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神永昭夫の情報 (かみながあきお)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

神永昭夫の情報(かみながあきお) 柔道 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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神永 昭夫さんについて調べます

■名前・氏名
神永 昭夫
(読み:かみなが あきお)
■職業
柔道
■神永昭夫の誕生日・生年月日
1936年12月22日 (年齢1993年没)
子年(ねずみ年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
宮城出身

(昭和11年)1936年生まれの人の年齢早見表

神永昭夫と同じ1936年生まれの有名人・芸能人

神永昭夫と同じ12月22日生まれの有名人・芸能人

神永昭夫と同じ出身地宮城県生まれの有名人・芸能人


神永昭夫と関係のある人

小川直也: 当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した。


アントン=ヘーシンク: 1964年に開催された東京オリンピックでは、柔道の無差別級に出場し、決勝戦で日本代表の神永昭夫を9分22秒(当時、試合時間は15分だった)袈裟固一本で下して金メダルを獲得した。


上村春樹: 試合後、大会視察に来ていた明治大学柔道部監督の神永昭夫から、同大学を受けるよう勧誘された。


山下泰裕: 主審の神永昭夫は斉藤優勢としたが副審2名は山下優勢とした。


猪熊功: “目標とする柔道人”として、猪熊のライバルとして知られる神永昭夫の名を挙げていた。


猪熊功: 59年から61年の3年間は決勝戦が全て神永昭夫との顔合わせとなり、共に日本を代表する柔道家として名を馳せ“神猪時代”と呼ばれた。


曽根康治: この頃稽古をよく供にした神永昭夫によれば、曽根は限られた稽古時間を有効に使うため、合理的で内容を如何に充実させ集中して行うかを常に考えていたという。同年11月の第2回世界選手権の日本代表に選抜されると、大会では“黒い巨人”ことジョージ・ハリス(米)や川石酒造之助の直弟子に当たる名手ベルナール・パリゼ(仏)らを退け、明治の先輩後輩対決となった決勝戦では神永昭夫を試合時間一杯の20分の激闘の末に判定でこれを破り、選手権を獲得した。


道上伯: 東京オリンピックにはオランダ代表チームの一員として道上も参加していたが、ヘーシンクが決勝戦で神永昭夫を袈裟固で抑え込む30秒の間、オランダ関係者が勝利を確信し喜びの表情を見せている中にあって、一人だけ厳しい顔をして試合場を見つめる道上の写真が残されている。


中谷雄英: しかし代表になれれば金メダルは確実と言われた時代であり、当時の柔道界は「無差別こそ柔道」という雰囲気が強く、その無差別級で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れたため、あまり祝福されることはなかった。


曽根康治: 決勝で神永昭夫を破り優勝する。


上村春樹: なお、明治大学入学からオリンピック無差別級優勝までの経緯は、学生時代の師匠であり1964年東京オリンピック柔道無差別級銀メダリストの神永昭夫と上村との“師弟の絆”と題され、NHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』でも紹介されている。


志賀直哉: 柔道に一家言があったようで、1964年東京オリンピック柔道競技をテレビで観戦し、無差別級決勝で神永昭夫(富士製鐵)がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れた際には「(神永君は)体力の差で勝てそうもないように思った。


坂口征二: 柔道部で神永昭夫の指導を受ける。


神永昭夫の情報まとめ

もしもしロボ

神永 昭夫(かみなが あきお)さんの誕生日は1936年12月22日です。宮城出身の柔道のようです。

もしもしロボ

卒業、引退、兄弟、現在、家族に関する情報もありますね。1993年に亡くなられているようです。

神永昭夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年〈昭和11年〉12月22日 - 1993年〈平成5年〉3月21日)は、日本の柔道家(講道館9段)。

全日本選手権大会を3度制し、猪熊功と共に1960年初頭に“神猪時代”を築いた。柔道競技がはじめて採用された1964年の東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦でオランダのアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わった。

宮城県仙台市出身。東北高校在学中に柔道をはじめたが、恵まれた体格のため、短期間で格段の進歩を遂げる。東北高校在学3年の時、薦められて講道館で昇段試験を受け、そこで19人抜きの快挙をなして即日3段の認定を受けた。これは当時としては破格の扱いであった。 神永は3段を取得した後すぐに帰郷はせずに意気揚々と明治大学柔道部の稽古に参加、そこで同大学の柔道部員に立っていられない程軽々と投げられてしまう。明治の強さに感銘を受けた神永は明治大学への進学を決心した。

神永は寮を探すが、寮長が「うちでやる気があるか」とのストレートな問いに「やります!」と答え、寮に入れてもらうことになる。当時は食事も貧しく、麦米飯に汁をかけ、冷たくなったら食べられる代物ではなかったと云われているが、寮長を含め同じ食事で皆苦しい時代を共に分かち合う態度に神永は学ぶものが多かったと後に語っている。

明大入学後は寮(といっても、当時孤児の世話をする寮であった)生活をし、朝早くから子供たちの食事の世話をした後、大学へ通い講義を受け、また帰宅して寮の孤児たちの世話をし、すぐさま講道館の練習に通うという厳しいスケジュールを自らに課していた。練習の帰りは石焼き芋をほお張りながら寮に帰る、というエピソードが残されている。高校から柔道を始めた神永は練習の虫であった。肝心の大学の講義中は居眠りをしていたが、試験直前は持ち前の集中力で乗り切った、と本人は語っている。

明大卒業後、神永には各所から誘いがあった。柔道の専門である講道館や警視庁…、しかし神永は明大の先輩である曽根康治を慕っており、曽根に富士製鐵(現・日本製鉄)を薦められ、渡りに船とばかりに就職する。神永にとって曽根は憧れの先輩であっただけでなく、社会人としても尊敬する存在であった。当時の富士製鐵は神永によればフランクに意見の言い合えるムードがあり、かつ、それぞれが意欲的に働いているように見えていた。

逸話として柔道の東西対抗戦があり、(副将が神永、主将が曽根)(それまで20-30人の先鋒、次鋒、中堅が居る)新幹線の車内で曽根は「まさか自分に回ってこないだろうな、それまでに勝敗がついているだろうな」とひとりごちた。副将の神永は「任せて下さい。必ず自分で決着をつけます」と請合ってしまったが、実際に試合が始まってみると神永は5人抜きをしなければならなかった。先輩の曽根は既に柔道を引退して月日が経っており、先輩に恥をかかすことはできない、そう思った神永は死力を尽くして5人抜きを達成し、曽根が大将として登場することなく、東軍勝利へと導いた。この時、曽根は神永の背中が痛くなるほど叩いて喜びを表現したという。

日本代表として出場した1958年の世界選手権大会では準優勝、その後全日本選手権大会を、当時史上最多となる3度制覇(1960年,1961年,1964年)し猪熊功とともに日本柔道界のトップ選手として君臨し、“神猪時代”と呼ばれた。猪熊功と神永は私生活でも仲が良く、「神さん」「熊さん」と呼び合う間柄でゴルフなども一緒に楽しんでいた。

柔道が初めて採用された1964年の東京オリンピックで、日本中の期待を背負い無差別級で出場することとなるが直前に左膝の靭帯を断裂してしまう。10月23日の無差別級の試合当日は周囲にこの事実を隠して出場するも、決勝戦で体格ではるかに上回るオランダのアントン・ヘーシンク(神永の身長179cm・体重102kgに対し、ヘーシンクは身長196cm・体重120kg)と対戦、試合開始から8分過ぎに神永はヘーシンクに大内刈から体落を仕掛けるもヘーシンクに技を潰され、逆に袈裟固で押さえ込まれて一本負けを喫して準優勝に終わってしまった。同オリンピックでは軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功が金メダルを獲得したが、メディアからはヘーシンクに敗北を喫したことで“日本柔道の敗北”という批判が日本柔道界と神永に対し浴びせられた。

神永がヘーシンクに敗れたその夜、富士製鐵の同僚(正確には上司の佐々木)達が神永の家を訪ね酒を勧めた。神永は居留守を使うことなく部屋へ招き入れ、ただ一言「ヘーシンクは強かったです」と素直に認め、それ以上は語らず悔し涙を流すことも無かったという。その翌日、神永は何事も無かったように定時に出社し、仕事を始めていた。神永の人となりを表すエピソードとして知られている。神永は常々、柔道だけではなく社会人としても全うに生きたい、という考えを有していた。翌1965年、網膜剥離のため現役を引退した。

1968年、曽根康治の後を継ぐ形で母校・明治大学の柔道部監督に就任。初試合で失神負けをする当時無名の上村春樹に才能を見出し、4年間の学生生活で全日本学生チャンピオンにまで育て上げた。また全日本の強化コーチとしても数多の世界チャンピオンを輩出したが、全日本代表監督として参加した1972年のミュンヘンオリンピックで教え子の篠巻政利が惨敗すると明大の監督を辞任し、柔道の関係者としては一時的に離れてサラリーマン生活に入るが、実際は柔道関係者との関係は続いていた。辞任の際、教え子には一人ずつ就職先を考えて見つけ出すなど、面倒見の良さはよく知られたところである。また全日本学生柔道連盟と全日本柔道連盟との紛争を経て両連盟が統合される際には、神永の人柄が統合に大きな役目を果たした。

その後1976年のモントリオールオリンピックで神永の教え子の上村が無差別級の金メダルを獲得し、師弟二人三脚で目指したの念願の世界一の座を奪還した。なお、この柔道世界一の座を賭けた戦いの物語はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』にて紹介されている。

1988年に全日本柔道連盟の初代専務理事を任ぜられ、また上村の要請を受けて日本代表の総監督に就任してバルセロナオリンピックで吉田秀彦や古賀稔彦を金メダルに導いた。しかし神永は翌1993年3月に直腸癌のため56歳で死去。 生前の柔道界への多大な貢献を讃え、講道館より3月25日付で9段位を追贈され、日本国政府は4月30日に勲四等瑞宝章の下賜を閣議決定した。また1994年には日曜随筆社より『神永昭夫の思い出』が、翌1995年には全日本実業柔道連盟より『神永昭夫の軌跡 -ガンバレ柔道ニッポン-』がそれぞれ発刊され、国際化の波に揉まれる当時の日本柔道界を支えた神永の経歴や功績が紹介されている。

神永は明治大学OBであるため、小川直也、吉田秀彦など後輩を可愛がった。吉田については「どうだ!吉田!」という独特の迫力ある声で語りかけたという。オリンピック直前には 吉田にとっては神永が「いつもとは違って神経質なくらいに色々とアドバイスした」という。オリンピックで吉田が無事優勝したときは満面の笑みをみせた。また明治大学が学生大会で優勝した時、吉田が「選手だけでなく、部員全員で旅行を!」と神永に頼んだとき、神永は「よし!」と一言だけ応えてスポンサーを集めて本当に実現した。

しかし、明治大学でなくとも広く後進の柔道家達を可愛がり、例えば東海大学の山下泰裕にも飛行機の中で初対面にもかかわらずいきなりウイスキーを勧めたりするざっくばらんな一面も。神永はウイスキーが好きで、気に入った人物には酒を勧めるのが彼にとって最高のもてなしであった。

神永が明治大学の柔道部を辞めるとき、居酒屋で飲み、教え子一人一人に就職先を見つけて告げた。その際、教え子がトイレのスリッパをちらかすのを神永は一つ一つ綺麗に並べていた。教え子のうちの何人かは神永の行動に気がつく。神永の人となりが知られるエピソードである。神永は柔道が強ければそれが全てだ、とは考えていなかった。

同じ明大の後輩の坂口征二が一時プロレスに進み(柔道の世界からみて一種の裏切り行為と当時はされていた)また数年した後、明治大学同窓会に坂口が戻ってきた時には「おおっ!」と気さくに声をかけ、温かく受け入れたという(坂口は神永の優しさが心にしみた、と回想している)。

上村は心底から神永を慕っていた。神永が癌の末期状態で見舞った際、「これが俺の遺言だと思って聴け」という神永の言葉は 神永と上村の師弟関係の深さを示すものと思われる。神永は手取り足取り教えるタイプではなく、基本を教えるがそこから先は自分で考えなさい、というやりかたを上村に示していた。上村はその教えを理解し、自分で考えることの尊さを神永から学んだ。

教え子の一人(同じ新日鉄社員)が病を患い、人工透析を受けるようになると、その人物のことを特に心配した。「俺に葬式の幹事をやらせるなよ」という彼らしい配慮の言葉で気に掛け、出張の際には「○○は元気か」と周りの社員に訊いていたという。

仙台にいる両親・兄弟を大切にし、両親には時候の挨拶をはじめとする礼儀正しい手紙を定期的に送っていたようである。「両親から頂いた立派な体を」をはじめとする両親に感謝の意を尽くした手紙、湾岸戦争に対する憤りを表した手紙などは数多く存在する(NHKの番組で一部紹介されたが、現在兄弟が保存しているとされる)

神永は女性に対しては過度ともいえる遠慮をし、某女性国会議員との同席では、ほとんど口を利かず黙っていたという。これは神永の女性嫌いに発するものではなく、彼独特のマナーあるいは礼儀によるものではないかと推察される。

神永は妻との間に一男一女をもうけたが、多忙のため家族で遊んでいる姿はほとんど近所でも見られなかったと云われている。

1957年 - 全日本学生優勝大会 優勝

1958年 - 全日本学生優勝大会 優勝

1958年 - 世界選手権大会代表決定戦 3位

1958年 - 世界選手権大会 無差別 2位

1959年 - 全日本選手権大会 2位

1960年 - 全日本選手権大会 優勝

1961年 - 全日本選手権大会 優勝

1964年 - 全日本選手権大会 優勝

^ 神永の言葉によれば、技を掛ければ相手が飛ぶ、というくらいに力の差があったとのこと。

^ Biography and Olympic ResultsArchived 2020年4月17日, at the Wayback Machine.

^ 『柔道の国際化』村田直樹 453頁 (PDF) 財団法人 日本武道館

^ 鳥海又五郎 (1993年5月1日). “神永昭夫専務理事を偲んで”. 機関誌「柔道」(1993年5月号)、52-53頁 (財団法人講道館) 

柔道家一覧

柔道の日本人オリンピックメダリスト一覧

宮城県出身の人物一覧

明治大学の人物一覧

神永昭夫 - JudoInside.com のプロフィール(英語)

1948 松本安市

1949 木村政彦, 石川隆彦

1950 石川隆彦

1951 醍醐敏郎

1952 吉松義彦

1953 吉松義彦

1954 醍醐敏郎

1955 吉松義彦

1956 (中止)

1957 夏井昇吉

1958 曽根康治

1959 猪熊功

1960 神永昭夫

1961 神永昭夫

1962 竹内善徳

1963 猪熊功

1964 神永昭夫

1965 坂口征二

1966 松永満雄

1967 岡野功

1968 松阪猛

1969 岡野功

1970 篠巻政利

1971 岩釣兼生

1972 関根忍

1973 上村春樹

1974 佐藤宣践

1975 上村春樹

1976 遠藤純男

1977 山下泰裕

1978 山下泰裕

1979 山下泰裕

1980 山下泰裕

1981 山下泰裕

1982 山下泰裕

1983 山下泰裕

1984 山下泰裕

1985 山下泰裕

1986 正木嘉美

1987 正木嘉美

1988 斉藤仁

1989 小川直也

1990 小川直也

1991 小川直也

1992 小川直也

1993 小川直也

1994 金野潤

1995 小川直也

1996 小川直也

1997 金野潤

1998 篠原信一

1999 篠原信一

2000 篠原信一

2001 井上康生

2002 井上康生

2003 井上康生

2004 鈴木桂治

2005 鈴木桂治

2006 石井慧

2007 鈴木桂治

2008 石井慧

2009 穴井隆将

2010 高橋和彦

2011 鈴木桂治

2012 加藤博剛

2013 穴井隆将

2014 王子谷剛志

2015 原沢久喜

2016 王子谷剛志

2017 王子谷剛志

2018 原沢久喜

2019 ウルフ・アロン

2020 羽賀龍之介

2021 太田彪雅

2022 斉藤立

2023 王子谷剛志

2024 中野寛太

ISNI

VIAF

日本

日本の男子柔道家

オリンピック柔道日本代表選手

日本のオリンピック銀メダリスト

柔道のオリンピックメダリスト

勲四等瑞宝章受章者

日本製鉄柔道部の人物

新日本製鐵の人物

東北高等学校出身の人物

明治大学出身の人物

宮城県出身のスポーツ選手

仙台市出身の人物

1936年生

1993年没

大腸癌で亡くなった人物

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2024/11/19 03:59更新

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