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坂口征二の情報 (さかぐちせいじ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

坂口征二の情報(さかぐちせいじ) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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坂口 征二さんについて調べます

■名前・氏名
坂口 征二
(読み:さかぐち せいじ)
■職業
格闘家
プロレス
■坂口征二の誕生日・生年月日
1942年2月17日 (年齢82歳)
午年(うま年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和17年)1942年生まれの人の年齢早見表

坂口征二と同じ1942年生まれの有名人・芸能人

坂口征二と同じ2月17日生まれの有名人・芸能人

坂口征二と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


坂口征二と関係のある人

藤波辰爾: 以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技、引き締まった肉体と端正なマスク、そしてゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンからの支持も獲得、腰痛の悪化で低迷していたストロング小林を抜いて猪木と坂口征二に次ぐ新日本プロレスNo.3の座に就いた。


ウィレム=ルスカ: “【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。


ブルーザー=ブロディ: 新日本プロレスから永久追放された半年後の1986年8月9日、新日本プロレスはハワイ遠征(参加したのは猪木、坂口征二、藤波辰巳、木村健吾、武藤敬司)を行ったが、遠征先にはブロディも参戦していた。


木村健悟: 1973年3月、付き人を務めていた坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍。


ハルク=ホーガン: 坂口征二とのタッグチームでは、キラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた。


ストロング金剛: 新日本プロレス入団後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月5日にNWA北米タッグ王座を獲得。


木戸修: 坂口征二によると、木戸も2022年3月1日に日本武道館で行われた「新日本プロレス旗揚げ50周年セレモニー」に声を掛けたが参加しなかったという。


ストロング金剛: NWA北米タッグ王座:2回(w / 坂口征二


ストロング金剛: 1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された、新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、坂口征二とタッグを組みエキシビション・マッチに出場、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦した。


ディック=マードック: 1987年に新日本プロレスで勃発したNEWリーダー(長州力、藤波辰巳、前田日明、木村健吾、スーパー・ストロング・マシン)対NOWリーダー(アントニオ猪木、坂口征二、マサ斎藤、星野勘太郎、藤原喜明、武藤敬司)の対抗戦では、ゴングが鳴らんとする直前に猪木がマイクを持ち、「おーい出て来い」のGOサインで花道から現われ、星野に代わるNOWリーダーの助っ人として活躍した。


中谷雄英: しかし進んだ明治大学は当時、村井正芳、鳥海又五郎、坂口征二、関勝治らを揃えた黄金時代だったため、団体戦ではレギュラーに入れなかった。


坂口憲二: 「世界の荒鷲」と称された元プロレスラー・柔道家の坂口征二を父に持ち、憲二自身も柔道二段の腕前を持つなど格闘技に精通している。


アントニオ猪木: 翌14日の告別式では358人が参列し、出棺の際には田中ケロがコールを行い『炎のファイター』が流れる中、赤い闘魂タオルを首に巻いた坂口征二、藤波辰爾、棚橋弘至、オカダ・カズチカ、中邑真輔、蝶野正洋、武藤敬司、高田延彦、藤田和之、小川直也、船木誠勝、柴田勝頼らが猪木の棺を担いだ。


山本小鉄: 山本はこの勢力の中心にあり、同年8月25日の緊急役員会議で社長の猪木、副社長の坂口征二を退任させ、自身が望月和治・大塚博美と共に代表取締役に就任する。


マサ斉藤: 米良明久(ザ・グレート・カブキ)と武藤敬司が弔辞を述べ、通夜・告別式には長州力、坂口征二、天龍源一郎、木戸修、アニマル浜口、キラー・カーン、前田日明、蝶野正洋、佐々木健介・北斗晶夫妻、永田裕志、小島聡、西村修、古舘伊知郎らが参列した。


タイガー=ジェット=シン: 猪木との抗争と並行して、タッグ戦線では1977年1月より上田馬之助との極悪コンビを結成、坂口征二&ストロング小林のパワー・ファイターズを相手に北米タッグ王座を巡る抗争を展開した。


橋本真也: 1990年2月10日、『'90スーパーファイト in 闘強導夢』のメインイベントで蝶野とタッグを組み、猪木&坂口征二と対戦。


豊登道春: 1973年、坂口征二の合流でNET(現:テレビ朝日)の新日本プロレス放映が決定し、経営の見通しが立ったことに伴い勇退。


ショータ=チョチョシビリ: “【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月20日閲覧。


越中詩郎: 1985年2月、坂口征二の誘いで新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。


スコット=ホール: リーグ戦では同ブロックのアントニオ猪木とコンガ・ザ・バーバリアンに敗退するも、坂口征二と藤原喜明に引き分け、キラー・ブルックスから勝利を収めた。


ジャイアント馬場: 放送契約の関係から当初は日本テレビは馬場・坂口征二、NETは猪木という棲み分けができていたが、その後なし崩し的に坂口の出場試合がNETでも放送される様になり、さらに前出の猪木の日プロ除名以降は、NETは番組の看板選手である猪木を「日プロの内部事情」で失った事から、NET側は強硬に馬場の出場試合の放映を要求してきた。


フレッド=ブラッシー: すでにセミリタイアの状態ながら試合にも出場し、猪木や坂口征二とのシングルマッチも行われた。


木村健悟: これについて健悟は度々、「(尊敬する人物は)人間としては坂口征二


アントニオ猪木: 8月16日、坂口征二と組み、クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツから北米タッグ王座を奪取。


アントニオ猪木: 訃報を聞いて弔問に訪れた人物には古舘伊知郎、舟橋慶一、坂口征二、木戸修、ケンドー・カシン、佐々木北斗夫妻、藤田、小川、高田、長州、藤波は家族などがおり、古館は自身の弔問の様子などをYouTubeで語った。


マサ斉藤: 日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場し、同年9月から日本プロレス選手会長であった大木金太郎や日本プロレス首脳陣に極秘で「NET日本プロレスリング中継」の放映局であったNET(現・テレビ朝日)と猪木&坂口征二との間で行われていた新日本プロレス中継開始交渉にも数回出席している。


平田淳嗣: 同年6月の第5回IWGP優勝戦後、長州の「俺らが今時代を変えるんだ」という呼びかけがありNEWリーダー軍として長州・藤波・前田・木村健吾らと共闘し、アントニオ猪木・坂口征二・マサ斎藤・星野勘太郎・藤原喜明(助っ人にディック・マードック・武藤敬司)らのNOWリーダー軍と世代闘争を行なった。


キラー=コワルスキー: 1971年9月には第2回NWAタッグ・リーグ戦に参戦し、キラー・バディ・オースチンとの「キラー・コンビ」で準優勝を果たした(優勝は猪木&坂口征二)。


ブルーザー=ブロディ: 坂口征二も、新日本プロレス参戦当時のブロディについて『ブロディは、変にプライド高いんだよ。


坂口征二の情報まとめ

もしもしロボ

坂口 征二(さかぐち せいじ)さんの誕生日は1942年2月17日です。福岡出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

エピソード、獲得タイトルなどについてまとめました。卒業、兄弟、テレビ、引退、父親、事件、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。坂口征二の現在の年齢は82歳のようです。

坂口征二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー。柔道家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。

受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。

明治大学卒業後、旭化成工業(のちの旭化成)に入社し、1965年、全日本柔道選手権で優勝。その年のリオデジャネイロでの1965年世界柔道選手権大会に日本代表として出場した。東京オリンピックで失った日本柔道の威信回復のため、アントン・ヘーシンクに対しパワーや体格でも引けをとらない日本の大型強豪選手のひとりとして、松永満雄、松阪猛らとともに雪辱を期待されたが、終始ヘーシンクをパワーで圧倒した松永(銀メダル)とともに互角に戦いながらも今一歩のところまで追いつめながらの優勢負け(銅メダル)となり雪辱はかなわなかった。なお、この日本人選手との大苦戦を経ての優勝以降、ヘーシンクは世界タイトルのかかった国際試合に出てくることはなかった。10月、マドリードでのIOC総会で1972年夏季オリンピック(のちのミュンヘンオリンピック)からの柔道の再採用が決定するが、1968年メキシコシティーオリンピックでの柔道の除外が再決定。それを知り、ショックを受ける。

その翌年1966年、『柔道大事典』によると、柔道六段を取得。一方で1966年より後の他の資料では柔道五段としているものもある 。1966年全日本柔道選手権で優勝を逃したこともあり、その後に日本プロレス関係者との会見でプロレス入りを誘われたため、プロレス入りを決意する。

1967年、旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。2月17日(25歳の誕生日)に赤坂のホテルニューオータニにて入団発表を行い、同夜にハワイでの特訓に出発した。

ほどなくしてアメリカ合衆国本土への武者修行を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦して「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動。アトランタではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。

武者修行からの凱旋帰国後は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年9月には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝戦でキラー・コワルスキー&バディ・オースチンを破り優勝を果たした。その後、同年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にシークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてファンク兄弟からインターナショナル・タッグ王座を奪取。その後、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱。それ以降、大木金太郎と共に日本プロレスのエースとなった。インターナショナル・タッグ王座は一旦返上するが、12月2日に大木とのコンビでキニスキー&ブラジルを破り再び戴冠した。

同年末頃より、NET(のちのテレビ朝日)の斡旋で日本プロレスと新日本プロレスの合併を画策するが、大木ら日本プロレス選手会の反対のために果たせず、バレンタインに敗れUN王座から陥落後の1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスの救世主となり、猪木とのタッグチームは「黄金コンビ」と呼ばれた。

1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がつき、坂口は2番手として猪木をサポートする側に回るようになる。一方で猪木とは1974年4月26日に対戦したこともある。

1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座および初の世界タイトル戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦した。

1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となり、上田馬之助、クレージー・レロイ・ブラウン、タイガー・ジェット・シン、マスクド・スーパースターらと防衛戦を行った。この王座は同年9月21日にシンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座を奪取。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手に防衛を重ねた。このシングルとタッグの北米二冠も1981年4月にIWGP参戦のため返上。その後は時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジションに身を置くようになる。日本陣営に加わったハルク・ホーガンともタッグを組み、1983年2月にはキラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた。

1985年のIWGP王座決定トーナメントで藤波辰巳に敗れ、名実共に二番手の座を譲り渡した。しかし、リング上とは異なり、「偉い順番から前に乗る」と言われた巡業バスで一番前に(猪木は少し離れて二番目に)乗る姿が目撃されており、当時リングアナウンサーだった田中秀和も、出演したラジオ番組や著書でそのことを認めている。

1989年、新日本プロレスの社長に就任。その後はセミリタイアとなるが、1990年3月15日、社長業に専念するため地元の久留米にて現役を引退、かつての付き人だった木村健悟と組んでのスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー戦が引退試合となった。以降、社長として東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木が作った借金を完済した。後に藤波に社長職を譲り会長に退き、CEOを経て相談役を務めている。

1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、小林との「パワー・ファイターズ」を再結成してシン&上田とのエキシビション・マッチに出場した。

2005年10月には、自らが主宰する「坂口道場」(後に長男の征夫に禅譲)をオープンさせ、後進の指導に当たっている。

2003年には、高山善廣との遺恨が発生し、13年ぶりに限定リング復帰。9月14日に蝶野正洋と組んで高山&真壁伸也と対戦、10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合胴着姿で出場し、セコンドには次男の坂口憲二がついた。

2017年2月に現役時代からの古傷であった右肘尺骨の悪化により箸や筆が持てなくなったことから入院・手術を受けた。肘の手術自体は成功したがその際に患部に細菌が入ったことによる感染症に罹患し、更に1ヶ月入院して治療を受けた。坂口本人によると「入院中に体重が13kg減るなどしてヨレヨレになった」とのことで、次男の憲二がステッキをプレゼントしてくれたが、内心「こんなもん使えるか!」と立腹したという。

2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した。

12月15日、日本プロレスリング連盟初代会長に就任。

エピソード

プロレスラーへ転向したのは、1964年東京オリンピックで先輩がアントン・ヘーシンクに次々と倒されるのを見て「打倒ヘーシンク」を目標としていたところ、1965年に当のヘーシンクが引退してしまったため、目標を見失ったことが背景にある。本人によれば、目標を見失って柔道の稽古にも身が入らなくなっていたところにたまたま日本プロレスの関係者との会食をセッティングされ、「プロレスラーになればこんなにもおいしいものが食べられるんだ」と感動した事でプロレス転向を決意したという。

プロレス転向会見の直前である1967年2月10日、坂口は芳の里淳三社長と共に、日本プロレスリングコミッショナーである川島正次郎の元へ向かった。その際、一般紙の政治担当記者にその事が目撃されてしまい、翌日の朝刊に「柔道の坂口、プロレス転向」という記事が掲載されてしまった。その直後、坂口は日本プロレスの後援者が経営する東村山市内のホテルに身を隠すことになった他、明治大学の柔道関係者が、後楽園ホールで行われた日本プロレスの興行に「坂口を返せ!」と言わんばかりに怒鳴り込んできたという。

プロレス転向を発表後すぐに渡米しプロレスラー修行を行いデビューに至っているため、この時代のプロレスラーには珍しく、ほとんど付き人等の下積み経験がない。正確には、芳の里が坂口と柔道界との軋轢を避けるべく、ハワイ特訓の名目上でジャイアント馬場と共にハワイへ観光ビザで一旦へ向かわせた上で、ハワイ経由でロサンゼルスに入るパターンを取った。馬場のロサンゼルス入りの名目は「ブルーノ・サンマルチノとのインターナショナル・ヘビー級王座防衛戦に向けた特訓」としていたが、実際には、馬場が坂口の教育係を買って出たものであった。「基礎練習中は試合に出るわけではないので労働ビザは不要」との判断から観光ビザでアメリカに入国してトレーニングを行っていたが、1967年3月にミスター・モトから「ユー、日本へ帰りなさい」と急に言われてビザの関係で一旦帰国した。一旦帰国した理由は、練習の模様が逐一東京スポーツに掲載されていたため、「実質的に興行に出ているのと同じ」との在日アメリカ大使館の判断で、帰国し就労ビザを取り直すことになったという。

就労ビザ取得までの間、地方巡業に同行し下働きを行っていたが、その最中である1967年5月に父親が死去した。坂口は急遽巡業先である札幌市から空路久留米にある実家へ戻った。父親も坂口のプロレス転向を後押ししており、坂口は「父にプロレスラーとして活躍する姿を見せてやりたかった。だが、その夢はかなわなかった」と述べたという。同年7月に4か月を要して就労ビザを取得した上で再渡米した。英語による就労ビザ取得に関する面接の後に女性面接官は「私はあなたがプロレスの王者になることを祈っています」と笑顔で笑った上で握手した。坂口は、その事が忘れられないという。

日本プロレスは仙台市で興行を行う際、森公美子の実家である森末旅館を定宿としていた。ある時、宮城県スポーツセンターで日本プロレスの興行が行われた際、大木金太郎が当時小学生だった森を会場へ連れて行った。しかしこの時の試合で大木が救急搬送されたため、一人会場に取り残された森を、坂口が旅館まで連れ帰った。これによって坂口は森の『初恋の人』になったという。

新日本プロレス旗揚げ直後に、ある人物から新日本プロレス入りを打診されていたが、坂口は「今の自分は日プロを守ることで精一杯」という理由で一旦断っている。ジャイアント馬場の独立会見の3週間前である1972年7月5日の札幌中島スポーツセンター大会当日、馬場は札幌市内のホテルで坂口に「俺も日プロを辞めることにした。今後のことはまだ分からない。ただ俺は、日プロよりも日本テレビに恩義がある」と独立並びに新団体設立を示唆する発言を行っていた。馬場が日本プロレスを退団した同時期に、坂口も日本プロレス退団を考えていた。その際坂口は馬場に「お前は残れ」「日本プロレスを守れ」と言われた他、馬場が全日本プロレスを旗揚げした後に、馬場から全日本プロレス入団の誘いを受けたが、馬場とすでに同棲し全日本プロレスの興行に口出しをしていた馬場元子とは馬が合わなかったことがきっかけで、新日本プロレスに入団した。

1972年11月6日、坂口は挙式と新婚旅行を兼ねてハワイへ出発する事になった。航空便は夜出発であったため、出発までの間、坂口は日本プロレス道場でトレーニングを行っていた。トレーニングを終わった後に合宿所で日本航空351便ハイジャック事件テレビニュースを見ていたが、直後に東京スポーツの海外通信員から合宿所に国際電話が掛かり、東京スポーツの海外通信員は坂口に対して「犯人は日本プロレスがロサンゼルス遠征を行った際に日本プロレスの世話役をした人物じゃないか?」と息を切らしたという。坂口もテレビニュースを見て日本航空351便ハイジャック事件の犯人が、日本プロレスがロサンゼルス遠征を行った際に日本プロレスの世話役をした人物だと分かったという。ハワイから帰国後に久留米で結婚披露宴を行い、東京でも結婚披露宴を行う予定であったが、当時の日本プロレスは、給与の遅配が続き、坂口も貯金を取り崩して生活していた事から、東京での結婚披露宴は開催できずに終わった。

日本プロレス最後の試合となった1973年3月8日の佐野市民会館大会では、坂口ら新日本移籍組と大木ら日プロ残留組はシリーズ中からすでに関係が悪化していた。坂口と木村聖裔、小沢正志、大城勤の4人は日プロ残留組と別行動を取り、乗用車で会場近くのホテルへ向かい、ホテルを控室代わりに利用した。4人は試合後は直ちにホテルに戻り、着替えを済ませるとその足で新日本合宿所へと向かった。到着は深夜となったが、山本小鉄や藤波辰巳らが出迎えたという。

猪木が始めた異種格闘技戦には、元柔道日本一の肩書にもかかわらずあまり出場しなかったが、坂口本人は回想で「あの頃は自分と体格的に釣り合う格闘家があまりいなかったから」と語っている。

ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカの試合ボイコットにより、予定されていた『前田日明VSブロディ』のシングルマッチが宙に浮くと、ブロディの代役に名乗りを上げた。これにより実現したシングルマッチでは前田のキックや関節技を受け流し逆に柔道殺法を決めるなど、当時プロレス誌上で囁かれていた限界説を一蹴する熱戦を演じた。結果は坂口の反則負けとなったが、坂口のベストバウトの一つとも言われる。

ジャイアント馬場とは袂を分かった後も親交を継続していた。1990年の新日本プロレスのドーム大会では、目玉選手であったNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセルし、窮余の一策として坂口が当時新日本と対立関係にあった全日本プロレスに選手貸し出しの依頼に赴いた際、同社の馬場は「ああいいよ、おまえの社長就任祝いだ」と快諾。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンが全日本プロレスから貸し出され、新日本プロレスのリングに上がった。馬場が死去した時、猪木は(真意は不明だが)姿を消したのに対し、坂口は即座に藤波と共に駆けつけ、葬儀に参列した(その翌年に死去したジャンボ鶴田の葬儀にも、坂口と藤波は参列している)。坂口は馬場の没後、親しいプロレス誌記者に「馬場さんの手記を書かせてほしい」と語った。

2001年1月28日、東京ドームでの「ジャイアント馬場三回忌追悼&スタン・ハンセン引退セレモニー」にも来場し、恩人の追悼とかつての新日本の外国人エースの引退に花を添えた。

猪木とは対照的に人間的に実直と言われ、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあった。このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献した。坂口の元で新日本プロレスの営業部長を務めた大塚直樹(のちジャパンプロレス代表取締役社長・代表取締役副会長)は坂口を「組織人として管理能力のある人」と評している。

温厚な性格で滅多なことでは感情を表に出すことはなかったが、第1回IWGPで猪木が失神し救急車で病院に搬送されたものの、その日の内に病院から姿を消したことには「だまされた」と激怒。「人間不信」とのみ書いた紙を残し、数日間ではあるが会社を離れ、ハワイへと旅立った。

テレビ朝日(旧:NET)との付き合いも長いため同社とのパイプも強かった。実際、坂口が代表職を退いた直後にワールドプロレスリングの放送枠は縮小された。レスラーとしては猪木に及ばなかったが、社長としての能力は遥かに長けていた。坂口がフロント第一線として活躍していた時代に新日本は全盛期を迎え、第一線を退いた途端に暗黒期を迎えたと見る向きもある。

かつて付き人に橋本真也がいたが、高級ドリンク剤を勝手に飲んでしまうなど、困った付き人だったようである。だが彼の葬式では「その分、人一倍かわいいんですよ」と述べた。

レフェリーのミスター高橋が自著の中で度々「日本人では坂口さんが最強」(猪木より強い)と書いて話題となった。ただ、柔道選手時代から腰痛に悩んでいたと言われ、身体が柔軟性に欠ける面があり、プロレスラーとしての見せ場を作る技量は猪木に敵わなかった。

2005年にはホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演を果たしている。

獲得タイトル

UNヘビー級王座:2回

インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジャイアント馬場、大木金太郎)

アジアタッグ王座:4回(w / 吉村道明)

NWAタッグ・リーグ戦優勝:2回(w / アントニオ猪木、高千穂明久)

WWF北米ヘビー級王座:1回

NWF北米ヘビー級王座:1回

NWA北米タッグ王座(日本版):4回(w / アントニオ猪木、ストロング小林×2、長州力)

アジアタッグ王座(新日本プロレス版):1回(w / ストロング小林)

ワールドリーグ戦(新日本プロレス版)優勝:2回

EWU世界スーパーヘビー級王座:1回

NWAポリネシアン・パシフィック・タッグ王座:1回(w / ラーズ・アンダーソン)

2024/06/15 23:01更新

sakaguchi seiji


坂口征二と同じ誕生日2月17日生まれ、同じ福岡出身の人

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野口 恭一郎(のぐち きょういちろう)
1934年2月17日生まれの有名人 福岡出身

野口 恭一郎(のぐち きょういちろう、1934年2月17日 - 2010年10月7日)は日本の実業家。株式会社竹書房の創業者・元社長・理事長、名誉会長。福岡県出身。 1959年北九州市の八幡大学(…

清川 昭(きよかわ あきら)
1942年2月17日生まれの有名人 福岡出身

2月17日生まれwiki情報なし(2024/06/17 05:32時点)

武本 靖子(たけもと やすこ)
1970年2月17日生まれの有名人 福岡出身

2月17日生まれwiki情報なし(2024/06/15 20:01時点)

宮地 靖子(みやち やすこ)
1970年2月17日生まれの有名人 福岡出身

宮地 靖子(みやち やすこ、旧姓:武本、1970年2月17日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 福岡県飯塚市出身。福岡大学法学部卒業。 1993年4月1日、同年10月の開局を控えていた大分朝…


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坂口征二と近い名前の人

坂口 親宏(さかぐち ちかひろ)
1960年8月28日生まれの有名人 和歌山出身

坂口 親宏(さかぐち ちかひろ、1960年8月28日 - )は、日本の政治家。元和歌山県橋本市議会議員。元アナウンサー。 和歌山県橋本市出身。橋本市立橋本小学校、橋本市立橋本中央中学校、和歌山県立橋…

坂口 良子(さかぐち りょうこ)
1955年10月23日生まれの有名人 北海道出身

坂口 良子(さかぐち りょうこ、1955年〈昭和30年〉10月23日 - 2013年〈平成25年〉3月27日)は、日本の女優。北海道余市郡余市町出身。身長163cm。B82cm、W60cm、H88cm…

坂口 美奈子(さかぐち みなこ)
1965年8月12日生まれの有名人 愛知出身

坂口 美奈子(さかぐち みなこ、1965年8月12日 - )は、主に東海地方を中心に活動しているローカルタレント・ラジオパーソナリティ(現在は東京へ生活・活動拠点を移している)。 本名は非公表(坂口…

阪口 佳澄(さかぐち かすみ)
1956年11月26日生まれの有名人 出身

阪口 佳澄(さかぐち かすみ、本名:和沙 佳澄、1956年11月26日 - )は、日本の女性タレント・ラジオパーソナリティ。 以前の所属事務所は大阪テレビタレントビューロー(TTB)。 大阪市鶴…

坂口 杏里(さかぐち あんり)
1991年3月3日生まれの有名人 東京出身

坂口 杏里(さかぐち あんり、1991年(平成3年)3月3日 - )は、日本の元タレントで、元AV女優。 東京都世田谷区出身。母は女優の坂口良子。継父はプロゴルファーの尾崎健夫。現在は一般人。 1…

坂口 彩(さかぐち あや)
1984年10月29日生まれの有名人 埼玉出身

坂口 彩(さかぐち あや、1984年10月29日 - )は、日本の女優、タレント、ナレーター、司会者。埼玉県さいたま市在住。2012年さいたま観光大使。埼玉大学理学部物理学科卒業。 フリーランスの…

坂口 千夏(さかぐち ちなつ)
1976年8月7日生まれの有名人 長野出身

坂口 千夏(さかぐち ちなつ、1976年8月7日 - )は長野県上田市出身で、元青森朝日放送のフリーアナウンサー。 長野県上田高等学校、日本大学藝術学部放送学科を卒業し、青森朝日放送に入社。八波一…

坂口 拓(さかぐち たく)
1975年3月15日生まれの有名人 石川出身

坂口 拓(さかぐち たく、TAK∴ 、1975年3月15日 - )は、日本のアクション俳優、アクション監督、アクションコーディネーター、映画監督、YouTuber。石川県出身。 俳優として、主にア…

阪口 美奈子(さかぐち みなこ)
1937年6月1日生まれの有名人 東京出身

阪口 美奈子(さかぐち みなこ、1937年6月1日 - 2016年5月30日)は、日本の女優、声優。坂口 美奈子(読み同じ)名義での活動もある。劇団民藝に所属していた。東京都牛込区出身。 夫は俳優、…

阪口 あや(さかぐち あや)
1959年5月22日生まれの有名人 東京出身

阪口 あや(さかぐち あや、本名:二川 文〈ふたがわ あや、旧姓阪口〉、1959年5月22日 - )は、日本の女性声優、歌手。所属事務所は大沢事務所。東京都出身。血液型はO型。学習院大学法学部卒業。 …

坂口 芳貞(さかぐち よしさだ)
1939年10月2日生まれの有名人 東京出身

坂口 芳貞(さかぐち よしさだ、1939年10月2日 - 2020年2月13日) は、日本の俳優、演出家、声優。文学座所属。 東京府(現東京都)出身。 学習院高等科、北海道大学文学部卒業。 大…

坂口 哲夫(さかぐち てつお)
1952年10月24日生まれの有名人 大阪出身

坂口 哲夫(さかぐち てつお、1952年10月24日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。大阪府大阪市出身。青二プロダクション所属。 日本大学芸術学部演劇学科卒業。以前は劇団GAYA、劇団櫂、…

阪口 大助(さかぐち だいすけ)
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阪口 大助(さかぐち だいすけ、1973年10月11日 - )は、日本の男性声優。青二プロダクション所属。新潟県柏崎市東の輪町出身。 代表作は『創聖のアクエリオン』(ジュン・リー)、『機動戦士Vガン…

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