坂口征二の情報(さかぐちせいじ) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
坂口 征二さんについて調べます
■名前・氏名 |
坂口征二と関係のある人
ストロング金剛: NWA北米タッグ王座:2回(w / 坂口征二) アントニオ猪木: NWAタッグ・リーグ戦優勝:2回(w / 星野勘太郎、坂口征二) 平田淳嗣: 同年6月の第5回IWGP優勝戦後、長州の「俺らが今時代を変えるんだ」という呼びかけがありNEWリーダー軍として長州・藤波・前田・木村健吾らと共闘し、アントニオ猪木・坂口征二・マサ斎藤・星野勘太郎・藤原喜明(助っ人にディック・マードック・武藤敬司)らのNOWリーダー軍と世代闘争を行なった。 鈴木健想: それまでプロレスとは縁が無かったが、たまたま立ち寄ったスポーツ用品店(本人は「博報堂の1階にあったスーツの仕立て屋」と語っている)の店主を通じて坂口征二と出会う。 征矢学: 坂口道場で体を鍛え、坂口征二の推薦で無我ワールド・プロレスリング(現:ドラディション)に入門。 菊田早苗: 2015年3月24日、真夜中のハーリー&レイスに出演した際、菊田自身が、新日本プロレス道場での顛末を語っており、明大柔道つながりで坂口征二の伝手で入門したこと、教官であった馳浩にクビを宣告されたこと、そして同期入門で唯一人デビューを果たした小島を尊敬していることを明かした。 グレート小鹿: 1973年初頭には、坂口征二から新日本プロレス入りを打診されたこともある。 ルー=テーズ: 1973年10月14日、新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木&坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。 アントニオ猪木: 12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳&木村健吾と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗退。 ビル=ロビンソン: その後も永源遙、山本小鉄、星野勘太郎を下し、タッグマッチではグレッグ・バレンタインと組んで小林&坂口征二と対戦した。 山本小鉄: 山本はこの勢力の中心にあり、同年8月25日の緊急役員会議で社長の猪木、副社長の坂口征二を退任させ、自身が望月和治・大塚博美と共に代表取締役に就任する。 タイガー=ジェット=シン: 猪木との抗争と並行して、タッグ戦線では1977年1月より上田馬之助との極悪コンビを結成、坂口征二&ストロング小林のパワー・ファイターズを相手に北米タッグ王座を巡る抗争を展開した。 平田淳嗣: 1984年8月に坂口征二からの要請により帰国。坂口征二&木村健吾、タイガー戸口&ケリー・ブラウン、ディック・マードック&アドリアン・アドニスの3試合は反則負け。 アントニオ猪木: 4月26日、坂口征二と初対戦、30分1本勝負で時間切れ引き分け。 テッド=デビアス: 同王座は6月にパット・パターソンに奪われているが、これがインターコンチネンタル・ヘビー級王座と改名され現在に至っている(北米ヘビー級王座は同年11月にパターソンを破った坂口征二が第3代の王者となり、以降は新日本プロレスが管理)。 アントン=ヘーシンク: そして自身の足の怪我と、全日本王者だった坂口征二を同大会で破ったことを理由に翌日の無差別級への出場を辞退し、現役引退を表明。 大木金太郎: この頃、日本プロレスのテレビ中継を行っていたNETテレビが坂口征二を仲介役として、猪木が旗揚げした新日本プロレスとの合併を模索し(名称は「新・日本プロレス」を予定されていた)、「猪木・新日本との合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出たため合併交渉が急速に進展し、日本プロレスの選手会もグレート小鹿が窓口となりこれに同意したが、この時期に韓国に滞在していており、日本に不在であった大木が決定に反発し、日本に戻った1973年2月16日の後楽園ホール大会試合前の控室で記者たちの前で大々的に「猪木と坂口との合体は聞いていない。 アントニオ猪木: 1990年(平成2年)2月10日、坂口征二と組み、蝶野正洋&橋本真也の挑戦を受ける形で対戦、蝶野からフォール勝ち。 ブルーザー=ブロディ: 新日本プロレスから永久追放された半年後の1986年8月9日、新日本プロレスはハワイ遠征(参加したのは猪木、坂口征二、藤波辰巳、木村健吾、武藤敬司)を行ったが、遠征先にはブロディも参戦していた。 アントニオ猪木: 翌14日の告別式では358人が参列し、出棺の際には田中ケロがコールを行い『炎のファイター』が流れる中、赤い闘魂タオルを首に巻いた坂口征二、藤波辰爾、棚橋弘至、オカダ・カズチカ、中邑真輔、蝶野正洋、武藤敬司、高田延彦、藤田和之、小川直也、船木誠勝、柴田勝頼らが猪木の棺を担いだ。 橋本真也: 1990年2月10日、『'90スーパーファイト in 闘強導夢』のメインイベントで蝶野とタッグを組み、猪木&坂口征二と対戦。 藤波辰爾: 1999年に坂口征二の後を継ぎ新日本プロレス社長に就任。 ジャイアント馬場: 2月2日、自宅で密葬が行われ、全日本の各選手・スタッフ、弔問に訪れた新日本プロレス社長(当時)の坂口征二と藤波辰爾などに見送られ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。 ボボ・ブラジル: インターナショナル・タッグ王座にもパートナーを代えて度々挑んでおり、1970年1月5日には弟のハンク・ジェームスを従えて馬場&猪木のBI砲に、同年1月27日にはデール・ルイスと組んで同じくBI砲に、1972年6月8日にはボビー・ダンカンと組んで馬場&坂口征二の東京タワーズに、同年12月2日と5日にはジン・キニスキーとの強力コンビで坂口&大木組に挑戦した。 ブルーザー=ブロディ: 仙台大会当日、ブロディ&スヌーカは上野駅で仙台への移動のために東北新幹線に乗車したが、ミスター高橋が坂口征二からのメッセージを伝えた直後にブロディが激怒し、発車直前にスヌーカと一緒に下車した。 キラー=コワルスキー: 1971年9月には第2回NWAタッグ・リーグ戦に参戦し、キラー・バディ・オースチンとの「キラー・コンビ」で準優勝を果たした(優勝は猪木&坂口征二)。 アントニオ猪木: 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。 スタン=ハンセン: 9月29日には大阪府立体育館にてザ・ハングマンをパートナーに、坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦した。 猪熊功: 東京オリンピックを半年後に控えた1964年の全日本選手権では、準決勝戦で新鋭の坂口征二に敗れ3位。 武藤敬司: 柔道の猛者であったため入門当初からアントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明らと互角にスパーリングをする実力と天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく、1985年11月に初の海外遠征(米フロリダ地区)に出発。 |
坂口征二の情報まとめ
坂口 征二(さかぐち せいじ)さんの誕生日は1942年2月17日です。福岡出身の格闘家
プロレスのようです。
卒業、兄弟、テレビ、引退、父親、事件、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。坂口征二の現在の年齢は82歳のようです。
坂口征二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー。柔道家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。 受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。 明治大学卒業後、旭化成工業(のちの旭化成)に入社し、1965年、全日本柔道選手権で優勝。その年のリオデジャネイロでの1965年世界柔道選手権大会に日本代表として出場した。東京オリンピックで失った日本柔道の威信回復のため、アントン・ヘーシンクに対しパワーや体格でも引けをとらない日本の大型強豪選手のひとりとして、松永満雄、松阪猛らとともに雪辱を期待されたが、終始ヘーシンクをパワーで圧倒した松永(銀メダル)とともに互角に戦いながらも今一歩のところまで追いつめながらの優勢負け(銅メダル)となり雪辱はかなわなかった。なお、この日本人選手との大苦戦を経ての優勝以降、ヘーシンクは世界タイトルのかかった国際試合に出てくることはなかった。10月、マドリードでのIOC総会で1972年夏季オリンピック(のちのミュンヘンオリンピック)からの柔道の再採用が決定するが、1968年メキシコシティーオリンピックでの柔道の除外が再決定。それを知り、ショックを受ける。 講道館機関誌『柔道』によると、その翌年1966年1月9日、柔道五段を取得。書籍『柔道大事典』によると同年、柔道六段を取得。一方で1966年より後の他の資料でも「柔道五段」としているものもある 。1966年全日本柔道選手権で優勝を逃したこともあり、その後に日本プロレス関係者との会見でプロレス入りを誘われたため、プロレス入りを決意する。 1967年、旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。2月17日(25歳の誕生日)に赤坂のホテルニューオータニにて入団発表を行い、同夜にハワイでの特訓に出発した。 ほどなくしてアメリカ合衆国本土への武者修行を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦して「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動。アトランタではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。 武者修行からの凱旋帰国後は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年9月には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝戦でキラー・コワルスキー&バディ・オースチンを破り優勝を果たした。その後、同年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にシークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてファンク兄弟からインターナショナル・タッグ王座を奪取。その後、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱。それ以降、大木金太郎と共に日本プロレスのエースとなった。インターナショナル・タッグ王座は一旦返上するが、12月2日に大木とのコンビでキニスキー&ブラジルを破り再び戴冠した。 同年末頃より、NET(のちのテレビ朝日)の斡旋で日本プロレスと新日本プロレスの合併を画策するが、大木ら日本プロレス選手会の反対のために果たせず、バレンタインに敗れUN王座から陥落後の1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスの救世主となり、猪木とのタッグチームは「黄金コンビ」と呼ばれた。 1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がつき、坂口は2番手として猪木をサポートする側に回るようになる。一方で猪木とは1974年4月26日に対戦したこともある。 1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座および初の世界タイトル戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦した。 1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となり、上田馬之助、クレージー・レロイ・ブラウン、タイガー・ジェット・シン、マスクド・スーパースターらと防衛戦を行った。この王座は同年9月21日にシンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座を奪取。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手に防衛を重ねた。このシングルとタッグの北米二冠も1981年4月にIWGP参戦のため返上。その後は時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジションに身を置くようになる。日本陣営に加わったハルク・ホーガンともタッグを組み、1983年2月にはキラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた。 1985年のIWGP王座決定トーナメントで藤波辰巳に敗れ、名実共に二番手の座を譲り渡した。しかし、リング上とは異なり、「偉い順番から前に乗る」と言われた巡業バスで一番前に(猪木は少し離れて二番目に)乗る姿が目撃されており、当時リングアナウンサーだった田中秀和も、出演したラジオ番組や著書でそのことを認めている。 1989年、新日本プロレスの社長に就任。その後はセミリタイアとなるが、1990年3月15日、社長業に専念するため地元の久留米にて現役を引退、かつての付き人だった木村健悟と組んでのスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー戦が引退試合となった。以降、社長として東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木が作った借金を完済した。後に藤波に社長職を譲り会長に退き、CEOを経て相談役を務めている。 1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、小林との「パワー・ファイターズ」を再結成してシン&上田とのエキシビション・マッチに出場した。 2005年10月には、自らが主宰する「坂口道場」(後に長男の征夫に禅譲)をオープンさせ、後進の指導に当たっている。 2003年には、高山善廣との遺恨が発生し、13年ぶりに限定リング復帰。9月14日に蝶野正洋と組んで高山&真壁伸也と対戦、10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合胴着姿で出場し、セコンドには次男の坂口憲二がついた。 2017年2月に現役時代からの古傷であった右肘尺骨の悪化により箸や筆が持てなくなったことから入院・手術を受けた。肘の手術自体は成功したがその際に患部に細菌が入ったことによる感染症に罹患し、更に1ヶ月入院して治療を受けた。坂口本人によると「入院中に体重が13kg減るなどしてヨレヨレになった」とのことで、次男の憲二がステッキをプレゼントしてくれたが、内心「こんなもん使えるか!」と立腹したという。 2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した。 12月15日、日本プロレスリング連盟初代会長に就任。 プロレスラーへ転向したのは、1964年東京オリンピックで先輩がアントン・ヘーシンクに次々と倒されるのを見て「打倒ヘーシンク」を目標としていたところ、1965年に当のヘーシンクが引退してしまったため、目標を見失ったことが背景にある。本人によれば、目標を見失って柔道の稽古にも身が入らなくなっていたところにたまたま日本プロレスの関係者との会食をセッティングされ、「プロレスラーになればこんなにもおいしいものが食べられるんだ」と感動した事でプロレス転向を決意したという。 プロレス転向会見の直前である1967年2月10日、坂口は芳の里淳三社長と共に、日本プロレスリングコミッショナーである川島正次郎の元へ向かった。その際、一般紙の政治担当記者にその事が目撃されてしまい、翌日の朝刊に「柔道の坂口、プロレス転向」という記事が掲載されてしまった。その直後、坂口は日本プロレスの後援者が経営する東村山市内のホテルに身を隠すことになった他、明治大学の柔道関係者が、後楽園ホールで行われた日本プロレスの興行に「坂口を返せ!」と言わんばかりに怒鳴り込んできたという。 プロレス転向を発表後すぐに渡米しプロレスラー修行を行いデビューに至っているため、この時代のプロレスラーには珍しく、ほとんど付き人等の下積み経験がない。正確には、芳の里が坂口と柔道界との軋轢を避けるべく、ハワイ特訓の名目上でジャイアント馬場と共にハワイへ観光ビザで一旦へ向かわせた上で、ハワイ経由でロサンゼルスに入るパターンを取った。馬場のロサンゼルス入りの名目は「ブルーノ・サンマルチノとのインターナショナル・ヘビー級王座防衛戦に向けた特訓」としていたが、実際には、馬場が坂口の教育係を買って出たものであった。「基礎練習中は試合に出るわけではないので労働ビザは不要」との判断から観光ビザでアメリカに入国してトレーニングを行っていたが、1967年3月にミスター・モトから「ユー、日本へ帰りなさい」と急に言われてビザの関係で一旦帰国した。一旦帰国した理由は、練習の模様が逐一東京スポーツに掲載されていたため、「実質的に興行に出ているのと同じ」との在日アメリカ大使館の判断で、帰国し就労ビザを取り直すことになったという。 就労ビザ取得までの間、地方巡業に同行し下働きを行っていたが、その最中である1967年5月に父親が死去した。坂口は急遽巡業先である札幌市から空路久留米にある実家へ戻った。父親も坂口のプロレス転向を後押ししており、坂口は「父にプロレスラーとして活躍する姿を見せてやりたかった。だが、その夢はかなわなかった」と述べたという。同年7月に4か月を要して就労ビザを取得した上で再渡米した。英語による就労ビザ取得に関する面接の後に女性面接官は「私はあなたがプロレスの王者になることを祈っています」と笑顔で笑った上で握手した。坂口は、その事が忘れられないという。 日本プロレスは仙台市で興行を行う際、森公美子の実家である森末旅館を定宿としていた。ある時、宮城県スポーツセンターで日本プロレスの興行が行われた際、大木金太郎が当時小学生だった森を会場へ連れて行った。しかしこの時の試合で大木が救急搬送されたため、一人会場に取り残された森を、坂口が旅館まで連れ帰った。これによって坂口は森の『初恋の人』になったという。 新日本プロレス旗揚げ直後に、ある人物から新日本プロレス入りを打診されていたが、坂口は「今の自分は日プロを守ることで精一杯」という理由で一旦断っている。ジャイアント馬場の独立会見の3週間前である1972年7月5日の札幌中島スポーツセンター大会当日、馬場は札幌市内のホテルで坂口に「俺も日プロを辞めることにした。今後のことはまだ分からない。ただ俺は、日プロよりも日本テレビに恩義がある」と独立並びに新団体設立を示唆する発言を行っていた。馬場が日本プロレスを退団した同時期に、坂口も日本プロレス退団を考えていた。その際坂口は馬場に「お前は残れ」「日本プロレスを守れ」と言われた他、馬場が全日本プロレスを旗揚げした後に、馬場から全日本プロレス入団の誘いを受けたが、馬場とすでに同棲し全日本プロレスの興行に口出しをしていた馬場元子とは馬が合わなかったことがきっかけで、新日本プロレスに入団した。 1972年11月6日、坂口は挙式と新婚旅行を兼ねてハワイへ出発する事になった。航空便は夜出発であったため、出発までの間、坂口は日本プロレス道場でトレーニングを行っていた。トレーニングを終わった後に合宿所で日本航空351便ハイジャック事件のテレビニュースを見ていたが、直後に東京スポーツの海外通信員から合宿所に国際電話が掛かり、東京スポーツの海外通信員は坂口に対して「犯人は日本プロレスがロサンゼルス遠征を行った際に日本プロレスの世話役をした人物じゃないか?」と息を切らしたという。坂口もテレビニュースを見て日本航空351便ハイジャック事件の犯人が、日本プロレスがロサンゼルス遠征を行った際に日本プロレスの世話役をした人物だと分かったという。ハワイから帰国後に久留米で結婚披露宴を行い、東京でも結婚披露宴を行う予定であったが、当時の日本プロレスは、給与の遅配が続き、坂口も貯金を取り崩して生活していた事から、東京での結婚披露宴は開催できずに終わった。 日本プロレス最後の試合となった1973年3月8日の佐野市民会館大会では、坂口ら新日本移籍組と大木ら日プロ残留組はシリーズ中からすでに関係が悪化していた。坂口と木村聖裔、小沢正志、大城勤の4人は日プロ残留組と別行動を取り、乗用車で会場近くのホテルへ向かい、ホテルを控室代わりに利用した。4人は試合後は直ちにホテルに戻り、着替えを済ませるとその足で新日本合宿所へと向かった。到着は深夜となったが、山本小鉄や藤波辰巳らが出迎えたという。 猪木が始めた異種格闘技戦には、元柔道日本一の肩書にもかかわらずあまり出場しなかったが、坂口本人は回想で「あの頃は自分と体格的に釣り合う格闘家があまりいなかったから」と語っている。 ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカの試合ボイコットにより、予定されていた『前田日明VSブロディ』のシングルマッチが宙に浮くと、ブロディの代役に名乗りを上げた。これにより実現したシングルマッチでは前田のキックや関節技を受け流し逆に柔道殺法を決めるなど、当時プロレス誌上で囁かれていた限界説を一蹴する熱戦を演じた。結果は坂口の反則負けとなったが、坂口のベストバウトの一つとも言われる。 ジャイアント馬場とは袂を分かった後も親交を継続していた。1990年の新日本プロレスのドーム大会では、目玉選手であったNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセルし、窮余の一策として坂口が当時新日本と対立関係にあった全日本プロレスに選手貸し出しの依頼に赴いた際、同社の馬場は「ああいいよ、おまえの社長就任祝いだ」と快諾。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンが全日本プロレスから貸し出され、新日本プロレスのリングに上がった。馬場が死去した時、猪木は(真意は不明だが)姿を消したのに対し、坂口は即座に藤波と共に駆けつけ、葬儀に参列した(その翌年に死去したジャンボ鶴田の葬儀にも、坂口と藤波は参列している)。坂口は馬場の没後、親しいプロレス誌記者に「馬場さんの手記を書かせてほしい」と語った。 2001年1月28日、東京ドームでの「ジャイアント馬場三回忌追悼&スタン・ハンセン引退セレモニー」にも来場し、恩人の追悼とかつての新日本の外国人エースの引退に花を添えた。 猪木とは対照的に人間的に実直と言われ、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあった。このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献した。坂口の元で新日本プロレスの営業部長を務めた大塚直樹(のちジャパンプロレス代表取締役社長・代表取締役副会長)は坂口を「組織人として管理能力のある人」と評している。 温厚な性格で滅多なことでは感情を表に出すことはなかったが、第1回IWGPで猪木が失神し救急車で病院に搬送されたものの、その日の内に病院から姿を消したことには「だまされた」と激怒。「人間不信」とのみ書いた紙を残し、数日間ではあるが会社を離れ、ハワイへと旅立った。 テレビ朝日(旧:NET)との付き合いも長いため同社とのパイプも強かった。実際、坂口が代表職を退いた直後にワールドプロレスリングの放送枠は縮小された。レスラーとしては猪木に及ばなかったが、社長としての能力は遥かに長けていた。坂口がフロント第一線として活躍していた時代に新日本は全盛期を迎え、第一線を退いた途端に暗黒期を迎えたと見る向きもある。 かつて付き人に橋本真也がいたが、高級ドリンク剤を勝手に飲んでしまうなど、困った付き人だったようである。だが彼の葬式では「その分、人一倍かわいいんですよ」と述べた。 レフェリーのミスター高橋が自著の中で度々「日本人では坂口さんが最強」(猪木より強い)と書いて話題となった。ただ、柔道選手時代から腰痛に悩んでいたと言われ、身体が柔軟性に欠ける面があり、プロレスラーとしての見せ場を作る技量は猪木に敵わなかった。 2005年にはホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演を果たしている。 UNヘビー級王座:2回 インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジャイアント馬場、大木金太郎) アジアタッグ王座:4回(w / 吉村道明) NWAタッグ・リーグ戦優勝:2回(w / アントニオ猪木、高千穂明久) WWF北米ヘビー級王座:1回 NWF北米ヘビー級王座:1回 NWA北米タッグ王座(日本版):4回(w / アントニオ猪木、ストロング小林×2、長州力) アジアタッグ王座(新日本プロレス版):1回(w / ストロング小林) ワールドリーグ戦(新日本プロレス版)優勝:2回 EWU世界スーパーヘビー級王座:1回 NWAポリネシアン・パシフィック・タッグ王座:1回(w / ラーズ・アンダーソン) アトミック・ドロップ ネック・ハンギング・ツリー 逆エビ固め 逆片エビ固め シュミットバックブリーカー アルゼンチン・バックブリーカー カナディアン・バックブリーカー ジャンピング・ニー・アタック ニー・ドロップ これらは総じて“荒鷲殺法”と呼ばれた。腰が悪いのが影響してか、バックドロップにいくと見せかけて、自身の腰に負担がかからないアトミック・ドロップを仕掛けるのがパターンだった。なお、ごく稀にそのままバックドロップに行くケースもあるが、その場合腰の影響からか腰砕けのような形になっている。 UWFが新日本プロレスに参戦していた時期には、前田日明とのシングルマッチでアキレス腱固めを平然とクリアして見せた。 燃えよ荒鷲 (ミノタウロス) 「九州男児」「海の男」をイメージしてか、和太鼓やティンパニを多用し、演歌とジャズが混ざったような曲調となっている。 1989年6月 取締役副社長(1983年8月29日 - 11月1日まで取締役副社長から降格していた時期がある) 1989年6月 - 1999年6月 代表取締役社長 1999年6月 - 2002年6月 代表取締役会長 2002年6月 - 2003年6月 代表取締役会長兼最高経営責任者 2003年6月 - 2005年3月31日 最高経営責任者 2005年4月1日 - 相談役 2005年9月に東京都狛江市にスポーツジム「坂口道場」を設立。 2009年6月30日をもって狛江市の「坂口道場」は閉鎖。坂口征夫の営む、横浜市の「坂口道場」は引き続き営業している。 ^ 試合後、猪木は「ブロディに対する怒りを試合にぶつけたんだろうけど、坂口を怒らすと怖いね。」と発言し、前田は「正直言って坂口さんを甘く見ていた。これからももっと表舞台に立って僕らと対戦して欲しい」と語った。 ^ このとき馬場が選手貸し出しに応じた背景として、坂口との信頼関係と合わせ、全日本を日本マットの主戦場としていたフレアーの新日本参戦を認める代わりに、新日本を主戦場としていたスティーブ・ウィリアムスを全日本で起用するという事実上の交換トレードが成立しており、フレアーが参戦できなくなった以上全日本側が何らかの代替措置を提示する必要があった事を馬場自身が語っている(『スポーツ伝説シリーズ8 馬場本』ベースボールマガジン社 1999年 ISBN 9784583610559 pp32-33)。 ^ 後日御悔みを述べるためインタビューは受けている。 ^ スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーも、自伝の中で「レスラーとしてだけでなく、人間的にも優れている」と坂口を評している。 ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P130(1996年、日本スポーツ出版社) ^ 『Gスピリッツ Vol.50』P43(2019年、辰巳出版、ISBN 4777822400) ^ 嘉納行光、川村禎三、中村良三、醍醐敏郎、竹内善徳『柔道大事典』監修 佐藤宣践、アテネ書房、1999年11月、181頁。ISBN 4871522059。「坂口征二」 ^ 嘉納行光、川村禎三、中村良三、醍醐敏郎、竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本 東京、1999年11月、19頁。ISBN 4871522059。「オリンピックの柔道競技」 ^ 『THE WRESTLER BEST100』日本スポーツ出版社、東京、1981年、210-211頁。 ^ 東京スポーツで2008年4月より連載中のコラム「格斗半世紀」による。 ^ 「講道館昇段者」『柔道』第37巻第4号、講道館、1966年4月1日、56頁。「五段 宮崎県」 ^ “有名人の柔道家: 格闘家・プロレスラー(男子)”. 柔道サイト eJudo. 2019年6月15日閲覧。 ^ “The Los Angeles matches fought by Seiji Sakaguchi in 1967”. 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Wrestling-Titles.com. 2013年12月17日閲覧。 東京タワーズ 北米タッグ王座 旭化成 本田技研工業 坂口道場公式サイト Profile at Online World of Wrestling Profile at Cagematch 坂口征二 - JudoInside.com のプロフィール(英語) 表 話 編 歴 1 キング・コング&タイガー・ジョキンダー 2 フランク・バロア&ダン・ミラー 3 力道山&豊登 4 ルター・レンジ&リッキー・ワルドー 5 力道山&豊登 6 バディ・オースチン&マイク・シャープ 7 力道山&豊登 8 力道山&豊登 9 豊登&吉村道明 10 ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーン 11 豊登&ジャイアント馬場 12 ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン 13 豊登&ジャイアント馬場 14 キラー・カール・コックス&ジョー・カロロ 15 吉村道明&ヒロ・マツダ 16 キラー・カール・コックス&エディ・グラハム 17 吉村道明&ジャイアント馬場 18 吉村道明&大木金太郎 19 吉村道明&アントニオ猪木 20 吉村道明&大木金太郎 21 スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル 22 吉村道明&大木金太郎 23 大木金太郎&アントニオ猪木 24 吉村道明&アントニオ猪木 25 吉村道明&アントニオ猪木 26 吉村道明&坂口征二 27 グレート小鹿&松岡巌鉄 28 グレート小鹿&大熊元司 29 ジェリー・オーツ&テッド・オーツ 30 高千穂明久&サムソン・クツワダ 31 グレート小鹿&大熊元司 32 マイティ井上&アニマル浜口 33 グレート小鹿&大熊元司 34 グレート小鹿&大熊元司 35 ケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリック 36 佐藤昭雄&石川隆士 37 マイティ井上&阿修羅・原 38 阿修羅・原&石川隆士 39 佐藤昭雄&石川隆士 40 アニマル浜口&寺西勇 41 寺西勇&保永昇男 42 マイティ井上&石川隆士 43 阿修羅・原&スーパー・ストロング・マシーン 44 マイティ井上&石川隆士 45 サムソン冬木&川田利明 46 仲野信市&高野俊二 47 サムソン冬木&川田利明 48 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 49 サムソン冬木&川田利明 50 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 51 タイガーマスク(三沢光晴)&小橋健太 52 仲野信市&田上明 53 小橋健太&ジョニー・エース 54 ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス 55 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 56 小橋健太&ジョニー・エース 57 ジョー・ディートン&ビリー・ブラック 58 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 59 小橋健太&菊地毅 60 パトリオット&ジ・イーグル 61 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 62 秋山準&大森隆男 63 ウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミス 64 本田多聞&泉田純 65 ハヤブサ&新崎人生 66 大森隆男&高山善廣 67 三沢光晴&小川良成 68 本田多聞&井上雅央 69 垣原賢人&長井満也 70 嵐&北原光騎 71 嵐&荒谷信孝 72 佐藤耕平&横井宏考 73 金村キンタロー&黒田哲広 74 ミスター雁之助&黒田哲広 75 グレート・コスケ&獅龍 76 天龍源一郎&渕正信 77 長井満也&成瀬昌由 78 ブキャナン&リコ 79 近藤修司&"brother"YASSHI 80 佐々木健介&中嶋勝彦 81 鈴木みのる&NOSAWA論外 82 曙&浜亮太 83 TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥー 84 真田聖也&征矢学 85 関本大介&岡林裕二 86 真田聖也&征矢学 87 関本大介&岡林裕二 88 曙&浜亮太 89 金本浩二&田中稔 90 大和ヒロシ&佐藤光留 91 金本浩二&田中稔 92 鈴木鼓太郎&青木篤志 93 秋山準&金丸義信 94 入江茂弘&石井慧介 95 宮原健斗&鈴木鼓太郎 96 長井満也&南野タケシ 97 金丸義信&ウルティモ・ドラゴン 98 木髙イサミ&宮本裕向 99 青木篤志&佐藤光留 100 渕正信&大仁田厚 101 青木篤志&佐藤光留 102 ブラック・タイガーⅦ&TAKAみちのく 103 野村直矢&青柳優馬 104 秋山準&永田裕志 105 野村直矢&青柳優馬 106 ジェイク・リー&岩本煌史 107 河上隆一&菊田一美 108 ジェイク・リー&岩本煌史 109 木髙イサミ&宮本裕向 110 ゼウス&イザナギ 111 T-Hawk&エル・リンダマン 112 大森北斗&児玉裕輔 113 稔&歳三 114 佐藤光留&田村男児 115 ヨシタツ&TAJIRI 116 児玉裕輔&花畑正男 117 大森隆男&井上雅央 118 NOSAWA論外&ケンドー・カシン 119 大仁田厚&ヨシタツ 120 秋山準&鈴木鼓太郎 121 坂口征夫&岡谷英樹 122 大仁田厚&To-y 123 佐藤光留&田村男児 124 吉岡世起&MUSASHI 125 安齊勇馬&ライジングHAYATO 1 坂口征二&ストロング小林 2 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 表 話 編 歴 猪木寛至 1972 - 1989 坂口征二 1989 - 1999 藤波辰巳 1999 - 2004.6 草間政一 2004.6 - 2005.5 サイモン・ケリー猪木 2005.5 - 2007.3 菅林直樹 2007.4 - 2013.9 手塚要 2013.9 - 2016.2 原田克彦 2016.2 - 2018.5 ハロルド・ジョージ・メイ 2018.5 - 2020.10 大張髙己 2020.10 - 2023.12 棚橋弘至 2023.12 - 表 話 編 歴 アントニオ猪木 坂口征二 星野勘太郎 山本小鉄 魁勝司 小林邦昭 前田日明 ブラック・キャット アニマル浜口 橋本真也 ドン荒川 表 話 編 歴 1948 松本安市 1949 木村政彦, 石川隆彦 1950 石川隆彦 1951 醍醐敏郎 1952 吉松義彦 1953 吉松義彦 1954 醍醐敏郎 1955 吉松義彦 1956 (中止) 1957 夏井昇吉 1958 曽根康治 1959 猪熊功 1960 神永昭夫 1961 神永昭夫 1962 竹内善徳 1963 猪熊功 1964 神永昭夫 1965 坂口征二 1966 松永満雄 1967 岡野功 1968 松阪猛 1969 岡野功 1970 篠巻政利 1971 岩釣兼生 1972 関根忍 1973 上村春樹 1974 佐藤宣践 1975 上村春樹 1976 遠藤純男 1977 山下泰裕 1978 山下泰裕 1979 山下泰裕 1980 山下泰裕 1981 山下泰裕 1982 山下泰裕 1983 山下泰裕 1984 山下泰裕 1985 山下泰裕 1986 正木嘉美 1987 正木嘉美 1988 斉藤仁 1989 小川直也 1990 小川直也 1991 小川直也 1992 小川直也 1993 小川直也 1994 金野潤 1995 小川直也 1996 小川直也 1997 金野潤 1998 篠原信一 1999 篠原信一 2000 篠原信一 2001 井上康生 2002 井上康生 2003 井上康生 2004 鈴木桂治 2005 鈴木桂治 2006 石井慧 2007 鈴木桂治 2008 石井慧 2009 穴井隆将 2010 高橋和彦 2011 鈴木桂治 2012 加藤博剛 2013 穴井隆将 2014 王子谷剛志 2015 原沢久喜 2016 王子谷剛志 2017 王子谷剛志 2018 原沢久喜 2019 ウルフ・アロン 2020 羽賀龍之介 2021 太田彪雅 2022 斉藤立 2023 王子谷剛志 2024 中野寛太 VIAF 日本の男子柔道家 日本のプロレスラー 日本プロレスに所属したプロレスラー 新日本プロレスに所属したプロレスラー 柔道出身のプロレスラー プロレス・エグゼクティブ 日本のプロレスのプロモーター NWAに参戦したプロレスラー WWEに参戦したプロレスラー 新日本プロレスの関係者 旭化成柔道部の人物 明治大学出身の人物 福岡県出身のスポーツ選手 1942年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ ウィキデータにあるJudoInside ID VIAF識別子が指定されている記事
2024/11/21 05:17更新
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sakaguchi seiji
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