西徳二郎の情報(にしとくじろう) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
西徳二郎と関係のある人
木村俊夫: 西徳二郎 倉成正: 西徳二郎 小村寿太郎: 1896年6月11日、小村は日本に呼び戻されて、原敬に代わって外務次官に着任し、以降、西園寺公望、大隈重信、西徳二郎3人の外相の下で外務次官を務めることになる。西徳二郎は、サンクトペテルブルク大学で学び、ロシア公使を10年も務めた当代きってのロシア通であり、日露関係が難しい時期を迎えていたこの時期、小村からすれば、西の下で働くのは心強かっただろうと考えられる。 小村寿太郎: 駐清公使に転じていた西徳二郎は福島安正率いる救援軍が来るまで、公使館に日本人居留者をかくまい、柴五郎らと協力して敵の襲撃から守り、救援軍到着後は自ら陣頭指揮にもあたったという。 小村寿太郎: 日本陸軍では、西徳二郎公使は列強に対し協調的すぎて頼りにならないとの不平が高まっており、西自身も約2か月続いた籠城で体調を崩していた。 西竹一: 男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布。 |
西徳二郎の情報まとめ
西 徳二郎(にし とくじろう)さんの誕生日は1848年1月30日です。鹿児島出身の外交官のようです。
卒業、解散に関する情報もありますね。1912年に亡くなられているようです。
西徳二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)西 徳二郎(にし とくじろう、1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官、枢密顧問官、薩摩藩出身の男爵。 若年のころはロシアの帝都サンクトペテルブルクに遊学し、その後はロシア・中国(清)両勢力圏に挟まれる中央アジアを調査した経歴を持つ。1886年6月より10年の長きにわたってロシア公使を務めたロシア通として知られた。1897年11月より約1年半外務大臣に任じられ、その間、大韓帝国をめぐる日露関係の調整に努めた。1900年の義和団の乱において1か月半におよぶ北京籠城を経験している。嗣子は、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで金メダリストとなり、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐である。 1847年 、父・西藤左衛門勝成(薩摩藩士)、母・加納ヒロの次男として鹿児島城下樋之口町に生まれた。藩校造士館で和漢洋の学問を学んだ。1868年の戊辰戦争では黒田清隆の指揮下で長岡戦争に参加し、長岡藩の攻略に従事した。 維新後は明治2年に外国語を学ぶべく上京し昌平学校に入学、海外留学を志す。開成所、東京大学生徒監督等を経て、ロシアの帝都サンクトペテルブルグに赴任したい決意を述べた「入露説」と題する上申書を黒田清隆のとりなしで参議の大久保利通に提出し、明治3年(1870年) 6 月ロシア派遣の官命を受ける。同年7月よりロシアに留学したが、このとき、大久保よりロシア政体取調を委託されている。 1871年から文部省留学生として学費を受け、翌年秋にサンクトペテルブルク大学に入学して法政学を専攻、1873年末に官費留学生は終了したが自費で残留を続け、1876年、同大学の法政科を卒業した。1874年からは同大学東洋学部において日本語講師も務めた。卒業後ペテルブルグの新聞社に入社して記者として勤務の傍ら諜報活動を続け、ロシアが秘密裡に朝鮮の元山を租借して軍港を築こうとしていることを察知し、駐露特命全権公使榎本武揚に報告、日本から朝鮮政府への勧告によりこの計画は頓挫した。 大学でフランス語も学んでいたことから1876年3月フランス公使館2等書記見習となりパリに赴任、1877年4月には書記一等見習に昇格、1878年2月外務二等書記官となりロシア公使館に在勤、この年の11月から1880年3月まで臨時代理公使の任にあった。在勤中は絵画やピアノ、馬術を習い、観劇や舞踏にも興じて社交界の名士となった。 1880年7月から半年間中央アジア・シベリア・中国の各地を旅した。このときの見聞は、のちに報告書『中亜細亜紀事』(1886年)として陸軍より出版された。帰国後の1881年6月に太政官大書記官、軍事課勤務兼参謀本部御用掛、1882年6月に太政官大書記官兼宮内大書記官となる。同月ロシア皇帝アレクサンドル3世の戴冠式に参列するためサンクトペテルブルクを訪問する有栖川宮熾仁親王に随行した。 1886年6月、駐露公使に任命されて露都サンクトペテルブルクに赴任、以後10年以上にわたってその職にあった。1894年から1895年にかけての日清戦争とその後の三国干渉ではロシア帝国の情報収集に尽力した。西は、三国干渉の数か月前からロシアの動きを察知して、それを陸奥宗光外相に報告し、陸奥をうならせたという。下関条約に先立つ講和条件に関する意見では、駐英公使の青木周蔵が盛京省および吉林・直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地をそこに建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張したのに対し、西は、ロシアを刺激することになる領土要求よりもむしろ償金を優先すべきという考えであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行った方がロシアなどからの干渉を極力排除できると説いている。また、1896年5月には、ニコライ2世の戴冠式に参列するため特命全権大使としてロシアに赴いた山縣有朋を助け、6月9日には山縣・ロバノフ協定の締結に貢献した。 1897年3月に枢密院顧問官に任命されたが、同年11月6日、第2次松方正義内閣の外務大臣に任じられ、続く第3次伊藤博文内閣でも外務大臣を務めた。1898年4月25日、大韓帝国をめぐる問題に関連して西・ローゼン協定に調印し、日本の朝鮮半島への経済進出を帝政ロシアに認めさせた。同年10月、駐清公使となり1900年の義和団の乱(北清事変)では北京籠城戦を経験した。公使館に日本人居留者をかくまい、敵の襲撃から守った。福島安正率いる日本軍が到着すると公使館を飛び出し、自ら陣頭指揮にあたって戦果を挙げたと伝わる。1901年(明治34年)11月、枢密顧問官に再任された。1912年3月13日、死去。墓地は東京都港区の青山霊園(1イ8-3)に所在する。 1847年:西藤左衛門・ヒロの次男として生まれる。幼名は常二郎。 1870年(明治3年):ロシア ペテルブルク大学に留学。 1873年-1880年:中央アジアを調査のために踏破する。ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、タシケント、ウイグル、新疆を調査した。 1874年:フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。 1886年6月:駐ロシア公使を拝命(兼スウェーデン、ノルウェー公使)。 1896年8月:駐ロシア公使離任。 1897年3月:枢密顧問官任命。 1897年(明治30年)11月6日-1898年(明治31年)1月12日: 第2次松方内閣の外務大臣就任。 1898年(明治31年)1月12日-1898年(明治31年)6月30日: 第3次伊藤内閣の外務大臣就任。 1898年(明治31年)4月25日: 第3次日露協定(西・ローゼン協定)。 1899年10月:清国駐在公使を拝命。1900年の義和団の乱(北清事変)では北京に籠城。 1899年(明治32年)12月27日:勲一等旭日大綬章受章。 1901年1月:駐清公使離任。 1901年11月:枢密顧問官。 西徳二郎 『中亜細亜紀事』 <異域叢書>青史社、1987年(この著作は1886年に記した)。
1886年(明治19年)10月20日 - 従四位 1897年(明治30年)11月30日 - 正三位 1892年(明治25年)11月15日 - 勲二等瑞宝章 1895年(明治28年)8月20日 - 男爵、勲一等瑞宝章 1899年(明治32年)12月27日 - 勲一等旭日大綬章 1896年(明治29年)10月23日 - スウェーデン王国 北極星第一等勲章 ^ 1898年頃までは、陸奥宗光と西徳二郎を中心に形成された非同盟・ 日露協商路線が日本外交の基本方針となっていた。 ^ 1901年以降は、明確に桂太郎・小村寿太郎による日英同盟路線に方針が転換していった。 ^ 木村暁「ウズベキスタン伝存の西徳二郎書簡をめぐって」『アジア・アフリカ言語文化研究』第88巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2014年9月、5-41頁、doi:10.15026/79242、hdl:10108/79242、ISSN 0387-2807、CRID 1390577133286684288。 ^ コトバンク「西徳二郎」 ^ 西徳二郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室 ^ 近代日本人の肖像「西徳二郎」 ^ 加藤祐三(1998)pp.389-393 ^ 佐々木隆(2002)pp.143-146 ^ 横手慎二(2005)p.23 ^ 佐々木雄一(2018)p.293 ^ 青山霊園「西徳二郎の墓」 ^ 『官報』第994号「叙任」1886年10月21日。 ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。 ^ 『官報』第2818号「叙任及辞令」1892年11月17日。 ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」明治28年8月21日 ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」明治32年12月28日 ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」明治29年11月2日 加藤祐三「8 日本開国とアジア太平洋」『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論社、1998年10月。ISBN 4-12-403425-3。 金子民雄『中央アジアに入った日本人』中央公論社〈中公文庫〉、1992年5月。ISBN 978-4122019058。 坂本辰之助 著、吉村道男監修 編『日本外交史人物叢書第2巻 男爵西徳二郎伝(復刻)』ゆまに書房、2002年。ISBN 978-4-8433-0490-7。 (初版1933年) 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9。 佐々木雄一 著「日清戦争」、小林和幸 編『明治史講義【テーマ篇】』筑摩書房、2018年3月。ISBN 978-4-480-07131-6。 横手慎二『日露戦争史』中央公論新社〈中公新書〉、2005年4月。ISBN 4-12-101792-7。 コトバンク「西徳二郎」 西徳二郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室 表 話 編 歴 山田顕義1873-1874未赴任 柳原前光1874代理公使1874-1875 森有礼1875-1878 宍戸璣1879-1882 榎本武揚1882-1885 塩田三郎1885-1889 大鳥圭介1889-1894 林董1895-1897 矢野文雄1897-1899 西徳二郎1899-1901 小村壽太郎1900-1901 内田康哉1901-1906 林権助1906-1908 伊集院彦吉1908-1913 山座円次郎1913-1914 日置益1914-1916 林権助1916-1918 小幡酉吉1918-1923 芳澤謙吉1923-1929 佐分利貞男1929 重光葵1931-1932 有吉明1932-1935 大使館昇格1935 有吉明1935 有田八郎1936 川越茂1936-1938 阿部信行1940 本多熊太郎1940年-1941年 重光葵1942 谷正之1943-1945 南京政府解散 芳澤謙吉1952-1955 堀内謙介1955-1959 井口貞夫1959-1963 木村四郎七1963-1966 島津久大1966-1969 板垣修1969-1972 宇山厚1972 中華民国と断交、中華人民共和国と国交樹立 小川平四郎1973-1977 佐藤正二1977-1979 吉田健三1979-1981 鹿取泰衛1981-1984 中江要介1984-1987 中島敏次郎1987-1989 橋本恕1989-1992 國廣道彦1992-1995 佐藤嘉恭1995-1998 谷野作太郎1998-2001 阿南惟茂2001-2006 宮本雄二2006-2010 丹羽宇一郎2010-2012 西宮伸一2012未赴任 木寺昌人2012-2016年 横井裕2016-2020 垂秀夫2020-2023 金杉憲治2023- 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 澤宣嘉1873(未赴任) 榎本武揚1874-1880 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1887-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 国交断絶(日露戦争) 本野一郎1906-1908 大使館昇格1908 本野一郎1908-1916 内田康哉1916-1918 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立) 田中都吉1925-1930 広田弘毅1930-1932 太田為吉1932-1936 重光葵1936-1938 東郷茂徳1938-1940 建川美次1940-1942 佐藤尚武1942-1946 国交断絶(第二次世界大戦末期から日ソ共同宣言まで) 門脇季光1957-1961 山田久就1961-1963 下田武三1963-1965 中川融1965-1970 新関欽哉1971-1973 重光晶1974-1978 魚本藤吉郎1978-1982 高島益郎1982-1984 鹿取泰衛1984-1987 武藤利昭1987-1990 枝村純郎1990-1991 枝村純郎1991-1994 渡辺幸治1994-1996 都甲岳洋1996-1999 丹波實1999-2002 野村一成2002-2006 齋藤泰雄2006-2009 河野雅治2009-2011 原田親仁2011-2015 上月豊久2015-2023 武藤顕2023- 表 話 編 歴 在ロシア帝国公使が兼轄 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1886-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 秋月左都夫1904-1907 杉村虎一1907-1911 内田定槌1912-1920 日置益1918-1920 畑良太郎1920-1924 永井松三1925-1928 武者小路公共1930-1933 白鳥敏夫1933-1936 栗山茂1937-1939 岡本季正1942-1946 引揚1946 結城司郎次1950-1952 結城司郎次1952-1954 大江晃1954-1957 島重信1957 島重信1957-1959 松井明1959-1962 鶴岡千仭1962-1966 高橋通敏1966-1968 三宅喜二郎1968-1971 日向精蔵1971-1973 上田常光1973-1975 都倉栄二1975-1978 滝川正久1978-1981 大和田渉1981-1983 越智啓介1983-1986 野村豊1987-1990 村角泰1989-1991 熊谷直博1991-1994 股野景親1994-1997 藤井威1997-2000 内田富夫2000-2004 大塚清一郎2004-2007 中島明2007-2010 渡邉芳樹2010-2013 森元誠二2013-2015 山崎純2015-2018 廣木重之2018-2021 能化正樹2021-2024 水越英明2024- FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 日本の枢密顧問官 在清国日本公使 明治時代の閣僚 日本の外務大臣 日本の官僚 (1868-1949) 日本の宮内省関係者 サンクトペテルブルク大学出身の人物 北清事変の人物 戊辰戦争の人物 日本の男爵 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等瑞宝章受章者 鹿児島県出身の人物 幕末薩摩藩の人物 在フランス日本人 在ロシア日本人 1847年生 1912年没 青山霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/21 20:58更新
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nishi tokujirou
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