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小川直也の情報 (おがわなおや)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【9月28日】今日誕生日の芸能人・有名人

小川直也の情報(おがわなおや) 柔道、格闘家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小川 直也さんについて調べます

■名前・氏名
小川 直也
(読み:おがわ なおや)
■職業
柔道、格闘家
■小川直也の誕生日・生年月日
1968年3月31日 (年齢56歳)
申年(さる年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和43年)1968年生まれの人の年齢早見表

小川直也と同じ1968年生まれの有名人・芸能人

小川直也と同じ3月31日生まれの有名人・芸能人

小川直也と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


小川直也と関係のある人

妻夫木聡: ジャン・レノ(ドラえもん)、小川直也(ジャイアン)、水川あさみ(源静香)、前田敦子(ジャイ子)、山下智久(骨川スネ夫)と共演


小川雄勢: ^ 小川直也さんの長男が初優勝…学生柔道体重別 読売新聞 2015年10月4日


石井慧: 柔道家としては小川直也を尊敬していて、高校生時代には小川からのアドバイスが欲しいがために小川がよく顔を出す明治大学の道場を訪れたりしており、そのため現在も小川とは親交がある。


天田ヒロミ: 2013年9月28日、愛知県体育館にて開催された GENOME 28 にてプロレスリングルールにて小川直也とシングルマッチにて初対決。


山下泰裕: 小川直也は、世界選手権前の全日本合宿で乱取り稽古をつけてもらったが歯が立たず、「なんでこの人(山下)が代表として出ないんだろう?」と引退を疑問に思った。


ゲーリー=グッドリッジ: 1999年7月4日、PRIDE.6でバルセロナオリンピック柔道銀メダリスト小川直也にV1アームロック一本負け。


小川雄勢: ^ 小川直也氏の長男、雄勢が大将戦制す!修徳が初優勝/柔道 サンケイスポーツ 2014年7月24日


佐山聡: 小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。


アントニオ猪木: 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。


藤原喜明: 2001年、「真撃」のリングで小川直也と対戦。


斉藤仁: 大会3連覇を狙う正木嘉美5段や前年準優勝の元谷金次郎5段、学生ながら前年の世界選手権無差別級王者となった小川直也4段に、既にベテランの域となっていた斉藤を加えた4人の激突に注目が集まり、大会本戦ではまずこのうちの元谷と小川が3回戦で姿を消した。


林チカラ: デビュー前の2000年(当時小学5年生)には小川直也に敗れ引退表明したプロレスラーの橋本真也の復帰嘆願運動を、兄の宝(当時中学2年生、現在はテレビ朝日制作プロデューサー)と共に開始した。


武藤敬司: 以後フェイスペイントもnWoロゴをモチーフにした黒いものが中心となり、正規軍や当時プロ格闘家だった小川直也と激戦を展開した。


栃ノ心剛: 母国の先輩力士である黒海、ジョージア駐日大使のレヴァン・ツィンツァゼ、小川直也も参加し、小川直也は壇上で栃ノ心を祝福していた。


小川雄勢: ^ 小川直也氏の長男、雄勢が準決勝敗退 延長戦の末、指導3つの反則負け 日刊スポーツ 2022年4月29日


力櫻猛: 2001年4月18日、日本武道館でのZERO-ONE旗揚げ第2戦において、小川のシュートマッチ対策として三沢のパートナーに抜擢され、小川直也&村上和成組に勝利し評価を上げる。


松山三四六: 明治大学へ進学し、小川直也や吉田秀彦を輩出した同大学柔道部で鍛錬を重ねるが、19歳の時に二度の膝半月板損傷の故障を発症、それが原因で柔道を断念。


秀島大介: 1993年には大学の3年先輩である小川直也のいるJRAのサービス推進部保安企画課所属となった。


カイヤ: 当初はジャイアント・シルバとのシングルの予定だったが、シルバの拒否により、小川直也と組んでのタッグ戦となった。


アントニオ猪木: 1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。


三谷浩一郎: 同世代に全日本を7度制した小川直也や金野潤ら強豪が揃っていた事もあり、三谷はオリンピック・世界選手権への出場経験は無いが、全日本選手権へ9回もの出場記録は特筆される。


篠原信一: 強化合宿では世界チャンピオンであるJRAの小川直也の稽古相手を務めた。


山本宜久: 2001年のリングス退団後に真撃のリングに乱入した際、山本は小川直也をパンチで失神させ「寝言は寝て言え」と挑発したが、両者の対戦は実現しなかった。


ステファン=レコ: 2004年4月25日、総合格闘技デビュー戦となったPRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級グランプリ1回戦で小川直也と対戦。


広澤克実: 柔道の腕前は古田敦也によると、パウンド・フォー・パウンドなら小川直也にも勝つレベルであったかもしれないという。


小川雄勢: ^ 小川直也氏Jr雄勢がシニア大会初V 五輪代表争い名乗り スポーツニッポン 2017年11月13日


中村兼三: 7月の五輪本番では、他の階級の日本代表であった小川直也、古賀稔彦、吉田秀彦や兄の佳央ら世界チャンピオンが揃って金メダルを逃すという苦しい展開の中、兼三の出場する71kg級の試合当日(7月24日)を迎えた。


古賀稔彦: 決勝で当時最重量(95kg超級)の世界チャンピオンだった小川直也と対戦、足車に仕留められ準優勝となった。


藤井克久: 2002年、小川直也の練習相手を務めるようになり、同年11月、UFOに入団し、小川に弟子入りした。


小川雄勢: ^ 小川直也Jr.雄勢が金 銀の父「超える」 日刊スポーツ 2014年3月21日


小川直也の情報まとめ

もしもしロボ

小川 直也(おがわ なおや)さんの誕生日は1968年3月31日です。東京出身の柔道、格闘家のようです。

もしもしロボ

引退、卒業、現在、テレビ、兄弟、病気、映画、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。小川直也の現在の年齢は56歳のようです。

小川直也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

小川 直也(おがわ なおや、1968年3月31日 - )は、日本の男性柔道家、元総合格闘家、元プロレスラー、体育学者、YouTuber。東京都杉並区出身。血液型はB型。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2013年)。

全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。実業団柔道ではJRA職員として活躍。長男は柔道家の小川雄勢。

私立八王子高等学校の面接試験の際には、体格のよさを後に恩師となる面接官の小野実に見込まれて、入学したら柔道をやってみないかと問われた際に、本当はラグビーに興味を持っていたが、印象を良くするために柔道をやってみたいと答え、無事合格を果たした。

八王子高校に入学後、柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、インターハイ重量級では優勝した天理高校の中谷弘に敗れて入賞はならなかったが、国体では世田谷学園高校の古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。

後の述懐では、高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったと回想していた。

因みに高校時代は柔道の2学年先輩の父が元大関・大麒麟の押尾川親方が師匠を務めていた押尾川部屋の後援者であった関係で1回押尾川部屋に見学に行ったことがある。押尾川親方からは口説き文句半分ではあろうが「君なら、いい大関になれる!」と才能を評価された。元貴闘力は「相撲やってたら結構、いいところで一緒にやってたかもしれないし。もしかしたら、若貴のいいライバルになってたかもしれないよね」と角界入りしなかったことを惜しんでいた。

1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実(当時の上村は全日本の監督も引き受けていたために忙しく、助監督である原が道場で小川に直接指導することが多かった)の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学の関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた(後の引退会見の時に、この試合での優勝が一番印象に残っていると述懐した)。 続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学の金野潤に判定負けして3位に終わった。 12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキを出足払で破り3位となった。また、団体戦では優勝を果たした。

1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで、一躍マスコミから斉藤仁、正木嘉美に次ぐ重量級第三の男として注目された。 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する全日本大学柔道体重別選手権大会で優勝したが、学生優勝大会ではベスト8で敗れた。 7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた。 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定 (3-0) ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った。 11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に補欠として出向いたが、当初2階級に出場する予定だった正木が初日の95kg超級初戦でベリチェフに敗れた際に持病の腰痛を悪化させたため無差別には出場できなくなり、代わって小川が出場することになった。2回戦は指導勝ち、3回戦は判定勝ちと予選ラウンドはややもたついたものの、準決勝ではソ連のハビル・ビクタシェフを合技で下すと、決勝ではイギリスのエルビス・ゴードンと対戦して開始すぐに払腰を返されるが場外でポイントにならず、その後小外刈で技ありを取って優勢勝ちして、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンとなり、一躍1988年ソウルオリンピック95kg超級代表の有力候補となった。 帰国直後に出場した選抜団体では愛知県警の秀川豊に大外返で一本負けを喫するが、チームは3位となった。 12月には史上最年少で世界チャンピオンになったことが評価されて、日本スポーツ賞大賞を受賞した。

1988年4月には推薦で全日本選手権に初出場するが、準々決勝で86kg級の選手である旭化成の大迫明伸に中盤以降何度も崩されたことによって判定で敗れて、斉藤、正木とのオリンピック代表争いから大きく引き離された。 6月には体重別の準決勝で正木を判定で破るも、決勝で斉藤に小内巻込で効果を取られて2位にとどまり、オリンピック代表にはなれなかった。 続く学生優勝大会では3位に終わった。 8月のアジア選手権無差別では準決勝で北朝鮮のファン・ジェキル、決勝でも中国の徐国清を破ってオール一本勝ちで優勝を果たした。 10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。 さらに全日本学生に出場して、決勝では78kg級世界チャンピオンである筑波大学の岡田弘隆がケガで棄権したため、不戦勝で2年ぶり2度目の優勝を果たした。 12月の選抜団体では3位に終わった。 続くグルジアのトビリシで開催された世界学生では、95kg超級に出場してオール一本勝ちで優勝したが、団体戦では2回戦で敗れた。

1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。 6月の学生優勝大会では東海大学に敗れて2位に終わった。 7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95kg超級と無差別両方の代表となった。 10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した。 翌年3月には明治大学を卒業した。

1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった。小川はプロレスラーに転身後、この部署で担当していた業務について事情を明かしており、「競馬はやはりギャンブルですから、熱中するあまり周りのお客様に迷惑をかける方がいるんですよ。その場合は緊急事態として怪我をさせない程度に抑えつけるというか、早い話がJRA直属のガードマンをやっていました」と解説している。

社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。大会後のインタビューでは、古賀が決勝まで上がってくることは全く予想していなかったが、JRAの監督である関勝治に小さい相手ともよく練習しておけと言われたことで、大学の3年後輩で古賀と同じくらいの体格である秀島大介とは特によく練習したことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たと述べた 6月には実業団体2部に出場して、JRAの優勝に大きく貢献した。7月には体重別の準決勝で金野に苦戦するが辛くも注意で勝ち上がると、決勝では関根を朽木倒の有効で破って北京アジア大会代表に選ばれた。9月のアジア大会では日本オリンピック委員会から日本選手団全体の主将に選ばれるが、95kg超級の準決勝で北朝鮮のファンに合技で敗れる予想外の結果となった。実に2年3ヶ月ぶりの敗戦であった。3位決定戦ではイランのF・ファラヒを上四方固で破った。11月の嘉納杯95kg超級決勝では金野を判定で破ると、無差別決勝でもフランスのダビド・ドゥイエを小外刈の有効で破り、2階級制覇を達成した。

1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが世界選手権95kg超級代表に選ばれた。7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフに崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サロネンに反則勝ちした。当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した。その準決勝ではベルギーのハリー・ファンバルネベルトに小外刈を返されて先に技ありを取られるも横四方固で逆転勝ちすると、決勝ではソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリを体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした。

1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学4年の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが、1992年バルセロナオリンピック代表に選ばれた。7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを体落と崩袈裟固の合技で下した。決勝は昨年の世界選手権決戦で破った、ソ連崩壊でEUN代表となったハハレイシヴィリとの対戦であったが、開始早々に大腰で技ありを奪われると、1分を過ぎたところで小外掛で再び技ありを奪われて合技で敗退して2位に終わった。大会後のインタビューでは、オリンピックで勝ったら柔道を辞めようと思っていたと述べた。 しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った。11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった。

1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレを掬投で破った。なお、今大会で小川が3位に終わったことにより、世界選手権の無差別における日本選手の連勝記録が13連覇で止まることになってしまった。

1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた。

1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリューゲルに指導を取られて敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場すると、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した。

1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した。

1997年2月にはJRAを退職してフリー格闘家への転向を表明した。

現在

現在は、2006年に開設した小川道場にて道場長を務めている。

柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、いわゆる「3分間柔道」と呼ばれることもあった。但し、このスタイルには無駄な時間浪費と批判する向きも合った。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。支釣込足や膝車では腕挫腕固を併用するパターンもよく見られた。このような関節技を併用した投げは本来ノースコアとなるが小川の場合はスコアが与えられるケースがあった。小川雄勢がこの技を引き継ぎグランドスラム・東京2017男子100kg超級決勝戦で小川直也が見守る中この技を出し技ありのスコアを主審が宣したがビデオ判定でルール通り技あり取り消しでノースコアとなった。寝技は抑込技が中心で、絞め技や関節技はあまり使わなかった。しかしながら大きな大会で抑え込一本確実な状態の横四方固からの腕緘(V1アームロック)、肩袈裟固からの腕挫腕固で勝利している。一方で学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった。

無差別以外は全て95kg超級での成績。

1985年 - 国体 少年の部 優勝

1986年 - 全日本学生 優勝

1986年 - 新人体重別 3位

1986年 - 世界学生 無差別 3位、団体戦 優勝

1987年 - 正力国際 無差別 2位

1987年、1989年、1990年、1993年 - 選抜体重別で合計4度の優勝

1987年 - 全日本大学柔道体重別選手権大会 優勝

1987年 - 正力杯 優勝

1987年 - 世界選手権 無差別 優勝

1987年 - 選抜団体 3位

1988年 - 全日本選手権 5位

1988年 - 体重別 2位

1988年 - 学生優勝大会 3位

1988年 - アジア選手権 無差別 優勝

1988年 - 正力杯 優勝

1988年 - 全日本学生 優勝

1988年 - 選抜団体 3位

1988年 - 世界学生 無差別 優勝

1989年から1993年、1995年から1996年 - 全日本選手権で合計7度の優勝

1989年 - 学生優勝大会 2位

1989年 - 世界選手権 95kg超級 優勝、無差別 優勝

1990年 - 実業団体2部 優勝

1990年 - アジア競技大会 3位

1990年 - 嘉納杯 95kg超級 優勝、無差別 優勝

1991年 - 世界選手権 95kg超級 3位、無差別 優勝

1992年 - バルセロナオリンピック 2位

1992年 - 嘉納杯 無差別 2位

1993年 - 世界選手権 無差別 3位

1994年 - 全日本選手権 3位

1994年 - 講道館杯 2位

1995年 - フランス国際 3位

1995年 - オーストリア国際 5位

1995年 - 体重別 3位

1995年 - 実業団体1部 2位

1995年 - 世界選手権 3位

1995年 - 講道館杯 優勝

1996年 - フランス国際 優勝

1996年 - 体重別 2位

1996年 - アトランタオリンピック 5位

柔道で世界の頂点に立った経歴から、小川もその格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木と佐山聡の設立したUFOに入団した。

1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技の「STO(スペース・トルネード・オガワ)」を引っ提げて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利した。

1か月後の5月3日、新日本初の大阪ドームで行われた同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。小川にとって、この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。

以降スランプとなり、1997年8月10日の新日本ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日に東京ドームで行われた猪木引退興行「ファイナルイノキトーナメント」の対戦相手決定トーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との対戦は叶わなかった。

1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。小川は、橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるなら上がって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。

試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。小川は橋本を倒し、マウントポジションを取り、頭部を「プロレス的」ではないパンチで殴り、うつ伏せで倒れた橋本の後頭部を踏みつけ、エプロンに逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけ、橋本がリング外に転落すると、その異様な展開に場内は騒然とした。橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。

「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。ゴングが打ち鳴らされた後、1人リングを占拠した小川は、両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初、飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった。)、「もう終わりかよ!、おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」、「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った。リング下ではセコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生しており、ついには当時引退して現場監督だった長州力がリングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「小川、これがお前のやり方か?」と詰め寄った。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。

この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされ、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘では、ご法度の危険な行為の応酬となり、小川のセコンドについた村上和成も混乱の中で飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い入院に追い込まれている。

当時、全日本プロレスに所属していた三沢光晴は全日本プロレス中継内で、「プロレスラーが弱く見られがちな試合だった」と頑なにコメントしている。当時の全日本の選手が、テレビで新日本について語ることは異例中の異例であった。

1999年10月11日、新日本の社長に就任した藤波辰爾の意向もあり、NWA世界ヘビー級王座を賭けての橋本再起試合が決定し4度目の対戦(レフェリーは藤波。)。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたが、STOの連発で橋本はグロッキー状態に。放心状態ながらも何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、それでも試合を続行させようとするレフェリーの藤波に代わってリングサイドで試合を見守っていた猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止めTKO判定により完全に勝利した。この試合の模様は、ニュースステーション(テレビ朝日)で取り上げられるなど注目された試合であった。しかしながら、同番組の格闘技ニュースの選択のしかたが世間の注目度とずれていることがあるとの意見を持つ久米宏が降板している時期の出来事だった。

2000年1月4日、小川はタッグマッチで橋本・飯塚組と対決(小川のパートナーは村上)。試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川vs橋本、村上vs飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも、橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。

同年4月7日、小川は橋本と東京ドームでシングル5度目の対戦を行った。橋本はこの試合に負けたら引退すると公表していた。このドーム大会はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、番組のコピー「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退スペシャル」は大きな波紋を呼んだ。

試合は、小川が優位に試合を進めた。橋本は場外からの水面張りで奇襲を仕掛けるが、橋本がオープンフィンガーグローブを外して素手で小川にパンチを入れたことにセコンドの村上が激怒し、リング内に乱入した。この村上の乱入行為は大規模なブーイングを起こし、それが切っ掛けで一触即発だった橋本ファンと小川ファンの乱闘が観客席で起こったり、ヒートアップしたリングサイド付近の観客達が村上に向けて乱入しかけた所を警備員やスタッフらにガードされるなどした。その後は何度かSTOを仕掛けるものの橋本のSTO返しが成功し、DDTとジャンピングエルボーで小川の腕が脱臼してしまう。しかしその後の橋本の関節技で脱臼した腕がうまく嵌り、その後持ち直した小川はSTO6連発で橋本をKOした。テレビ中継は平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。

橋本はリングの魂(テレビ朝日)の企画で、復帰を願い折り鶴を送った純真な少年ファンの兄弟(米川力兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回した。試合後、小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。

橋本との抗争後はPRIDEに参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。2000年12月31日、Millennium Fighting Arts INOKI BOM-BA-YEで安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ちした。安田戦直後のインタビューで小川は、「もう仲間同士でやりたくないよ!」と発言している。

2001年4月18日、宿敵だった橋本が率いるプロレスリングZERO-ONEの旗揚げ第2戦(日本武道館)に参戦。メインイベントで三沢とタッグマッチで対戦した(小川、村上vs三沢、力皇猛)。

試合序盤では小川が三沢を挑発するも、三沢はいなし続け、試合中盤で力皇を捕らえている時に三沢がカットに入り、エルボーを食らったのが三沢との初遭遇となった。

食らい慣れていないエルボーの連発に倒れこんだ小川は仕切り直してスタンド状態で三沢と対峙し、ミドルキックをいなされると片足にタックルを仕掛けたが三沢はこれを堪え、がぶる事なく小川の首を上から押さえこみ、主導権を取ろうとグラウンドで動き回る小川に対し的確に背後を取るといったレスリング技術を見せた。

対する小川は三沢の足を取りながら立ち上がり、がぶろうとする三沢を大腰でマットに投げ返すとそのまま押さえ込みつつマウントを奪う。小川のパンチを上から浴びせられる三沢はガードを固めマウントからは自力で脱出できないが、力皇が小川の背後から大相撲仕込みの突進を見舞いカット。

試合はその後、場外へ落ちた小川を力皇が追い、二人が争ってる最中にリング上で村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発を食らってフォール負けを喫する。

当然、暴れ足りない小川はゴングが鳴った後、リングに上がり三沢に殴りかかった。小川に対し反撃をしない三沢だったが、ノアの選手が上がってきて小川は袋叩きにされ、橋本らもリングに上ってきたが力皇らに押さえ込められ、挙句にはノア陣営全員で勝ち名乗りをされ圧倒されてしまう。これに小川はマイクを取り、「三沢、数さえ揃えば勝てると思ってるんじゃねえぞこの野郎!」とマイクを投げつけたが、解説の馳浩と吉田秀彦に「負け惜しみですね」「小川は悔しくて眠れないでしょうね」と言われてしまった。

2002年頃から小川は猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこともあり、主戦場をZERO-ONEのリングとし、小川のかつての宿敵・橋本と「OH砲」を結成する。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)、「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。

新日本への参戦時代は、ビッグマッチへのスポット参戦が中心だったことから同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からマイクパフォーマンスが饒舌になり、小川もプロレスラーとして成長した。

2004年1月から、小川はPRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場を果たす。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、当時プロ野球選手の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。

ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(ショー的なプロレス)・ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDEがあるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興行的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関してはプロレス(ショー)という事なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたため、壇上に同席していた小川が「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇオラァ!!何がハッスル1だよ。ふざけたこと抜かしやがってプロレスなめてんだろ、お前!あぁ⁉」とテーブルをひっくり返し、同席していた橋本の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。

小川はハッスルの普及を目的に同年4月からのPRIDEグランプリに参戦、ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ちし、ジャイアント・シルバにはマウントパンチでTKO勝ち。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦したが、1R54秒腕ひしぎ十字固めで小川の一本負けとなった。小川は、勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に努め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れはしたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが熱烈な小川コールを送った。

PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ!」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では小川直也ではなく「キャプテン・オー(後にジュードー・オー)」としてメインに出場した。

同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。

2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月、突然の病気で亡くなった小川の戦友・橋本の入場曲である「爆勝宣言」の前奏が流れて登場、その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達はハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。

試合は吉田に腕ひしぎ十字固めで見込み一本負けを喫したが、小川は試合後のリング上、マイクで実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中に骨が折れる音をマイクが拾っている。)。最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、「自分ならばあのような状態では戦えない」と語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。小川は吉田に対しては後のインタビューで、「あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよ」と理解していた。

2007年6月、ハッスルのストーリーでは高田モンスター軍に移籍。『セレブ小川』として活動し、卑劣な戦法や相手レスラーを罵倒する守銭奴キャラを見せ、観客から大ブーイングや「しょっぱい」コールを浴びる。高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、小川本人はそれを受理し一時的に離脱した。

2007年6月29日、猪木が主催するIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」に参戦。マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。以降、IGFを主戦場とする。

2007年12月20日、「GENOME2」のメインイベントで安田と対戦。レフェリーにまで暴行を加え、師匠の猪木に造反するものの裸絞めで失神させられた。

2008年2月16日、「GENOME3」でジョシュ・バーネットと対戦、4分48秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫するも、ロープに手がかかっていたと小川が抗議。すぐに再戦が行われ、5分13秒STOボンバーからの片エビ固めで勝利を収めたが試合後は乱闘となり、来場した田村潔司とも小競り合いとなり波紋を残した。

2010年7月、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格。ジャンボ鶴田と全く同じ学科・専攻の後輩となった。

2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学んだ。なおプロレスラーとしての活動も継続しており、2011年8月27日に行われた「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」では澤田敦士との対戦で久々にリングに上った。

2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で藤田和之と対戦したが、レフェリーストップ負けを喫した。2013年3月、筑波大学大学院を修了。

2016年2月26日のIGF・東京ドームシティホール大会で青木真也と対戦して勝利。

2018年6月11日、「息子(小川雄勢)の指導に専念したい」として、プロレス及び総合格闘技を引退して柔道界への復帰を目指す方針を明らかにした。

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "小川直也" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2012年6月)
    バルセロナオリンピックでは銀メダルに終わったことで、表彰台では終始俯き加減な態度だったためにマスコミや世間から激しいバッシングを受けたことがある。

    柔道家時代は寡黙で口数の少ない印象で知られた。プロレスラーとなってからは積極的なパフォーマンスでイメージ・チェンジに成功したが、普段は大変温厚で「クソ真面目」と言われるほどであり、小川と同様に柔道家から格闘家に転向した吉田も「派手なパフォーマンスとかギャグとか、あんなに話せる人だとは思わなかった」と柔道家時代とのギャップに驚いた旨を語っている。

    前述の通り、JRA時代は競馬場の警備担当として開催中の場内の巡回を主な業務としていたが、1990年の第35回有馬記念での警備巡回では、当時のアイドルホースだったオグリキャップの引退レースとなったため、集まった観客の余りの多さに動けずに立往生し一緒に巡回していた上司らとともにレース終了直後まで警備巡回を一旦中止した。しかし立往生した場所がコースの見える位置であったことから、立往生を逆手に取って上司らと一緒にレースを観戦し、そのままスタンドでオグリキャップの優勝を目撃する。小川はそれまで成績不振だったオグリの激走を目の当たりにし、自身の柔道の励みになったと後日述懐している。

    2004年にPRIDEに参戦して連勝した後、世間の注目が上がりCMの依頼も殺到した。同年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンのメインイベント・ジャパンカップ当日には東京競馬場に退職後初めてJRA主催のイベントに訪れてスピーチを行った。

    2005年2月11日、ハッスルでインリン様に敗戦した時は「プロレスとはいえ、元柔道世界チャンピオンの面汚しだ」等の批判も聞かれた。なお、小川はプロレスデビュー以降対戦相手から直接3カウントを取られた経験が無く、これが実質的な初のピンフォール負けであった。この事になぞらえて2002年にフジテレビの番組「力の限りゴーゴゴー!!」内で原田泰造と堀内健が睡眠中の小川の部屋に忍び込み、3カウントを奪取すると言うドッキリ企画が敢行された事があった。

    2007年現在、高額納税者番付のスポーツ選手部門に公示ランクインした最後のプロレスラーである。納税額からその年の小川の年収が億単位にも上っていたことが推定されたため、小川の(特にハッスルにおける)ギャラが当時のファンやプロレスマスコミの間で話題となった。

    大のディズニー好き・ディズニー通としても知られており、東京ディズニーランドや東京ディズニーシーの特集番組などにしばしば出演している。ディズニー・チャンネルの『ディズニーパラダイス』では番組の最終回に出演した。

    巨人ファンである(特に清原和博のファン)。

    出身地ではないが現在、居住している茅ヶ崎市を愛しており、2006年4月には市内に小川道場を開設したのを始め、茅ヶ崎市主催の成人式やサザンオールスターズの茅ヶ崎凱旋ライブ(茅ヶ崎ライブ)にゲストとして参加している。2013年5月には全国少年柔道大会団体戦で優勝を勝ち取るまでになった。

    後に2008年の北京オリンピックの柔道男子100kg超級で金メダルを獲得した石井慧が高校生時代、稽古をつけてもらいに小川の元を訪ねたことがある。小川は当初、石井に口も利かなかったが、そのうちに「ハートがいい」と認めた。以後石井とは親交が続いており、北京オリンピック直後には石井に「『破壊なくして創造はなし』という橋本の精神を継いで欲しい」として「真・破壊王」の称号を与えたほど。しかし石井が総合格闘技に転向した際、「お前が石井をそそのかしたんだろうと周囲の人間に言われたが、俺が一番(石井の総合転向に)反対した」とコメントしている。

    2008年9月28日には、石井が北京オリンピックで獲得した金メダルを小川道場に寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した。

    橋本の死因はファースト・オン・ステージにあるという疑念を持っており、ZERO1とは二度と絡みたくないことをGENOME13に不参戦を表明した際にブログで明かしている。一方、FOS側は中村祥之がブログ上でGENOME13に参戦オファーはないと表明しており、その上で「プロレスのことは忘れてもらって大学に通っててください」とコメントを返している。

    風の音

    S.T.O

    ハッスルトレイン

    Fighting Artists〜Next One〜

    ギャラクシー・エクスプレス(国吉良一) ※オリジナルは子門真人のアルバムに収録

    爆勝宣言

    NWA世界ヘビー級王座

    NWAインターコンチネンタルタッグ王座

    1997年度プロレス大賞 話題賞

    1999年度プロレス大賞 敢闘賞

    40歳問題(2008年) ※ドキュメント映画

    ウルヴァリン:SAMURAI(2013年) - ヤクザ役

    2005年10月3日放送の日本テレビ系極上ワールドレコーズ 芸能人ドリームマッチ 僕らも世界一になっていいですか? スペシャル2では「車庫入れドリフト」で優勝(使用車種はトヨタ・カローラAE100系)。

    人気者でいこう!(ABCテレビ、2000年8月8日・2007年1月2日)

      芸能人格付けチェック※2回出演

      オールスター感謝祭(TBSテレビ)※「ぬるぬる大相撲」

      とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ)※「前略、道の駅より」男気ジャンケンレギュラー

      めちゃ2イケてるッ! 春の3時間超SP!【赤恥トップアスリート抜き打ち学力テスト】(2015年4月4日、フジテレビ

      新宿暴走救急隊(2000年、日本テレビ) - 本人役

      フードファイト(2001年、日本テレビ) - 梁役

      歓迎!ダンジキ御一行様(2001年、日本テレビ) - 満福役

      ゴールデンボウル(2002年、日本テレビ) - 館野五郎(ゴリ)役

      電車男(2005年、フジテレビ) - 借金取り役

      陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙〜(2007年、NHK総合 美濃部大監物)

      佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年、TBS) - ウエイター役

      ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(2015年12月13日、NHK BSプレミアム) - たてかべ和也(ジャイアン)役

      シティーハンター(2018年、日本テレビ) - 伊集院隼人(海坊主)役

      Jミート(2004年)

      日清食品 ごんぶと(2004年)

      AOKI(2004年)

      北海道ろうきん(2004年、2005年)

      トヨタ自動車(2011年) - 30歳のジャイアン役

      DMM.com証券(2014年) - ローラと清原和博と共演

      セイブ・ザ・ワールド(DVD特典として小川と橋本真也による「ハッスル吹き替え」を収録。小川はマイケル・ダグラスの日本語吹き替えを担当している)

      2005年秋に「CR FEVER 暴走王 小川直也」が登場。スーパーリーチでは鶏に扮したり刑事に扮したりと、コミカルな演出が好評であった。大当たりラウンド中の確変を賭けたバトルの対戦相手には、藤井軍鶏侍とグレートデビルが登場している。しかし、主戦場とするハッスルの大スポンサーである京楽産業.でなく、ライバル会社のSANKYOから本機を出したことについては、様々な憶測を呼んだ。

      ハッスル音頭(作詞を担当している)

        2004年8月15日にインディーズで発売。ドリームステージエンターテインメントがPRIDEヘビー級グランプリの会場で限定発売し、売れ行きが好調だったため同年9月16日にビクターエンタテインメントからメジャー発売された。

        勝手に侵略者(岩佐真悠子とのデュエット曲。テレビ東京の番組「ケロロ軍曹」の4代目エンディング曲)

        「反則ですか?」対橋本真也戦闘魂録(アミューズブックス、2000年2月)ISBN 4906613519

        ^ 当初、大仁田厚が初の新日本参戦ということで注目を集めていた大会だった

        ^ 「SPECIAL CLOSE-UP 小川と古賀」 近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年7月号、3 - 8頁

        ^ 「小川直也 引退特集 ザ・師弟対談 小川直也&原吉実」 近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年12月号、48 - 59頁

        ^ 「The Turning Point 終わり、始まる。」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年4月号、3 - 10頁

        ^ 小川直也氏は相撲部屋に勧誘されていた…元貴闘力の鎌苅氏「相撲なら若貴のライバル」 東スポWEB 2024/05/07 (2024年5月9日閲覧)

        ^ 「全日本王者小川 現役引退」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年11月号、78頁

        ^ 「第9回世界学生柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1987年3月号、50 - 52頁

        ^ 「第5回正力松太郎杯国際学生柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1987年3月号、34 - 38頁

        ^ 「全日本学生柔道体重別選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1987年11月号、36 - 43頁

        ^ 「特集 男女世界選手権大会 Part3」近代柔道 ベースボールマガジン社、1988年1月号、50 - 55頁

        ^ 「昭和63年全日本柔道選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1988年6月号、3 - 31頁

        ^ 「1460日の熱戦譜」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年8月号、17 - 27頁

        ^ 「特集 1989年男女世界選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1989年12月号、3 - 51頁

        ^ 週刊文春 2001年1月4日・11日号「総力特集 私だけが知る時代の主役60人 今こそ本当の話をしよう」(p.217 - 219)

        ^ 「WINNER'S INTERVIEW 全日本2連覇・小川直也5段」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年6月号、52 - 55頁

        ^ 「特集 1991年男女世界選手権大会 Part5」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年9月号、50 - 54頁

        ^ 「男子柔道 小川直也」 特選外車情報 F-ROAD スターライトヒーロー マガジンボックス社、1992年7月号増刊、83 - 85頁

        ^ 「第25回バルセロナオリンピック大会柔道競技」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年9月号、3- 76頁

        ^ 「スペシャルインタビュー 小川直也」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年11月号、54 - 58頁

        ^ 「全日本選手権V5 小川直也 スペシャルインタビュー」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年6月号、38 - 43頁

        ^ 「1992年嘉納治五郎杯国際柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、6 - 7頁

        ^ 「1993年男女世界選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、46頁

        ^ 「平成8年全日本柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年6月号、3 - 40頁

        ^ 「第26回アトランタオリンピック大会柔道競技」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年9月号、3 - 86頁

        ^ [小川 プロレス入り] スポーツニッポン 1997年2月18日 1面

        ^ “小川道場ホームページ”. ogawadojo.com. 2024年2月10日閲覧。

        ^ 「別冊付録 バルセロナ五輪テレビ観戦ガイド」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年8月号、8頁

        ^ 完全保存版 テレビ観戦ガイド Sports Graphic Number 1992年7月6日 67頁

        ^ 「徹底分析 日本VS世界の重量級」 近代柔道 ベースボールマガジン社、1995年6月号、24 - 28頁

        ^ 制作協力 NHKサービスセンター、販売 エルコム『講道館柔道 固技 分類と名称』(VHS) 3巻、制作・企画・監修 講道館、日本 東京〈講道館柔道ビデオシリーズ〉、1993年8月。「腕挫腕固」 

        ^ 「特集 第25回オリンピックバルセロナ大会柔道競技」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年9月号、61頁

        ^ 「柔道時評 小川復活への道」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、48頁

        ^ 西花池湖南『三沢と橋本はなぜ死ななければならなかったのか』河出書房新社、2017年、292頁。ISBN 9784309026220。 

        ^ 筑波大学大学院に合格!オレは“三足のわらじ”だ - 東京スポーツ・2010年7月16日

        ^ 小川が筑波大大学院を卒業 - 東京スポーツ・2013年3月26日

        ^ 小川直也がプロレス&格闘技引退!柔道界正式復帰へ - 東京スポーツ・2018年6月11日

        ^ 小川 直也 NAOYA OGAWA IGFプロレスリング

        ^ 「Sports Graphic Number」917・918合併号記事内「夢の有馬記念 Dream Race 1990-2016」でのロングインタビュー『オグリキャップ&武豊 奇跡1990 「26年目のオグリコール」』

        ^ 全国少年柔道、団体戦は神奈川の小川道場がV 読売新聞 2013年5月5日

        ^ 東京スポーツ・2008年8月30日付 1面

        ^ 東京スポーツ 小川直也連載「暴走レッドゾーン」2008年8月24日

        ^ 柔道・石井慧、小川道場に金メダル贈る 産経新聞 2008年9月29日付

        ^ “大山のぶ代、『ドラえもん』と歩んだ26年間をドラマ化 主演は鈴木砂羽”. ORICON STYLE (2015年11月13日). 2015年11月13日閲覧。

        ^ 小川「ハッスル音頭」で緊急デビュー、スポニチアネックス、2004年8月19日。

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        1956 日本の旗 夏井昇吉

        58 日本の旗 曽根康治

        61 オランダの旗 アントン・ヘーシンク

        65 日本の旗 猪熊功

        67 日本の旗 松永満雄

        69 日本の旗 篠巻政利

        71 日本の旗 篠巻政利

        73 日本の旗 二宮和弘

        75 日本の旗 上村春樹

        79 日本の旗 遠藤純男

        81 日本の旗 山下泰裕

        83 日本の旗 斉藤仁

        85 日本の旗 正木嘉美

        87 日本の旗 小川直也

        89 日本の旗 小川直也

        91 日本の旗 小川直也

        93 ポーランドの旗 ラファウ・クバツキ

        95 フランスの旗 ダビド・ドゥイエ

        97 ポーランドの旗 ラファウ・クバツキ

        99 日本の旗 篠原信一

        2001 ロシアの旗 アレクサンドル・ミハイリン

        03 日本の旗 鈴木桂治

        05 オランダの旗 デニス・ファンデルヘースト

        07 日本の旗 棟田康幸

        08 フランスの旗 テディ・リネール

        10 日本の旗 上川大樹

        11 ウズベキスタンの旗 アブドゥロ・タングリエフ

        17 フランスの旗 テディ・リネール

        60kg級

        66kg級

        73kg級

        81kg級

        90kg級

        100kg級

        100kg超級

        無差別級

        | 五輪

        1965 オランダの旗 アントン・ヘーシンク

        67 オランダの旗 ウィレム・ルスカ

        69 日本の旗須磨周司

        71 オランダの旗 ウィレム・ルスカ

        73 日本の旗 高木長之助

        75 日本の旗 遠藤純男

        79 日本の旗 山下泰裕

        81 日本の旗 山下泰裕

        83 日本の旗 山下泰裕

        85 大韓民国の旗 趙容徹

        87 ソビエト連邦の旗 グリゴリー・ベリチェフ

        89 日本の旗 小川直也

        91 ソビエト連邦の旗 セルゲイ・コソロトフ

        93 フランスの旗 ダビド・ドゥイエ

        95 フランスの旗 ダビド・ドゥイエ

        97 フランスの旗 ダビド・ドゥイエ

        99 日本の旗 篠原信一

        2001 ロシアの旗 アレクサンドル・ミハイリン

        03 日本の旗 棟田康幸

        05 ロシアの旗 アレクサンドル・ミハイリン

        07 フランスの旗 テディ・リネール

        09 フランスの旗 テディ・リネール

        10 フランスの旗 テディ・リネール

        11 フランスの旗 テディ・リネール

        13 フランスの旗 テディ・リネール

        14 フランスの旗 テディ・リネール

        15 フランスの旗 テディ・リネール

        17 フランスの旗 テディ・リネール

        18 ジョージア (国)の旗 グラム・ツシシビリ

        19 チェコの旗 ルカシュ・クルパレク

        21 日本の旗 影浦心

        22 キューバの旗 アンディ・グランダ

        23 フランスの旗 テディ・リネール

        24 大韓民国の旗 キム・ミンジョン

        60kg級

        66kg級

        73kg級

        81kg級

        90kg級

        100kg級

        100kg超級

        無差別級

        | 五輪

        1948 松本安市

        1949 木村政彦, 石川隆彦

        1950 石川隆彦

        1951 醍醐敏郎

        1952 吉松義彦

        1953 吉松義彦

        1954 醍醐敏郎

        1955 吉松義彦

        1956 (中止)

        1957 夏井昇吉

        1958 曽根康治

        1959 猪熊功

        1960 神永昭夫

        1961 神永昭夫

        1962 竹内善徳

        1963 猪熊功

        1964 神永昭夫

        1965 坂口征二

        1966 松永満雄

        1967 岡野功

        1968 松阪猛

        1969 岡野功

        1970 篠巻政利

        1971 岩釣兼生

        1972 関根忍

        1973 上村春樹

        1974 佐藤宣践

        1975 上村春樹

        1976 遠藤純男

        1977 山下泰裕

        1978 山下泰裕

        1979 山下泰裕

        1980 山下泰裕

        1981 山下泰裕

        1982 山下泰裕

        1983 山下泰裕

        1984 山下泰裕

        1985 山下泰裕

        1986 正木嘉美

        1987 正木嘉美

        1988 斉藤仁

        1989 小川直也

        1990 小川直也

        1991 小川直也

        1992 小川直也

        1993 小川直也

        1994 金野潤

        1995 小川直也

        1996 小川直也

        1997 金野潤

        1998 篠原信一

        1999 篠原信一

        2000 篠原信一

        2001 井上康生

        2002 井上康生

        2003 井上康生

        2004 鈴木桂治

        2005 鈴木桂治

        2006 石井慧

        2007 鈴木桂治

        2008 石井慧

        2009 穴井隆将

        2010 高橋和彦

        2011 鈴木桂治

        2012 加藤博剛

        2013 穴井隆将

        2014 王子谷剛志

        2015 原沢久喜

        2016 王子谷剛志

        2017 王子谷剛志

        2018 原沢久喜

        2019 ウルフ・アロン

        2020 羽賀龍之介

        2021 太田彪雅

        2022 斉藤立

        2023 王子谷剛志

        2024 中野寛太

        オーヴィル・ブラウン

        ルー・テーズ

        ホイッパー・ビリー・ワトソン

        ディック・ハットン

        パット・オコーナー

        バディ・ロジャース

        ジン・キニスキー

        ドリー・ファンク・ジュニア

        ハーリー・レイス

        ジャック・ブリスコ

        ジャイアント馬場

        テリー・ファンク

        ダスティ・ローデス

        トミー・リッチ

        リック・フレアー

        ケリー・フォン・エリック

        ロニー・ガービン

        リッキー・スティムボート

        スティング

        藤波辰爾

        蝶野正洋

        ザ・グレート・ムタ

        バリー・ウインダム

        シェーン・ダグラス

        クリス・キャンディード

        ダン・スバーン

        小川直也

        ゲーリー・スティール(英語版)

        マイク・ラパーダ(英語版)

        サブゥー

        スティーブ・コリノ

        橋本真也

        ケン・シャムロック

        ロン・キリングス

        ジェフ・ジャレット

        AJスタイルズ

        レイヴェン

        ライノ

        クリスチャン・ケイジ

        アビス

        アダム・ピアース

        ブレント・オルブライト(英語版)

        ブルー・デーモン・ジュニア

        コルト・カバナ

        ザ・シーク(英語版)

        カハガス

        ロブ・コンウェイ

        小島聡

        天山広吉

        ジャックス・デイン

        ティム・ストーム

        ニック・オールディス

        Cody

        トレバー・マードック

        マット・カルドナ

        タイラス

        EC3

        トム・ラティマー(現在

        サモア・ジョー&ケイジ・サコダ

        スティーブ・コリノ&マイク・ラパダ

        1 大谷晋二郎&石川雄規

        2 大谷晋二郎&田中将斗

        3 ネイサン・ジョーンズ&ジョン・ヘンデンリッチ

        4 橋本真也&小川直也

        5 トム・ハワード&マット・ガファリ

        6 橋本真也&小川直也

        7 スティーブ・コリノ&CWアンダーソン

        8 大谷晋二郎&田中将斗

        9 大森隆男&越中詩郎

        10 橋本真也&藤原喜明

        11 大谷晋二郎&大森隆男

        12 田中将斗&坂田亘

        13 佐藤耕平&崔領二

        14 日高郁人&藤田ミノル

        15 スティーブ・コリノ&Y2P-160kg

        16 佐藤耕平&崔領二

        17 大森隆男&中西学

        18 高山善廣&佐藤耕平

        19 藤田ミノル&菅原拓也

        20 ミスター・レスリングIII&チャールズ・エヴァンス

        21 崔領二&浪口修

        22 佐藤耕平&KAMIKAZE

        23 日高郁人&澤宗紀

        24 大谷晋二郎&曙

        25 佐藤耕平&KAMIKAZE

        26 田中将斗&ゼウス

        27 植田使徒&小幡優作

        28 曙&関本大介

        29 大谷晋二郎&KAMIKAZE

        30 田中将斗&杉浦貴

        31 佐藤耕平&関本大介

        32 田中将斗&ジェームス・ライディーン

        33 TARU&ハートリー・ジャクソン

        34 曙&将軍岡本

        35 小幡優作&KAI

        36 佐藤耕平&鈴木秀樹

        37 将軍岡本&吉江豊

        38 田中将斗&火野裕士

        39 TARU&クリス・ヴァイス

        40 田中将斗&菅原拓也

        41 竹田誠志&宮本裕向

        42 岩﨑永遠&佐藤嗣崇

        43 火野裕士&クワイエット・ストーム

        44 大谷晋二郎&今成夢人

        45 橋本友彦&牙城

        46 太嘉文&松永準也

        47 ヤス久保田&ヒデ久保田

        48 佐藤嗣崇&松永準也

        49 真霜拳號&ナカ・シュウマ

        51 古橋廣之進

        52 石井庄八

        53 山田敬蔵

        54 長沢二郎

        55 古川勝

        56 笹原正三

        57 第24回世界卓球選手権日本代表選手団

        58 曾根康治

        59 山中毅

        60 ローマ五輪日本男子体操チーム

        61 大日本紡績貝塚女子バレーボールチーム

        62 三宅義信

        63 田中聡子

        64 遠藤幸雄

        65 重松森雄

        66 深津尚子

        67 鈴木惠一

        68 君原健二

        69 第6回世界柔道選手権大会日本代表選手団

        70 西側よしみ、第17回世界体操競技選手権日本代表チーム

        71 中山紀子、湯木博恵

        72 田口信教、ミュンヘン五輪体操日本男子選手団

        73 第8回世界柔道選手権大会日本代表選手団

        74 バレーボール全日本女子チーム

        75 エベレスト女子登山隊

        76 モントリオール五輪バレーボール日本女子チーム

        77 河野満

        78 山下泰裕

        79 藤猪省三

        80 瀬古利彦

        81 釜本邦茂

        82 室伏重信

        83 黒岩彰

        84 山下泰裕

        85 正木嘉美

        86 中山竹通

        87 小川直也

        88 鈴木大地

        89 伊藤みどり

        90 橋本聖子

        91 谷口浩美

        92 岩崎恭子

        93 浅利純子

        94 リレハンメル五輪日本代表複合チーム

        95 田村亮子

        96 恵本裕子

        97 鈴木博美

        98 清水宏保

        99 篠原信一

        00 高橋尚子

        01 田村亮子

        02–03 北島康介

        04 野村忠宏

        05 冨田洋之

        06 荒川静香

        07 吉田沙保里

        08 北島康介

        09 内村航平

        10 吉田沙保里

        11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表

        12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団

        13 内村航平

        14 羽生結弦

        15–16 伊調馨

        17 桐生祥秀

        18 羽生結弦

        19 ラグビー日本代表

        20–21 大野将平

        22 髙木美帆

        VIAF

        日本

        日本の男子柔道家

        オリンピック柔道日本代表選手

        柔道のオリンピックメダリスト

        日本のオリンピック銀メダリスト

        アジア競技大会柔道日本代表選手

        日本のアジア競技大会銅メダリスト

        日本のプロレスラー

        柔道出身のプロレスラー

        オリンピック出場経験があるプロレスラー

        NWAに参戦したプロレスラー

        日本の総合格闘家

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        プロレス出身の総合格闘家

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        1968年生

        存命人物

2024/09/27 02:11更新

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小川 航基(おがわ こうき)
1997年8月8日生まれの有名人 神奈川出身

小川 航基(おがわ こうき、1997年8月8日 - )は、神奈川県横浜市都筑区出身のプロサッカー選手。エールディヴィジ・NECナイメヘン所属。ポジションはフォワード(FW)。日本代表。 横浜市立南山…

小川 和夫(おがわ かずお)
1909年8月10日生まれの有名人 出身

小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝…

小川 ゆい(おがわ ゆい)
1991年11月8日生まれの有名人 埼玉出身

小川 ゆい(おがわ ゆい、1991年11月8日 - )は、日本のタレント。福岡県出身。 旧芸名は小川 祐依(読み同じ)で、高校在学中の2008年に参加・出場した『週刊少年チャンピオン』マスコットガー…

小川 美佳(おがわ みか)
1984年7月30日生まれの有名人 東京出身

小川 美佳(おがわ みか、1984年7月30日 - )は、日本の女性歌手、ものまねタレント。 本名同じ。東京都出身。身長は160cm。所属事務所はオスカープロモーションを経て、現在はジョリーアンリミ…

小川 まるみ(おがわ まるみ)
1981年2月15日生まれの有名人 東京出身

小川 まるみ(おがわ まるみ、1981年2月15日 - )は日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。東京農業大学第一高等学校卒業。インターアクト所属。 タレント、グラビアアイドルとして幅広く…

小川 智美(おがわ ともみ)
1978年11月18日生まれの有名人 千葉出身

小川 智美(おがわ ともみ、1978年11月18日 - )は千葉県出身のタレント、女優。愛称はともみっち。英検2級。 池袋ウエストゲートパーク(第8話ヘルス嬢役 2000年、TBS) ナースのお仕事…

小川 瀬里奈(おがわ せりな)
1987年1月12日生まれの有名人 出身

小川 瀬里奈(おがわ せりな、1987年1月12日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。アルファコア所属。イタリアミラノ出身。日本人とイタリア人のハーフである。 趣味はケーブルテレビ観賞、ダ…

小川 笹乃(おがわ ささの)
1995年7月17日生まれの有名人 熊本出身

小川 笹乃(おがわ ささの、旧芸名:ヲガワ ササノ、英語: Sasano Ogawa、1995年7月17日 - )は、日本の元モデル、女優である。熊本県合志市出身、埼玉県在住。血液型はA型。 …

小川 沙織(おがわ さおり)
1978年2月14日生まれの有名人 福岡出身

小川 沙織(おがわ さおり、1978年2月14日 - )は、福岡県福岡市出身のタレント、モデル、女優。 オスカープロモーション(女性部)に所属していた。血液型はA型。夫はカメラマンの下川順司。 布…

小川 エレナ(おがわ えれな)
1962年7月4日生まれの有名人 東京出身

小川 エレナ(おがわ エレナ、1962年7月4日 - )は、日本の元タレント・モデル・女優。本名、ELENA金谷DEJAVING(エレナ・かなや・ディジャービン)。 東京都渋谷区出身。所属していた事…

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小川直也
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