋沢栄一伝記資料刊行会, 1961年), 329頁に所収 ^ 新潮 45, 第20巻、第7~8号(新潮社、2001)145頁 ^ Masayo Duus, The Life of Isamu Noguchi: Journey Without Borders, p.133, Princeton University Press, 2006. ^ 聖路加看護大学施設ガイド ^ “生誕の地とこの像(新渡戸稲造胸像)を結ぶビクトリアロード”. 盛岡商工会議所(盛岡まちなみスポット). 2022年2月26日閲覧。 草原克豪『新渡戸稲造1862-1933 我、太平洋の橋とならん』藤原書店、2012年7月。ISBN 978-4-86578-301-8。http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865783018.html。 生誕150年記念出版。新版2021年2月 遠友夜学校 平成遠友夜学校 拓殖大学の人物一覧 - 学監に就任。後に名誉教授。拓殖大学においては重要な設立協力者とされている。 千葉氏 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生 新渡戸記念庭園 普連土女学校 - 新渡戸と内村鑑三の提言により設立された。 札幌丘珠事件 - 事件で射殺されたヒグマの解剖に携わる。 野球害毒論 - 新渡戸は野球を「巾着切りの遊戯」と非難していた。 武道 横山壮次郎 - 台湾時代の部下 3年B組金八先生 - 金八の台詞「人という字は人と人が支えあってできている。」は新渡戸の発言がモデルになっている。 『手巾 (小説)』(芥川龍之介) / 『母』学生時代 (小説) (久米正雄) - 両者の一高在学中の校長である新渡戸をモデルとした作品
盛岡市先人記念館 十和田市立新渡戸記念館 花巻新渡戸記念館 奥州市立後藤新平記念館 新渡戸稲造 新渡戸稲造の世界 新渡戸 稲造:作家別作品リスト - 青空文庫 新渡戸稲造|近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 新渡戸稲造の作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク 「農学」(1877-1878)講義ノート 新渡戸記念中野総合病院(東京医療生活協同組合の創立者で初代理事長) 「遠友夜学校の遺産はどう継承されたか―新渡戸稲造の夢を未来へつなぐ年譜―」公式サイト(遠友夜学校研究者|白佐俊憲) ドキュメンタリー映画「新渡戸の夢」(監督|野澤和之) 遠友学舎 ‐ 北海道大学 表 話 編 歴 法理文三学部綜理 加藤弘之 1877-1881 医学部綜理 池田謙斎 1877-1881 加藤弘之 1881-1886 事務取扱 外山正一 1886 事務取扱 外山正一 1886 初代 渡辺洪基 1886-1890 第2代 加藤弘之 1890-1893 第3代 浜尾新 1893-1897 第3代 浜尾新 1897 第4代 外山正一 1897-1898 第5代 菊池大麓 1898-1901 第6代 山川健次郎 1901-1905 第7代 松井直吉 1905 第8代 浜尾新 1905-1912 事務取扱 桜井錠二 1912 第9代 山川健次郎 1913-1920 第10代 古在由直 1920-1928 第11代 小野塚喜平次 1928-1934 第12代 長与又郎 1934-1938 事務取扱 佐藤寛次 1938 第13代 平賀譲 1938-1943 事務取扱 寺沢寛一 1943 第14代 内田祥三 1943-1945 第15代 南原繁 1945-1947 第15代 南原繁 1947-1951 第16代 矢内原忠雄 1951-1957 第17代 茅誠司 1957-1963 第18代 大河内一男 1963-1968 事務取扱/第19代 加藤一郎 1968-1969/1969-1973 第20代 林健太郎 1973-1977 第21代 向坊隆 1977-1981 第22代 平野龍一 1981-1985 第23代 森亘 1985-1989 第24代 有馬朗人 1989-1993 第25代 吉川弘之 1993-1997 第26代 蓮實重彦 1997-2001 第27代 佐々木毅 2001-2005 第28代 小宮山宏 2005-2009 第29代 濱田純一 2009-2015 第30代 五神真 2015-2021 第31代 藤井輝夫 2021- 辻新次 1872 辻新次 1872 柳本直太郎 1872 副長 伴正順 1872-1873 学長/校長 伴正順 1873/1873 畠山義成 1873-1874 畠山義成 1874-1876 校長補 浜尾新 1875-1877 綜理 加藤弘之 1877 学長 長谷川泰 1872 学長/校長 相良知安 1872-1873/1873-1874 相良知安 1874 長与専斎 1874-1877 池田謙斎 1877 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877 学校課長 青山貞 1877-1879 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886 心得 加太邦憲 1884-1885 山尾庸三 1871-1872 権頭/頭 大鳥圭介 1875/1875-1877 大鳥圭介 1877-1882 大鳥圭介 1882 副長 竹田春風 1882-1886 関沢明清 1877-1882 関沢明清 1882-1885 岩山敬義 1885-1886 前田献吉 1886 松野礀 1881-1886 前田献吉 1886-1889 高橋是清 1889 前田正名 1889-1890 肥田昭作 1874-1876 服部一三 1876-1877 主幹 服部一三 1877-1879 主幹 浜尾新 1877-1880 主幹/予備門長 服部一三 1880-1881/1881-1882 杉浦重剛 1882-1885 事務取扱 小林小太郎 1885 心得/予備門長 野村彦四郎 1885-1886/1886 野村彦四郎 1886-1887 古荘嘉門 1887-1889 木下広次 1889-1893 嘉納治五郎 1893 心得 久原躬弦 1893-1894 心得/校長 久原躬弦 1894/1894-1898 澤柳政太郎 1898 狩野亨吉 1898-1906 事務取扱/校長 今村有隣 1906/1906 新渡戸稲造 1906-1913 瀬戸虎記 1913-1919 事務取扱/校長 菊池寿人 1919/1919-1924 杉敏介 1924-1929 森巻吉 1929-1937 橋田邦彦 1937-1940 事務取扱 佐久節 1940 安倍能成 1940-1946 事務取扱 日高第四郎 1946 天野貞祐 1946-1948 麻生磯次 1948-1949 矢内原忠雄 1949-1950 湯原元一 1921-1927 塚原政次 1927-1934 近沢道元 1934-1940 藤原正 1940-1945 峰尾都治 1945-1949 矢内原忠雄 1949-1950 高木貞二 1950-1951 塩谷不二雄 1939-1943 事務取扱/主事 颯田琴次 1943/1943-1944 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947 事務取扱 颯田琴次 1947-1952 カテゴリ メディア 東京大学 東京大学 源流・前身諸機関 人物 表 話 編 歴 W・S・クラーク · M・C・ハリス · 大島正健 · 佐藤昌介 · 伊藤一隆 · 内村鑑三 · 新渡戸稲造 · 森本厚吉 · 宮部金吾 · 広井勇 札幌農学校 · 札幌独立教会 · 無教会主義 · 横浜バンド · 熊本バンド 横浜バンド(1872) · 熊本バンド(1876) · 札幌バンド(1876) 静岡バンド(1876) · 弘前バンド(1876) · 阪神バンド(1870) · 松江バンド(1891) FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー スペイン フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イタリア イスラエル アメリカ ラトビア 日本 チェコ オーストラリア ギリシャ 韓国 クロアチア オランダ ポーランド ポルトガル バチカン CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
SNAC IdRef 新渡戸稲造 上士階層出身の明治期の著名人 19世紀日本のノンフィクション作家 20世紀日本のノンフィクション作家 19世紀日本の評論家 20世紀日本の評論家 19世紀日本の随筆家 20世紀日本の随筆家 19世紀日本の教育者 20世紀日本の教育者 19世紀日本のエスペランティスト 20世紀日本のエスペランティスト 19世紀のクエーカー 20世紀のクエーカー 19世紀のプロテスタント信者 20世紀のプロテスタント信者 植民政策学者 日本の文明評論家 日本出身の英語著作家 日本のキリスト教平和主義者 日本の辞典編纂者 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 昭和時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 新渡戸文化短期大学の教員 戦前日本の外交官 国際連盟の人物 東京女子大学学長 拓殖大学の教員 東京女子大学の教員 東京大学の教員 京都大学の教員 台湾総督府の人物 札幌農学校の教員 札幌農学校出身の人物 東邦協会の人物 中央報徳会の人物 黎明会の人物 南洋協会の人物 日本のアジア研究史の人物 報徳思想の人物 日本の紙幣の人物 生活協同組合の人物 札幌バンド 日本のプロテスタントの信者 日本のメソジスト派信者 日本のクエーカー クエーカーへの改宗者 帝国学士院会員 正三位受位者 勲一等瑞宝章受章者 勲四等瑞宝章受章者 勲六等瑞宝章受章者 新渡戸家 幕末盛岡藩の人物 岩手県出身の人物 1862年生 1933年没 多磨霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 プロジェクト・グーテンベルクのリンクがある記事 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 LNB識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLG識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NSK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 PortugalA識別子が指定されている記事 VcBA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/20 05:35更新
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nitobe inazou
新渡戸稲造と同じ誕生日9月1日生まれ、同じ岩手出身の人
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