川石酒造之助の情報(かわいしみきのすけ) 柔道 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
川石 酒造之助さんについて調べます
■名前・氏名 |
川石酒造之助と関係のある人
粟津正蔵: 1950年に神戸港を出港し約1月の航海を経てマルセイユに到着、川石酒造之助や当時のフランス柔道連盟会長であるポール・ボネモリらの歓迎を受けた。 粟津正蔵: また、この頃には“フランス柔道生みの親”と知られる川石酒造之助と偶然知り合い、その後、栗原民雄の知遇を得てフランスに渡り川石の助手として柔道の普及・振興に尽力することとなった。 曽根康治: 同年11月の第2回世界選手権の日本代表に選抜されると、大会では“黒い巨人”ことジョージ・ハリス(米)や川石酒造之助の直弟子に当たる名手ベルナール・パリゼ(仏)らを退け、明治の先輩後輩対決となった決勝戦では神永昭夫を試合時間一杯の20分の激闘の末に判定でこれを破り、選手権を獲得した。 道上伯: 講道館は戦後、石黒敬七や川石酒造之助らのように講道館の斡旋や推薦を受けず海外で柔道指導を行った高段者に対して冷遇措置を執っている。 道上伯: また川石酒造之助は渡仏当時四段位であり、1951年に講道館長が訪れた時に一段飛ばして六段に特別昇段するも、その後館長と仲違いして六段のまま亡くなっている。 |
川石酒造之助の情報まとめ
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ)さんの誕生日は1899年8月13日です。兵庫出身の柔道のようです。
卒業、離婚、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1969年に亡くなられているようです。
川石酒造之助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 1899年8月13日:造り酒屋の家の五男として生まれる。兄は灘菊酒造創業者の川石酒造作。 1918年2月:大日本武徳会初段となる。 1919年:旧制姫路中学(のちの兵庫県立姫路西高等学校)卒業。 1921年1月:講道館初段となる。 1924年:早稲田大学政治経済学部を卒業。東京市役所財務課勤務。 1926年:工兵隊を除隊。 1927年:アメリカのコロンビア大学に留学。 1931年:オックスフォード大学で小泉軍治らとともに指導にあたる。1935年には、同大学のモリス・オーウェン氏に黒帯を伝授した。 1935年:パリでユダヤ人の親睦クラブで無料で柔道の指導を始める。同年、同親睦クラブの施設内で日仏柔術倶楽部を創立する。この後、日本語による技名ではなく外国人への教授法を新たに作り、川石メソッドとして紹介した。 1936年:7月28日、日仏柔術倶楽部に門下生一号モリス・コトロが入門。9月、イギリス国籍でユダヤ人の物理学者モーシェ・フェルデンクライスがフランス柔術クラブを設立。川石とフェルデンクライスは互いのクラブで指導し、交流していた。 1939年:2月10日、フェルデンクライスに初段を授与。フェルデンクライスはフランス柔道、最初の柔道有段者となる。4月20日、コトロに初段を授与。彼はフランス人初の有段者となる。第二次世界大戦がはじまると間もなくフェルデンクライスが兵役でイギリスに帰国。兵役や疎開で閑散としていた日仏柔術倶楽部を閉鎖し、川石酒造之介はフランス柔術クラブを引き継ぎ、技術指導の座に就いた。 1940年、ナチス・ドイツによってパリ占領。 1944年、パリの日本大使館が連合国軍のパリ入城を見込み、在仏日本人に避難命令。川石は日本にいるとき新渡戸稲造のところで働いていた恋人の柴田サメと入籍し、彼女を連れナチス・ドイツベルリンへ脱出。ベルリンのマールスドルフに。 1945年、ナチス・ドイツが無条件降伏。ソ連軍がマールスドルフに。川石はモスクワに送還。満州経由で日本に帰国することに。6月9日、満州新京着。サメが体をこわしたので新京にしばらくとどまることに。8月、ソ連軍が満州侵攻。日本が無条件降伏。満州国崩壊。 1946年:川石が旧満州に滞在中にフランス柔道柔術連盟(のちのフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟。通称フランス柔道連盟。)設立。9月、川石は帰国し姫路に帰郷。柔道七段に。サメはなじめず離婚。 1948年:川石はフランス柔道連盟会長のポール・ボネモリに、連合国軍占領下の日本で出国ができないのでフランス政府にはたらきかけてフランスに入国できるようにしてほしい、川石がパリに戻るまで柔道国際組織を作らないで欲しい旨の書簡を送る。この書簡を受け、フランス柔道連盟は同年結成されたヨーロッパ柔道連盟には加盟しないことに。11月、川石はパリに。フランス柔道連盟の技術指導に就任。 1950年:川石は女子トーナメント大会を開催。助手として粟津正蔵を迎える。フランス柔道連盟がヨーロッパ柔道連盟に加盟。 1951年:書籍『川石メソッド』 (Ma méthode de judo) を出版。 1951年:安部一郎(のちの十段、講道館参与)が講道館から派遣されてトゥールーズの修道館で指導を始める。 1954年:フランス講道館柔道連盟が設立され、川石は対立する。この頃、多数の組織が乱立したため柔道界は分裂の様相を呈していた。 1956年:フランス政府の介入により柔道の国内競技連盟がフランス柔道連盟に一本化される。フランス柔道連盟の技術指導の地位がなくなり技術顧問に。11月に木村政彦の訪問を受け、柔道家でもあるフランス人のプロレスプロモーターを紹介する。 1961年:フランス柔道連盟の技術顧問を辞任。川石道場は連盟に登録しなかったので次第に公的な場からは離れていき晩年は寂しいものであったが、川石は「フランス柔道の父」としての評価を得ている。
脚注注釈
^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「片背負」としている ^ 右手で受の左襟を持ち、左腕で受の左腕を抱えての一本背負投 ^ おんぶ ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「背負挙」としている ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「腕技」としている ^ 前方からの手車 ^ 帯を持たずに帯付近の胴を抱える帯落 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「挙巴」としている ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「外巻込」としている ^ インサイドガードポジションから抑える ^ かしらがため ^ 崩枕袈裟固 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「裏横四方固」としている ^ 縦三角絞からの崩上四方固 ^ 両脚を逆に組んだ三角絞併用縦四方固 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「裏絞」としている。 ^ パーム・トゥ・パームによるリア・ネイキッド・チョーク。 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「裏胴絞」としている。背後から両脚で相手の胴を挟みながらのパーム・トゥ・パームによるリア・ネイキッド・チョーク ^ フィギュア4によるリア・ネイキッド・チョーク。 ^ 背後から両脚で相手の胴を挟みながらのフィギュア4によるリア・ネイキッド・チョーク。 ^ ベーシックギロチン ^ クローズドガードポジションからのベーシックギロチン ^ クローズドガードポジションから ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「突入絞」としている ^ 片脚担ぎからの片手絞に似た形態 ^ 片手巻。受の後頭部を脚裏で抑えながらの片手絞 ^ 両腕を片羽絞の様に使った地獄絞 ^ ならびじゅうじじめ ^ ペイパーカッターチョーク ^ 後十字絞 ^ 脚を使った片手絞。 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「上四方足車」としている ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「逆送絞」としている ^ がぶりからの片羽絞 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「腕固」としている ^ 仰向けの受の横の距姿(きょし)から ^ V1アームロック ^ 仰向けの受への縦四方固の距姿(きょし)から ^ かみうでひしぎじゅうじがため ^ 縦四方固からの十字固 ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「上膝挫」としている。 ^ ガードポジションから ^ 裏十字固 ^ 松葉搦みからの腕挫三角固 ^ 受の両手首を両腋に挟んで両手を組み両膝での腕挫膝固。ダブル・アームバー。 ^ 亀姿勢の受の横の距姿(きょし)から ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「足固」としている ^ 亀返し十字固 ^ いろいろな姿勢から ^ スカーフ・ホールド・アーム・バー ^ 胸固からV1アームロックへの連絡 ^ 受と正対した立ち姿勢から ^ 足詰、ダブル・レッグ・ロック ^ レッグ・スタンプ ^ 縦四方固からの両脚による両膝捻り ^ 逆蟹挟で受を前方に倒してからのカーフスライサー ^ 蟹挟の様に飛びつき逆回転して相手を前方に倒してからのカーフスライサー ^ 左右の脚を逆に組んだエレクトリック・チェア ^ ダブル・アンクル・ロック ^ 書籍『柔道の国際化《その歴史と課題》』では「首固」としている ^ 縦四方固からの両手によるネッククランク ^ 帯を持ったフロント・ネックチャンスリー ^ クローズドガードポジションからの帯を持ったフロント・ネックチャンスリー ^ クローズドガードポジションからのフロント・ネックチャンスリー ^ プロレスのエビ固めからのネックロック ^ 袈裟固からのネックロック ^ 真柄浩「川石酒造之助について―生いたちと欧州柔道界に与えた影響―」『武道学研究』第10巻第2号、1977年、89-91頁、doi:10.11214/budo1968.10.2_89。 ^ 嘉納行光、川村禎三、中村良三、醍醐敏郎、竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本 東京(原著1999年11月21日)。ISBN 4871522059。「フランス柔道連盟」 ^ 吉田 2004, p. 214 ^ Oxford Judo ^ 吉田 2004, pp. 46–49 ^ 吉田 2004, p. 68 ^ 吉田 2004, p. 71 ^ 吉田 2004, pp. 88–92. ^ 吉田 2004, p. 93. ^ 吉田 2004, pp. 93–95. ^ 吉田 2004, pp. 107–115. ^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、日本、2011年9月30日、596頁。 ^ 村田 2011, pp. 193–195. ^ “第1回 クロアチアから現地レポート”. 東京都柔道連盟. 2024年7月11日閲覧。 ^ 鹿屋体育大学 国際武道シンポジウム事務局. “プログラム 鹿屋体育大学 国際武道シンポジウム”. 鹿屋体育大学. 2024年9月21日閲覧。 ^ 濱田初幸. “フランス柔道と武道理念に関連する研究” (pdf). p. 115. 2024年9月21日閲覧。 ^ KAWAISHI 1955b, p. 83, 「TE-WAZA」. ^ KAWAISHI 1955b, p. 210, 「UDE-KWANSETSU-WAZA」. ^ KAWAISHI 1955b, p. 260, 「ASHI-KWANSETSU-WAZA」. ^ KAWAISHI 1955b, p. 279, 「KUBI-KWANSETSU-WAZA」. ^ KAWAISHI 1955a. ^ KAWAISHI 1955b. ^ KAWAISHI 1955a, p. 180. Mikinosuke KAWAISHI (1955a) (英語). MY METHOD OF JUDO. W.FOULSHAM&CO.LTD. Mikinosuke KAWAISHI (1955b). Ma méthode de judo. Jean Gailhat(仏訳、イラスト). フランス: Judo international Mikinosuke KAWAISHI. MY METHOD OF SELF-DEFENCE. W.FOULSHAM&CO.LTD. 白井智子「フランス柔道の創始者・川石酒造之助─科学的手法と日仏の人脈─」、日本仏学史学会。 白井智子「同郷の朋、阿部知二と川石身酒造之助─知二が見た1950年代のパリ─」、姫路獨協大学。 白井智子「阿部知二とフランス柔道の父・川石酒造之助の交友─パリと姫路をめぐって─」、阿部知二研究会。 吉田郁子『世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父 川石酒造之助伝』駿河台出版社、2004年12月15日。ISBN 4-411-00358-9。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。 ISNI VIAF スペイン アメリカ 日本 オランダ IdRef 日本の男子柔道家 日本の柔道指導者 兵庫県立姫路西高等学校出身の人物 早稲田大学出身の人物 コロンビア大学出身の人物 在フランス日本人 兵庫県出身の人物 1899年生 1969年没 書きかけの節のある項目 2024/11/23 08:47更新
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