松方正義の情報(まつかたまさよし) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
松方 正義さんについて調べます
■名前・氏名 |
松方正義と関係のある人
谷干城: 明治29年(1896年)に成立した松方正義と大隈の連立政権(第2次松方内閣)でも軍拡予算に反対したが、近衛が松方の推薦で貴族院議長に就任、谷も松方を支持しているため決定的な対立を避け予算を通過させた。 物集高見: 夏、避暑先の神奈川県横浜市金沢区富岡で、宮内大臣土方久元や御歌所長高崎正風、警視総監三島通庸などの高官に会い、ある高官(松方正義ともいわれる)によって外交官に推されそうになったが謝絶した。 吉原重俊: 明治11年(1878年)11月パリに出張し松方正義、上野景範、青木周蔵とともに不平等条約改定交渉に努めた。 渡辺国武: 渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。 西徳二郎: 1897年3月に枢密院顧問官に任命されたが、同年11月6日、第2次松方正義内閣の外務大臣に任じられ、続く第3次伊藤博文内閣でも外務大臣を務めた。 松方三郎: 1899年(明治32年)8月1日 - 松方正義と妾・キタの子として生まれる。 八木沼純子: 内閣総理大臣を2度務めた松方正義及び山本権兵衛の玄孫にあたる。 吉原重俊: 重俊は松方正義に日銀副総裁として留学生時代からの縁で仙台藩出身の富田鉄之助を推した。 原敬: 一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった。 山本権兵衛: 松方正義が1898年(明治31年)1月に辞任して以来15年振りの薩摩出身者であり、2月20日に政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。 三島通庸: 岩倉具視右大臣、徳大寺実則宮内卿、松方正義大蔵卿、品川弥二郎農商務大輔ら政府高官、安積疎水掛、県庁高官、地方有志らが列席。 中部慶次郎: これ以外にも鳩山一郎・鳩山由紀夫・小川平吉・岸田文雄・鈴木善幸・麻生太郎・正田英三郎・安西孝之・三木武夫・齊藤了英・藤山愛一郎・田中角栄・田中直紀・池田勇人・池田行彦・中曽根康弘・5代目太田清蔵・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・津軽義孝・中内㓛・坂野常礼・宮原旭・清水満昭・豊田章一郎・豊田達郎・飯田新一・鮎川義介・西園寺公望・橋本龍太郎・河野洋平・河野太郎・久邇宮邦彦王・仙石政敬・梅溪通虎・正力亨・池坊専永・五島昇・大隈信幸・北野隆興・竹中統一・米内光政・竹下登・金丸信・小沢一郎・山本権兵衛・松方正義・山下亀三郎・岡崎忠・伊藤次郎左衛門・下条進一郎・安倍晋三・安倍晋太郎・岸信介・佐藤栄作・佐藤信二・木内重四郎・岩崎弥太郎・加藤高明・幣原喜重郎などと縁戚関係にある。 山本権兵衛: 1922年(大正11年)の高橋内閣総辞職の際、元老の一人西園寺公望は病中であり、松方正義は、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)より枢密院議長の清浦奎吾とともに山本を協議に加える許可を得た。 井上毅: 続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。 西園寺公望: 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。 徳富蘇峰: 『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。 吉原重俊: 岩倉使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省書記官となり、大蔵省に転じて大蔵卿松方正義の下で活躍した。 松本重治: 母方の祖父は松方正義。 山下長: 弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。 堀久作: 日活の経営に携わるきっかけとなったのが、『東京瓦斯』(現『東京ガス』)の常務取締役など二十数社の役員を務めていた尊敬する経済界の重鎮・松方乙彦(元総理大臣・松方正義の息子)の言葉である。 富田鉄之助: ところが、当時の横浜正金銀行に対する外国為替買取資金の供給を巡って大蔵大臣・松方正義と衝突、松方の政治的圧力を受けても持論を改めなかったためにわずか1年7ヶ月で罷免された。 長谷川才次: 7月14日、長谷川は共同常務理事の松方三郎(松方正義の末子)と直接交渉し、「覚書」の撤廃を実現させた。 三浦謹之助: 明治天皇、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、山縣有朋、西園寺公望、松方正義、大隈重信、桂太郎、寺内正毅、原敬、加藤高明、浜口雄幸、犬養毅、井上馨、平沼騏一郎、牧野伸顕、福沢諭吉、中村福助、三浦環、小唄勝太郎、大倉喜八郎、安田善次郎、福沢桃介 松本重太郎: 明治の元勲松方正義の十三男の虎吉(1890-1973)を養子に迎えたが、虎吉が生まれる前年の1889年に跡継ぎとして井上枩蔵を選んでいる。枩蔵の妻は松方正義の四女光子で、その子がジャーナリストの松本重治である。重治は、松方正義の三男で九州電気軌道の初代社長(1908-1930)だった幸次郎の娘花子と結婚し松方家との関係はいっそう深まった。 頭山満: そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。 床次竹二郎: 首相として推奏を受けていた加藤友三郎が辞退した場合、憲政会の加藤高明総裁が組閣される情勢であり、政友会では局外中立で加藤友三郎を支えることで一致し、元老松方正義に床次を派遣して加藤友三郎内閣の成立を推進するとともに、加藤高明内閣の出現を阻止した。 清浦奎吾: 1914年(大正3年)、シーメンス事件のあおりで倒れた第1次山本内閣の後を受けて、元老松方正義は徳川家達貴族院議長を奏薦し、3月29日に大命降下した。松方正義は清浦を提案し、山縣に説得を依頼した。 渡辺国武: 明治十四年の政変(1881年)によって渡辺に期待をかけていた松方正義が参議大蔵卿になり、そのこともあって福岡県令に就任し、官界に復帰する。 牧野伸顕: 1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ牧野が宮内大臣に就任することとなった。 田丸篤志: 総理倶楽部 声劇円盤〜歌曲を添えて〜①、③(松方正義) |
松方正義の情報まとめ
松方 正義(まつかた まさよし)さんの誕生日は1835年3月23日です。鹿児島出身の政治家のようです。
現在、事件、解散、病気、結婚、再婚、卒業、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。1924年に亡くなられているようです。
松方正義のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日〈1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年〉7月2日)は、日本の政治家、財政家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目) に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。父・正恭は、谷山郷士・松田為雅の次男で鹿児島城下士の松方左衛門に養子に入った人物で、大島と鹿児島の貿易によって財を為した。しかし、松方が10歳の頃、叔父の田中清造に貸した金が返ってこなかったことで父は生活苦に陥り、幼い松方は貧困の中で育った。さらに、10歳の時に母を、13歳の時に父を亡くした。 弘化4年(1847年)、藩士の子弟が通う藩校「造士館」に入る。この時期に朱子学や水戸学などの学問を通じて尊皇思想を育んだ。 嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された。 文久元年(1861年)、27歳で御家老座御帳掛書助役となり、文久2年(1862年)に藩主・島津茂久の父・島津久光の出府に際して御先定御供を命じられ、名前を正作と改める。さらに同年6月に江戸藩邸において助左衛門と改名。 この時に久光の側近となったことが藩官僚として出世するきっかけとなった。この後の久光の薩摩への帰国にも同道したが、この際に久光の行列の間に割って入って通過した英国人3人に激昂した薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかって1名死亡、2名負傷させた生麦事件に遭遇した。騒然となって藩士たちが続々と現場にかけつけたので久光の駕籠の周りは無人となった。そのため松方が大声で供回りの者を呼び戻して警護に当たらせた。西郷隆盛は後にこの時の松方の冷静さを称賛していた。 文久3年(1863年)5月に御小納戸勤役となる。さらに6月に議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。これ以降常に久光・茂久の側にあって藩政の枢機に参与した。しかし、低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという。 京阪にあった大久保利通とは緊密に連絡を取り合った。彼は一貫して大久保を兄事していた。この大久保との親密な関係が明治以降松方が政府の中で大きな役割を果たすきっかけとなる。 慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。慶応3年(1867年)10月、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けに当たった。12月には乾行丸掛に任じられて小銃購入にもあたった。 この頃、長崎奉行・河津祐邦は配下の振遠隊を使って薩摩藩や海援隊に圧力を加えていたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗を喫したのを知るとフランス船に公金1万7000両を積み込んで逃亡を図ろうとした。これを阻止するため松方は、土佐藩の佐佐木高行と連携して長島奉行所を占領。公金を返還しない場合には断固たる処置が下されることをフランス船にいる河津に通告、怯えた河津は公金を返還した。この公金を元手に長崎在留各藩藩士の合議による会議所をトップとした長崎統治体制を整え、長崎の秩序維持と人心安定に努めた。また振遠隊の暴挙を防ぐため、松方は単身でその屯営に赴き、隊長に面会し、厳然たる態度で説諭して帰順させた。この後、長崎裁判所の設置まで長崎の統治は事実上、松方と佐佐木の合議によって行われた。 明治元年(1868年)1月に朝廷より沢宣嘉が九州鎮撫使として送られてきて、2月には長崎裁判所が設置され、沢がその総督を兼務した。松方と佐々木は鎮撫使参謀に任じられたことで新政府に出仕することとなった。松方は3月に長崎裁判所参謀に就任したのを経て、日田県が設置されると大久保の推挙でその知事に就任した(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)。 殖産興業に務め、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。また日田地方で横行していた堕胎や捨て子の悪習を断つため、養育館を創設して育児事業に乗りだしたり、私財を出して官民の寄付を募る基金を創設したり、捨て子や堕胎をやめさせるための様々なことに対して報奨金を与えたりした。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保の評価を得、その功績、推挙で明治3年(1870年)3月に民部大丞・租税権領に就任し、中央政府へ栄転した。 以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿である大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発で賄ったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。 松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス財務大臣レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)と交流し、彼の助言で、金本位制と中央銀行を中心とする統一的な近代的通貨信用制度の整備の必要性を痛感した。同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、紀尾井坂の変で暗殺された大久保の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。大久保の死は彼の股肱である松方にとって大きな衝撃があった。しかし同時に、松方の台頭を抑える大きな重石が無くなったことも意味した。これ以降松方は自らを財政経済政策面で大久保の遺志を継ぐものと自らを任じ、政府内外にそれをアピールするようになった。 その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」設立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、代わって参議兼大蔵卿に就任した。翌15年に日本に中央銀行である日本銀行を創設した。 松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税、醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。 なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである。 明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任。 明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて内閣総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし、閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。その後、第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣の大命が下り第2次松方内閣(松隈内閣)を組閣し、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任するが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈率いる進歩党との連繋が上手くいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。 日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案通りに、山縣有朋、西郷従道らとともに日英同盟締結に賛成している。元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。ロンドンタイムズは「松方伯は伊藤侯に次ぐ大政治家であり、日本が政治・経済の面で列国と肩を並べるまでになったのは松方伯によるところが大きい」と論評している。 オックスフォード大学からは法学名誉博士号を授与されている。松方は「自分は横文字も読めず学問もしたことがない、人違いではないのか」と述べて初めは断ったが、オックスフォード大学は「学問は事業をする道を学ぶものなので、大事業を成し遂げた人に贈るのである」と趣旨を説明した。アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアでは皇帝ニコライ2世や外相セルゲイ・ウィッテと会見している。特にウィッテとの会見は5時間に及んだ。すでにシベリア鉄道が旅順まで全通している中、ウィッテは日露両国が共同して中国に圧力をかける必要があると述べたのに対し、松方は、日本はロシアとの親交を増進すること以外に関心はなく、日露両国とも産業の発展、国富の増強を図り、武力に訴える行動をとるべきではないと述べて牽制した。 また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から枢密顧問官。大正6年(1917年)から内大臣を務めた。内大臣時代は大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。宮中某重大事件においては婚約見直し派であり、事件後には責任を取るとして単独で辞表を提出しているが、これは却下されている。 大正11年(1922年)の山縣有朋の死後、元老は松方と西園寺公望のみとなったが、松方は高齢であったため西園寺が主導する形となった。しかし、西園寺が病中であった6月の高橋内閣崩壊にともなう首相選定では主導的立場となり、加藤友三郎内閣を成立に導いた。大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。東京府東京市芝区三田の自邸で国葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園。 1934年(昭和9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が青山霊園で盛大に行われ、斎藤実首相以下、鈴木貫太郎侍従長、若槻禮次郎民政党総裁、牧野伸顕内大臣らが出席した。 松方は内閣総理大臣経験者の伊藤博文や黒田清隆、山縣有朋らより年上であり(1835年生まれ。大隈重信よりも年上である)、内閣総理大臣就任時より死去まで最年長の経験者であった。 松方は財政的な業績については評価されることが多いが、政治家としての松方の評価はおおむね低い。松方を政治的無能とする評価は、第一次松方内閣における「選挙干渉」、および第二次内閣での「進歩党の意見を尊重せず」意見を変えたことが原因となっていることが多いが、松方の政党政治への貢献が少ない、あるいは冷淡だったことが背景にあると思われる。また松方が大久保利通の「番頭」然としていたことが他の維新の元勲と比して一段格の低い人物というイメージを形成した原因になっていると考えられる。その結果、「政治的無能にもかかわらず薩摩閥に所属していたが故に藩閥政治で重きを受けた」というようなイメージが形成されたのだ思われる。例えば尾崎咢堂の「公は重々しいところはあるが、感じの至って鈍い人で、公がもしも薩摩人でなかったら、総理大臣にはなれる人物ではなかったろうと思う」、大隈重信の「松方も薩摩に生まれていなかったならば、せいぜい知事ぐらい」、陸奥宗光の「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」といったように酷評をされることが多かった。 確かに松方は政党や政党政治の積極的意義はあまり評価していなかった。また自己が重要と判断した問題以外の課題のために政治的活動を行うことにあまり熱意をもたなかった。その辺が近代的な政治家としての資質にかけると評価される所以と思われる。しかし松方は、自分が国家のために必要だと判断した課題を実現するためには政党との妥協も辞さなかったし、自己の信念に基づき大局的な方針を立て、それを着実に、万難を排して実現した松方はやはり一級の政治家であると評価すべきであろうと松方正義の伝記を著した室山義正は論じている。 薩摩閥の元勲たちの中では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道・大山巌は軍人然としていて政治的野心に乏しく、年齢やキャリアや財政政策の明るさから薩摩閥の中核となったのは松方だった。「松方閥」と呼ばれる人脈を政府・宮中内に形成して大きな影響力を持った。ただ、彼は元勲の中では維新前の勤皇志士としての功労が最も少ない人物で、実質的にはほぼ維新後の功労のみで元老・公爵にまで立身した人物だった。維新の功臣に挙げられているものの、大政奉還時に九州の一隅におり、その後九州の治平や地方官としての功績はあれど、それは大局に影響するものではなかったので、自ら軍馬の間を往来して時の政治を左右した元勲には大きく見劣りする面はあった。 しかし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。金本位制導入の際には、明治天皇から「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」とまで言わしめた。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。 日清戦争の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。 松方は天皇の直臣として自らの役割や進むべき道はどうあるべきかを大きな座標軸として人生を歩んだ。松方が不退転の覚悟で実行していった財政経済政策にはほとんど例外なく天皇の強い支持が与えられた。大久保の財政経済部門の「番頭」から天皇の財政経済部門の「番頭」に自らの立場を再定義した。松方が政党政治に違和感を持っていたのはそのためである。一君万民の天皇中心体制を確固とした基盤に置くことが松方の主要関心事であり続けた。晩年に内大臣として皇太子の欧州歴訪と摂政就任に熱意を注いだのは皇室への最後の御奉公であった。 奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(1902年(明治35年)5月8日)によると身長は172cm、体重は78kgとある。 松方は女好きで、早世した2男も含めて15男11女の26子をもうけた。ある日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが、咄嗟に思い出せず「いずれ帰宅、調査の上、奉答仕りまする(後日、調査の上、報告申し上げます)」と奏上した逸話もある。 松方と接したことのある尾崎行雄は松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎないと記している。 歴代内閣総理大臣経験者では、一番生年月日が早く(1835年3月23日生まれ)、山縣有朋が死去した1922年(大正11年)2月1日から自身が死去する1924年(大正13年)7月2日までは存命中の最古参の総理大臣経験者となっていた。また、西園寺公望に抜かれるまで歴代総理大臣の最長寿記録を保持していた(現在の記録は東久邇宮稔彦王の102歳)。 1874年(明治7年)2月18日 - 正五位 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1888年(明治21年)4月9日 - 銀製黄綬褒章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1896年(明治29年)6月20日 - 正二位 1899年(明治32年)10月31日 - 勲一等旭日桐花大綬章 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1916年(大正5年)7月14日 - 菊花章頸飾 1922年(大正11年)9月18日 - 公爵 1924年(大正13年)
7月5日 - 国葬(葬儀執行:7月12日) 1892年(明治25年)7月28日 - ハワイ王国:カラカウア第一等勲章 1902年(明治35年)9月30日
ベルギー王国:レオポール勲章グランコルドン 1903年(明治36年)2月23日 - イギリス帝国:聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス 妻:満佐子(1845–1920) - 薩摩藩士・川上助八郎の長女。荒田村(現・鹿児島市)に生まれ、1860年に結婚。4男1女の子を産み、妾の子供たちも一緒に養育した。1877年上京、自邸とした三田邸(現・三田二丁目)は、政府から払い下げられた伊予松山藩久松松平家中屋敷跡の7000坪の土地で、敷地内には沢庵禅師作庭の庭もあった。1887年の明治天皇行幸時には新館「恵露館」を建設して迎え、天皇より子供の数を尋ねられた正義は子沢山のため即答できなかったという。 長男:巌(1862–1942) - 実業家、銀行家。十五銀行頭取。父・正義没後に公爵位と資産を相続したが、銀行破綻の責任を取り三田の本邸など私財の大半を放出。三田の邸宅は1932年よりイタリア大使館用地となった。養嫡子に弟・松方幸次郎四男の勝彦(1904年生)を迎えるが1936年12月18日に没し、未亡人(吉川重吉の四女)は獅子文六と再婚。勝彦没後、末弟・松方三郎を養子にし家督を譲る。
次男:正作(1863–1945) - 外交官。ブリュッセル大学留学、外務省を経て猪苗代水力電気取締役。
三男:幸次郎(1865–1950) - 実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員。
四男:正雄(1868–1942) - 実業家。浪速銀行頭取、福徳生命保険、阪神電鉄社長、大阪ガス社長、大阪タイガース〔大阪野球倶楽部〕初代取締役会長・オーナー、日本職業野球連盟初代副総裁、1986年に野球殿堂入り。
義男の次男・康は、三井住友海上社長。
正雄の長女・富子は中上川彦次郎の六男・小六郎と結婚。小六郎は京都大学理科卒。三井生命保全部長、福岡製紙監査役を務めた。 正雄の次男・鉄雄の長女・信子は、弘世現の長男・源太郎と結婚。 正雄の三男・三雄は、白洲次郎の妹・宣子と結婚。 長女:千代子(1869–1893) - 武笠清太郎夫人。清太郎は文久2年に滋賀県士族(彦根藩士)武笠資節の子に生まれ、東京帝国大学工科大学土木科を卒業して九州鉄道に入社、鉄道院技師のほか、母校の教授を務めた。 五男:五郎(1871–1956) - 実業家。東京帝国大学法科卒業後英独に留学し、川崎造船所勤務を経て、東京瓦斯電気工業社長、東京自動車工業(現・日野自動車)社長などを歴任。
次女:幾姫(?–1873) 三女:廣子(1874–1951) - 銀行家の川上直之助(1865–1950)に嫁ぎ、3男4女をもうける。川上は鹿児島県の士族に生まれ、東京帝大法科卒業後米独に学び、横浜正金銀行に入行、日本勧業銀行理事、日本銀行監事を務めた。 六男:虎雄(1876–1898) - 陸軍砲兵見習士官在職中に病死。 七男:金熊(1878–1880) 四女:津留子(1878–1956) - 海軍少佐・谷村愛之助(?-1900)夫人 八男:乙彦(1880–1952) - 実業家。日本活動写真社長。学習院を経てハーバード大学卒業、在米10余年ののち帰国し、日本石油、新潟鐵工所などの重役を務める。
五女:光子(1881–1975) - 松本枩蔵夫人。1男1女をもうける。
九男:正熊(1881–1969) - 実業家。十勝鉄道会長ほか。東京帝国大学農科大学林学科実科を出て米国で3年暮らし、帝国製糖、北海道殖産、北海道製糖の各社長などを務めた。ヴォーリズ設計の麻布区西町の自邸は、三女の松方種子が創立した西町インターナショナルスクールの校舎として戦後使われ、東京都選定歴史的建造物として保存されている。庭にあった三色の花をつける椿は麻布七不思議の「化け椿」として知られていた。
十男:義輔(1883–1972) - 実業家。三光紡績取締、日本特殊陶業監査。学習院、東京帝大法科中退後、米国で3年遊学し、1909年に日本銀行入行。
十一男:金次郎(1886–1906) - 1906年6月にアナポリスの海軍兵学校へ入学。ポーツマス海軍兵学校在学中病死。 十二男:十一郎(?–1888) 十三男:虎吉(1890–1973) - 松本重太郎の養子
六女:梅子(1892–1978) - 明治の豪商として知られる日本橋呉服商の4代堀越角次郎(1885–1951)夫人。裏千家流の女流茶人・堀越宗円としても知られる。 十四男:義行(1896–1970) - 森村市左衛門の婿養子 十五男:三郎(1899–1973) - 登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。 七女:文子(1903–1956) - 野坂三枝夫人 松方家は12世紀に島津家に従って東国からやって来た家である。 松方正義の次男・正作の妻・繁子は三菱財閥の第2代総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。 松方正義の次男・乙彦の妻・登美は元内閣総理大臣・山本権兵衛の五女。乙彦・登美夫妻の長女・米子は外交官の樺山資英(同姓同名の元貴族院議員とは別人)と結婚し1男1女をもうけた。樺山資英・米子夫妻の長女が八木沼純子の母である。 松方一族は現在数百人の会員からなる「海東会」という一族会を形成している。 坂の上の雲(司馬遼太郎) 海は甦える(江藤淳) 明治天皇と日露大戦争(1957年、演:武村新) 天皇・皇后と日清戦争(1958年、演:鳥羽陽之助) 巨人 大隈重信(1963年、演:夏木章) 二百三高地(1980年、演:須藤健) 熱い嵐(1979年2月26日、TBS 演:横内正) 夜会の果て(1997年、NHK 演:森山周一郎) 坂の上の雲(2009年11月29日~2011年12月25日、NHKスペシャルドラマ 演:大林丈史) 前田正名 龍馬が託した男(2019年、鹿児島テレビ 演:池畑慎之介) ^ 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。 ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、31頁。 ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “松方正義とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。 ^ 松方正義誕生地 - 鹿児島市 2013年5月26日閲覧。 ^ 室山義正 2005, p. 18. ^ 室山義正 2005, p. 20. ^ 松方・ライシャワー, ハル『絹と武士』広中和歌子、1987年、55頁。ISBN 4-16-341850-4。OCLC 18743960。https://www.worldcat.org/oclc/18743960。 ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』56頁 ^ 室山義正 2005, p. 22-23. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』59頁 ^ 室山義正 2005, p. 24. ^ 室山義正 2005, p. 27. ^ 室山義正 2005, p. 28. ^ 室山義正 2005, p. 29. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』77頁 ^ 室山義正 2005, p. 30. ^ 室山義正 2005, p. 31. ^ 室山義正 2005, p. 31-32. ^ 室山義正 2005, p. 34. ^ 室山義正 2005, p. 34/36. ^ 室山義正 2005, p. 36. ^ 室山義正 2005, p. 37. ^ 室山義正 2005, p. 51. ^ 室山義正 2005, p. 57. ^ 室山義正 2005, p. 121-122. ^ 室山義正 2005, p. 126. ^ 室山義正 2005, p. 1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版『松方正義』 - コトバンク ^ 柏崎敏義「会計年度と財政立憲主義の可能性--松方正義の決断」『法律論叢』第83巻2・3、明治大学法律研究所、2011年2月、97-133頁、ISSN 03895947、NAID 40018839378。 ^ 『叙任及辞令』、官報。 ^ 『官報』第2735号「叙任及辞令」1892年8月9日。 ^ 室山義正 2005, p. 313. ^ 室山義正 2005, p. 315. ^ 昭和9年7月3日付『東京朝日新聞』 ^ 室山義正 2005, p. 417. ^ 室山義正 2005, p. 418. ^ 室山義正 2005, p. 419. ^ 『咢堂放談』 ^ 室山義正 2005, p. 36/419. ^ 室山義正 2005, p. 424. ^ 室山義正 2005, p. 430-431. ^ 松方一門、富も名誉も一朝の夢『東京朝日新聞』昭和2年11月30日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p104 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 松方正義公『近代快傑録』尾崎行雄、千倉書房, 1934 ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109 ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」明治17年7月8日 ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。 ^ 『官報』第1430号「彙報」1888年4月10日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」明治22年11月30日 ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。 ^ 『官報』第4902号「叙任及辞令」明治32年11月1日 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」明治40年1月28日 ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」明治40年9月23日 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日 ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」大正5年7月15日 ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」大正11年9月18日 ^ 『官報』第3559号「叙任及辞令」大正13年7月4日 ^ 『官報』第3560号「勅令」大正13年7月5日 ^ 『官報』第3562号「従一位大勲位公爵松方正義葬儀」1924年7月8日 ^ 『官報』第2727号「叙任及辞令」明治25年7月30日 ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」明治35年10月6日 ^ 『官報』第5892号「叙任及辞令」明治36年2月26日 ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第一章 松方正義」の項 ^ 松方侯爵、爵位返上を申し出る『大阪毎日新聞』昭和2年11月30日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p104 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 松方幸次郎 『人事興信録』データペース、第8版 [昭和3(1928)年7月] ^ 平成新修旧華族家系大成下576-579 ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 殿堂者詳細情報 松方正雄 ^ 武笠清太郎 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 松方五郎 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 澁川忠二郞 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 川上直之助 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.140 ^ 松方乙彦 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 松方正熊『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年 ^ 松方正熊 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ 西町『麻布鳥居坂警察署誌』東京都、昭和18年 ^ 松方義輔 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学 ^ Annual register of the United States Naval Academy. 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2024/11/20 04:51更新
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