曽根康治の情報(そねこうじ) 柔道 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
曽根 康治さんについて調べます
■名前・氏名 |
曽根康治と関係のある人
夏井昇吉: 翌1957年の全日本選手権大会でもその勢いは衰えず、準決勝戦で山舗公義6段を、決勝戦では曽根康治5段を下して全日本初制覇を成し遂げる。 アントン=ヘーシンク: 1956年に東京都で開かれた第1回世界柔道選手権大会では、準決勝で吉松義彦に内股で一本負けを喫して3位、2年後1958年の第2回大会では準々決勝で山舗公義に内股返で一本負けしベスト8に終わったが、1961年の第3回大会では準決勝で古賀武、決勝では前大会覇者の曽根康治を袈裟固で破り、外国人選手では初 となる優勝を果たした。 神永昭夫: 柔道の専門である講道館や警視庁…、しかし神永は明大の先輩である曽根康治を慕っており、曽根に富士製鐵(現・日本製鉄)を薦められ、渡りに船とばかりに就職する。 夏井昇吉: ^ 最後の全日本選手権大会決勝戦でも曽根康治5段の強烈な技を防ぎ切り、最後は判定でこれを降している。 神永昭夫: 1968年、曽根康治の後を継ぐ形で母校・明治大学の柔道部監督に就任。 |
曽根康治の情報まとめ
曽根 康治(そね こうじ)さんの誕生日は1928年11月14日です。埼玉出身の柔道のようです。
父親、卒業、退社、引退に関する情報もありますね。1981年に亡くなられているようです。
曽根康治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 1981年4月27日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 1958年の世界選手権で優勝。得意技は内股や大外刈など。 埼玉県大里郡寄居町出身。父親が柔道6段、叔父がのち柔道9段の曽根幸蔵、兄も有段者という柔道一家に生まれる。7歳の時に地元・寄居町にて、長谷吉重郎(講道館8段)が館主を務める明道館に入門。 県立熊谷商業高校を卒業後は明治大学に進学し、入学直後には当時まだ少なかった3段に昇段した。しかし1・2年生の頃の柔道部はGHQの圧力で武道は禁止されていたため稽古を大っぴらにはできず、“第2レスリング部”と称する柔道同好者の集いに過ぎなかった。 当時は寮も無く寄居から駿河台の校舎まで電車に2時間半揺られて通学していたが、3年生になりようやく“柔道部”が創設されて葛飾区の堀切に白雲寮ができるとそちらに移り住んだ。1952年に柔道部は姿節雄7段(のち9段)を師範、葉山三郎7段(のち8段)を監督として迎え、4年生になり身長180cm・体重90kg弱と堂々たる体格となった曽根は主将として柔道部を率いた。明大柔道部は総勢150人の部員を数えて他校を圧倒し、団体戦で全日本学生優勝大会を制したほか、曽根自身も個人戦の全日本学生選手権にて優勝を飾っている。 卒業後は富士製鐵(現・日本製鉄)に就職。広畑製鐵所勤務を経て1955年に本社に転勤してからは赤羽で妹と自炊生活を送り、それは仕事を終えて退社後に明治大学と赤羽澄水園道場とを掛け持ちで回って母校の後輩との稽古に汗を流すという忙しいものであった。この頃稽古をよく供にした神永昭夫によれば、曽根は限られた稽古時間を有効に使うため、合理的で内容を如何に充実させ集中して行うかを常に考えていたという。曽根はこの間1949年から1958年まで10年連続で国体に出場したほか、全日本東西対抗大会へも1949年から6年連続で出場、また全日本選手権では初出場の1954年大会こそ1回戦で武専出身の橋元親に敗れたものの、翌55年にベスト4、56年には準優勝し、29歳で迎えた58年大会では苦手としていた小田雄三や強豪山舗公義らを降し念願の初優勝を遂げた。同年11月の第2回世界選手権の日本代表に選抜されると、大会では“黒い巨人”ことジョージ・ハリス(米)や川石酒造之助の直弟子に当たる名手ベルナール・パリゼ(仏)らを退け、明治の先輩後輩対決となった決勝戦では神永昭夫を試合時間一杯の20分の激闘の末に判定でこれを破り、選手権を獲得した。 1961年12月の第3回世界選手権に先立ち9月3日に福岡スポーツセンターで開催された日本代表決定戦では、本命と見られていた神永と猪熊功が怪我で欠場し、2人の引き立て役として出場した曽根が勝ち進み、決勝戦で東洋大出身の山岸均を大内刈で破って優勝してしまった。全日本柔道連盟の判断によりヘーシンク(蘭)対策として、代表決定大会に欠場した神永も世界選手権へ出場する事となったが、曽根は神永・猪熊の他に若い世代が伸びてこない当時の柔道界を嘆いていたという。 世界選手権では予想通りヘーシンクが快進撃を見せ、日本代表の神永が4回戦で判定負けを喫し、古賀武も準決勝戦でヘーシンクの内股に宙を舞った。決勝戦でヘーシンクと当たった曽根も袈裟固から逃れる事ができず、試合時間7分50秒で一本負を喫し銀メダルに終わった。既に現役のピークを過ぎていた当時33歳の曽根にとっては、精一杯の健闘だった。 引退後は母校・明治大学の監督や東京オリンピック日本代表コーチなどを務め、1977年には講道館より8段を許される。 新日本製鉄釜石製鉄所にて業務部長となった曽根は、1981年3月に"鉄の軍団"こと新日鉄釜石ラグビー部の部長に就任。しかし一度も指揮する事ないまま、4月27日に脳ガイ出血のため東京都千代田区の東京警察病院にて死去した。52歳没。告別式は中野区の宝仙寺で執り行われた。 曽根を慕って明治大学-富士製鉄と同じ道を歩んだ神永は、その死に際して「稽古中は鬼のような先輩が、一旦道場を離れると心優しい社会人として後輩の心配と配慮を忘れなかった」「豪放磊落で人間的な温かみのある先輩だった」と曽根の人柄を述懐している。 1955年 全日本選手権大会3位。 1957年 全日本選手権大会準優勝。 1958年 全日本選手権大会優勝。 1958年 第2回世界選手権大会に出場。決勝で神永昭夫を破り優勝する。 1961年 第3回世界選手権大会に出場。決勝でアントン・ヘーシンクに敗れ、準優勝に終わる。 柔道(旺文社スポーツ教室)1967年 柔道:はじめて柔道を志す人のために(日本文芸社)1978年 ^ 叔父・曽根幸蔵の経営する「曽根道場」は、空手家の大山倍達が若い頃に修行した事でも有名。父親の徳治は康治が3歳の時に35歳で病死し、兄も19歳で戦死している。 ^ “元世界チャンピオンの曽根康治8段逝く。合唱”. 近代柔道(1981年6月号) (ベースボール・マガジン社). (1981年6月20日) ^ “東京ゆかりの柔道家 第2回目 -曽根康治-”. 世界柔道選手権2010(観戦ガイド) (財団法人全日本柔道連盟) ^ “名選手ものがたり17 -8段 曽根康治の巻-”. 近代柔道(1981年3月号)、58頁 (ベースボール・マガジン社). (1981年3月20日) ^ 神永昭夫 (1981年7月1日). “曽根康治八段を悼む”. 機関誌「柔道」(1981年7月号)、45頁 (財団法人講道館) ^ “全日本柔道選手権大会記録(昭和23年~平成20年)”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み- (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟). (2009年4月29日) 柔道家一覧 埼玉県出身の人物一覧 曽根康治 - JudoInside.com のプロフィール(英語) 表 話 編 歴 1956 夏井昇吉 58 曽根康治 61 アントン・ヘーシンク 65 猪熊功 67 松永満雄 69 篠巻政利 71 篠巻政利 73 二宮和弘 75 上村春樹 79 遠藤純男 81 山下泰裕 83 斉藤仁 85 正木嘉美 87 小川直也 89 小川直也 91 小川直也 93 ラファウ・クバツキ 95 ダビド・ドゥイエ 97 ラファウ・クバツキ 99 篠原信一 2001 アレクサンドル・ミハイリン 03 鈴木桂治 05 デニス・ファンデルヘースト 07 棟田康幸 08 テディ・リネール 10 上川大樹 11 アブドゥロ・タングリエフ 17 テディ・リネール 60kg級 66kg級 73kg級 81kg級 90kg級 100kg級 100kg超級 無差別級 | 五輪 表 話 編 歴 1948 松本安市 1949 木村政彦, 石川隆彦 1950 石川隆彦 1951 醍醐敏郎 1952 吉松義彦 1953 吉松義彦 1954 醍醐敏郎 1955 吉松義彦 1956 (中止) 1957 夏井昇吉 1958 曽根康治 1959 猪熊功 1960 神永昭夫 1961 神永昭夫 1962 竹内善徳 1963 猪熊功 1964 神永昭夫 1965 坂口征二 1966 松永満雄 1967 岡野功 1968 松阪猛 1969 岡野功 1970 篠巻政利 1971 岩釣兼生 1972 関根忍 1973 上村春樹 1974 佐藤宣践 1975 上村春樹 1976 遠藤純男 1977 山下泰裕 1978 山下泰裕 1979 山下泰裕 1980 山下泰裕 1981 山下泰裕 1982 山下泰裕 1983 山下泰裕 1984 山下泰裕 1985 山下泰裕 1986 正木嘉美 1987 正木嘉美 1988 斉藤仁 1989 小川直也 1990 小川直也 1991 小川直也 1992 小川直也 1993 小川直也 1994 金野潤 1995 小川直也 1996 小川直也 1997 金野潤 1998 篠原信一 1999 篠原信一 2000 篠原信一 2001 井上康生 2002 井上康生 2003 井上康生 2004 鈴木桂治 2005 鈴木桂治 2006 石井慧 2007 鈴木桂治 2008 石井慧 2009 穴井隆将 2010 高橋和彦 2011 鈴木桂治 2012 加藤博剛 2013 穴井隆将 2014 王子谷剛志 2015 原沢久喜 2016 王子谷剛志 2017 王子谷剛志 2018 原沢久喜 2019 ウルフ・アロン 2020 羽賀龍之介 2021 太田彪雅 2022 斉藤立 2023 王子谷剛志 2024 中野寛太 表 話 編 歴 51 古橋廣之進 52 石井庄八 53 山田敬蔵 54 長沢二郎 55 古川勝 56 笹原正三 57 第24回世界卓球選手権日本代表選手団 58 曾根康治 59 山中毅 60 ローマ五輪日本男子体操チーム 61 大日本紡績貝塚女子バレーボールチーム 62 三宅義信 63 田中聡子 64 遠藤幸雄 65 重松森雄 66 深津尚子 67 鈴木惠一 68 君原健二 69 第6回世界柔道選手権大会日本代表選手団 70 西側よしみ、第17回世界体操競技選手権日本代表チーム 71 中山紀子、湯木博恵 72 田口信教、ミュンヘン五輪体操日本男子選手団 73 第8回世界柔道選手権大会日本代表選手団 74 バレーボール全日本女子チーム 75 エベレスト女子登山隊 76 モントリオール五輪バレーボール日本女子チーム 77 河野満 78 山下泰裕 79 藤猪省三 80 瀬古利彦 81 釜本邦茂 82 室伏重信 83 黒岩彰 84 山下泰裕 85 正木嘉美 86 中山竹通 87 小川直也 88 鈴木大地 89 伊藤みどり 90 橋本聖子 91 谷口浩美 92 岩崎恭子 93 浅利純子 94 リレハンメル五輪日本代表複合チーム 95 田村亮子 96 恵本裕子 97 鈴木博美 98 清水宏保 99 篠原信一 00 高橋尚子 01 田村亮子 02–03 北島康介 04 野村忠宏 05 冨田洋之 06 荒川静香 07 吉田沙保里 08 北島康介 09 内村航平 10 吉田沙保里 11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団 13 内村航平 14 羽生結弦 15–16 伊調馨 17 桐生祥秀 18 羽生結弦 19 ラグビー日本代表 20–21 大野将平 22 髙木美帆 VIAF CiNii Books CiNii Research 日本の男子柔道家 日本の柔道指導者 新日本製鐵の人物 日本製鉄柔道部の人物 日本のラグビーユニオンに関する人物 明治大学出身の人物 埼玉県出身の人物 1928年生 1981年没 ウィキデータにあるJudoInside ID VIAF識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/15 02:44更新
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sone kouji
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