陸奥宗光の情報(むつむねみつ) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
陸奥 宗光さんについて調べます
■名前・氏名 |
陸奥宗光と関係のある人
古河市兵衛: 養子・古河潤吉(1870年 - 1905年) - 陸奥宗光と妻の元芸妓・蓮子との次男。 青木周蔵: 後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。 小村寿太郎: 治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。 松方正義: 例えば尾崎咢堂の「公は重々しいところはあるが、感じの至って鈍い人で、公がもしも薩摩人でなかったら、総理大臣にはなれる人物ではなかったろうと思う」、大隈重信の「松方も薩摩に生まれていなかったならば、せいぜい知事ぐらい」、陸奥宗光の「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」といったように酷評をされることが多かった。 星亨: まもなく、陸奥宗光から洋学教師の人選を依頼された何の推薦で、大阪の和歌山藩邸で洋学助教として教え、のち同藩兵学寮(明治2年末設置)出仕となった。 中島信行: 最初の妻は陸奥宗光の妹の中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。 徳川家茂: 幼少故に当初は隠居の元藩主徳川治宝が補佐したが、治宝と家老の山中俊信の死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央のいわゆる江戸派が実権を握り、伊達千広(伊達宗広)(陸奥宗光の父)をはじめとする治宝側近の藩政改革派が弾圧された。 林董: 明治4年(1871年)9月、神奈川県奏仕出仕に就き、維新政府の地方官僚となる(神奈川県知事は陸奥宗光)。 浅野進治郎: 『天皇・皇后と日清戦争』 : 監督並木鏡太郎、製作・配給新東宝、1958年3月14日公開 - 外相・陸奥宗光 明治天皇: 山縣首相は後藤象二郎逓信相や陸奥宗光農相を板垣のもとに送って説得にあたり、ついに妥協案を案ずることになり、その結果、2月20日、天野若円衆議院議員が提出した緊急動議が成立し、政府と議会の妥協点が見いだされ、650万円の削減をもって予算案は成立した。 明治天皇: 民党による選挙干渉批判は選挙後も収まらず、政府内においても枢密院議長の伊藤博文、閣内では陸奥宗光と後藤象二郎が品川内相を非難するようになった。 伊藤博文: 翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。 原敬: 1890年(明治23年)5月、陸奥宗光が新たな農商務大臣となり、大臣秘書官兼参事官となった原と協力して前田派の一掃にかかった。 宮川洋一: 明治の群像 海に火輪を 第7話「陸奥宗光(後編)」(1976年) - 伊東巳代治 西徳二郎: 西は、三国干渉の数か月前からロシアの動きを察知して、それを陸奥宗光外相に報告し、陸奥をうならせたという。 明治天皇: その後を受けたのが「カミソリ大臣」の異名を持つ第2次伊藤内閣外務大臣陸奥宗光である。 山内昌之: おすすめの歴史書として、史記、陸奥宗光の父伊達千広の『大勢三転考』、新井白石の『読史余論』、北畠親房『神皇正統記』、平家物語、春秋左氏伝、貞観政要、吾妻鏡をあげている。 西園寺公望: また翌明治28年(1895年)には親友の陸奥宗光外相が病気のため、外務大臣臨時代理をつとめ、乙未事変などの朝鮮半島問題への対応に当たった。 浪川大輔: 幕末志士物語外伝〜14の土佐&佐幕・開国編〜(「陸奥宗光物語外伝」) 田中敏文: 北海道知事就任時の年齢は35歳で、当時全国最年少であり、2023年4月現在においても就任時年齢が史上最年少の公選知事である(官選を含めると、24歳で兵庫県知事に就任した陸奥宗光)。 下重暁子: 1994年に『純愛 - エセルと陸奥広吉』を書いた時に、本を書いたお礼にと、二人の息子である陸奥イアン陽之助から鹿鳴館の華と称された陸奥亮子が身につけていたダイヤのネックレスと、陸奥宗光のパーティーで外国人に用いられた銀製のスプーンやナイフをもらっている。 小村寿太郎: この点は陸奥宗光や加藤高明とも異なっており、超然内閣がかろうじて成立しえた明治時代後半であったからこそ小村は充分に力を発揮できたという側面がある。 小村寿太郎: 上述のとおり、翻訳で得た紡績に関する知識を陸奥宗光の前で披露する機会があり、陸奥は小村の博識に感服したが、小村は陸奥に「私は何でも知っています。 原敬: 後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。 原嘉道: 陸奥宗光、原敬の引き立て 天野新士: 『NHK特集』「明治の群像 海に火輪を」 第7話「陸奥宗光 ~後編~」(1976年9月30日、NHK) - 森肇 大隈重信: 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反するという指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた。 和沢昌治: 明治の群像 海に火輪を 第6話「陸奥宗光」(1976年) - 伊達宗広 古河市兵衛: 陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。 岡崎久彦: 祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟にあたる。 |
陸奥宗光の情報まとめ
陸奥 宗光(むつ むねみつ)さんの誕生日は1844年8月20日です。和歌山出身の外交官のようです。
現在、解散、事件、結婚、再婚、趣味、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。1897年に亡くなられているようです。
陸奥宗光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に多大な影響を与え、第2次伊藤内閣の外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した。 天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(徳川治宝の側用人渥美勝都の長女)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝(伊達政宗の末子)の後裔と伝えられるが、実際は12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した駿河伊達氏(の分家紀州伊達家)の子孫である。幼少・青年期は伊達小次郎、中村小次郎、陸奥小次郎、陸奥陽之助、伊達陽之助、源二郎、元二郎などと称した。父・宗広は紀州藩に仕えながら、本居大平の門に入り国学者・歴史家としても知られ、史論『大勢三転考』を著した。父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は藩主治宝に引き立てられ財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)治宝の死により失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。和歌山城下を追われ、数年の間紀ノ川上流で何度か居所を変え、伊都郡入郷村に落ち着き、高野山の荘官である岡左仲の世話になる。五條の儒者森鉄之助に学び、宇智郡の豪農北厚治や五條の書肆松屋(本城)久吉などの支援を受ける。 安政5年(1858年)、高野山江戸在番所の寺男として江戸に出る。困窮し、筆耕等により口を糊すること三年、安井息軒に師事し、又水本成美の塾に入る。後長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・板垣退助・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる(伊藤痴遊は吉原通いが露見し安井から破門されたとするが、当時は窮乏していたと見られ疑わしい)。 文久3年(1863年)に勝海舟の神戸海軍操練所(海軍塾)に入り、塾頭の坂本龍馬に私淑、また、広瀬元恭の時習堂にも出入りする。弁舌が立つ才子で、勝によれば同輩の評判は甚だ悪く「嘘つきの小次郎」と言われていた。元治元年(1864年)操練所解散後、慶応元年(1865年)4月大坂から坂本や小松帯刀、西郷隆盛とともに鹿児島に向かう。その後亀山社中に加わるが、この時期は錦戸広樹の変名で薩摩の小松帯刀に抱えられており、長崎の何礼之の英語塾の門人となる。錦戸太郎という変名も使った。また、長崎亀山に滞在中、一外国人宣教師の家に住み込み、その夫人から英語を教授されたと伝えられている。慶応2年(1866年)2月、長崎での近藤長次郎自裁の報を京都に伝え、翌月鹿児島に向かう坂本と同乗し長崎に帰る。同年5月寺島宗則が上海から阿久根まで乗った帆船に船員として乗船していた。同年後半から頭角を顕し、土佐グループの主要メンバーとなる。慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊に加わり意見書「商方之愚案」を提出、坂本に認められ、商事部門を任され外国商人からの武器買付などを行う。勝と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめたという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件を起こした(天満屋事件)。 鳥羽伏見の戦いに先立つ慶応3年12月23日(1868年1月1日)、大坂のイギリス公使館にアーネスト・サトウを訪ね、新政府の承認問題について意見交換を行った。陸奥は皇族の一人が大坂城内で外国公使と会見し、王政復古の布告を宣言することを提案、サトウの賛成を得ると、これに基づく意見書を議定岩倉具視に提出。慶応4年1月、岩倉の推挙により、外国事務局御用掛に任命される(1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を盾に引き渡しを拒否していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し交渉に成功、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には支払えなかった。会計官権判事を兼任した陸奥は大阪の商人らに交渉し、一晩で借り受けることに成功、新政府の首脳陣に深い感銘を与える。6月大阪府権判事となる。兵庫県知事であった伊藤博文を度々訪ね版籍奉還、廃藩置県などを論じ、親密な関係を結ぶ。この間佐幕派の疑いを掛けられ、藩主茂承が京都にとどめ置かれるなど窮地にあった紀州藩のために尽力。11月、紀州藩執政となって上京していた津田出を訪ね、郡県制、士族廃止と徴兵令について教示を受ける。その内容を岩倉に伝えると、大いに喜ばれ諸藩の手本になる雛形として津田による藩政改革の実施を依頼され、12月に藩主の帰国が許可される。1869年1月、摂津県知事、6月、兵庫県知事となる。何礼之から英語教師として星亨を紹介される。8月兵庫県知事免職となり、大坂の紀州藩屋敷に逗留し、藩政改革を支援。星も英学助教授として大坂の紀州藩蔵屋敷で教える。1870年3月刑部省小判事に任ぜられるが、和歌山藩欧州執事として渡欧することが決定していたため、即日依願免職の手続きを取り、土佐時代からの知遇、参議・刑部大輔佐々木高行の不興を買う。9月和歌山藩欧州執事として渡欧し、藩軍事顧問ケッペンの依頼により、プロイセンから軍事教官数名を招聘する契約を交わす。1871年5月アメリカ経由で帰国。和歌山藩戍兵都督心得、権大参事に任命。その後、廃藩置県を受け、8月神奈川県令として再度出仕、地租改正局長(1872年)、大蔵少輔(1873年6月)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に不満を抱き、木戸孝允への接近を通して、薩長勢力の一角に楔を打ち込もうとする。1873年9月、木戸に対し自らの上司である大蔵省事務総裁大隈重信を「経済に通ぜず、吏務を解せず」として罷免を求めるも、10月の征韓論争を経て大久保体制が確立し、藩閥勢力の大隈が大蔵卿、寺島宗則が外務卿、伊藤博文が工部卿に就任。自身は大蔵少輔でしかなく、陸奥は1874年1月、藩閥勢力による政権の独占を批判した「日本人」を木戸に呈し、官を辞した。大阪会議(1875年)で大久保と民権派が妥協し、木戸・板垣の推挙により、その一環で設置された元老院議官、その後幹事となるが、元老院の実権は徐々に削られた。 この間、明治元年にかつて難波新地の芸妓であった蓮子夫人と結婚、長男広吉、次男潤吉を儲けるが、明治5年(1872年)には蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と再婚した。 明治10年(1877年)の西南戦争の際、陸奥は元老院仮副議長であったが、和歌山からの募兵を募ることを献策、岩倉から依頼され4月大阪に向かう。これは増援部隊として派遣されることによる戦後の陸奥の発言権強化と、状況によっては土佐立志社の反乱軍と合流する両にらみの戦略であった。立志社の林有造・大江卓らは武力蜂起と暗殺による政府転覆を謀っていたが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。しかし大久保、伊藤は陸奥に和歌山募兵を担当させることの危険を知る参謀局長鳥尾小弥太の建言に基づき、陸奥の到着に先立ち旧藩主茂承を出馬させ、三浦安を中心に募兵計画を進行させていた。4月12日にこれを伊藤から聞かされ、自らの秘策が封じられたことを知り深い屈辱感と怒りにまみれた陸奥は大江、岩神昂と共に即時挙兵と暗殺計画を画策する。しかし、4月15日、熊本城連絡路が開かれ政府軍の優位が明確になり、立志社の挙兵計画も遅滞したため、計画に見切りを付け、29日に大阪を立ち、東京で大江に計画の中止を説く。8月に林と岩神が逮捕、陸奥も翌年6月に検挙され、除族のうえ禁錮5年の刑を受け投獄された。山形監獄に収容された陸奥は、妻亮子に手紙を書く一方、自著を著し、イギリスから帰国した星亨の勧めと島田三郎訳『立法論綱』(1878年)の影響により、イギリスの功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄後の明治16年(1883年)にベンサムの An Introduction to the Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理序説)を『利学正宗』と題して翻訳刊行した。なお、山形監獄の火災時に陸奥焼死の報が伝えられたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文の尽力により当時最も施設の整っていた宮城監獄に移された。 明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートは7冊現存されている。内閣制度の仕組みや議会の運営方法等について、民主政治の先進国イギリスが長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収し、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んだ。 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕。明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。 明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚となった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。 明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密顧問官となる。 その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任し、明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)(関税自主権は戻らない)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。 一方、同年5月に朝鮮半島で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。 日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。この間、雑誌『世界之日本』を発刊。 明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年54(満53歳没)。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ガ谷の寿福寺に改葬された。 明治40年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する功績を讃えて、外務省に陸奥の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和41年(1966年)に再建された。 明治5年(旧暦)
10月5日 - 正五位 1875年(明治8年)11月28日 - 従四位 1878年(明治11年)8月19日 - 位記被褫 1887年(明治20年)3月25日 - 従四位 1890年(明治23年)
6月12日 - 従二位 1897年(明治30年)8月21日 - 正二位 1888年(明治21年)5月8日 - 勲三等 1889年(明治22年)9月11日 - 勲二等瑞宝章 1890年(明治23年)10月21日 - 銀牌一個・七宝白鷺図花瓶一封 1893年(明治26年)10月30日 - 勲一等瑞宝章 1894年(明治27年)8月29日 - 子爵 1895年(明治28年)8月20日 - 伯爵・旭日大綬章 1893年(明治26年)8月24日 - オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章 1894年(明治27年)
8月8日 - シャム王国:白象第一等勲章 3月30日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1895年(明治28年)
10月3日 - セルビア王国:タコヴォ十字第一等勲章(英語) 1896年(明治29年)
3月17日 - ロシア帝国:白鷲大綬章 10月26日 - スペイン王国:カルロス3世第一等勲章 1897年(明治30年)4月27日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロワ 妻
陸奥亮子(1856-1900) - 1872年結婚。東京新橋の元芸妓小鈴。届け出上は士族の娘。 息子
古河潤吉(1870-1905) - 次男、古河市兵衛の養子。養父とともに足尾銅山を経営。 金田光一 娘
陸奥冬子(1873-1904) - 次女。祇園芸者との子。宗光没後、陸奥家に引き取られ、広吉の養女に。 孫
宗光の4人の子のうち、広吉を除く3人は未婚のまま没したため、広吉の子の陽之助が宗光の唯一の孫。鎌倉の寿福寺に陸奥家の墓所がある。 明治25年(1892年)から執筆を開始した『蹇々録』は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、昭和4年(1929年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。 昭和27年(1952年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。 勝海舟 「あれも一世の人豪だ。しかし陸奥は、人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚に長としてこれを統率するには不適当であった。あの男は、統御もしその人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ。あれがもし大久保(利通)の下に属したら、十分才を揮い得たであろう」 渋沢栄一
「伯も平岡円四郎のやうに、一寸したことを聞いた丈けでそれからそれへと考へを進めて往き、事を未然に察知するまでの才智のあつた人だが、孰らかと謂へば金銭と権勢とに動かされ易く、一身の利達を謀らんが為めには形勢を察して金銭と権勢とのあるところに就くを辞さなかつたらしく、大丈夫の志が無かつた人のやうに思へる。それから妙に他人を凌ぐやうな傾向があつて、談話などでも自分の才智に任せて対手を圧迫して来る如き気味合を示したものである。之が為め、多少他人から厭がれた[厭がられた]こともあらうが、交際は至つて如才のなかつた方である。」 「陸奥宗光伯も、前条に談話した通りで、御自身には優れた才識のあらせられた人で、権勢と金力とのあるところを見て之に就く事にかけては誠に敏捷であつたが、人物を鑑別する力に於ては、余り優れた方であつたとは申上げかねるやうに思へる。随つて、陸奥伯の交はられた人や用ひられた人は、必ずしも善良誠実の人ばかりであつたやうにも思へぬ。」 関直彦
「剃刀大臣といわれしだけありて、機略縦横、電光石火の立回りに妙を得た人であった上にも、また弁舌の雄として世に認められたる人である。」 「陸奥伯は子供の時より涎を垂らすの癖あり。堂々たる国務大臣として、条約改正に、各国の政治家を向こうに回し、折衝応答の時にも、また、日清講和談判に李鴻章を悩ましたる時にも相変わらずだらだら涎を垂らしつつ議論せられたるものならん。伯は、常に葉巻煙草を吸わるるが、その半ばは涎に濡れて、火の消ゆるを常とす。偉人にも妙な癖があるものかな。」 中江兆民 「機智豊衍にして機鋒靈活なり。陸奥君と機智を闘わし機鋒を競い、陸奥君の奇声とその洪大を較らぶる者は国会議員中、果て誰某成るべきや。」 鳥谷部春汀 「大隈伯は政治においてデモクラシーを主張すると同時に、その趣味においてもデモクラチツクなり。これに反して陸奥伯は政治の原則としては亦均くデモクラシーを信ずと雖も、その趣味は全くアリストクラチツク(貴族的)なり。彼は凡俗を好まず、又凡俗の好む所を好む能わず。彼は凡俗と天才との間には踰ゆべからざるの鴻溝あるを信じ、滔々たる凡俗は、到底天才者の頭脳を了解する能わずと思惟せり。」 西園寺公望 「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかも知れんから、幾分その場合に処する用意をしておこうとした」と述べている。佐々木雄一は陸奥は大々的に武装反乱を起こそうとしたのではなく、才子で敏感すぎ、不遇感があるなかで、何かあった場合に処する用意をしておこう、機に乗じよう、と考えたのだという。 萩原延寿は陸奥を自由民権という理念と藩閥勢力の権力の間で「分裂した魂の所有者」とするが、佐々木雄一は陸奥の考えは「議会政治やデモクラシーというのは理念や理想ではなく、現実に生じている世の趨勢であり、政府側にはその現実に対応していくための政治のアートやスキルがかつてなく必要となっており、そのスキルを備えた自分の力が必要となるはずだ」というものであったという。 雑誌「世界の日本」の社説(1897年5月1日号)はアンシャンレジーム、革命、ナポレオン、王政復古と、変転するフランス史の激動期を通じて絶えず外交指導を懇請されたタレーランに仮託して陸奥の心情を語っている。いわく「仏国智力の絶頂は余にあり。何人が政権をとるも、如何なる主義が勝ちを得るもの、畢竟余の力を借らざるべからず。若し余の力を借らざる政府なるか、余はそれを成立せしめざべし。」萩原延寿によれば、この文章には陸奥自身の主張が谺しているという。 若かりし頃の陸奥は、浅草で雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることを稽古し、ついに隼のごとく飛び抜けるようになった。友人にそんな真似をして何の役に立つのだと聞かれ、「僕は非力で喧嘩すれば負けるに決まっている。身を保つには何としても早く逃げることが第一義だからその稽古をしているのだ。一つ俺と喧嘩して見んか、素晴らしく逃げてみせるぞ」と答えたといわれている。 若い頃は胆力を頼む志士たちから軽薄な口舌の徒と目され、「嘘つきの小次郎」とあだ名されるなど、同輩の評判は悪かった。勝海舟も「小利巧な小才子」と評し、坂本龍馬も、「弁舌が鋭利に過ぎて浪士に憎まれて不慮の禍に遭うかもしれない」としている。。 後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。 「そもそも政治は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず。故に政治を行うの人に巧拙(スキール)の別あり。巧みに政治を行い、巧みに人心を収攬するは、実学実才ありて広く世務に熟練する人に存し、決して、白面書生机上の談の比にあらざるべし。また立憲政治は専制政治の如く簡易なる能わず。故に其政治家に必要するところの巧且熟なる者も、一層の度を増加すべし」と井上馨宛に書いた。。また、自著『蹇々録』の中でも語っている。 坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。 海援隊時代の経験を買われ、横浜の生糸貿易の総元締となっている。 宮城監獄入獄中の明治13年、獄中からの失火の消火に尽力し成功。司法省から内閣に慣例によって2年の減刑が上申されたが、尋常の国事犯にあらずとして明治天皇の宸断を仰いだところ、「重職に居ながら政府を顛覆せんことを謀れる者、常人の例を以て之を宥むべきにあらず」との叡慮を以て許されなかった。。 星亨との関係 陸奥は星を引き立てた恩人であり、陸奥との関係なくして星の行動は語れない。星の自由党入党は弁護士として成功していた当時の星にとって積極的な動機はなく、獄中にあった陸奥の出獄後の地ならしであったというのが有力である。出獄後外遊した陸奥をよそに私財を投じ、板垣の我儘に耐え、自由党を維持したのも陸奥の選択肢を確保するためであった。それだけに明治19年2月、帰国した陸奥が、10月に政府の無任所弁理公使となった時は失望し怒りを隠せなかった。陸奥にとっては自由党と藩閥政府の二者択一ではなく二者拮抗する状態こそが自らにとって最も望ましかった。第三議会に当たり議長としては河野広中が有望視されていたが、陸奥の意を汲んだ岡崎邦輔の奔走により星の衆議院議長が実現した。星は陸奥の指示により、松方内閣と厳しく対決、内閣弾劾決議案を可決、軍艦建造費ほかの新事業費は全額削除となり、松方内閣は崩壊した。藩閥政府は星の主導する自由党を抑えるには明治天皇から忌避されていた陸奥の力を借りるしかないと悟る。陸奥が外相として入閣した第二次伊藤内閣に対しては星は自由党内を強引に方向転換させ、「和協の詔勅」の受諾でまとめた。しかし、この過程で星は自由党内のみならず、改進党や吏党からの憎悪を一身に受け、衆議院議長辞職を余儀なくされた。星は原敬と違い陸奥に心服してはいなかったが、恩義は感じ比較的愚直に服しており、リアリスト陸奥に利用されていたとも言える。 徹底したリアリストであり、神奈川県令時代のマリア・ルス号事件のような人道的な問題には関心がなく、自らはこの件に関わることを固辞し、県参事だった大江卓に対応を任せ、県令を辞任して地租改正問題に専念した。また、伊藤や井上馨と異なり朝鮮の近代化には全く関心がなく、朝鮮への投資に見合う担保を気に掛けていた。 大津事件の時、後藤象二郎とともに伊藤博文のもとを訪れ、刺客を雇って犯人の津田を暗殺し、病死ということにすれば良いと述べ、そのような無法な処置は許されないと伊藤に叱責された。 現存する陸奥の居宅としては死去した旧古河庭園のほか、東京根岸にコロニアル様式の洋館が残る。地元の歴史を研究する「根岸子規会」が、旧陸奥邸であることを示す案内板を2017年3月に設置した。外壁が白いため、地元の子供たちには「ホワイトハウス」と呼ばれてきた。 ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。 ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。 ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。 ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。 ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。 ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。 ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。 ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。 ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「陸奥宗光」 ^ 陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会 『陸奥宗光伯の略年譜』 ^ 母方の渥美勝都も治宝派排斥により失脚している。 ^ 帆足 図南次「変革期の知識人としての陸奥宗光」『日本建築学会計画系論文集』第1969巻第1号、英学史研究、1969年、36-44頁、ISSN 1883-9282。 ^ 陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧 ^ 『大日本維新史料稿本』第四部 コマ856「豊崎縣知事陸奥宗光陽之助ヲ兵庫縣知事ト為ス」 ^ 衆議院議員之証(陸奥宗光関係文書108-66) ^ 「陸奥宗光」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166200 ^ 『官報』第1119号「叙任及辞令」1887年3月28日。 ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。 ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」1897年8月26日。 ^ 『官報』第1927号「叙任及辞令」1889年11月29日。 ^ 『官報』第3103号「叙任及辞令」1893年10月31日。 ^ 『官報』第3352号「叙任及辞令」1894年8月30日。 ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。 ^ 『官報』1893年8月30日「辞令」。 ^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。 ^ 『官報』第3336号「叙任及辞令」1894年8月11日。 ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1894年3月31日。 ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。 ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1895年10月7日。 ^ 『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。 ^ 『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。 ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。 ^ 『官報』1897年5月3日「叙任及辞令」。 ^ 『陸奥宗光. 正編』伊藤痴遊 著 (東亜堂, 1912) ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂著 (大学館, 1903) ^ 陸奥宗光未亡人没す新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940 ^ 『官報』1897年9月14日「叙任及辞令」。 ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社 ^ 純愛. 講談社 ^ 『文藝春秋』第77巻、第3号、p83 ^ 『海舟全集』第十巻 ^ 3. 陸奥伯に丈夫の志無し ^ 7.井上侯の人物鑑別眼 ^ 関直彦『七十七年の回顧』三省堂、1933年、pp.242-243 ^ 『兆民文集』 ^ 『春汀全集』 ^ 『西園寺公望自伝』 ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」82頁 ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」109,131頁 ^ 萩原延寿「陸奥宗光」13頁 ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 上 135頁 ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一 20〜21頁 ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一130頁 ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 下 222頁 ^ 『星亨』有泉貞夫 ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」65-67,236頁 ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」147頁 ^ 読売新聞朝刊2017年3月30日都民版「旧陸奥宗光邸の歴史 案内板/根岸祷民ら設置 建物の特徴や写真掲載」 ^ “【11位】旧陸奥宗光邸(鶯谷)”. テレビ東京「出没!アド街ック天国」2016年5月14日放映. 2017年4月9日閲覧。 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所、1987-88年)、のちPHP文庫 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代 第1巻」 PHP研究所、1999年、新版2009年、のちPHP文庫 萩原延壽責任編集・解説「陸奥宗光紀行」、『日本の名著(35) 陸奥宗光』(中央公論社、1973年)、新版・中公バックス 萩原延壽 『陸奥宗光』、朝日新聞社(2分冊)、1997年。新版「著作集 2・3」同、2007年 佐々木雄一『陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯』、中央公論新社「中公新書」、2018年 日英通商航海条約 日清戦争 陸奥外交 小村寿太郎 国是綱目 - 伊藤博文らと提出した建白書。版籍奉還に影響を与えた。 廃藩置県 - 廃藩置県のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。 徴兵令 - 徴兵令のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。 地租改正 - 陸奥が建議し、租税頭として実施に当たった。 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、東宝、演者:堀広道) 『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演者:東野孝彦) 『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演者:岡本富士太) 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演者:大柴邦彦) 『坂の上の雲』(2009年、NHK、演者:大杉漣) 『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演者:平岡祐太) 『歴史秘話ヒストリア』(2019年、NHK、演者:岩永徹也)など 中津文彦『闇の龍馬』 津本陽『荒ぶる波濤』 津本陽『叛骨 陸奥宗光の生涯』 葉室麟『暁天の星』 『坂本龍馬』(2000年、演者:板倉光隆) 武田鉄矢・小山ゆう『お〜い!竜馬』(1986年 - 1996年) 後半から登場。 安彦良和『王道の狗』(1998年 - 2000年) 江川達也『日露戦争物語』(2001年 - 2006年) 黒江S介『サムライせんせい』(2013年 - 2020年) 国立国会図書館 憲政資料室 陸奥宗光関係文書 小説より奇なる生涯の陸奥宗光 - 徳富猪一郎(徳富蘇峰)『我が交遊録』、1939年 維新史料綱要データベース(東京大学史料編纂所)
デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団) 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使) 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941 来栖三郎 1941 (閉 鎖 1941–52) 武内龍次 1951–52 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任 表 話 編 歴 在アメリカ合衆国公使が兼轄 陸奥宗光1890 建野郷三1891-1894 栗野慎一郎1894-1896 室田義文1896-1900 佐藤愛麿1900-1902 杉村虎一1903-1906 荒川巳次1906-1907 堀口九萬一臨時代理公使1909-1913 安達峰一郎1913-1915 大鳥富士太郎1917-1919 古谷重綱1922-1926 青木新1927-1930 堀義貴1931-1936 越田佐一郎1937-1940 三浦義秋1940-1942 引揚1942 加瀬俊一1952-1953 久保田貫一郎1953-1958 千葉皓1958-1960 林馨1960-1965 石黒四郎1965-1968 関守三郎1968-1970 加藤匡夫1970-1974 鈴木孝1974-1976 和田力1976-1978 松永信雄1978-1981 菊地清明1981-1984 内藤武1984-1988 今井隆吉1988-1990 田中常雄1990-1993 堂之脇光朗1993-1995 寺田輝介1995-1998 田中克之1998-2001 堀村隆彦2001-2003 西村六善2003-2005 成田右文2005-2007 小野正昭2007-2011 目賀田周一郎2011-2014 山田彰2014-2017 髙瀨寧2017-2021 福嶌教輝2021- 表 話 編 歴 東久世通禧 寺島宗則 井関盛艮 陸奥宗光 陸奥宗光 大江卓権令 中島信行 野村靖権令→県令 沖守固 沖守固 浅田徳則 内海忠勝 中野健明 浅田徳則 周布公平 大島久満次 石原健三 有吉忠一 井上孝哉 安河内麻吉 清野長太郎 堀切善次郎 池田宏 山県治郎 遠藤柳作 横山助成 石田馨 半井清 大村清一 飯沼一省 松村光磨 近藤壌太郎 藤原孝夫 内山岩太郎 渡辺広 内山岩太郎 津田文吾 長洲一二 岡崎洋 松沢成文 黒岩祐治 表 話 編 歴 伊藤博文 久我通城 未赴任 中島錫胤 陸奥宗光 税所篤 権知事 中山信彬 神田孝平 森岡昌純 権令→県令 内海忠勝 内海忠勝 林董 周布公平 大森鍾一 服部一三 清野長太郎 有吉忠一 折原巳一郎 平塚広義 山県治郎 長延連 高橋守雄 岡正雄 小柳牧衛 白根竹介 湯沢三千男 岡田周造 関屋延之助 坂千秋 成田一郎 藤岡長敏 持永義夫 齋藤亮 岸田幸雄 遠藤直人 岸田幸雄 阪本勝 金井元彦 坂井時忠 貝原俊民 井戸敏三 斎藤元彦 FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イスラエル ベルギー アメリカ 日本 チェコ オーストラリア 韓国 オランダ ポーランド CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー Trove(オーストラリア)
SNAC IdRef 陸奥宗光 幕末紀州藩の人物 上士階層出身の明治期の著名人 海援隊の人物 維新の元勲 兵庫県知事 神奈川県知事 廃止された府県の知事 日本の元老院議官 明治日本の公使 和歌山県選出の衆議院議員 (帝国議会) 明治時代の衆議院議員 明治時代の閣僚 日本の外務大臣 日本の農商務大臣 日本の枢密顧問官 日本の条約改正の人物 日清戦争の人物 日本の伯爵 日本の子爵 東邦協会の人物 和歌山市の歴史 陸奥家 関西大学出身の人物 正二位受位者 勲一等瑞宝章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 白象勲章受章者 白鷲勲章受章者 (ロシア帝国) レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者 ダンネブロ勲章受章者 結核で死亡した日本の人物 19世紀に結核で死亡した人物 1844年生 1897年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 KBR識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/20 00:42更新
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