三島由紀夫の情報(みしまゆきお) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三島 由紀夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
三島由紀夫と関係のある人
山崎ナオコーラ: 2010年、『この世は二人組ではできあがらない』が第23回三島由紀夫賞候補。 杉村春子: さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を書いていた三島由紀夫の新作戯曲『喜びの琴』の右傾化に激怒して上演を中止させた(喜びの琴事件)。 津嘉山正種: 黒蜥蜴(1990年、新派 脚本:三島由紀夫 演出:坂東玉三郎、福田逸) 富岡幸一郎: 三島由紀夫の表現の豊かさ、言葉の魅力に惚れ込み、高校生になると小林秀雄のファンになる。 伊吹和子: ^ あとがきには、交流があった三島由紀夫から回想執筆の勧めもあった。 櫻井秀勲: 遠藤周作、川端康成、三島由紀夫、松本清張など歴史に名を残す作家と親交を持つ。 小林恭二: 1998年、第11回三島由紀夫賞を『カブキの日』で受賞。 上田岳弘: 2015年、第28回三島由紀夫賞において「私の恋人」が又吉直樹『火花』を一票差で破って受賞する。 明治天皇: こうした鹿鳴館文化は、様々な批判を招きながらも人々の興味をかきたてる題材であり、鹿鳴館を好んで取り上げた作家に芥川龍之介や三島由紀夫などがある。 中村まり子: 三島由紀夫が主宰した浪曼劇場の『サロメ』(1969年入団)で初舞台を踏み、劇団雲入団、1972年にパリへ渡るとユシェット座のベラ・レーヌ演技教室で指導を受け、帰国後、フリーとして活動。 角田光代: 『東京ゲスト・ハウス』で第13回三島由紀夫賞候補。 横光利一: 編集長は木村徳三で、作家の三島由紀夫、安部公房、野間宏、遠藤周作、堀田善衛らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP民間情報教育局(CIE)の調査でも「代表的文芸誌」とされていた。 西尾幹二: 論壇・文壇への登場は、西尾の才覚を早くから認めていた三島由紀夫や福田恆存の推挙による面も大きく、2人が関与していた楯の会関連雑誌『論争ジャーナル』にも寄稿していた。批評家として小林秀雄論をはじめ様々な作家論を発表、また三島由紀夫の自決(三島事件)に際し、三島論「不自由への情熱」を月刊文芸誌『新潮』に掲載した。 内田勝正: いとしのオールディーズ(2009年1月30日、NHKラジオ第1放送) - シャンソンやカンツォーネなどの音楽の合間に、大学時代、三島由紀夫と浪漫劇場、悪役論、日本俳優連合での活動について語った。 荻野目慶子: 三島由紀夫20年祭新派特別公演・黒蜥蜴(1990年3月、新橋演舞場) 赤江瀑: 瀬戸内晴美は「泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本かの子、三島由紀夫といった系列の文学の系譜のつづき」として「中井英夫についで、この系譜に書き込まれるのはまさしく赤江瀑であらねばならぬ」とした。 増村保造: からっ風野郎(1960年、大映東京)脚本:菊島隆三・安藤日出男、主演:三島由紀夫 徳岡孝夫: 改題『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』(新潮文庫) 2020 櫻井秀勲: 文芸誌の編集者を務め、色川武大・松本清張・三島由紀夫・川端康成など多くの文豪達と交流。 荻昌弘: 三島由紀夫「映画・芸術の周辺」(スクリーン 1956年9月号) 横尾忠則: 11月25日、三島由紀夫が自決。 哲夫: 愛読書は、三島由紀夫作品で中でも中学時代に出会った『金閣寺』。 開高健: 『輝ける闇』に三島由紀夫は「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評したが、秋山駿はこれを「旧世代の文学観」とし、「現実を見れば見るほど、凝視すればするほど、反って現実の形が解からなくなり、同時に、視ている自分という主体までが混乱し、解体し、訳の分からぬものになってくる」のであり、この作品がそういう認識の変貌を示す新世代の現代文学だと述べている。 大岡信: 同月、長男・玲『黄昏のストーム・シーディング』にて三島由紀夫賞受賞。 望月衛: 同性愛に関し、戦後初期の日本におけるパイオニア的オピニオンリーダーであり、三島由紀夫とも交流があり、論文「性的成熟と社会的成熟―三島由紀夫「仮面の告白」を検討しつゝ」(「思索」1949年11月)においては、自著『性と生活』で詳論した「仮性同性性愛(男性ジェンダーをもった男によるホモセクシュアリティ)」の生き生きとした例として『仮面の告白』の分析を行なっている。 石黒達昌: 1996年、『94627』で第9回三島由紀夫賞候補。 東恵美子: 原作:三島由紀夫 星野智幸: 2000年 - 第13回三島由紀夫賞(「目覚めよと人魚は歌う」) 大和心: 愛国心(三島由紀夫) 奥泉光: 1990年、『滝』が第3回三島由紀夫賞候補および第103回芥川賞候補。 |
三島由紀夫の情報まとめ
三島 由紀夫(みしま ゆきお)さんの誕生日は1925年1月14日です。東京出身の作家のようです。
テレビ、家族、兄弟、卒業、結婚、事件、母親、趣味、現在、事故、病気、映画、ドラマ、解散、姉妹、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1970年に亡くなられているようです。
三島由紀夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。 戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。 満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。 ※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。 1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた。 家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった)。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた。 父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。 母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。 祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)。 祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。 作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。 祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。 公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかった。 公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。 1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。 しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。 公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。 初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。 初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。 この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。 1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。青白く虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。 公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。 7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。 1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「 1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「 同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。 この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。 1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。 同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。 その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。 帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。 リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。 日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。 1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。 ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。 各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』(『赤絵』)を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。 同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。 ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。 1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。 同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。 英米との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国であるイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱く一方で、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。 同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。 当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている。 この年の10月には在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)。それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた。 同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した。 1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。 本籍地に程近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした。級友の三谷信など、公威以外の同級生の全員が陸軍特別幹部候補生として志願していたが、公威はただ一人、幹部候補生も予備学生の試験を受けず、一兵卒として応召されるつもりであった。それは、「遠からず、どの道を行っても死ぬのなら、1日でも長く普通の社会に居て、1行でも余計に書いておきたかったのだろう」と、平岡が「寸暇を惜しんで」執筆に励んでいた様子から、幹部候補より兵隊任務が「殊更大変」ではあるが応召日が遅い一兵卒の方を平岡が選んだ理由を三谷は理解した。 徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる。 1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。 大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった。 出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。 書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。 1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。 誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。 同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した。風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた。解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。 戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。 梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。 公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。 1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた。 1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。 8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。 終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った 三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。 「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。 公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島のジョホールバルで天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。 1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し、公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。 翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した。 この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。 1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。 戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。 それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。 三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。 同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。 一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。 しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。 臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。 しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。 ある日、木村徳三は三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。 同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。 戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。 敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。 当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている。 川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。 「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。 1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。 三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。 三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の 下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。 これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。 1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。 同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。 8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。 これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。 「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。 大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。 「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略) 1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。 当時の大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。 東大法学部を卒業した直後の12月、三島は吉田満に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「戦艦大和ノ最期」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから、大蔵省時代も吉田と親しくしていた。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという。 同じ12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。三島はその冒頭文に、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。 翌1948年(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。 役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。 同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。その際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。 同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。 同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。 同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。 河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された 1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。 三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。 この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。 8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された。 1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。 しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。 厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。 古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。 旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。 また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。 三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ。 1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。 この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した。 伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。 これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。 この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。 1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。 同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。 同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。 同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。 元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる。 1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。 9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。 これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。 この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。 私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。 花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという。 前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた吉田満(ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会しワシントン・アーヴィングの旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという。 無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード、ローマを経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた。 1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。 同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。 翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。 三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。 1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた。 同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。 そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く茶漬けで済ますのが習慣だった。 また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた。 1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。 この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された。 1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ、〈陛下〉の〈堂々たる〉開会宣言の立派な姿に、19年前の敗戦直後にマッカーサーと並んだ〈悲しいお写真〉を思い比べて感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。 この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞(英語版)候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によってグリニッジ・ヴィレッジで上演された。 また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した。 なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなり、選考委員会のコメントで、日本人作家4人の中では三島が将来ノーベル文学賞を取る可能性が一番高いとされていた。しかし谷崎死後の1966年度の候補者では川端が最も注目されていて、三島の名はなかった。そして1967年度と1968年度には、再び川端と同様に三島も有力候補に挙がり将来性を期待されたが、「現時点では川端の方がノーベル賞にはふさわしい」とされていた。アカデミー選考委員会は日本文学の専門家としてドナルド・キーンとエドワード・G・サイデンステッカーに意見を求めながら選考を進めていたことが明らかになっている。川端が受賞した翌年の1969年度には「今、また新たに日本人へ賞を授与することはない」として、日本から推薦された井上靖の調査もされなかった。 三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた。 1965年(昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『憂国』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影して完成させた。同年2月26日には、次回作となる〈夢と転生〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため、奈良の帯解から円照寺を初めて訪ね、その最初の巻となる「春の雪」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)。 9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアを旅行し、長編の取材のために10月はバンコクを訪れ、カンボジアにも遠征して戯曲『癩王のテラス』の着想を得た。ちょうどこの頃、AP通信がストックホルム発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる。 11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「太陽と鉄」を『批評』に連載開始し、戯曲『サド侯爵夫人』も発表され、傑作として高評価を受けた。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。 高度経済成長期の1966年(昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った。 自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の楽天主義〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の鍛冶屋のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった。 同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」 (Yūkoku ou Rites d'amour et de mort) のタイトルでツール国際短編映画祭に出品され、劇映画部門第2位となった。日本では4月からアートシアター系で一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった。映画を観た安部公房は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した。 この当時、毎週日曜日に碑文谷警察署で剣道の稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていた居合も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した。三島は、良雄の父で剣道家でもある舩坂弘ともこの道場で知り合い、交流するようになった。 6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』を発表し、『憂国』『十日の菊』と共に「二・二六事件三部作」として出版された。11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった。 〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが昭和天皇の「人間宣言」であり、自身の〈美学〉を掘り下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった。 『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した。 瀬戸内晴美は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『荒野より』、エッセイ『をはりの美学』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された。三島はこの対談の中で、いつか藤原定家を主人公にした小説を書く意気込みを見せた。 『英霊の聲』を発表した1966年(昭和41年)6月、三島は奈良県の率川神社の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めた。8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれて座禅した後、色紙に「清明」と揮毫した。その後は広島県を訪れ、恩師の清水文雄らに会って江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学し、特攻隊員の遺書を読んだ。 清水らに見送られて熊本県に到着した三島は、荒木精之らに迎えられて蓮田善明未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入した。この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った。 10月には自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月には舩坂弘の著作の序文を書いた返礼として日本刀・関ノ孫六を贈られた。同月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た。 翌1967年(昭和42年)1月に、その雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった。同月には日本学生同盟の持丸博も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った。 三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワークの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、西郷隆盛や加屋霽堅が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した。 これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった。同年2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった。5月には英訳版の『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『午後の曳航』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた。 6月には日本空手協会道場に入門し、中山正敏(日本空手協会首席師範)のもと、7月から空手の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。 6月19日には早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝と出会った。森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した。 担当編集者の菅原国隆は三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため、彼を鎌倉の小林秀雄宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った。当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の小島喜久江に語ったという。 9月下旬からはインド政府の招きで、インド、タイ、ラオスへ夫人同伴で旅行した。第三巻「暁の寺」の取材のため、単身でベナレスやカルカッタに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコクに滞留し、そこで自分を捕まえた特派員の徳岡孝夫と知り合い、2人は意気投合した。 10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した。同時期には『葉隠入門』『文化防衛論』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈近松も西鶴も芭蕉もいない〉昭和元禄を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確に示した。 1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと東京都青梅市の愛宕神社に参拝した。 インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった。この年、新撰組の近藤勇死後百年祭に参加した。近藤勇は、三島の高祖父・永井尚志の親友であったという。 三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の 同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。 この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった。 三島はその活動と並行し、同時期に『命売ります』や戯曲『わが友ヒットラー』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた。なおドナルド・キーンが後年1970年5月にコペンハーゲンの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された国際ペンクラブ大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(左翼の)過激派に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという。 1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。 同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席した。東大の学生らは荒れ果てた大学のイメージを払拭するため、解放区だからこそできる独自の授業をやろうと当時の知識人をリストアップし、その中の1人が三島だった。三島は芥正彦や小阪修平らと激論を交わし、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言した。そして最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした。また三島は討論終了後、芥ら学生を〈砂漠の住人〉と評した文章を残している。なお、その後三島は芥の書いた三島評などを読んでいたという話がある。後年、芥は当時について振り返り、三島との友愛やその後の時代についてなどをインタビューで回想している。 6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。 この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた。 しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した。その後、持丸も会の事務を手伝っていた松浦芳子との婚約を機に、退会の意向を示した。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。 この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これで、クーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。 この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。 同年10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出て、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った 11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。村松が川端の政治嫌い、イデオロギー嫌いは前から分かっていたことではないかと慰め的に言うと、「政治嫌いといったって、今東光の選挙のときには、応援に熱心に走りまわっていたじゃないか」と三島は川端の祝辞拒否の理由が解せず失望していた様子だったという。 1970年(昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏が三島に霊が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという。その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸で奥野健男と澁澤龍彦らが来て、コックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる。 3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。刊行された小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。 第四巻の取材のため、三島は5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴いてタイトルを決定し、7月から「天人五衰」を連載開始した。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。 7月7日の新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した。 同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されず葬られた。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った。 同年8月、家族と共に伊豆の下田市に旅行し、帰京後は執筆取材のために新富町の帝国興信所を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた。9月には評論『革命哲学としての陽明学』を発表し、同時期に対談集『尚武のこころ』と『源泉の感情』も出版した。 9月3日にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした。 この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者・メレディス・ウェザビーとも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、官僚主義に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした西郷隆盛を「最後の真の侍だ」と敬愛していたという。 10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという。 10月に再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった。 11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。 11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた藤井浩明は深夜、三島に電話した。イタリアで上映されて好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという。 11月22日の深夜午前0時前に横尾忠則が三島に電話し、横尾が装幀を担当した『新輯 薔薇刑』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという。 11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした。当時「末げん」の若女将になったばかりの丸武子によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食を終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという。 1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)。 決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。 この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や、新暦の1970年(昭和45年)の11月25日を旧暦に換算すると10月27日に相当し、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日(旧暦10月27日)の日付と同じになる日にしたという見解もある。 また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉 として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。 この日、細川護立の葬儀で東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。 三島の辞世の句は、 散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く の二首。
三島の遺体は翌日の26日に慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された。また、三島の血液型はA型で、身長は163cmであった。
自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。
介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。
武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし、以下のような追悼文を贈った。
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教育講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。 — 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」
翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で三島は荼毘に付された。なお、三島は律儀に国民年金に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。
翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある。
同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。
告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという。
人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した。
なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・川端香男里によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。
三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている。
1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。
文学碑・追悼碑作風・文学主題・評価作風二元論“芸術家小説”である作品空間は、あのアキレスと亀の話のように、限りなく作者に近接するものの、永遠に作者に到達することはない。近づけば近づくほど、逆に作者は限りなく作品空間から遠ざかるのだ。芸術対人生の対立をのり超えたと信じた三島は、この地点で、転換されたレベルでの二項対立に新たに捕えられるのである。それは鏡の部屋の中でのように無限に繰り返されるだろう。「彼」は作者になりうるか、作者は「彼」になりうるか……。この自己撞着のウロボロスの無限円環のなす背理そのものが、以後の三島の文学空間を規定したのである。 — 青海健「表層への回帰――三島由紀夫論」
すでに行動の世界にいた三島が自決(三島事件)の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし、大東亜戦争時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉)を意味している。
その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。
言葉の領域でもあった〈生〉と、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる。
三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。
悲劇性人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。 — 三島由紀夫「小説とは何か 七」
こういった三島の思考は、反キリストのニヒリストであるフリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で「超人」を招来したイロニーと等価であり、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている。ニーチェの待望した「英雄」「ディオニュソス」的なものは、三島にとって『蘭陵王』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち、蓮田善明の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉、特攻隊の〈人間の至純の魂〉、澄んだ『独楽』の〈透明な兇器〉、『奔馬』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉、『椿説弓張月』の源為朝など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある。
寂寞のエンディング現在あるところのものを一度破壊させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅もそのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。 — 三島由紀夫「わが魅せられたるもの」
人工性すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある。 — 川端康成「序」(『盗賊』)
弟子にして女優の村松英子によると、三島は現実の生々しさをそのまま感情的やグロテスクに表現することを嫌っていたとされ、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。
荻昌弘との対談の中でも三島は、アーサー・シモンズが「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している。
劇作家と小説家三島の持論憲法改正論自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。 — 三島由紀夫「問題提起」
また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている。
自衛隊論
陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で〈国土防衛軍〉を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。 2.の〈国土防衛軍〉には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。自衛隊法第三条において、間接侵略の対処や通常兵器による局地的な侵略に対する自衛隊の自主防衛や治安出動が認められているとする三島は、日本への直接侵略を最終目的とするソビエトや中共による間接侵略の醸成を阻止しなけらばならないとし、将来ソビエトが新潟方面に陽動作戦を伴いつつ北海道に直接侵攻してくる危険性に触れている。なお、三島は徴兵制には反対している。 三島は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結びつける〈日本刀の原理〉を復活し、〈武士道精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。 そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと〉こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。 日米安保については、〈安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする〉と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動(安保闘争)がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている。そして、そこで初めて〈われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか〉と語っている。 別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の〈西欧派〉であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の〈外国派〉であるとし、〈日本人に向かって、「おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか」といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う〉と述べている。そして、〈国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない〉として、〈まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況〉にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、〈西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい〉という考えを福田赳夫に伝えたことを1969年時点で語っている。 また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている。 三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈東京オリンピックに象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。 また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている。 この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。 そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの傭兵として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している。 このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし、石川淳との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、アウシュヴィッツや原子爆弾にはいまでも反対ですね〉とも述べている。 基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている。 また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「自己疎外」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ〉としている。 三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈神道の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである。 この〈時間的連続性〉のことを三島は〈縦の軸〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している。 日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈文化概念としての天皇〉という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している。 日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている。 そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ、〈希望による維新であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈 三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、明治維新をみても結果的には〈開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、攘夷論者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている。 そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である祭祀王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している。 さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している。 三島は、昭和天皇個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが、この天皇の「人間宣言」に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している。 三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、〈幻の南朝〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている。 また、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には朝融王との説が有力)に謁見し恩賜の銀時計を拝受したとも語っている(銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた)。 終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている。 磯田光一は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている。 長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている。 なお、鈴木邦男は、三島が女系天皇を容認しているメモを楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止して、十一家あった旧宮家が戦後GHQにより臣籍降下されたことなどにより、将来に必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にもそういった女系容認のメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島が生前に「憲法研究会」に提示した唯一の資料「問題提起」(「天皇に関する規定」「国防に関する規定」「非常事態に関する規定」で三島全集にも収録)のことや、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木がその原案(討議記録)を「三島メモ」と言い換えてミスリードしていることが元楯の会メンバーの篠原裕により指摘され、鈴木の著書を参考にした高森明勅の主張にも齟齬があることが言及されている。その他の元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も資料「問題提起」について説明しただけで帰っていき、男系・女系天皇について何の話もしていない(三島は会員らに討議を任せていて発言権はなかった)。三島の文学や評論を仔細に見ている松本徹も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている。 そもそも鈴木邦男が感心したという「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案に関しては、三島の死後(楯の会解散後)にテープ起しされ三島が確認していない「憲法研究会」における討議案のうちの、あくまで1人の会員の意見として記載されているもので、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は「(憲法に入れる)必要ない」「どうしてもその考えを入れるとしたら、皇室典範に規定しておけばいいんじゃないか」「憲法に入れるほどのものじゃない」という結論となっている。「憲法研究会」のリーダーで、改正案討議の記録を保管していた班長・阿部勉の提案した「女帝を認める」(女帝は「女系天皇」ではなく「女性天皇」のこと)という意味についても、阿部は「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と説明しており、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている。 三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、〈近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主〉として存在せしめようという考えであったが、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの〈没我〉の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。 三島の考える〈純粋〉は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には〈あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます〉とあり、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている。 三島は日本刀を〈魂である〉としていたが、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、〈あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである〉としている。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。 敗戦時に新聞などが、〈幼拙なヒューマニズム〉で〈戦術〉と称して神風特攻隊員らを〈将棋の駒を動かすやうに〉功利・効能的に見て、そうしたジャーナリズムにより特攻隊の精神が冒涜され〈神の座と称号〉が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた。 また、三島は戦後に『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を〈作為的〉に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え、〈テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる〉と唾棄している。 『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても〈いはん方ない反感〉を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らにシャルル・ボードレールかポール・ヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど〈甚だしくバカバカしい印象〉だと酷評し、〈日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的〉であるとしている。 「愛国心」という言葉に対し、「愛妻家」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。 「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。 アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている。 こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている。 三島は、ある種の社会改革を目ざした二・二六事件の将校の行動や陽明学を肯定していたが、日本の精神文化とは相容れない唯物史観やマルキシズム、あるいは未来幻想を暗示する進歩主義に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している。 座禅物語(輔仁会雑誌 1938年3月)★ 墓参り(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。 心のかゞやき(1940年3月)★ - 未完 仔熊の話(1940年6月)★ 神官(1940年)★ 花ざかりの森(文藝文化 1941年9月-12月)★ みのもの月(文藝文化 1942年11月)★ 世々に残さん(文藝文化 1943年3月)★ 祈りの日記(赤絵 1943年6月)★ 朝倉(文藝世紀 1944年7月)★ 中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃(文藝文化 1944年8月)★ - 改題前は「夜の車」 中世(文藝世紀 1945年2月-1946年1月、人間 1946年12月) エスガイの狩(文藝 1945年5・6月。戦乱のため発行は8月に遅延) 黒島の王の物語の一場面(東雲 1945年6月) 贋ドン・ファン記(新世紀 1946年6月) 煙草(人間 1946年6月) 岬にての物語(群像 1946年11月) 恋と別離と(婦人画報 1947年3月) 軽王子と衣通姫(群像 1947年4月) 夜の仕度(人間 1947年8月) ラウドスピーカー(文藝大学 1947年12月) 春子(人間 1947年12月) サーカス(進路 1948年1月)◇■ 婦徳(令女界 1948年1月) 接吻(マドモアゼル 1948年1月) 伝説(マドモアゼル 1948年1月) 白鳥(マドモアゼル 1948年1月) 哲学(マドモアゼル 1948年1月) 蝶々(花 1948年2月) - 改題前は「晴れた日に」 殉教(丹頂 1948年4月) 親切な男(新世間 1948年4月) 家族合せ(文學季刊 1948年4月) 人間喜劇(1948年4月執筆) - 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。 頭文字(文學界 1948年6月) 慈善(改造 1948年6月) 宝石売買(文藝 1948年6月) 罪びと(婦人 1948年7月) 好色(小説界 1948年7月) 不実な洋傘(婦人公論 1948年10月) 山羊の首(別冊文藝春秋 1948年11月) 獅子(序曲 1948年12月) 幸福といふ病気の療法(文藝 1949年1月) 毒薬の社会的効用について(風雪 1949年1月) 大臣(新潮 1949年1月) 魔群の通過(別冊文藝春秋 1949年2月) 天国に結ぶ恋(オール讀物 1949年6月) 舞台稽古(女性改造 1949年9月) 星(評論 1949年9月) 薔薇(文藝往来 1949年10月) 退屈な旅(別冊小説新潮 1949年10月) 親切な機械(風雪 1949年11月) 火山の休暇(改造文藝 1949年11月) 怪物(別冊文藝春秋 1949年12月) 果実(新潮 1950年1月) 修学旅行(週刊朝日 1950年3月1日) 日曜日(中央公論 1950年7月) 日食(朝日新聞夕刊 1950年9月19日) 食道楽(サンデー毎日別冊 1950年10月20日) 牝犬(別冊文藝春秋 1950年12月) 女流立志伝(オール讀物 1951年1月) 家庭裁判(文藝春秋 1951年1月) 偉大な姉妹(新潮 1951年3月) 箱根細工(小説公園 1951年3月) 椅子(別冊文藝春秋 1951年3月) 死の島(改造 1951年4月) 翼――ゴーティエ風の物語(文學界 1951年5月) 右領収 手長姫(小説新潮 1951年6月) 朝顔(婦人公論 1951年8月) 携帯用(新潮 1951年10月) 離宮の松(別冊文藝春秋 1951年12月) クロスワード・パズル(文藝春秋 1952年1月) 学生歌舞伎 近世 金魚と奥様(オール讀物 1952年9月) 真夏の死(新潮 1952年10月)◇ - 1967年フォルメントール国際文学賞(英語版)第2位受賞。 二人の老嬢(週刊朝日 1952年11月30日) 江口 雛の宿(オール讀物 1953年4月) 旅の墓碑銘(新潮 1953年6月) 急停車(中央公論 1953年6月) 卵(群像 1953年6月) 不満な女たち(文藝春秋 1953年7月) 花火(改造 1953年9月)◇ ラディゲの死(中央公論 1953年10月) 陽気な恋人(サンデー毎日 1953年10月30日) 博覧会(群像 1954年6月) 芸術 鍵のかかる部屋(新潮 1954年7月) 復讐(別冊文藝春秋 1954年7月)◇ 詩を書く少年(文學界 1954年8月) S・O・S(小説新潮 1954年11月) 海と夕焼(群像 1955年1月) 新聞紙(文藝 1955年3月) 商ひ人(新潮 1955年4月) 山の魂(別冊文藝春秋 1955年4月) 屋根を歩む(オール讀物 1955年5月) 牡丹(文藝 1955年7月) 青いどてら(朝日新聞 1956年1月15日) 十九歳(文藝 1956年3月)◇ 足の星座(オール讀物 1956年7月) 橋づくし(文藝春秋 1956年12月)◇ 女方(世界 1957年1月) 色好みの宮(オール讀物 1957年7月) 影(オール讀物 1959年11月) 百万円煎餅(新潮 1960年9月) 愛の処刑(ADONIS 1960年10月)◎ スタア(群像 1960年11月) 憂国(小説中央公論 1961年1月)◎ 苺(オール讀物 1961年9月) 帽子の花(群像 1962年1月) 魔法瓶(文藝春秋 1962年1月) 月(世界 1962年8月) 葡萄パン(世界 1963年1月) 真珠(文藝 1963年1月)◇ 自動車(オール讀物 1963年1月) 可哀さうなパパ(小説新潮 1963年3月) 雨のなかの噴水(新潮 1963年8月) 切符(中央公論 1963年8月) 剣(新潮 1963年10月)◎◇ 月澹荘綺譚(文藝春秋 1965年1月)◇ 三熊野詣(新潮 1965年1月)◇ 孔雀(文學界 1965年2月) 朝の純愛(日本 1965年6月) 仲間(文藝 1966年1月) 英霊の聲(文藝 1966年6月)■
荒野より(群像 1966年10月) 時計(文藝春秋 1967年1月) 蘭陵王(群像 1969年11月)
第2章(文學会議 1947年12月) 第3章(思潮 1948年3月) 第4章(文學会議 1948年10月) 第5章(新文學 1948年2月) 第6章(書き下ろし/真光社 1948年11月) 仮面の告白(書き下ろし/河出書房 1949年7月) 純白の夜(婦人公論 1950年1月-10月)◎◇ 愛の渇き(書き下ろし/新潮社 1950年6月)◎ 青の時代(新潮 1950年7月-12月) 禁色(群像 1951年1月-1953年8月)
第19章-第33章(文學界 1952年8月-1953年8月) 夏子の冒険(週刊朝日 1951年8月5日-11月25日)◎◇ につぽん製(朝日新聞 1952年11月1日-1953年1月31日)◎◇ 恋の都(主婦之友 1953年8月-1954年7月)◎ 潮騒(書き下ろし/新潮社 1954年6月)◎◇ - 第1回新潮社文学賞受賞。 女神(婦人朝日 1954年8月-1955年3月)◇ 沈める滝(中央公論 1955年1月-4月)◇ 幸福号出帆(読売新聞 1955年6月18日-11月15日)◎ 金閣寺(新潮 1956年1月-10月)◎◇ - 第8回読売文学賞小説部門賞受賞。 永すぎた春(婦人倶楽部 1956年1月-12月)◎◇ 美徳のよろめき(群像 1957年4月-6月)◎◇ 鏡子の家(書き下ろし/新潮社 1959年9月)◇
宴のあと(中央公論 1960年1月-10月) - 1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。 お嬢さん(若い女性 1960年1月-12月)◎◇ 獣の戯れ(週刊新潮 1961年6月12日-9月4日)◎ 美しい星(新潮 1962年1月-11月)◎◇ 愛の疾走(婦人倶楽部 1962年1月-12月) 肉体の学校(マドモアゼル 1963年1月-12月)◎◇ 午後の曳航(書き下ろし/講談社 1963年9月)◎ - 1967年フォルメントール国際文学賞候補作品。 絹と明察(群像 1964年1月-10月) - 第6回毎日芸術賞文学部門賞受賞。 音楽(婦人公論 1964年1月-12月)◎ 春の雪〈豊饒の海・第一巻〉(新潮 1965年9月-1967年1月)◎◇△ 複雑な彼(女性セブン 1966年1月-7月)◎ 三島由紀夫レター教室(女性自身 1966年9月26日-1967年5月15日)◇ 夜会服(マドモアゼル 1966年9月-1967年8月) 奔馬〈豊饒の海・第二巻〉(新潮 1967年2月-1968年8月) 命売ります(週刊プレイボーイ 1968年5月21日-10月8日) 暁の寺〈豊饒の海・第三巻〉(新潮 1968年9月-1970年4月) 天人五衰〈豊饒の海・第四巻〉(新潮 1970年7月-1971年1月) ☆印は潤色・修辞作品
路程(1939年9月28日以前)★ 基督降誕記(1939年8月-9月)★ 館(輔仁会雑誌 1939年11月)★ - 中断した未完の第2回は2000年11月『新潮』初掲載。 やがてみ楯と(1943年6月)★ - 学習院輔仁会春季文化大会で上演。 あやめ(婦人文庫 1948年5月)◇ 火宅(人間 1948年11月) 愛の不安(文藝往来 1949年2月) 燈台(文學界 1949年5月)◇ ニオベ(群像 1949年10月) 聖女(中央公論 1949年10月) 邯鄲――近代能楽集ノ内(人間 1950年10月) 綾の鼓――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月) 姫君と鏡(青山圭男若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) - 舞踊劇。 鯉になつた和尚さん(誠文堂新光社 1951年11月) - わだよしおみ(和田義臣)との共同脚本。上田秋成『雨月物語』の「夢応の鯉魚」を翻案とした童話劇。 卒塔婆小町――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)◇ 紳士(演劇 1952年1月) - 無言劇。 只ほど高いものはない(新潮 1952年2月) 夜の 地獄変(1953年12月初演)◇ - 芥川龍之介の小説『地獄変』の竹本劇化(義太夫語りを含む歌舞伎)。 葵上――近代能楽集ノ内(新潮 1954年1月)◇ 若人よ蘇れ(群像 1954年6月) 溶けた天女(新劇 1954年7月) - オペレッタ。未上演。 ボン・ディア・セニョーラ(1954年9月初演) - オペレッタ。1974年の全集で初活字化。 鰯売恋曳網(演劇界 1954年11月) ボクシング(文化放送脚本 1954年11月)◇ - 第9回文部省芸術祭放送部門参加。 班女――近代能楽集ノ内(新潮 1955年1月)◇ 恋には七ツの鍵がある(1955年3月初演) - 全19景のオムニバス劇(三島のほか、村松梢風、東郷青児、小牧正英、北條誠、トニー谷、三林亮太郎が執筆)の第2景-第4景の「恋を開く酒の鍵」を担当。 熊野(三田文学 1955年5月) - 歌舞伎舞踊。 三原色(知性 1955年8月) 船の挨拶(文藝 1955年8月)◇ 白蟻の巣(文藝 1955年9月) - 第2回岸田演劇賞受賞。 鹿鳴館(文學界 1956年12月)◎◇ オルフェ(1956年12月初演) - ジャン・コクトーの映画『オルフェ』の舞踊劇化。 道成寺――近代能楽集ノ内(新潮 1957年1月)◇ ブリタニキュス(新劇 1957年4月)☆ - ジャン・ラシーヌ原作・安堂信也邦訳版。 朝の 附子(1957年) - 1971年4月『中央公論』初掲載。 Long After Love(1957年) - 1971年5月『中央公論』初掲載。 薔薇と海賊(群像 1958年5月) - 週刊読売新劇賞受賞。 舞踊台本・橋づくし(柳橋みどり会プログラム 1958年10月) むすめごのみ 熊野――近代能楽集ノ内(聲 1959年4月)◇ 女は占領されない(聲 1959年10月) 熱帯樹(聲 1960年1月) サロメ(1960年4月初演)☆ - オスカー・ワイルド原作・日夏耿之介邦訳版。 弱法師――近代能楽集ノ内(聲 1960年7月) 十日の菊(文學界 1961年12月) - 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。 黒蜥蜴(婦人画報 1961年12月)◎ - 江戸川乱歩の小説『黒蜥蜴』の戯曲化。 源氏供養――近代能楽集ノ内(文藝 1962年3月) プロゼルピーナ(1962年11月初演)☆ - 翻訳独白劇。ゲーテ原作・三島由紀夫邦訳版。 トスカ(1963年6月上演)☆ - ヴィクトリアン・サルドゥ原作・安堂信也邦訳版。 喜びの琴(文藝 1964年2月) 恋の帆影(文學界 1964年10月) ちびくろさんぼのぼうけん(学習院幼稚園 1964年12月)☆ - お遊戯会用。 聖セバスチァンの殉教(批評 1965年4月) - ダンヌンツィオ原作劇の翻訳(池田弘太郎との共訳)。 サド侯爵夫人(文藝 1965年11月) - 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。 舌切雀(学習院幼稚園 1965年12月)☆ – お遊戯会用。 リュイ・ブラス(1966年10月初演)☆ - ヴィクトル・ユゴー原作・池田弘太郎邦訳版。 アラビアン・ナイト(1967年3月初演) - 『アラビアンナイト』を翻案とした戯曲。 朱雀家の滅亡(文藝 1967年10月) ミランダ(心 1968年10月) - バレエ劇。 双頭の鷲(1968年10月)☆ - 監修。ジャン・コクトー原作・池田弘太郎邦訳版。 わが友ヒットラー(文學界 1968年12月)■ 癩王のテラス(海 1969年7月) 椿説弓張月(海 1969年11月)■ - 曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』の歌舞伎化。文楽浄瑠璃化もあり(1971年11月初演)。
芝居日記(1942年1月-1947年11月)★ - 原題「平岡公威劇評集」。1989年10月-1990年2月『マリ・クレール』初掲載。 東文彦 弔詞(1943年10月) - 1998年12月『新潮』掲載。 東徤兄を 平岡公威伝(1944年2月)★ 扮装狂(1944年8月)★ - 2000年11月『新潮』初掲載。 廃墟の朝(1944年夏)★ 詩論その他(1945年5月-6月) - 2000年11月『新潮』に初抜粋掲載。 別れ(輔仁会報 1945年7月) 昭和廿年八月の記念に(1945年8月) - 1979年3月『新潮』初掲載。 戦後語録(1945年9月) 川端康成印象記(1946年1月) わが世代の革命(午前 1946年7月) 招かれざる客(書評 1947年9月) 重症者の兇器(人間 1948年3月) 師弟(青年 1948年4月) ツタンカーメンの結婚(財政 1948年5月) 反時代的な芸術家(玄想 1948年9月) 悲劇の 戯曲を書きたがる小説書きのノート(日本演劇 1949年10月) 大阪の連込宿――「愛の渇き」の調査旅行の一夜(文藝春秋 1950年6月) 虚栄について(美しい暮しの手帖 1950年10月) 声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性(スタイル 1950年12月) アポロの杯(各誌 1952年4月-8月、朝日新聞社 10月) 遠視眼の旅人(週刊朝日 1952年6月8日) 最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙(婦人公論 1952年12月) 私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に(別冊文藝春秋 1952年12月) 愉しき御航海を――皇太子殿下へ(1953年3月) - 発表誌未詳。 堂々めぐりの放浪(毎日新聞 1953年8月22日) 芝居と私(文學界 1954年1月) 女ぎらひの弁(新潮 1954年8月) 好きな女性(知性 1954年8月) 私の小説の方法(河出書房 1954年9月) - 『文章講座4』収録。 空白の役割(新潮 1955年6月) 終末感からの出発――昭和二十年の自画像(新潮 1955年8月) 八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日) 戯曲の誘惑(東京新聞 1955年9月6日-7日) 小説家の休暇(書き下ろし/講談社 1955年11月) 新恋愛講座(明星 1955年12月-1956年12月) 歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月) ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴(日本読書新聞 1956年2月20日) わが漫画(漫画読売 1956年3月5日) わが魅せられたるもの(新女苑 1956年4月) 自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒(文學界 1956年8月) ボディ・ビル哲学(漫画読売 1956年9月20日) 或る寓話(群像 1956年10月) 文学とスポーツ(新体育 1956年10月) ボクシングと小説(毎日新聞 1956年10月7日) 陶酔について(新潮 1956年11月) わが思春期(明星 1957年1月-9月) 旅の絵本(各誌 1957年12月-1958年4月)■ 裸体と衣裳――日記(新潮 1958年4月-1959年9月) 外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月) 不道徳教育講座(週刊明星 1958年7月27日-1959年11月29日)◎◇ 私の見合結婚(主婦の友 1958年7月) 作家と結婚(婦人公論 1958年7月) 母を語る――私の最上の読者(婦人生活 1958年10月) 同人雑記(聲 1958年10月-1960年10月) 十八歳と三十四歳の肖像画(群像 1959年5月) ぼくはオブジェになりたい(週刊公論 1959年12月1日) 夢の原料(輔仁会雑誌 1960年12月) ピラミッドと麻薬(毎日新聞 1961年1月28日) 美に逆らふもの(新潮 1961年4月) - タイガーバームガーデン紀行。 汽車への郷愁(弘済 1961年5月) 法律と文学(東大緑会大会プログラム 1961年12月) 第一の性(女性明星 1962年12月-1964年12月) 私の遍歴時代(東京新聞 1963年1月10日-5月23日) 私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月) 小説家の息子(教育月報 1963年7月) 一S・Fファンのわがままな希望(宇宙塵 1963年9月) わが創作方法(文學 1963年11月) 写真集「薔薇刑」のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす'63(読売新聞 1963年12月28日) 夢と人生(岩波書店 1964年5月) - 『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語・浜松中納言物語』月報 私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日) 天狗道(文學界 1964年7月) 熊野路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日) 秋冬随筆(こうさい 1964年10月-1965年3月) 実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日) 東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日) 「別れもたのし」の祭典――閉会式(報知新聞 1964年10月25日) 男のおしやれ(平凡通信 1964年12月) 反貞女大学(産経新聞 1965年2月7日-12月19日) 法学士と小説(学士会会報 1965年2月) ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日-10日) 私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日(潮 1965年8月) 太陽と鉄(批評 1965年11月-1968年6月) をはりの美学(女性自身 1966年2月14日-8月1日) 「われら」からの遁走――私の文学(講談社 1966年3月) - 『われらの文学5 三島由紀夫』収録。 わが育児論(主婦の友 1966年4月) 二・二六事件と私(河出書房新社 1966年6月) - 作品集『英霊の聲』付録。 闘牛士の美(平凡パンチ 1966年6月10日) 私の遺書(文學界 1966年7月) 私のきらひな人(話の詩集 1966年7月) ビートルズ見物記(女性自身 1966年7月18日) 私の健康法――まづボデービル(読売新聞 1966年8月21日) 年頭の迷ひ(読売新聞 1967年1月1日) 男の美学(HEIBONパンチDELUXE 1967年3月) いかにして永生を?(文學界 1967年10月) 青年について(論争ジャーナル 1967年10月) - 万代潔との出逢いを語る。 インドの印象(毎日新聞 1967年10月20日-21日) 「文芸文化」のころ(番町書房 1968年1月) - 『昭和批評大系2 昭和10年代』月報 日本の古典と私(秋田魁新報 1968年1月1日) F104(文藝 1968年2月) - F104戦闘機試乗体験記。 電灯のイデア――わが文学の揺籃期(新潮社 1968年9月) - 『新潮日本文学45 三島由紀夫集』月報1 軍服を着る男の条件(平凡パンチ 1968年11月11日) 怪獣の私生活(NOW 1968年12月) ホテル(朝日新聞PR版 1969年5月25日) 「人斬り」出演の記(大映グラフ 1969年8月) 劇画における若者論(サンデー毎日 1970年2月1日) 独楽(辺境 1970年9月) 愛するといふこと(女の部屋 1970年9月) 滝ヶ原分屯地は第二の我が家(たきがはら 1970年9月25日)
王朝心理文学小史(1942年1月)★ - 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。 古今の季節(文藝文化 1942年7月)★ 伊勢物語のこと(文藝文化 1942年11月)★ うたはあまねし(文藝文化 1942年12月)★ 夢野之鹿(輔仁会雑誌 1943年12月)★ 古座の玉石――伊東静雄覚書(文藝文化 1944年1月)★ 檀一雄「花筐」――覚書(まほろば 1944年6月)★ 川端氏の「抒情歌」について(民生新聞 1946年4月29日) 宗十郎のことなど――俳優論」(日本演劇 1947年4月) - 改題前は「澤村宗十郎について」 宗十郎覚書(スクリーン・ステージ 1947年10月20日) 相聞歌の源流(日本短歌 1948年1月・2月) 情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月) 川端康成論の一方法――「作品」について(近代文学 1949年1月) 中村芝翫論(季刊劇場 1949年2月) 小説の技巧について(世界文学 1949年3月) 雨月物語について(文藝往来 1949年9月) 極く短かい小説の効用(小説界 1949年12月) オスカア・ワイルド論(改造文藝 1950年4月) 文学に於ける春のめざめ(女性改造 1951年4月) 批評家に小説がわかるか(中央公論 1951年6月) 新古典派(文學界 1951年7月) 日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?(演劇 1951年11月) 「班女」拝見(観世 1952年7月) 卑俗な文体について(群像 1954年1月) ワットオの《シテエルへの船出》(芸術新潮 1954年4月) 芥川龍之介について(文藝 1954年12月) 横光利一と川端康成(河出書房 1955年2月) - 『文章講座6』収録。 川端康成ベスト・スリー――「山の音」「反橋連作」「禽獣」(毎日新聞 1955年4月11日) 芸術にエロスは必要か(文藝 1955年6月) 福田恆存氏の顔(新潮 1955年7月) 加藤道夫氏のこと(毎日マンスリー 1955年9月) ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇(スクリーン 1956年2月) 永遠の旅人――川端康成氏の人と作品(別冊文藝春秋 1956年4月) 西部劇礼讃(知性 1956年8月) 楽屋で書かれた演劇論(芸術新潮 1957年1月) 川端康成の東洋と西洋(国文学 解釈と鑑賞 1957年2月) 現代小説は古典たり得るか(新潮 1957年6月-8月) 心中論(婦人公論 1958年3月) 文章読本(婦人公論別冊 1959年1月) 川端康成氏再説(新潮社 1959年7月) - 『日本文学全集30 川端康成集』月報 六世中村歌右衛門序説(講談社 1959年9月) - 写真集『六世 中村歌右衛門』序文 「エロチシズム」――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」(聲 1960年4月) 石原慎太郎氏の諸作品(筑摩書房 1960年7月) - 『新鋭文学叢書8 石原慎太郎集』解説。 ベラフォンテ讃(毎日新聞 1960年7月15日) 「黒いオルフェ」を見て(スクリーン 1960年8月) 春日井建氏の「未青年」の序文(作品社 1960年9月) 武田泰淳氏――僧侶であること(新潮社 1960年9月) - 『日本文学全集63 武田泰淳集』月報 存在しないものの美学――「新古今集」珍解(国文学 解釈と鑑賞 1961年4月) RECOMMENDING MR.YASUNARI KAWABATA FOR THE 1961 NOBEL PRIZE FOR LITERATURE(1961年5月) - 川端康成ノーベル文学賞推薦文。日本ペンクラブが6月12日付で英訳。 川端康成氏と文化勲章(北日本新聞 1961年10月22日) - 改題前「永遠に若い精神史」 終末観と文学(毎日新聞 1962年1月4日) 「純文学とは?」その他(風景 1962年6月) 現代史としての小説(毎日新聞 1962年10月9日-10日) 谷崎潤一郎論(朝日新聞 1962年10月17日-19日) 川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) - 『文芸読本 川端康成』寄稿 踊り(毎日新聞 1963年1月4日) 林房雄論(新潮 1963年2月) 細江英公序説(集英社 1963年3月) - 『薔薇刑』序文 ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月) 変質した優雅(風景 1963年7月) 芸術断想(芸術生活 1963年8月-1964年5月) 文学座の諸君への「公開状」――「喜びの琴」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日) 雷蔵丈のこと(日生劇場プログラム 1964年1月) 解説(『日本の文学38 川端康成』 中央公論社 1964年3月) 解説(『現代の文学20 円地文子集』 河出書房新社 1964年4月) 文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月) 現代文学の三方向(展望 1965年1月) 文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日) 谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日) 解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』 中央公論社 1966年1月) 危険な芸術家(文學界 1966年2月) 映画的肉体論――その部分及び全体(映画芸術 1966年5月) ナルシシズム論(婦人公論 1966年7月) 谷崎潤一郎、芸術と生活(中央公論社 1966年9月)- 『谷崎潤一郎全集』内容見本 伊東静雄の詩――わが詩歌(新潮 1966年11月) 谷崎潤一郎頌(日本橋三越 1966年11月) - 『文豪谷崎潤一郎展図録』 青年像(芸術新潮 1967年2月) 古今集と新古今集(国文学攷 1967年3月) ポップコーンの心霊術―横尾忠則論(1968年2月) - 横尾忠則著『私のアイドル』(改題後『横尾忠則 記憶の遠近術のこと』)序文 『仙洞御所』序文(淡交新社 1968年3月) - 『宮廷の庭I 仙洞御所』序文 小説とは何か(波 1968年5月-1970年11月) 野口武彦氏への公開状(文學界 1968年5月) 解説(『日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作』 中央公論社 1968年8月) 日沼氏と死(批評 1968年9月) 篠山紀信論(毎日新聞社 1968年11月) - 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿 All Japanese are perverse(血と薔薇 1968年11月) - 性倒錯論 解説(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』 中央公論社 1969年1月) 序(矢頭保写真集『裸祭り』 美術出版社 1969年2月) 鶴田浩二論――「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの(映画芸術 1969年3月) 日本文学小史(群像 1969年8月-1970年6月) - 第6章目は未完のまま中断。 解説(『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』 中央公論社 1969年12月) 『眠れる美女』論(国文学 解釈と教材の研究 1970年2月) 末期の眼(新潮社 1970年3月) - 『川端康成全集13巻 末期の眼』月報 解説(『新潮日本文学6 谷崎潤一郎集』 新潮社 1970年4月) 性的変質から政治的変質へ――ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」をめぐって(映画芸術 1970年4月) 解説(『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』 中央公論社 1970年6月) 柳田国男『遠野物語』――名著再発見(読売新聞 1970年6月12日) 忘我(映画芸術 1970年8月)
道徳と孤独(文學界 1953年10月) モラルの感覚――芸術家における誠実の問題(毎日新聞 1954年4月20日) 新ファッシズム論(文學界 1954年10月) 欲望の充足について――幸福の心理学(新女苑 1955年2月) 電気洗濯機の問題(花園 1956年1月) 亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後進国の諸問題(中央公論 1956年9月) きのふけふ(朝日新聞 1957年1月7日-6月24日) - コラム 青春の 憂楽帳(毎日新聞 1959年3月3日-5月26日) - コラム 社会料理三島亭(婦人倶楽部 1960年1月-12月) 一つの政治的意見(毎日新聞 1960年6月25日) 発射塔(読売新聞 1960年7月6日-10月26日) - コラム アメリカ人の日本神話(HOLIDAY 1961年2月) - “Japan:The Cherished Myths” と英訳。 魔――現代的状況の象徴的構図(新潮 1961年7月) 堀江青年について(中央公論 1962年11月) 天下泰平の思想(論争 1963年9月) 生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ(文芸朝日 1964年7月) 文武両道(月刊朝雲 1965年10月) 日本人の誇り(朝日新聞 1966年1月1日) お茶漬ナショナリズム(文藝春秋 1966年4月) 法律と餅焼き(法学セミナー 1966年4月) 団蔵・芸道・再軍備(20世紀 1966年9月) 序(舩坂弘著『英霊の絶叫』 文藝春秋 1966年12月) 日本への信条(愛媛新聞 1967年1月1日) 忘却と美化(戦中派 1967年2月) 「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について(文藝 1967年3月) 私の中のヒロシマ――原爆の日によせて(週刊朝日 1967年8月11日) - 改題前は「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」 人生の本――末松太平著『私の昭和史』(週刊文春 1967年8月14日) 葉隠入門――武士道は生きてゐる(光文社 1967年9月) 青年論――キミ自身の生きかたを考へるために(平凡パンチ 1967年10月5日) J・N・G仮案(Japan National Guard――祖国防衛隊)(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月) 祖国防衛隊はなぜ必要か?(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月) 愛国心(朝日新聞 1968年1月8日) 円谷二尉の自刃(産経新聞 1968年1月13日) 二・二六事件について――“日本主義”血みどろの最期(週刊読売 1968年2月23日) 若きサムラヒのための精神講話(PocketパンチOh! 1968年6月-1969年5月) フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日) 文化防衛論(中央公論 1968年7月) 機能と美(男子専科 1968年9月) 栄誉の絆でつなげ菊と刀(日本及日本人 1968年9月) 橋川文三への公開状(中央公論 1968年10月) 自由と権力の状況(自由 1968年11月) 「戦塵録」について(昭和文明研究会 1969年1月) - 木下静雄著への寄稿 東大を動物園にしろ(文藝春秋 1969年1月) 現代青年論(読売新聞 1969年1月1日) 維新の若者(報知新聞 1969年1月1日) 反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月) 自衛隊二分論(20世紀 1969年4月) 一貫不惑(光風社書店 1969年5月) - 影山正治著『日本民族派の運動』付録 砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) - 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』付録 北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として(三田文学 1969年7月) 日本文化の深淵について(THE TIMES 1969年9月) - “A problem of culture” と英訳。 行動学入門(PocketパンチOh! 1969年9月-1970年8月) 三島由紀夫のファクト・メガロポリス(週刊ポスト 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日) STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE(ニューヨーク・タイムズ 1969年11月29日) - “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。 「楯の会」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月) 「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日) 「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日-22日) 新知識人論(日本経済新聞 1970年1月22日) 『蓮田善明とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) - 小高根二郎著への序文 問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月) 士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日) 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年(サンケイ新聞 1970年7月7日) 武士道と軍国主義(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。 正規軍と不正規軍(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。 革命哲学としての陽明学(諸君! 1970年9月) 武士道に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月) わが同志観(潮 1971年2月)
小説の表現について(序曲 1948年12月) - 対:埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、寺田透、椎名麟三。実施:10月6日 二十代・三十代・四十代の恋愛観(芸苑 1949年1月) - 対:池田亀鑑、亀井勝一郎、波多野勤子、岡本太郎 舟橋聖一との対話(文學界 1949年3月) - 対:舟橋聖一 パンパンの世界――実態調査座談会(改造 1949年12月) - 対:飯塚浩二、宮城音弥、佐多稲子、森田政次、南博、田中文子、三浦美紀子、北沢とし子、藤沢七生、伊藤あき子 既成劇作家を語る(劇作 1950年1月) - 対:梅田晴夫、矢代静一、戸板康二 新しい文学の方向(展望 1950年2月) - 対:中村光夫、加藤周一、小田切秀雄、野間宏、椎名麟三 三島由紀夫・笠置シズ子 大いに語る――世相 文学 歌(日光 1950年4月) - 対:笠置シズ子 創作批評〈第4回〉(風雪 1950年4月) - 対:河上徹太郎。実施:2月8日 どんな女性に魅力があるか――独身人気者の座談会(主婦之友 1950年9月) - 対:山本嘉次郎、池部良、岡本太郎、小松原博喜、花柳喜章 「女相続人」を観て――映画放談(スクリーン 1950年10月) -対:林芙美子、河盛好蔵、松田ふみ 新しき文学への道――文学の立体化(文藝 1950年10月) - 対:福田恆存、武田泰淳、加藤道夫 人生問答(新潮別巻・人生読本 1951年1月) - 対:久米正雄、林房雄 歌右衛門の美しさ(劇評別冊・六世中村歌右衛門 1951年4月1日) - 対:戸板康二 映画の限界 文学の限界(人間 1951年5月) - 対:吉村公三郎、渋谷実、瓜生忠夫 犬猿問答――自作の秘密を繞って(文學界 1951年6月) - 対:大岡昇平 演劇と文学(文學界 1952年2月) - 対:芥川比呂志 廃墟の誘惑(群像 1952年7月) - 対:中村光夫 日本の短篇小説について(文藝 1952年9月) - 対:川端康成、舟橋聖一、山本健吉、臼井吉見、中島健蔵、青野季吉 僕たちの実体(文藝 1952年12月) - 対:大岡昇平、福田恆存 息子の文才を伸した両親の理解と愛情――親子のはなし(主婦之友 1952年12月) - 対:平岡倭文重、田村秋子。実施:初秋(緑ケ丘・三島宅) 柔道座談会――年齢別選手権大会を見ての…(柔道 1953年1月) - 対:伊原宇三郎、醍醐敏郎、富田常雄、中村常男、真杉静枝、大悟法利雄。実施:前年11月23日(日比谷・陶々亭) 二人の見たパリ(婦人朝日 1953年9月) - 対:越路吹雪 映画と文学のあいだ――映画監督の映画擁護論(改造 1953年12月) - 対:アンドレ・カイヤット。実施:10月 デザイナーのあり方――映画「にっぽん製」を中心に(産業経済新聞 1953年12月) - 対:岩崎春子、伊東絹子 岸田今日子さんと恋愛を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年9月) -対:岸田今日子 私の文学鑑定(群像 1954年11月) - 対:舟橋聖一 高峰秀子さんと映画・結婚を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年12月)- 対:高峰秀子 芸術よもやま話(週刊NHK新聞 1955年2月20日)■ - 対:中村歌右衛門。NHKラジオ第一で2月8、15、22日に放送。 シャンソン歌手石井好子さんと語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1955年3月) - 対:石井好子 三島由紀夫さんに聞く(若人 1955年6月) - 対:川田雄基。実施:3月下旬(緑ケ丘・三島宅) たのしきかな映画(小説公園 1955年12月) - 対:田中澄江、黛敏郎 日本の芸術1 歌舞伎(群像 1956年1月) - 対:坂東三津五郎 三島由紀夫氏訪問(映画の友 1956年1月) - 対:淀川長治。実施場所:歌舞伎座3階稽古部屋 日本の芸術2 新派(群像 1956年2月) - 対:喜多村緑郎 日本の芸術3 能楽(群像 1956年3月) - 対:喜多六平太 ウラーノワのバレエ映画――ロメオとジュリエットの物語(芸術新潮 1956年3月) - 対:谷桃子、松山樹子、芥川也寸志 日本の芸術4 長唄(群像 1956年4月) - 対:杵屋栄蔵 新人の季節(文學界 1956年4月) - 対:石原慎太郎 日本の芸術5 浄瑠璃(群像 1956年5月) - 対:豊竹山城少掾 日本の芸術6 舞踊(群像 1956年6月) - 対:武原はん 戦前派 戦中派 戦後派(文藝 1956年7月) - 対:高見順、堀田善衛、吉行淳之介、村上兵衛、石原慎太郎、木村徳三。実施:5月 日本美の再発見――創作対談(短歌研究 1956年9月) - 対:生方たつゑ。実施場所:練馬区・生方宅 映画・芸術の周辺(スクリーン 1956年9月) - 対:荻昌弘 小説から演劇へ――私はなぜ戯曲を書くか(演劇手帖 1956年11月) - 対:武田泰淳、椎名麟三、安部公房、松島栄一 美のかたち――「金閣寺」をめぐって(文藝 1957年1月) - 対:小林秀雄 愛国心(神戸新聞 1957年2月11日-13日) - 対:永田清、嘉治隆一 協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎(演劇界 1957年5月) - 対:杉山誠、郡司正勝、利倉幸一 ヨーロッパの青春(キング 1957年7月) - 対:犬養道子 涼風をよぶ風流よもやま噺(淡交 1957年9月) - 対:武智鉄二、井口海仙 女はよろめかず(中央公論 1957年9月) - 対:宇野千代 ミュージカルみやげ話(中央公論 1958年3月) - 対:越路吹雪 作家の女性観と結婚観(若い女性 1958年4月) - 対:石原慎太郎 マクアイ・リレー対談(幕間 1958年5月) - 対:中村歌右衛門。実施:4月7日(新橋・金田中) 映画「炎上」を語る(毎日新聞 1958年8月18日) - 対:市川崑、市川雷蔵。実施:8月15日(京橋・大映本社) 狐狗狸の夕べ(宝石 1958年10月) - 対:江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫 やァこんにちは〈日出造見参 第222回〉(週刊読売 1958年10月5日) - 対:近藤日出造 女は悲しくない(若い女性 1959年1月) - 対:有吉佐和子 T・ウィリアムズと語る――紙上録音版(図書新聞 1959年10月10日) - 対:テネシー・ウィリアムズ。実施:9月14日(赤坂・米国大使館文化交換局)。放送・報道:10月2日(ニッポン放送)。9月30日に「T・ウィリアムズ氏の文芸談」として抄録(毎日新聞)。 劇作家のみたニッポン(芸術新潮 1959年11月) - 対:テネシー・ウィリアムズ、オブザーバー参加:フランク・マーロ(秘書)、ドナルド・リチー ニュー・フェイス三島由紀夫“センパイ”フランキー堺と大いに語る(週刊明星 1959年12月6日) - 対:フランキー堺。実施:11月19日 「サロメ」とその舞台(古酒 1960年5月) - 対:矢野峰人、岸田今日子、燕石猷、関川左木夫、太田博。実施:4月16日(渋谷・東横ホール) 外から見た日本(週刊公論 1961年2月13日) - 対:大宅壮一。実施:1月30日(福田家) 世界の旅から帰った三島由紀夫氏――ファニーフェイスtoフェイス(婦人公論 1961年3月) - 対:芳村真理 結婚身上相談――雪村さんが三島先生に聞く(若い女性 1961年9月) - 対:雪村いづみ 「薔薇刑」について(カメラ芸術 1962年3月) - 対:細江英公 川端康成氏に聞く(河出書房新社 1962年12月) - 対:川端康成、中村光夫。『文芸読本 川端康成』収録。 現代の文学と大衆(文藝 1963年5月) - 対:川端康成、丹羽文雄、円地文子、井上靖、松本清張 たのしいいじわるデイト――移動座談会(女性セブン 1963年5月5日) - 対:有吉佐和子 子のしつけ親のしつけ――7月のサロン(太陽 1963年7月) - 対:黛敏郎、加藤芳郎、谷川俊太郎、石井好子 七年目の対話(風景 1964年1月) - 対:石原慎太郎 初釜清談(京都新聞 1964年1月5日) - 対:谷崎潤一郎、谷川徹三、佐伯米子、入江相政、千宗興 ヤンキー気質うらおもて(毎日新聞 1964年4月6日) - 対:桂ユキ子、古波蔵保好 歌舞伎滅亡論是非(中央公論 1964年7月) - 対:福田恆存 現代作家はかく考える(群像 1964年9月) - 対:大江健三郎。実施:7月13日 敗者復活五輪大会――雑談・世相整理学(中央公論 1964年12月) - 対:大宅壮一、司馬遼太郎 戦後の日本文学(群像 1965年1月) - 対:伊藤整、本多秋五。実施:前年11月12日 三島文学と国際性(中央公論社 1965年1月) - 対:ドナルド・キーン。『日本の文学69 三島由紀夫』月報。実施:前年6月18日(虎ノ門・福田家) 「源氏物語」と現代(文藝 1965年7月) - 対:瀬戸内晴美、竹西寛子 大谷崎の芸術(中央公論 1965年10月) - 対:舟橋聖一 父・森林太郎(中央公論社 1966年1月) - 対:森茉莉。『日本の文学2 森鴎外(一)』月報。実施:前年11月8日(赤坂・シド) 二十世紀の文学(文藝 1966年2月) - 対:安部公房 ニーチェと現代(中央公論社 1966年2月) - 対:手塚富雄。『世界の名著46 ニーチェ』月報。実施:1月10日(虎ノ門・福田家) なんでもやってのけよう〈連載トップ対談 ふたりで話そう31〉(週刊朝日 1966年8月5日) - 対:團伊玖磨 文武両道(新刊ニュース 1966年9月) - 対:巖谷大四 対話・日本人論(番町書房 1966年10月) - 対:林房雄。 エロチシズムと国家権力(中央公論 1966年11月) - 対:野坂昭如。実施:9月 アメリカとアメリカ人(批評 1966年12月) - 対:村松剛、山崎正和、西義之、佐伯彰一 2・26事件と殉国のロマン(論争ジャーナル 1967年3月) - 対:高橋正衛、土屋道雄、池田弘太郎 文革・黙っていられない!〈日出造対談646回〉(週刊読売 1967年3月31日) - 対:近藤日出造 合理主義と非合理主義――土曜放談(山陽新聞 1967年4月8日) - 対:藤原弘達 われわれはなぜ声明を出したか――芸術は政治の道具か?(中央公論 1967年5月) - 対:川端康成、石川淳、安部公房 文武両道と死の哲学(論争ジャーナル 1967年11月) - 対:福田恆存 反ヒューマニズムの心情と論理(番町書房 1967年11月) - 対:伊藤勝彦。伊藤著『対話・思想と発生』に収録。実施:8月25日(紀尾井町・福田家) 意外な親類――オジとオイ(週刊朝日 1967年12月22日) - 対:磯崎叡。実施場所:丸の内・国鉄副総裁室 ファシストか革命家か(映画芸術 1968年1月) - 対:大島渚。司会:小川徹 武器の快楽――剣豪三島由紀夫とガンマン大藪春彦の決闘(週刊プレイボーイ 1968年1月9日) - 対:大藪春彦 天皇と現代日本の風土(論争ジャーナル 1968年2月) - 対:石原慎太郎 文武の達人 国防を語る――国防対談(国防 1968年4月) - 対:源田実 私の文学を語る(三田文学 1968年4月) - 対:秋山駿。実施1月11日(南馬込・三島宅) 対談・人間と文学(講談社 1968年4月) - 対:中村光夫。実施:前年7月10日、8月17日、9月13日、11月10日 東と西――その接触、交流、反発(読売新聞 1968年5月13日) - 対:ルイス・ディエス・デル・コラール。実施場所:四谷・福田家 12歳のとき映画に開眼したんです〈東和創立40周年を迎えて! 3〉(東和シネクラブ 1968年5月) - 対:小森和子。実施:4月11日(南馬込・三島宅) デカダンス意識と生死観(批評 1968年6月) - 対:埴谷雄高、村松剛 日本を考える――学生文化フォーラム詳細報告(学生評論 1968年7月) - 対:林房雄、村松剛。実施:5月(八王子・大学セミナーハウス) 負けるが勝ち(自由 1968年7月) - 対:福田赳夫 放談・天に代わりて(言論人 1968年7月16日) - 対:小汀利得。実施:7月3日。改題前:「放談・天に代わりて」 討論・現代日本人の思想(原書房 1968年7月) - 対:会田雄次、大島康正、鯖田豊之、西義之、林健太郎、福田恆存、福田信之、村松剛。『国民講座・日本人の再建1討論・現代日本人の思想』に収録。実施:1月14日-15日(箱根湯本・松之茶屋) 戦後のデモクラシーと反抗する世代(論争ジャーナル 1968年8月) - 対:エドワード・G・サイデンステッカー、村松剛 青年、今と昔(中央公論社 1968年8月) - 対:林房雄。『日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作』月報。実施:5月15日(築地・藍亭) 肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術(文學界 1968年9月) - 対:石川淳 エロス 権力 ユートピア――〈美的日本文化〉論(週刊読書人 1968年11月) - 対:磯田光一、種村季弘 原型と現代小説(批評 1968年12月) - 対:山本健吉、佐伯彰一 安保問題をどう考えたらよいか――腹の底から話そう(現代 1969年1月)- 対:猪木正道 泉鏡花の魅力(中央公論社 1969年1月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』月報。実施:前年11月4日(赤坂・シド) 「葉隠」の魅力(筑摩書房 1969年1月) - 対:相良亨。相良著『日本の思想9 甲陽軍鑑・五輪書・葉隠集』月報。実施:前年11月25日 政治行為の象徴性について――小説家と政治(文學界 1969年2月) - 対:いいだもも。 国家革新の原理――学生とのティーチ・イン(新潮社 1969年4月) - 対:大学生。実施:前年6月16日(一橋大学小平校舎)、前年10月3日(早稲田大学大隈講堂)■、前年11月16日(茨城大学講堂) サムライ(勝利 1969年6月) - 対:中山正敏 討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――〈美と共同体と東大闘争〉(新潮社 1969年6月)■ - 対:全共闘。実施:5月13日(駒場・東京大学教養学部900番教室)。 刺客と組長――男の盟約(週刊プレイボーイ 1969年7月8日) - 対:鶴田浩二。改題前「刺客と組長――その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約」 おじさまは男として魅力あるわ〈連載対談 カンナ知りたいの2〉(女性自身 1969年7月26日・8月2日) - 対:神津カンナ 十年後、BIセクシャル時代がやってくる?!(小説セブン 1969年9月) - 対:丸山明宏 軍隊を語る(伝統と現代 1969年9月) - 対:末松太平。実施:6月20日 日本は国家か――「権力なき国家」の幻想(読売新聞社 1969年9月) - 対:江藤淳、高坂正堯、山崎正和、武藤光朗。『日本は国家か』に収録。実施:4月12日(平河町・北野アームス日本経済研究所会議室)。日本文化会議「日本は国家か」特別研究会 三島部隊“憂国の真情”(読売新聞 1969年10月21日) - 対:村上兵衛 大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任(潮 1969年11月) - 対:高橋和巳 守るべきものの価値――われわれは何を選択するか(月刊ペン 1969年11月) - 対:石原慎太郎 この激動する時代の中で日本人である私はこう思う(主婦の友 1969年11月) - 対:中丸薫 私小説の底流(中央公論社 1969年12月) - 対:尾崎一雄。『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』月報。実施:10月7日(銀座・出井) 現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし(流動 1969年12月) - 対:林房雄 戦争の谷間に生きて――青春を語る(学習研究社 1969年12月)■ - 対:徳大寺公英。『現代日本の文学35 三島由紀夫集』月報。実施:11月12日(有楽町・日活ホテル)。 剣か花か――七〇年代乱世・男の生きる道(宝石 1970年1月) - 対:野坂昭如。実施:前年12月末(銀座・マキシム) 二・二六将校と全学連学生との断絶〈財界放談室 堤清二対談6〉(財界 1970年1月1日・15日) - 対:堤清二。実施場所:有楽町・胡蝶 尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命(日本読書新聞 1970年1月1日〈1969年12月29日・1970年1月5日合併号〉) - 対:村上一郎。 "菊と刀"と論ずる(時の課題 1970年2月) - 対:伊沢甲子麿 中曽根防衛庁長官 作家三島由紀夫氏(朝雲 1970年2月12日) - 対:中曽根康弘 三島由紀夫とジョン・ベスターの対談(1970年2月19日)■ - 対:ジョン・ベスター(英国人の翻訳家) - 2013年(平成25年)秋に東京赤坂のTBSのアーカイブ推進部保管の「放送禁止」扱いの放擲テープ群の中から、両者の1時間20分にわたる対談を記録したテープのコピーが見つかったことが2017年(平成29年)1月に公表された。対談は三島が書く予定だったエッセイをべスターが翻訳するにあたり、海外読者の理解を手助けする目的で講談社の仲介により行われたものとみられ、『豊饒の海』第3巻『暁の寺』を脱稿した日に行われたことから2月19日とみられる。対談中、三島は「僕の文学の欠点は、あんまり小説の構成が劇的すぎる」、「死が、肉体の外から中に入ってきた気がする」、「戦後、日本では偽善がひどくなった。その元は平和憲法だ」、音楽への興味は「全然ない」としながらも『獣の戯れ』を書く直前にはベートーヴェンを、『暁の寺』の執筆中にはドビュッシーの曲「シャンソン・ド・ビリティス」を聴くことで「イメージが出てきた」などと話した。また、川端康成については「怖いようなジャンプするんですよ。僕、ああいう文章書けないな、怖くて」などと述べた。 三島文学の背景(国文学 解釈と教材の研究増刊号 1970年5月25日) - 対:三好行雄 タルホの世界(中央公論社 1970年6月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』月報。実施:5月8日(赤坂・シド) エロスは抵抗の拠点になり得るか(潮 1970年7月) - 対:寺山修司 世阿弥の築いた世界(筑摩書房 1970年7月) - 対:ドナルド・キーン、小西甚一。小西編『日本の思想8 世阿弥集』月報。実施:1968年7月12日 現代歌舞伎への絶縁状(芸術生活 1970年10月) - 対:武智鉄二 文学は空虚か(文藝 1970年11月) - 対:武田泰淳。実施:9月14日 破裂のために集中する(中央公論 1970年12月) - 対:石川淳 三島由紀夫対談――ザ・パンチ・パンチ・パンチ(VIVA YOUNG 1970年12月) - 対:高橋基子、シリア・ポール。実施場所:南馬込・三島宅。放送:1969年2月3日-5日(ニッポン放送) 戦争映画とやくざ映画(映画芸術 1971年2月) - 対:石堂淑朗。司会:小川徹。実施:前年10月21日(有楽町・フジアイス) 三島由紀夫 最後の言葉(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日)■ - 対:古林尚。実施:11月18日(南馬込・三島宅)。元題は「三島由紀夫対談 いまにわかります――死の一週間前の最期の言葉」、「戦後派作家対談7 もう、この気持は抑えようがない――三島由紀夫 最後の言葉」
INFLUENCES IN MODERN JAPANESE LITERATURE/YOMIURI JAPAN NEWS(1958年2月) - Tokyo Women’s Club での講演。 美食と文学(1958年2月5日) - 『谷崎潤一郎全集』刊行記念中央公論社愛読者大会での講演。同年4月『婦人公論』掲載。 JAPANESE YOUTH(1961年9月18日) - バークレーのクレアモント・ホテルで行われた米誌『ホリデイ』とカリフォルニア大学共催のシンポジウムでの英語による講演。 私はいかにして日本の作家となつたか(1966年4月18日)■ - 日本外国特派員協会での英語によるスピーチと質疑応答。野口武彦訳で1990年12月『新潮』掲載。 文化大革命に関する声明(1967年2月28日) - 川端康成、石川淳、安部公房との共同声明。全文は同年3月1日の『東京新聞』、『産経新聞』掲載。 古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言(1967年2月23日) - 東京地裁で行われた映画『黒い雪』裁判における証言。同年4月24日に『日本読書新聞』掲載。 私の自主防衛論(1968年10月24日) - 日経連臨時総会での特別講演。 - 同年10月31日に『日経連タイムズ』掲載。 素人防衛論(1968年11月20日)■ - 横須賀の防衛大学校での講演。2005年12月『WiLL』に掲載(不明な部分など一部削除)。 日本の歴史と文化と伝統に立つて(1968年12月1日) - 東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演。1970年5月刊行の全国学生自治体連絡協議会編『“憂国”の論理』(日本教文社)に収録。 日本とは何か(1969年10月15日) - 大蔵省100年記念での講演。1985年12月『文藝春秋』掲載。 現代日本の思想と行動(1970年4月27日) - 山王経済研究会例会での講演。同月同研究会誌の特集号掲載。 私の聞いて欲しいこと(1970年5月28日) - 皇宮警察創立84周年記念講演。皇居内皇宮警察本部庁舎にて行う。 悪の華――歌舞伎(1970年7月3日)■ - 国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演。1988年1月『新潮』掲載。 「孤立」のススメ(1970年6月11日)■ - 尚史会主催講演。9月『青雲』(6号)掲載。 我が国の自主防衛について(1970年9月3日)■ - 第3回新政同志会青年政治研修会(中曽根康弘主宰)での講演。 檄(1970年11月25日)■ - 自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。
ばけつの話(1934年4月)★ 大内先生を想ふ(1934年9月)★ 長瀞遠足記(1934年11月)★ 東京市(1935年12月)★ 我が国旗(1936年6月)★ 春草抄――初等科時代の思ひ出(輔仁会雑誌 1937年7月)★ 三笠・長門見学(1937年)★ 我はいは蟻である(1937年)★ 分倍河原の話を聞いて(1937年)★ 支那に於ける我が軍隊(1937年)★ 土耳古人の学校(1937年)★
日ノマルノ…(小ざくら 1932年5月)★ - 俳句 おとうとが…(小ざくら 1932年12月)★ - 俳句 秋(小ざくら 1932年12月)★ 妹は…(小ざくら 1933年12月)★ - 短歌 蜜柑(1937年1月10日)★ - 詩ノート「笹舟」に記録。 こだま(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「こだま――平岡小虎詩集」に記録。 斜陽(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「HEKIGA――A VERSE-BOOK」に記録。 秋二題(輔仁会雑誌 1937年12月)★ 詩篇「金鈴」(輔仁会雑誌 1938年3月)★ - 光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場、ほか 蜃気楼の国/月夜操練/隕星(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」中の3詩。 詩篇「九官鳥」(輔仁会雑誌 1939年3月)★ - 森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥 誕生日の朝(1939年1月14日)★ - 詩ノート「公威詩集I」に記録。 見知らぬ部屋での自殺者(1939年12月24日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。1949年3月『新現実』掲載。 詩篇「小曲集」(輔仁会雑誌 1940年3月)★ - 古墳、朝、昼の館、花の闇、倦怠、明るい樫、或る朝、ほか 詩篇「 詩篇「抒情詩抄」(輔仁会雑誌 1941年12月)★ - 小曲〈第三番、第八番、ほか〉、風の抑揚、序曲、馬、ほか わたくしの希ひは熾る(文藝文化 1941年11月)★ かの花野の露けさ(文藝文化 1942年10月)★ 菊(文藝文化 1942年12月)★ 恋供養(赤繪 1943年6月)★ 夜の蝉(輔仁会雑誌 1943年12月)★ 詩人の旅(1944年) - 1950年7月『文藝』掲載。 もはやイロニイはやめよ(1945年4月20日) - 曼荼羅草稿。 饗宴魔(東雲 1945年7月) 落葉の歌(光耀 1946年5月) 乾盃(1946年3月24日) - 1955年刊『創作ノオト“盗賊”』に収録。 逸題詩篇(叙情 1946年6月) 負傷者(1946年7月23日) - 1949年1月『海峡』掲載。 故・蓮田善明への献詩(おもかげ 1946年11月17日) 新しきコロンブス(1955年8月2日) - ニーチェの詩の邦訳。随筆『小説家の休暇』内掲載。 理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係(総合 1957年7月) 詩篇「十五歳詩集」(新潮社 1957年11月)★ - 『三島由紀夫選集1』に収録。凶ごと、日輪礼讃、悲壮調、風と 狂女の恋唄(1958年9月11日) むかしと今(聲 1958年10月) - ヘルダーリンの詩(むかしと今、夕べの幻想、ソクラテスとアルキビアデス)の邦訳。 祝婚歌 カンタータ(奉祝 1959年4月) - 作曲:黛敏郎。皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。 からつ風野郎(同名映画主題歌)(1960年3月)■ - 作曲:深沢七郎 お嬢さん(同名映画主題歌)(1961年1月) - 作曲:飯田三郎 黒蜥蜴の歌/黒とかげの恋の歌/用心棒の歌(1962年3月) - 作曲:黛敏郎。ミュージカル映画『黒蜥蜴』(監督:井上梅次。主演:京マチ子)の主題歌と挿入歌。 微笑(文藝 1964年5月) - ジェイムス・メリルの詩(微笑、世界の子供)の邦訳。 造花に殺された舟乗りの歌(1966年7月) - 作曲:丸山明宏。丸山明宏チャリティーリサイタルでマドロススタイルで歌唱。 イカロス(1967年3月14日) - 随筆『太陽と鉄』エピロオグに収録。 隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月) 起て! 紅の若き獅子たち(楯の会の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)■ - 作曲:越部信義 辞世の句(1970年11月25日)
「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く 「皇太子ご結婚祝賀演奏会」(NHKテレビ 1959年4月10日)
※ NHKラジオ第一と同時放送。 「からっ風野郎」(キングレコード 1960年3月20日発売)■ - 同名映画の主題歌
※ EPレコード。B面は春日八郎「東京モナリザ」 「お嬢さん」(キングレコード 1961年1月31日発売)- 同名映画の主題歌
※ EPレコード。B面は青山ヨシオ「たった一つの花」 『ポエムジカ 天と海――英霊に捧げる七十二章』(タクトレコード 1967年5月1日発売)
※ LPレコード。のち1970年12月に日本コロムビアからも発売。 「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■
ジャケット題字「英霊の声」:三島由紀夫 ※ EPレコード。A面は「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」 「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■
※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」 「軍艦マーチのすべて」(キングレコード 1998年4月24日発売)
作詞:鳥山啓。作曲:瀬戸口藤吉。指揮:三島由紀夫。演奏:読売日本交響楽団 ※ CD。「軍艦マーチ」アンソロジーへの収録。 □印は三島以外の原作・脚本。 『純白の夜』(松竹大船、1951年8月) - 三島が端役でダンスパーティーのシーンに出演 『不道徳教育講座』(日活、1959年1月) - 三島が冒頭と最後のナビゲーター役で特別出演。 『からっ風野郎』(大映東京、1960年3月)□ - 主役 『憂国』(東宝/ATG、1966年4月) - 主役 『黒蜥蜴』(松竹大船、1968年8月) - 三島が日本人青年の生人形役で特別出演 『人斬り』(勝プロ、1969年8月)□ - 田中新兵衛役 褌・切腹のポーズ写真 - カメラマン:矢頭保。1960年代。 『薔薇刑』(撮影1961年9月13日-1962年春) - カメラマン:細江英公。1963年3月刊行(限定1,500部)、1971年1月新輯版刊行、集英社インターナショナル。 『体道 日本のボディビルダーたち』 - カメラマン:矢頭保。1966年刊行、ウエザヒル出版社。褌ポーズの写真。 『男の死』(撮影1970年9月17日以降-11月17日) - カメラマン:篠山紀信。もう1人のモデル横尾忠則の病気入院のため企画が途絶し未発売。しかし2020年11月の三島の没後五十年を前にした9月に米国出版された。その後日本でも2020年11月に1冊50万円で刊行されることが決定した。 『OTOKO Photo-Studies of the Young Japanese Male』 - カメラマン:矢頭保。1972年刊行、Rho-Delta Press。褌ポーズの写真。 『燈台』(東宝、1959年2月) - 監督:鈴木英夫。主演:津島恵子 久保明、河津清三郎 文学座アワー『灯台』(日本テレビ 1958年4月24日) お母さん『大障碍』(KRテレビ 1959年12月10日) 近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ 1963年11月15日) NHK劇場『真珠』(NHKテレビ 1964年6月19日) 月曜・女のサスペンス『復讐・死者からの告発状』(テレビ東京 1988年10月24日) 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(テレビ東京 1988年12月12日) 自作朗読『美神』(ラジオ東京 1954年7月1日) 現代劇場『ボクシング』(文化放送 1954年11月21日) - 三島が台本構成。 続高峰秀子ドラマ集『遠乗会』(ニッポン放送 1956年4月13日) ラジオのためのオペラ『あやめ』(中部日本放送 1960年11月27日) - 昭和35年度芸術祭賞。 物語り『真珠』(NHKラジオ第一 1963年5月23日) ドラマ・スタジオ8『モノローグ・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送 1965年7月20日) 著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上。
『岬にての物語』(桜井書店、1947年11月20日) - 岬にての物語、中世、軽王子と衣通姫、跋 『盗賊』(真光社、1948年11月20日) - 序(川端康成)、盗賊 『夜の仕度』(鎌倉文庫、1948年12月1日) - 夜の仕度、序章、春子、煙草、ラウドスピーカー、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、蝶々、サーカス、彩絵硝子 『宝石売買』(大日本雄弁会講談社、1949年2月28日) - 偽序(渡辺一夫)、獅子、殉教、頭文字、慈善、宝石売買 『仮面の告白』(河出書房、1949年7月5日) - 仮面の告白、「仮面の告白」ノート(月報) 『魔群の通過』(河出書房、1949年8月15日) - 魔群の通過、不実な洋傘、山羊の首、恋重荷、大臣、幸福といふ病気の療法、毒薬の社会的効用について、岬にての物語、火宅、あやめ、愛の不安 『燈台』(作品社、1950年5月30日) - 訃音、薔薇、侍童、星、退屈な旅、親切な機械、孝経、鴛鴦、燈台、ニオベ、聖女 『怪物』(改造社、1950年6月10日) - 怪物、火山の休暇、果実、獅子、修学旅行、魔神礼拝 『愛の渇き』(新潮社、1950年6月30日) 『純白の夜』(中央公論社、1950年12月20日) 『青の時代』(新潮社、1950年12月25日) 『仮面の告白 その他』(改造社、1951年3月31日) - 仮面の告白、日曜日、遠乗会、春子、火山の休暇、怪物、など26篇 『聖女』(目黒書店、1951年4月15日) - 盗賊、春子、聖女、あとがき 『狩と獲物』(要書房、1951年6月15日) - オスカア・ワイルド論、ドルヂェル伯の舞踏会、クレエヴ公爵夫人、ジイドの「背徳者」、雨月物語について、川端康成論の一方法、など26篇。初の評論集 『遠乗会』(新潮社、1951年7月15日) - 日曜日、箱根細工、牝犬、椅子、朝倉、花山院、死の島、偉大な姉妹、綾の鼓、遠乗会 『三島由紀夫短篇集』(創芸社、1951年10月31日) - 1950年5月30日刊行の『燈台』(作品社)と同一内容。 『禁色』〈禁色 第一部〉(新潮社、1951年11月10日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。 『夏子の冒険』(朝日新聞社、1951年12月5日) 『愛の渇き・仮面の告白』(筑摩書房、1952年9月25日) - 愛の渇き、仮面の告白。解説:吉田健一 『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月5日) - 航海日記、北米紀行、南米紀行、欧州紀行、旅の思ひ出。本扉裏に三島の文章「野尻抱影氏による」あり。 『真夏の死』(創元社、1953年2月15日) - 真夏の死、クロスワード・パズル、美神、翼、只ほど高いものはない、卒塔婆小町 『につぽん製』(朝日新聞社、1953年3月20日) - 帯(表)に浦松左美太郎による作品評あり。 『夜の向日葵』(大日本雄弁会講談社、1953年6月15日) - 夜の向日葵、あとがき。帯(表)に川端康成による作品評、帯(裏)に匿名批評(『週刊朝日』掲載)あり。 『秘楽』〈禁色 第二部〉(新潮社、1953年9月30日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。 『綾の鼓』(未来社、1953年10月15日) - 作者の言葉、綾の鼓――近代能楽集ノ内。そのまま台本として使用可能な本。 『潮騒』(新潮社、1954年6月10日) - 帯(裏)に吉田健一による作品評「『潮騒』について」あり。 『恋の都』(新潮社、1954年9月20日) 『鍵のかかる部屋』(新潮社、1954年10月15日) - 鍵のかかる部屋、旅の墓碑銘、真夏の死、クロスワード・パズル、椅子、孝経、山羊の首、獅子、殉教。解説:中村光夫 『若人よ甦れ』(新潮社、1954年11月25日) - 若人よ甦れ、あとがき。カバー袖に無著名の文章「本書について」あり。 『文学的人生論』(河出書房、1954年11月30日) - 一青年の道徳的判断、重症者の兇器、新古典派、批評家に小説がわかるか、死の分量、卑俗な文体について、など39篇 『沈める滝』(中央公論社、1955年4月30日) - 帯に臼井吉見、本多顕彰、寺田透による作品評あり。 『女神』(文藝春秋新社、1955年6月30日) 『ラディゲの死』(新潮社、1955年7月20日) - 花火、離宮の松、水音、新聞紙、不満な女たち、卵、海と夕焼、旅の墓碑銘、ラディゲの死、地獄変、鰯売恋曳網、あとがき 『創作ノオト“盗賊”』(ひまわり社、1955年7月25日)▲ - 「盗賊」創作ノート。4頁の別刷リーフレット(三島由紀夫「『盗賊』ノオトについて」掲載)あり。記番入りの限定3,000部 『小説家の休暇』(大日本雄弁会講談社、1955年11月25日) - 小説家の休暇、ワットオの《シテエルへの船出》。帯(裏)に福田恆存による作品評あり。 『白蟻の巣』(新潮社、1956年1月25日) - 白蟻の巣、船の挨拶、三原色。函(表)に川端康成による作品評あり。 『幸福号出帆』(新潮社、1956年1月30日) 『近代能楽集』(新潮社、1956年4月30日) - 綾の鼓、邯鄲、卒塔婆小町、葵上、班女、あとがき 『詩を書く少年』(角川書店、1956年6月30日) - 詩を書く少年、復讐、江口初女覚書、家庭裁判、牡丹、山の魂、商ひ人、志賀寺上人の恋、あやめ、恋重荷、鴛鴦、おくがき。カバー袖に吉田健一による作品評「小説の魅力」あり。 『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月12日) - 亀は兎に追ひつくか?、芸術にエロスは必要か、空白の役割、堂々めぐりの放浪、学生の分際で小説を書いたの記、自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒、終末感からの出発――昭和二十年の自画像、など48篇 『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日) - 私家限定本4部あり。 豪華版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)▲ - 記番・署名入りの限定200部 『永すぎた春』(大日本雄弁会講談社、1956年12月25日) 『鹿鳴館』(東京創元社、1957年3月5日) - 鹿鳴館、大障碍、道明寺、あとがき 『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年6月20日) 豪華版『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年9月)▲ - 署名入りの限定500部 『現代小説は古典たり得るか』(新潮社、1957年9月25日) - 現代小説は古典たり得るか、文壇崩壊論の是非、個性の鍛錬場、「アウトサイダー」をめぐつて、陶酔について、呉茂一の「ぎりしあの詩人たち」評、川端康成の東洋と西洋、舟橋聖一の「木石・鵞毛」について、など35篇 『橋づくし』(文藝春秋新社、1958年1月31日) - 橋づくし、施餓鬼舟、急停車、博覧会、十九歳、女方、貴顕、あとがき 『旅の絵本』(大日本雄弁会講談社、1958年5月1日) - 旅の絵本、ニューヨークの奇男奇女、ニューヨークの金持、ニューヨーク貧乏、ニューヨークで感じたこと、ニューヨークの炎、など16篇、跋 『薔薇と海賊』(新潮社、1958年5月30日) - 薔薇と海賊、あとがき 『不道徳教育講座』(中央公論社、1959年3月16日) - 前半の30篇。帯(裏)に有吉佐和子、池田弥三郎、河盛好蔵、杉靖三郎、永井道雄による作品評あり。 『文章読本』(中央公論社、1959年6月25日) - 文章読本、質疑応答(附録) 『鏡子の家』〈第一部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第1章-第5章。帯(裏)に三島の文章「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(第二部も同じ)あり。 『鏡子の家』〈第二部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第6章-第10章 『裸体と衣裳』(新潮社、1959年11月30日) - 裸体と衣裳――日記、外遊日記 『続不道徳教育講座』(中央公論社、1960年2月5日) - 後半の40篇。帯(裏)に「著者のことば」(本文から抜粋)あり。 『宴のあと』(新潮社、1960年11月15日) - 帯(裏)に臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫、平野謙による作品評あり。 『お嬢さん』(講談社、1960年11月25日) 『スタア』(新潮社、1961年1月30日) - スタア、憂國、百万円煎餅 『獣の戯れ』(新潮社、1961年9月30日) 『美の襲撃』(講談社、1961年11月15日) - 序、六世中村歌右衛門、魔――現代的状況の象徴的構図、十八歳と三十四歳の肖像画、一つの政治的意見、俵屋宗達、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、川端康成再説、舟橋聖一の「若いセールスマンの死」、大岡昇平氏――友情と考証、など83篇 『美しい星』(新潮社、1962年10月20日) - 帯(裏)に武田泰淳、福田恆存、高橋義孝による作品評あり。 『愛の疾走』(講談社、1963年1月20日) 『林房雄論』(新潮社、1963年8月30日)▲ - 林房雄論、林房雄年譜(林房雄)、跋。限定1,000部 『午後の曳航』(講談社、1963年9月10日) - 帯(裏)に江藤淳による作品評「三島由紀夫の文学」あり。 『剣』(講談社、1963年12月10日) - 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符 『肉体の学校』(集英社、1964年2月15日) 『喜びの琴 附・美濃子』(新潮社、1964年2月25日) - 喜びの琴、美濃子 『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月10日) - 私の遍歴時代、八月二十一日のアリバイ、この十七年の“無戦争”、谷崎潤一郎論、現代史としての小説、など51篇。函(裏)に大江健三郎による作品評「最も魅力的な三島由紀夫神話」あり。 『三島由紀夫自選集』(集英社、1964年7月10日)▲ - 潮騒、美徳のよろめき、金閣寺、憂國、百万円煎餅、沈める滝、大障碍、ワットオの《シテエルへの船出》。解説:橋川文三「夭折者の禁欲」。記番・署名入りの限定1,000部 『絹と明察』(講談社、1964年10月15日) - 帯(裏)に磯田光一による作品評「現代小説の秀作の一つ」(『図書新聞』文芸時評)あり。 『第一の性』(集英社、1964年12月30日) 『音楽』(中央公論社、1965年2月20日) 『レスボスの果実』(プレス・ビブリオマーヌ、1965年6月)▲ - レスボスの果実(「果実」抄)、「memo」(佐々木桔梗)。限定195部。コレクション「サフィール」シリーズのXV 『三熊野詣』(新潮社、1965年7月30日) - 三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、あとがき 『目――ある芸術断想』(集英社、1965年8月20日) - 芸術断想(10篇)、PLAY BILLS(15篇)など26篇、あとがき 『サド侯爵夫人』(河出書房新社、1965年11月15日) - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島) 『反貞女大学』(新潮社、1966年3月5日) 『憂國 映画版』(新潮社、1966年4月10日) - 憂國、撮影台本、スチール、製作意図及び経過 『サーカス』(プレス・ビブリオマーヌ、1966年春)▲ - サーカス、刊行後記(佐々木桔梗)。記番・署名入りの限定375部 『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月30日) - 英霊の聲、憂國、十日の菊、二・二六事件と私 『複雑な彼』(集英社、1966年8月30日) 『荒野より』(中央公論社、1967年3月6日) - 荒野より、時計、仲間」の小説3篇、谷崎潤一郎について、ナルシシズム論、現代文学の三方向、石原慎太郎の「星と舵」について、団蔵・芸道・再軍備、など評論36篇、アラビアン・ナイト 豪華版『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年8月18日)▲ - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋、豪華版のための捕跋(三島)。記番・署名入りの限定380部 『葉隠入門――武士道は生きている』(光文社、1967年9月1日) - プロローグ――「葉隠」とわたし、わたしの「葉隠」、「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。カバー袖に三島の「わたしのただ一冊の本『葉隠』」と、石原慎太郎による作品評「三島由紀夫氏のこと」あり。 『夜会服』(集英社、1967年9月30日) 『朱雀家の滅亡』(河出書房新社、1967年10月25日) - 朱雀家の滅亡、後記 『三島由紀夫レター教室』(新潮社、1968年7月20日) 『太陽と鉄』(講談社、1968年10月20日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104 豪華版『岬にての物語』(牧羊社、1968年11月15日)▲ - 岬にての物語、蕗谷虹児氏の少女像。記番・署名入りの限定300部 『わが友ヒットラー』(新潮社、1968年12月10日) 『命売ります』(集英社、1968年12月25日) 『春の雪』〈豊饒の海・第一巻〉(新潮社、1969年1月5日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成、北杜夫による作品評あり。 『奔馬』〈豊饒の海・第二巻〉(新潮社、1969年2月25日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成による作品評あり。 『文化防衛論』(新潮社、1969年4月25日) - 反革命宣言、反革命宣言捕注、文化防衛論、橋川文三への公開状、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、自由と権力の状況、の評論6篇と、政治行為の象徴性について(いいだももとの対談)、国家革新の原理(学生とのティーチ・イン)、あとがき、本書関連日誌(附録) 合本『不道徳教育講座』(中央公論社、1969年5月10日) - 「暗殺について」を除く全69篇、あとがき 『黒蜥蜴』(牧羊社、1969年5月20日) 『癩王のテラス』(中央公論社、1969年6月28日) - 癩王のテラス、あとがき 『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年7月10日) - 若きサムラヒのための精神講話、お茶漬ナショナリズム、東大を動物園にしろ、安保問題をどう考えたらよいか(猪木正道との対談)、負けるが勝ち(福田赳夫との対談)、文武両道と死の哲学(福田恆存との対談)、あとがき 豪華版『椿説弓張月』(中央公論社、1969年11月25日)▲ - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出。記番入りの限定1,000部 豪華版『黒蜥蜴』(牧羊社、1970年1月15日)▲ - 記番・署名入りの限定350部。別に著者本50部あり。 『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) - 豪華限定版と同内容。 『三島由紀夫文学論集』(講談社、1970年3月28日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走――私の文学、私の中の“男らしさ”の告白、精神の不純、など48篇。あとがき:虫明亜呂無 豪華版『鍵のかかる部屋』(プレス・ビブリオマーヌ、1970年6月)▲ - 鍵のかかる部屋、あとがき、捕記(別紙1葉)。A版とB版の2種。A版は記番・署名入りの限定395部。B版は記番入りの限定180部 『暁の寺』〈豊饒の海・第三巻〉(新潮社、1970年7月10日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に三島の文章「読者へ」(「小説とは何か」からの抜粋)あり。 『行動学入門』(文藝春秋、1970年10月15日) - 行動学入門、おわりの美学、革命哲学としての陽明学、あとがき 『作家論』(中央公論社、1970年10月31日) - 森鷗外、尾崎紅葉、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百閒、牧野信一、稲垣足穂、川端康成、尾崎一雄、外村繁、上林暁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子論、あとがき 豪華版『橋づくし』(牧羊社、1971年1月7日)▲ - 雪の巻、月の巻、花の巻の3種。記番・署名入りの限定360部(各種120部)。別に非売品の著者自筆署名特装本23部あり。 『三島由紀夫十代作品集』(新潮社、1971年1月25日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、苧菟と瑪耶、玉刻春、みのもの月、世々に残さん、祈りの日記、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃 『天人五衰』〈豊饒の海・第四巻〉(新潮社、1971年2月25日) - 天人五衰、認識と行動と文学――〈豊饒の海〉四部作をめぐって(佐伯彰一と村松剛の対談)。私家限定本4部あり。 自筆原稿完全復元版『蘭陵王』(講談社、1971年3月5日)▲ - 蘭陵王(復元原稿)。別冊子(蘭陵王、中村光夫「『蘭陵王』と『最後の一句』」)あり。記番入りの限定1,500部 『蘭陵王――三島由紀夫1967.1〜1970.11』(新潮社、1971年5月6日) - 「年頭の迷い」から「わが同志観」まで1967年-1970年に執筆した評論・随筆と、蘭陵王 豪華版『仮面の告白』(講談社、1971年11月25日)▲ - 記番入りの限定1,000部。 『小説とは何か』(新潮社、1972年3月20日) 『日本文学小史』(講談社、1972年11月24日) - 解説:磯田光一 『わが思春期』(集英社、1973年1月15日) - 解題:粉川宏 『ぼくの映画をみる尺度』(潮出版社、1980年2月25日) - ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇、私の洋画遍歴、西部劇礼讃、映画的肉体論――その部分及び全体、忘我、映画見るべからず、など39篇 『実感的スポーツ論』(共同通信社、1984年5月1日) - 美しきもの、見事な若武者――矢尾板・ペレス戦観戦記、追う者追われる者――ペレス・米倉戦観戦記、冷血熱血――小坂=オルチス、未知への挑戦――海老原=ポーン、狐の宿命――関・ラモス戦観戦記、など54篇 『生きる意味を問う』(大和出版、1984年10月30日)- 私の遺書、明るい樫、朝、薄化粧をした…、私の文学、わが創作方法、作家を志す人々の為に、芸術にエロスは必要か、など詩・評論45篇。編・解説:小川和佑「三島由紀夫の人と作品」。年譜作成:小川和佑、斉藤孝祐 『芝居日記』(中央公論社、1991年7月5日) - 第一冊(一番-四十四番)、第二冊(四十七番-百番)、未完小説集ほか覚書、随想一束。付録:織田紘二「『芝居日記』について」、六世中村歌右衛門「『三島歌舞伎』の世界」、『芝居日記』観劇目録。解説:戸板康二「若書きの新鮮さ」。ドナルド・キーン「『芝居日記』の底に流れるもの」 『芝居の媚薬』(角川春樹事務所・ランティエ叢書、1997年11月18日) - 戯曲を書きたがる小説書きのノート、私の遍歴時代(一部分)、踊り、玉三郎のこと、六世中村歌右衛門序説、など23篇。年譜作成:高丘卓・稲田智宏。解説:柳美里「王の恵みと宿命」 『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年5月25日) - キーン宛ての97通の書簡。編集部後記 『日本人養成講座』(メタローグ、1999年10月8日/平凡社、2012年5月) - アメリカ人の日本神話、お茶漬ナショナリズム、文章読本(抄)、小説家の休暇(断片)、若きサムライのための精神講話(抄)、心中論、など12篇。付録:村松英子「巻末エッセイ」、高丘卓「三島由紀夫のパサージュ」。編者・年譜作成:高丘卓 『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮社、1999年11月20日) - 東文彦宛ての64通、弔詞1篇、東菊枝(文彦の母)宛ての1通の書簡。付録:富岡幸一郎「十代の思想への帰郷」 『三島由紀夫 映画論集成』(ワイズ出版、1999年11月25日) - 多数の映画論・対談・座談など。編者:山内由紀人。監修:三島威一郎・藤井浩明 『三島由紀夫詩集』(山中湖文学の森「三島由紀夫文学館」、2000年7月14日) - 秋、寂秋、巡礼老者、光は普く漲り、幼なき日、斜陽、など多数の詩篇。あとがき:佐伯彰一「『詩を書く少年』の実像」。解題:工藤正 『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月30日) - 清水文雄宛ての99通の書簡。付録:清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって、三島由紀夫のこと」。解説:宇野憲治 『告白――三島由紀夫未公開インタビュー』(講談社、2017年8月8日) - 生前未公開インタビュー(1970年2月19日実施のジョン・ベスターとの対談)、太陽と鉄。あとがき:小島英人「発見のこと――燦爛へ」。編集:TBSヴィンテージ クラシックス 『夜告げ鳥 初期作品集』(平凡社、2020年1月) - 解説:井上隆史
『対談・人間と文学』(講談社、1968年4月28日) - 中村光夫との対談 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』(新潮社、1969年6月25日) - 美と共同体と東大闘争(全共闘との討論)、砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(三島)、全共闘代表3名の感想文 『尚武のこころ 対談集』(日本教文社、1970年9月25日) - 小汀利得、中山正敏、鶴田浩二ら10名10編の対談、三島自身のあとがき 『源泉の感情 対談集』(河出書房新社、1970年10月30日) - 小林秀雄、大江健三郎、舟橋聖一ら17名19編の対談、三島自身のあとがき 『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年12月10日) - はじめに(佐伯彰一)、川端と三島の往復書簡。解説「恐るべき計画家・三島由紀夫」(佐伯彰一・川端香男里の対談)、川端へのノーベル文学賞推薦文(英文、佐伯彰一訳)、両者の略年譜 『薔薇刑――細江英公写真集』(集英社、1963年3月25日)▲ - 記番・署名入りの限定1,500部。のち様々な版で改訂再刊。
『グラフィカ三島由紀夫』(新潮社、1990年9月10日)
編者:三島瑤子・藤田三男。年譜(三島由紀夫の軌跡)作成:山口基
『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年11月。普及版2000年11月)
YUKIO MISHIMA: THE DEATH OF A MAN〈三島由紀夫:男の死〉(Rizzoli、2020年9月29日)▲ - 三島歿後50周年を前に、米国初発行。
『OTOKO NO SHI』(CCCアートラボ株式会社、2020年11月25日)▲ - 写真集『男の死』を再構成。初版50部。B2判。横尾忠則、篠山紀信の直筆サイン入り。
『ブリタニキュス』(新潮社、1957年5月20日)
『プロゼルピーナ』(原作:ゲーテ、人文書院「ゲーテ全集 第4巻」、1960年3月)
『聖セバスチァンの殉教』(美術出版社、1966年9月30日)
新版は国書刊行会〈クラテール叢書〉、1988年4月。画集は大幅に割愛されている。 『三島由紀夫作品集』〈全6巻〉(新潮社、1953年7月25日-1954年4月30日)
『三島由紀夫選集』〈全19巻〉(新潮社、1957年11月30日-1959年7月10日)
『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社、1962年3月20日) 『三島由紀夫短篇全集』(新潮社、1964年2月10日) 『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1965年3月10日-8月5日)
『三島由紀夫評論全集』(新潮社、1966年8月10日)
『三島由紀夫長篇全集』〈全2巻〉(新潮社、1967年12月10日、1968年2月25日)
『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1971年1月20日- 5月20日)
『三島由紀夫全集』〈全35巻+補巻1〉(新潮社、1973年4月25日-1976年6月25日)
『三島由紀夫短篇全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1987年11月20日) 『三島由紀夫評論全集』〈全4巻(セット)〉(新潮社、1989年7月5日)。解題:田中美代子 『三島由紀夫戯曲全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1990年9月10日) 『決定版 三島由紀夫全集』〈全42巻+補巻1、別巻1〉(新潮社、2000年11月10日-2006年4月28日)
刊行年月は原則初版のみ記載。
『頭文字』(1951年10月30日) - 花ざかりの森、中世、春子、山羊の首、頭文字、宝石売買、魔群の通過、遠乗会。解説:神西清 『愛の渇き』(1952年3月31日) - 解説:吉田健一 『盗賊』(1954年4月30日) - 解説:武田泰淳 『禁色』〈上巻〉(1954年11月10日) - 第1章-第18章。解説:大井廣介 『禁色』〈下巻〉(1954年11月15日) - 第19章-第33章 『潮騒』(1955年12月25日) - 解説:中村真一郎。改版1985年9月から、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加し、解説:佐伯彰一「『潮騒』について」となる。 『金閣寺』(1960年9月15日) - 解説:中村光夫。改版1977年4月から、注解、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。 『美徳のよろめき』(1960年11月5日) - 解説:北原武夫 『永すぎた春』(1960年12月10日) - 解説:十返肇 『沈める滝』(1963年12月5日) - 解説:村松剛 『禁色』(1964年4月30日) - 全章。解説:大井廣介。改版1969年1月から、解説:野口武彦 『鏡子の家』(1964年10月5日) - 解説:田中西二郎 『獣の戯れ』(1966年7月10日) - 解説:田中美代子 『美しい星』(1967年10月30日) - 解説:奥野健男 『近代能楽集』(1968年3月25日) - 邯鄲、綾の鼓、卒塔婆小町、葵上、班女、道成寺、熊野、弱法師。解説:ドナルド・キーン 『午後の曳航』(1968年7月15日) - 解説:田中美代子 『花ざかりの森・憂国――自選短編集』(1968年9月15日) - 花ざかりの森、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、遠乗会、卵、詩を書く少年、海と夕焼、新聞紙、牡丹、橋づくし、女方、百万円煎餅、憂国、月。自作解説:三島由紀夫 『宴のあと』(1969年7月20日) - 解説:西尾幹二 『音楽』(1970年2月20日) - 解説:澁澤龍彦 『真夏の死――自選短編集』(1970年7月15日) - 煙草、春子、サーカス、翼、離宮の松、クロスワード・パズル、真夏の死、花火、貴顕、葡萄パン、雨のなかの噴水。自作解説:三島由紀夫 『獅子・孔雀』(1971年2月27日) - 軽王子と衣通姫、殉教、獅子、毒薬の社会的効用について、急停車、スタア、三熊野詣、孔雀、仲間。解説:高橋睦郎 『青の時代』(1971年7月23日) - 解説:西尾幹二 『春の雪』(1977年7月30日) - 解説:佐伯彰一 『奔馬』(1977年8月30日) - 解説:村松剛 『暁の寺』(1977年10月30日) - 解説:森川達也 『天人五衰』(1977年11月30日)- 解説:田中美代子 『女神』(1978年3月30日) - 女神、接吻、伝説、白鳥、哲学、蝶々、恋重荷、侍童、鴛鴦、雛の宿、朝の純愛。解説:磯田光一 『岬にての物語』(1978年11月27日) - 苧菟と瑪耶、岬にての物語、頭文字、親切な機械、火山の休暇、牝犬、椅子、不満な女たち、志賀寺上人の恋、水音、商い人、十九歳、月澹荘綺譚。解説:渡辺広士 『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(1979年4月25日) - サド侯爵夫人、わが友ヒットラー。自作解題:(跋(サド侯爵夫人)、「サド侯爵夫人」について、「サド侯爵夫人」の再演、豪華版のための補跋(サド侯爵夫人)、作品の背景――「わが友ヒットラー」、「わが友ヒットラー」覚書、一対の作品――「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」) 『鍵のかかる部屋』(1980年2月25日) - 彩絵硝子、祈りの日記、慈善、訃音、怪物、果実、死の島、美神、江口初女覚書、鍵のかかる部屋、山の魂、蘭陵王。解説:田中美代子 『ラディゲの死』(1980年12月25日) - みのもの月、山羊の首、大臣、魔群の通過、花山院、日曜日、箱根細工、偉大な姉妹、朝顔、旅の墓碑銘、ラディゲの死、復讐、施餓鬼舟。解説:野島秀勝 『小説家の休暇』(1982年1月25日) - 小説家の休暇、重症者の兇器、ジャン・ジュネ、ワットオの《シテエルへの船出》、私の小説の方法、新ファッシズム論、永遠の旅人――川端康成氏の人と作品、楽屋で書かれた演劇論、魔――現代的状況の象徴的構図、日本文学小史。解説:田中美代子 『殉教』(1982年4月25日) - 新潮文庫より1971年2月27日刊行の『獅子・孔雀』と同一内容。解説:高橋睦郎 『アポロの杯』(1982年9月25日) - アポロの杯、沢村宗十郎について、雨月物語について、オスカア・ワイルド論、陶酔について、心中論、十八歳と三十四歳の肖像画、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として、小説とは何か。解説:佐伯彰一 『葉隠入門』(1983年4月25日) - プロローグ――「葉隠」とわたし、一 現代に生きる「葉隠」、二「葉隠」四十八の精髄、三「葉隠」の読み方。「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。解説:田中美代子 『裸体と衣裳』(1983年12月25日) - 裸体と衣裳――日記、ドルヂェル伯の舞踏会、戯曲を書きたがる小説書きのノート、空白の役割、芸術にエロスは必要か、現代小説は古典たり得るか、谷崎潤一郎論、変質した優雅、文化防衛論。解説:西尾幹二 『鹿鳴館』(1984年12月20日) - 鹿鳴館、只ほど高いものはない、夜の向日葵、朝の躑躅。自作解題(作者の言葉(鹿鳴館)、「鹿鳴館」について(文学座プログラム掲載)、「鹿鳴館」について(毎日新聞掲載)、あとがき(鹿鳴館)、美しき鹿鳴館時代――再演「鹿鳴館」について、「鹿鳴館」再演、上演される私の作品――「葵上」と「只ほど高いものはない」、「葵上」と「只ほど高いものはない」、あとがき(夜の向日葵)、「朝の躑躅」について) 『熱帯樹』(1986年2月25日) - 熱帯樹、薔薇と海賊、白蟻の巣」、自作解題(「熱帯樹」の成り立ち、「薔薇と海賊」について(毎日マンスリー掲載)、あとがき(薔薇と海賊)、「薔薇と海賊」について(文学座プログラム掲載)、「薔薇と海賊」について(劇団浪曼劇場プログラム掲載)、「白蟻の巣」について) 『絹と明察』(1987年9月25日) - 解説:田中美代子 『憂国/橋づくし』(1996年8月15日) - 憂国、海と夕焼、橋づくし、百万円煎餅。コンビニ店「セブンイレブン」のみの発売品の新潮ピコ文庫。 『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(2000年11月1日) - 1997年12月10日刊行の単行本と同一内容。なお著者の記載は川端側。 『三島由紀夫 十代書簡集』(2002年11月1日) - 1999年11月20日刊行の単行本と同一内容(表記は現代仮名遣い)。 『手長姫 英霊の声 1938 -1966』(2020年10月28日) 酸模、家族合せ、日食、手長姫、携帯用、S・O・S、魔法瓶、切符、英霊の声。解説:保坂正康
『花ざかりの森 他六篇』(1955年3月30日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、みのもの月、軽王子と衣通姫、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、中世、岬にての物語。解説:戸板康二 『真夏の死 他五篇』(1955年8月20日) - 真夏の死、怪物、大臣、親切な機械、獅子、クロスワード・パズル。解説:奥野健男 『純白の夜』(1956年7月30日) - 解説:蘆原英了。改版2009年2月から、解説:小池真理子 『女神』(1959年4月10日) - 解説:十返肇 『夏子の冒険』(1960年4月10日) - 改版2009年3月から、解説:千野帽子 『不道徳教育講座』(1967年11月30日) - 改版1999年9月から、「暗殺について」を除く69篇。解説:奥野健男 『美と共同体と東大闘争』(2000年7月25日) - 新潮社より1969年6月25日刊行の『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』と同一内容だが、人権擁護の見地から「われわれはキチガイではない」の章名が「目の中の不安」と変更。 『夜会服』(2009年10月25日) - 解説:田中和生 『複雑な彼』(2009年11月25日) - 解説:安部譲二 『お嬢さん』(2010年4月25日) - 解説:市川真人 『にっぽん製』(2010年6月25日) - 解説:田中優子 『幸福号出帆』(2010年11月25日) - 解説:藤田三男 『愛の疾走』(2010年11月25日) - 解説:横尾忠則
『不道徳教育講座』(1962年5月15日)- 「暗殺について」を除く69篇。表記は「中央公論文庫」 『文章読本』(1973年8月10日、改版1995年12月) - 解説:野口武彦。新装改版2020年3月、人名索引を増補 『作家論』(1974年6月10日) - 1970年10月刊の単行本と同一内容。解説:佐伯彰一。新装改版2016年5月、解説:関川夏央 『荒野より』(1975年1月10日) - 1967年3月刊の単行本と同一内容。解説:村松剛。新装改版2016年6月、解説:猪瀬直樹 『癩王のテラス』(1975年8月10日) - 癩王のテラス、あとがき。解説:宗谷真爾 『椿説弓張月』(1975年11月10日) - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出、「椿説弓張月」の演出、歌舞伎の脚本と現代語。解説:磯田光一 『太陽と鉄』(1987年11月10日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:佐伯彰一。新装改版2020年1月、最後のロングインタビュー「三島由紀夫 最後の言葉」(聞き手・古林尚)を増補 『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(2001年3月25日) - キーン宛ての97通の書簡、編集部後記。解説:松本徹「十七年の交友」 『小説読本』(2016年10月25日) - 作家を志す人々の為に、小説とは何か、私の小説の方法、わが創作方法、小説の技巧について、極く短かい小説の効用、法律と文学、私の小説作法、法学士と小説、法律と餅焼き、私の文学、自己改造の試み、「われら」からの遁走。解説:平野啓一郎。元版:中央公論新社(2010年10月) 『古典文学読本』(2016年11月25日) - 日本の古典と私、わが古典、相聞歌の源流、古今集と新古今集、存在しないものの美学、清少納言「枕草子」、雨月物語について、能、変質した優雅、「道成寺」私見、葉隠二題、日本文学小史、「文芸文化」のころ、「花ざかりの森」出版のころ、「花ざかりの森」のころ、古今の季節、伊勢物語のこと、うたはあまねし、寿、柳桜雑見録、古座の玉石、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。解説:富岡幸一郎 『戦後日記』(2019年4月23日) - 「小説家の休暇」「裸体と衣裳」ほか日記形式の全エッセイ集。解説:平山周吉 『谷崎潤一郎・川端康成』(2020年5月21日) - 両者に関する批評・随筆を初集成。解説:梶尾文武 『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』(2020年7月22日) - 石原慎太郎との全対話9編を初集成。公開状「士道について」と石原の返答「政治と美について」も収録。あとがきにかえて:石原慎太郎「三島さん、懐かしい人」(2010年10月刊の『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』掲載のインタビュー記事をまとめたもの)
『絹と明察』(1971年7月1日) - 解説:佐伯彰一 『太陽と鉄』(1971年12月15日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:田中美代子 『中世・剣』(1998年3月10日) - 中世、夜の仕度、家族合せ、宝石売買、孝経、剣。解説:室井光広 『対談・人間と文学』(2003年7月10日) - 中村光夫との対談。解説:秋山駿「対談による精神のドラマ」 『三島由紀夫文学論集 I』(2006年4月10日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具。編集:虫明亜呂無。解説:高橋睦郎 『三島由紀夫文学論集 II』(2006年5月10日) - 裸体と衣裳、アポロの杯――パリ、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」、陶酔について、個性の鍛錬場、ナルシシズム論、「純文学とは?」その他、余暇善用、私の遍歴時代。編集:虫明亜呂無。解説:橋本治 『三島由紀夫文学論集 III』(2006年6月10日) - 古今集と新古今集、美に逆らうもの、変質した優雅、魔的なものの力、現代史としての小説、団蔵・芸道・再軍備、六世中村歌右衛門序説、沢村宗十郎について、『班女』拝見、海風の吹きめぐる劇場、楽屋で書かれた演劇論、戯曲の誘惑、「演劇のよろこび」の復活、ロマンチック演劇の復興、文学座の諸君への「公開状」、「道義的革命」の論理、「葉隠」とわたし、美しき時代、死の分量、モラルの感覚、レイモン・ラディゲ、ジャン・コクトー、オスカア・ワイルド、ジャン・ジュネ、コリン・ウィルソン、ノーマン・メイラー。あとがき(虫明亜呂無〈再録〉)。編集:虫明亜呂無。解説:加藤典洋。1970年3月刊の単行本を文庫化(3分冊)。 『告白―三島由紀夫未公開インタビュー』(2019年11月、TBSヴィンテージクラシックス編) - 他に「太陽と鉄」 『行動学入門』(1974年10月25日) - 1970年10月刊行の単行本と同一内容。解説:虫明亜呂無 『若きサムライのために』(1996年11月10日) - 日本教文社より1969年7月刊行の単行本と同一内容。解説:福田和也
『幸福号出帆』(1978年6月30日) - 解説:磯田光一 『肉体の学校』(1979年3月30日) - 解説:田中美代子 『命売ります』(1979年11月25日) - 解説:奥野健男 『複雑な彼』(1987年10月25日) - 解説:安部譲二
『英霊の声』(1990年10月4日) - 英霊の声、F104、朱雀家の滅亡、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡)。解説:富岡幸一郎 『文豪ミステリ傑作選 三島由紀夫集』(1998年8月4日) - サーカス、毒薬の社会的効用について、果実、美神、花火、博覧会、復讐、水音、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。編集・解題:井上明久
『英霊の聲 オリジナル版』(2005年10月20日) - 1966年6月刊行の単行本と同一内容。解説:藤田三男 『サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡』(2005年12月10日) - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)、朱雀家の滅亡、後記(三島)。解説:藤田三男 『源泉の感情』(2006年2月20日) - 1970年10月刊行の単行本から6編削除、1編追加。小林秀雄、舟橋聖一、安部公房、野坂昭如、武田泰淳らとの対談14編。解説:藤田三男
『肉体の学校』(1992年6月22日) - 解説:群ようこ 『愛の疾走』(1994年3月24日) - 解説:清水義範 『反貞女大学』(1994年12月5日) - 反貞女大学、第一の性。解説:田中美代子 『私の遍歴時代――三島由紀夫のエッセイ1』(1995年4月24日) - わが思春期、私の遍歴時代、師弟、高原ホテル、学生の分際で小説を書いたの記、わが魅せられたるもの、作家と結婚、母を語る――私の最上の読者、ぼくはオブジェになりたい、小説家の息子、実感的スポーツ論、私の遺書、私のきらいな人、男の美学、雪、独楽。解説:田中美代子 『新恋愛講座――三島由紀夫のエッセイ2』(1995年5月24日) - 新恋愛講座、おわりの美学、若きサムライのための精神講話。解説:田中美代子 『外遊日記――三島由紀夫のエッセイ3』(1995年6月22日) - 旅の絵本、遠視眼の旅人、日本の株価、南の果ての都へ、外遊日記、ニューヨークの溜息、ニューヨークぶらつ記、紐育レストラン案内、大統領選挙、口角の泡、ピラミッドと麻薬、旅の夜、美に逆らうもの、冬のヴェニス、熊野路、英国紀行、インド通信、アメリカ人の日本神話。解説:田中美代子 『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(1995年8月24日) - 芸術断想、あとがき(目――ある芸術断想)、盛りあがりのすばらしさ、ベラフォンテ讃、迫力ある「ウエストサイド物語」――初日を見て、篠山紀信論、など32篇。解説:田中美代子 『幸福号出帆』(1996年7月24日) - 解説:鹿島茂 『三島由紀夫のフランス文学講座』(1997年2月24日) - 序(鹿島茂)、ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴、一冊の本――ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」、私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に、ラディゲ病、レイモン・ラディゲ、小説家の休暇、からの抜粋などフランス文学論多数。編者あとがき:鹿島茂 『命売ります』(1998年2月24日) - 解説:種村季弘 『三島由紀夫の美学講座』(2000年1月6日) - 序(谷川渥)、美について、唯美主義と日本、ヴォリンガア「抽象と感情移入」をめぐって、など35篇。編集・解説:谷川渥 『文化防衛論』(2006年11月10日) - 新潮社で1969年4月刊行の単行本とほぼ同一内容(果たし得ていない約束――私の中の二十五年、を追加)。解説:福田和也 『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集――雛の宿』(2007年9月10日) - 朝顔、雛の宿、花火、切符、鴉、英霊の聲、邪教、博覧会、仲間、孔雀、月澹荘綺譚、など18篇。編集・解説:東雅夫 『恋の都』(2008年4月10日) - 解説:千野帽子 『三島由紀夫紀行文集』(2018年9月15日)- 「アポロの杯」ほか海外・国内紀行を3章に分け収録。編・解説:佐藤秀明 『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』(2018年11月17日)- 他に「喜びの琴」を収録。解説:佐藤秀明 『三島由紀夫スポーツ論集』(2019年5月17日)。編・解説:佐藤秀明
『文学的人生論』(光文社知恵の森文庫、2004年11月) - 1954年11月刊行の河出書房(河出新書)初刊より一編(「日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?」)を割愛。解説:福田和也 『黒蜥蜴』(学研M文庫、2007年6月)- 黒蜥蜴、自作解題(「黒蜥蜴」について(西武生活掲載)、関係者の言葉、「黒蜥蜴」、「黒蜥蜴」について(婦人画報掲載)、映画「黒蜥蜴」の収録歌)。付録・座談会(江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫)、対談(丸山明宏)。解説:美輪明宏 『三島由紀夫 近代浪漫派文庫42』(新学社、2007年7月) - 十五歳詩集、花ざかりの森、橋づくし、憂国、三熊野詣、卒塔婆小町、太陽と鉄、文化防衛論。歴史的仮名遣い表記。 『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集』(徳間文庫カレッジ、2015年10月)- 『日本人養成講座』メタローグ(1999年10月)、新版・平凡社(2012年5月)の改題・増補(現代の夢魔、鶴田浩二論、「憂国」の謎、など10篇増補)。編・解説:高丘卓 『幻想小説とは何か 三島由紀夫怪異小品集』(平凡社ライブラリー、2020年8月)。短編や小論など31編を収録。編・解説:東雅夫 『芸術の顔 三島由紀夫 人生のことば』(巖谷大四編、番町書房、1967年7月) - 『人生のことば 第2巻』(川端康成監修、全10巻)
『三島由紀夫語録』(秋津建編、鷹書房、1975年12月/鷹書房弓プレス(改訂版)、1993年2月)
『三島由紀夫 ロゴスの美神』(山内由紀人編、岳陽舎、2003年7月)
『人間の
『三島由紀夫 行動する言葉100』(英和出版社、2016年3月)。下記とも、写真と併せた語句解説。 『三島由紀夫100の言葉――日本を心の底から愛するための心得』(適菜収監修、別冊宝島編集部編、宝島社、2016年7月) 『人とその作品――三島由紀夫の魅力』(朝日ソノラマ、1967年4月1日・4月号)
収録内容:剣道・ボディービルにはげむ三島由紀夫氏、美と官能、文学とスポーツ、現代の若者について、フラメンコの白い裳裾――旅の絵本(朗読:三島)、禿鷹の影――旅の絵本(朗読:三島) ※ソノシート2枚中の〔1〕が三島関連で、〔2〕には「激化する中ソ対立」「記録したい2月のニュース」が収録。本誌に、村松剛「人とその作品 三島由紀夫」掲載。 『学生との対話』(新潮社・新潮カセット講演、1988年4月22日。新潮CD講演、2002年6月25日)
CD2枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。 収録内容:学生との対話――I、II(国家革新の原理)。1968年(昭和43年)10月3日に早稲田大学大隈講堂で録音されたもの。 『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮社・新潮カセット対談、1989年4月20日。新潮CD講演、2002年6月25日)
CD1枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。 収録内容:三島由紀夫 最後の言葉(聞き手古林尚)。1970年(昭和45年)11月18日夕方に三島邸で録音されたもの。 『学習院時代の秘密』(悠飛社、1996年12月)
収録内容:学習院時代の秘密(三島、徳大寺公英)。1969年(昭和44年)11月12日に対談「戦争の谷間に生きて――青春を語る」として録音されたものの編集版。 『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』(新潮社、2004年9月10日)
収録内容:〔1〕わが友ヒットラー(第一幕)〔2〕わが友ヒットラー(第二幕、第三幕)〔3〕椿説弓張月〔4〕我が国の自主防衛について〔5〕悪の華――歌舞伎、英霊の聲、起て! 紅の若き獅子たち、からつ風野郎〔6〕青春を語る(対談:徳大寺公英)〔7〕私はいかにして日本の作家になつたか 殺人教室(石原慎太郎、1959年) - 三島は五島由紀夫で登場。 小説三島由紀夫(平林たい子、1960年) 富士(武田泰淳、1969年) 天皇裕仁と作家三島由紀夫の幸福な死(奥月宴、1970年) 小説三島由紀夫(千家紀彦、1971年) 小説三島氏切腹(夏文彦、1971年) 小説三島由紀夫(村上兵衛、1971年) 冬の旅(円地文子、1971年) みずから我が涙をぬぐいたまう日(大江健三郎、1971年) 三島由紀夫の首(武智鉄二、1972年) 眠狂四郎無情控(柴田錬三郎、1972年)- モデル人物は冒頭に同朋衆で登場。 順逆の人――小説・三島由紀夫(豊田穣、1973年) 帰らざる夏(加賀乙彦、1973年) スーパースター(吉行淳之介、1974年) 木蓮の皇帝 ("Der Magnolienkaiser: Nachdenken über Yukio Mishima")(ドイツの作家ハンス・エッペンドルファー、1984年) 帝都物語(荒俣宏、1985年) - 「6 不死鳥篇」(新装版の「第四番」)、「7 百鬼夜行篇」「8 未来宮篇」(新装版の「第伍番」)に登場。「9 喪神篇」(新装版の「第六番」)で大沢美千代という女性に転生。 僕は模造人間(島田雅彦、1986年) ポポイ(倉橋由美子、1987年) 淫魔教団(矢切隆之、1992年) 伝説――夏の朝、幻の岸辺で(中山雅仁、1993年) 天皇ごっこ(見沢知廉、1995年) 天啓の宴(笠井潔、1996年) あ・じゃ・ぱん(矢作俊彦、1997年) - 三島は田中角栄の右腕として飯沼勲こと平岡公威で登場。 さよなら、ハニー(中山紀、1998年) 三島由紀夫――剣と寒紅(福島次郎、1998年) 小説三島由紀夫事件(山崎行太郎、2000年、四谷ラウンド) もうひとつの憂國(荻原雄一、2000年) - 森田必勝による介錯が失敗し苦しむ三島を見かねた益田兼利総監が実はとどめの介錯をしていたことを、総監自らの霊が回想するフィクションの物語。 蕭々館日録(久世光彦、2001年) - 三島は6歳の天才児・比呂志で登場。 薔薇とペルソナ――小説三島由紀夫(葉山修平、2002年) 第二部 僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。(舞城王太郎、2003年) ロンリー・ハーツ・キラー(星野智幸、2004年) 銀河(水原紫苑、2004年) - 師の春日井建と、三島を鎮魂する幻想小説。 さようなら、私の本よ!(大江健三郎、2005年) ようこそ、自殺用品専門店へ(Le Magasin des suicides)(フランスの作家ジャン・トゥーレ、2006年) - 自殺用具店を経営する一家の物語。一家の父親がMishimaという名前で、日の丸の鉢巻を締め、日本刀を振り回して客にハラキリの作法を伝授する。2012年にはパトリス・ルコントによりアニメ映画化された。 三島転生(小沢章友、2007年、ポプラ社) - 市ヶ谷駐屯地で死んだ三島の霊が浮遊して自身の生涯を振り返る物語。 見出された恋「金閣寺」への船出(岩下尚史、2008年) 蒼白の月(広瀬亮、2009年) 水死(大江健三郎、2009年) 不可能(松浦寿輝、2011年、講談社) - 三島が死を免れて生き延びていると想定して創作したもの。 奇妙な共闘(坂東真紅郎、2011年) - クトゥルフ神話という独特な世界観の中、三島由紀夫が死後、「グール」として本来相容れない筈の探索者達との共闘を果たす。ミステリーホラー作品。 憂国者たち――The patriots(三輪太郎、2015年) 三島由紀夫――金閣寺は燃えているか?(鯨統一郎、2021年) - 『金閣寺は燃えているか?――文豪たちの怪しい宴』(創元推理文庫)の1篇。 Harakiri〈ハラキリ〉(ハンガリーの詩人イシュトヴァーン・バーリント) - アンデルセンの童話『エンドウ豆の上に寝たお姫さま』と融合して創作。 ユキオ・ミシマの墓(フランス人翻訳者ピエール・パスカル、1970年) - フランス語版『平和の発見――巣鴨の生と死の記録』(花山信勝)に付録された俳句12句と短歌3首。 愛と死の儀式〈三島にささげる詩〉(フランスの詩人エマニュエル・ローテン、1971年) - 映画『憂国』から創案した詩。 哭三島由紀夫(浅野晃、1971年)- 弔文「虹の門」の結びに記載。 廃墟、挽歌(井上靖、1971年)-2作とも詩集『季節』に収録。後者については、のち随筆集『わが一期一会』で三島への弔詩であったことが明かされた。 「天と海」から――三島由紀夫君を偲びて(浅野晃、1975年) RHETORICS――三島由紀夫であった(なかった)非在に(高橋睦郎、1985年) 雪の中の魂二つ――大江健三郎に(高橋睦郎、2001年) 正午だった(藤井厳喜、2007年) - 没後37周年(第38回)憂国忌で朗読。 鉄拳(ナムコ、1994年) - 三島一八のキャラクターは三島がベースになり、一族の三島姓は三島由紀夫の姓が由来。 真・女神転生(アトラス、1992年)登場キャラクターのゴトウ(五島)のモデルが三島である。市ヶ谷駐屯地で神と悪魔の登場について持論を演説する。 ジャコモ・フォスカリ(ヤマザキマリ、2012年) - 三島や安部公房をモデルにした人物が登場する。 地獄の黙示録(フランシス・フォード・コッポラ、1979年) - コッポラは撮影フィルム編集時に『豊饒の海』全巻を読み続けた。『暁の寺』を読んだ数か月後、エンディングの追加撮影や、カーツ大佐が殺されるシーンと生贄の水牛が殺されるシーンが交錯する劇的演出に工夫が凝らされている ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(ポール・シュレイダー、1985年) みやび 三島由紀夫(田中千世子、2005年) - ドキュメンタリー映画。
11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(若松孝二、2012年) 三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜(豊島圭介、2020年) Harakiri〈ハラキリ〉(エトヴェシュ・ペーテル、1973年) - ハンガリーの詩人イシュトヴァーン・バーリント (Bálint István)の「Harakiri」の日本語訳を基に作曲。声楽家の青木涼子の2014年のアルバム『能・現代音楽』に収録。 Death & Night & Blood (Yukio)〈死と夜と血〉(ストラングラーズ、1978年) - アルバム『Black and White』収録曲。『仮面の告白』の中の言葉「死と夜と血潮」から創案した詞。 Ice(ストラングラーズ、1978年) - アルバム『The Raven』収録曲。『葉隠入門』から創案した詞。 Forbidden Colours〈禁じられた色彩〉(デヴィッド・シルヴィアン・坂本龍一、1983年) - 『禁色』の主人公から創案した詞。 M(モーリス・ベジャール、1993年) - 三島をオマージュしたバレエ・スペクタクル作品。 ミュージックシアター「浄土」The Pure Land(ジェームズ・ウッド・加藤訓子、1999年。日本公演2005年) - 『志賀寺上人の恋』から翻案。 由紀夫のためのソナタ〜C.P.E.バッハ:チェンバロ・ソナタ集(ジョスリーヌ・キュイエ、2011年) - 『春の雪』の各場面と構成したプログラム。 恒(分部順治、1976年) - 彫刻。三島をモデルにした等身大の男性像。1970年(昭和45年)秋に三島から依頼されていたもので(日曜ごとにモデルに通った)、同年11月22日には原型が出来ていた。1976年(昭和51年)4月7日 の第6回日彫展に出品された。 烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱 ミシマ(森村泰昌、2006年) - 扮装パフォーマンス 美の教室、清聴せよ(森村泰昌、2007年) - 同上。 Objectglass 12(石塚公昭、2007年) - 人形作品 三島由紀夫へのオマージュ展「男の死」(石塚公昭、2011年) ^ 祖父・定太郎と『国際私法』を共著した福原鐐二郎(第14代学習院院長)の紹介もあったのではないかという推察もある。 ^ しかし、三島が使用していた原稿用紙は36種類あり、その中には、翌年1942年(昭和17年)に梓が天下りした日本瓦斯木炭株式会社の社報用の原稿用紙や、農林省蚕糸局にいた時に入手したと思われる日本蚕糸統制株式会社の原稿用紙もあり、暴君を気取っていた梓も戦況が激しくなるに従い、次第に息子の形見のためにせっせと原稿用紙を調達していたことが推察されている。 ^ 2016年(平成28年)9月に、三島直筆の「花ざかりの森」元原稿が熊本市の蓮田晶一(蓮田善明の長男。2016年8月に死去)の家で見つかった。冒頭の著名は「平岡公威」を2本線で消して「三島由紀夫」に書き直してあり、ペンネーム誕生の経緯を物語る貴重な資料発見となった。 ^ ちなみに三島自身はペンネームの由来について次のように語っている。 学生として本名ではまづいといふ先生の意見で、ペンネームを作ることになつた。私は伊藤左千夫といふやうな、万葉風の蒼古な名前がほしかつたが、結局、由紀雄と落ち着き、先生は夫のはうがいいと言はれて、さう改めた。それから何か座りのいい姓をと考へて、先生の机上にあつた何かの名簿を繰つて、三島といふのを探し出したのである。 — 三島由紀夫「私のペンネーム」
なお、父親の梓は、ペンネームの由来について、倅が電話帳で適当に開いた頁が「三島」だったとしている。
^ 貰った希望賞品は、光吉夏弥編・筑摩書房刊の豪華本『文楽』となった。 ^ 三島は『東文彦作品集』の序文で東との交友を振り返りつつ、当時を〈文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代〉であったと語っている。 ^ なお、エッセイ「学習院の卒業式」では、総代として卒業生代表で免状を受け取った三島は、〈正面の御名代の宮殿下に最敬礼し斜右の宮内大臣から免状をもらつた〉とある。『昭和天皇実録』の昭和19年9月9日条では、「学習院において卒業式挙行につき、朝融王を差し遣わされる」とされている。清水文雄の「戦中日記」にも「十時三十分御差遣宮殿下を奉送申上げ、」とあり、この年に実際に臨席したのは昭和天皇の義兄の久邇宮朝融王だと考えられる。ちなみに三島の在学中に昭和天皇が卒業式に臨席したのは、昭和9年、12年、16年の3回だった。 ^ なお、三谷隆信の三女・正子は、鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、邦子は鮎川純太の義理の伯母となった。 ^ 三島より2、3歳年長の斎藤吉郎は1942年(昭和17年)に一高を卒業してから東大に入り、友人らと雑誌『故園』を1943年(昭和18年)に発刊した。『故園』第1号は、蓮田善明の「神韻のしらべ」が巻頭を飾り、三島の詩「春の狐」も掲載された。斎藤の雑誌は終戦後『叙情』として発刊し、三島はその第1号に戦時中に創作した「絃歌――夏の恋人」を寄稿した。この詩には、邦子とのことを題材にしているのが看取される。 ^ 野田宇太郎は当時を振り返る随想で、まだ学生の三島が有名な作家になりたいという野心を持って川端康成を訪問し、そのために自分をずっと利用していたと悪し様に語っているが、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりは学習院在学中の頃からあったという説もある。越次倶子が三島の母・倭文重に取材したところによると、1943年(昭和18年)、三島の詩や短編を読んだ川端から手紙(宛名は平岡公威)が突然来て、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と三島が大喜びし、はしゃいでいたという。それから翌1944年(昭和19年)の『花ざかりの森』出版まで、三島は川端へ2、3度手紙を出し、本ができあがると贈呈した。三島は15歳頃に川路柳虹に師事していたが、川路が三島の文学的早熟に驚き、教えることがないと周囲に漏らしていたため、親交のあった川端にも三島少年の詩篇を見せた可能性もあり、それ以降、各所で発表される三島の作品に川端が注目していたと越次は推察し、それが三島の言う〈何か私を勇気づける事情〉のことだとしている。 ^ 当時は物資不足で大学の学生服の新調はできず、三島は終戦までは、召集されていく先輩の制服を借り、戦後は自分の学習院時代の制服を改造した(仕立て直した)窮屈なものを学生服として着て、講義を受けていた。 ^ なお、三島の母・倭文重も、娘時代に兄と2人でよく銀座(まだ関東大震災前の)の喫茶店に通っていた頃、芥川龍之介や南部修太郎と一緒にいる目のぎょろぎょろした川端や、無精髭の横光利一を見かけていたという。 ^ 彼らは、第五中学校の校内誌『開拓』に投稿していた文学仲間であった。 ^ 中村稔によれば、三島はその会がお開きになるまで居て、帰りは三島と渋谷駅まで一緒に帰ったと回想している。 ^ 三島の日記では「住友」とだけになっているが、佐藤秀明は住友銀行と推測している。 ^ 大蔵省時代のことを題材にした作品には、『大臣』『訃音』『鍵のかかる部屋』『日曜日』などがある。 ^ 『序曲』は、河出書房の杉森久英が企画し、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三、佐沼兵助(寺田透)、船山馨、島尾敏雄、三島の10名が編集同人となった同人雑誌だが、創刊号の1号で終刊した。三島は創刊号に短編「獅子」を掲載した。 ^ その後、この原稿を一旦取り戻して書き直し、4月27日に擱筆した。 ^ のちに英訳された作品集『真夏の死 その他』は、1967年(昭和42年)5月にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞し、この時、『午後の曳航』も候補作となった。 ^ 玉利齊は、のちに社団法人日本ボディビル協会会長となった。 ^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名が記載されている。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる。 ^ ジョン・ネイスンは、この時の右翼に対する恐怖感により、三島の思想が「右旋回」したと実弟・平岡千之の証言として書いているが、千之はそのようなことを言った覚えはないと否定している。 ^ 実際、1961年度に川端康成が受賞する可能性もあったことも明らかになっている。 ^ 大神神社境内には、この時三島が揮毫した「清明」が刻まれた記念碑がある。 ^ なお、この刀は本物の関ノ孫六ではなく、三島は贋物をつかまされていたという疑いもあり、元の持主だった中村泰三郎(武道家)は、これを神戸の刀剣店で4万円の値で買い、舩坂弘に5万円で売ったとされている。三島はこの日本刀を死ぬまで本物の関ノ孫六だと信じきっていた。 ^ 前年1966年(昭和41年)に三島はマスコミからノーベル文学賞受賞の予定談話まで要望されて応えたが、実際の受賞者はシュムエル・アグノンとネリー・ザックスとなってバツの悪い思いをした教訓から、この年には記者の追跡を避けてバンコクに滞留していた。 ^ 芥正彦の公式Youtubeチャンネルにて公開されている2009年ごろのインタビュー全6本で語られている ^ 芥正彦に関しては、元々行くはずではなかったが、あの時壇上にいた何人かに「芥お前がいないと負けちゃうから来てくれ!」と電話がかかってきて参加した。 ^ 全共闘主催の討論会で最後に三島が語った全文は、 天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この2時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。これも問題提起にすぎない。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。 — 三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」
^ 辻井喬は『癩王のテラス』の中の台詞、〈そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう〉という言葉には、戦後に生き残った三島の心境が吐露されていると見ている。 ^ 小島は10分ほど遅れて到着したが、三島の死後にお手伝いさんに確認したところ、三島は当日の朝、「今日は10時過ぎに出かける。そのあとで小島さんが来るからこれを渡すように」と指示して出ていったという。 ^ 武田は三島の自決2か月前から、戦中の精神病院を舞台にした長編「富士」を『海』に連載して11月20日に脱稿したが、その内容が三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決)が描写されていたため、担当編集者・村松友視は「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚きつつ刊行後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。 ^ 1972年(昭和47年)4月に川端康成も自殺するが、その数日前、三島の父・梓は川端からの長文の手紙をもらったという。梓は、「川端さんのご性格のまったく意外な点が実によくあらわれていて興味をひかれました」とし、家宝として永く保存していくと語った。 ^ この理論はすでに1968年(昭和43年)11月16日に茨城大学講堂で行われた学生とのティーチ・インで明らかにされているが、その際には海上自衛隊を6:4に分割することを主張していた。 ^ 鶴田浩二との対談でも、〈広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本はよくならないぞ。「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ〉と述べている。 ^ 鈴木邦男は「憲法研究会」の討議がその都度テープ起しされて三島がチェックしていたかのようもミスリードしているが、実際討議がテープ起しされたのは三島の死後(楯の会解散後)であり、松藤竹二郎の著書中にある「註―三島氏加筆」という数か所の「註」(出版社の毎日ワンズ編集者によって勝手に書き込まれてもの)に関しても、三島はその時点で亡くなっているのであり得ず、草稿にチェック加筆したのは楯の会会員の山口良男である。ちなみに鈴木が電話取材をしたという元楯の会会員の本多清(旧姓・倉持)や松藤は、そのような取材を受けてなく、松藤は鈴木と話もしたことがないと言っている。 ^ なお、元楯の会の事務員をし三島由紀夫とも交流があった司会の松浦芳子(持丸博夫人)は、「三島由紀夫が女系天皇を容認してるという(高森明勅の)文章を見まして、それが事実なら(三島と)絶交だよと(笑いながら)……」などと2020年(令和2年)に行なわれたシンポジウム(元楯の会一期生の座談会)で述べて本多清にマイクを渡し、本多は「直接的に先生からいわゆる(女系天皇を)聞いたことは無いですけど……」「女性(天皇)でもいいんじやないの、ということを(三島)先生が言われたみたいなことで……」「女系とは言ってないんだよと……」「(憲法研究会として)推古天皇がおられたからいいんじゃないのという認識だった」などと発言している。 ^ また本多清は、2017年(平成29年)に行なわれた鈴木邦男との週刊誌の対談では以下のように述べていた。鈴木邦男「三島さんの思想は、的確に時代を先取りしている……。女性・女系天皇についても、そんなことが話題にすらならなかった時代に触れている」本多清「先生は『50年後、100年後にわかってもらえればいいんだ』という言い方をされることがありました。……先生の精神は今も生きているんです」 ^ 小説家・評論家の小林信彦も、三島と同じく本作を高く評価し、著書の中で三島の評を引用している。 ^ 中上健次も対談で誤解に基づき、「たとえば三島由起夫〔ママ〕は被差別部落の血が流れてるよね」と発言している。 ^ 光文社の雑誌『光』1948年12月号に掲載予定だったが、出版社の経営悪化により11月号で休刊となったため雑誌未発表となった。 ^ 服部卓四郎大本営陸軍作戦課長による本土決戦の基本思想 ^ 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司馬遼太郎――戦後精神と近代』河出書房新社、2011年7月。ISBN 978-4309020518。 山内由紀人『三島由紀夫の肉体』河出書房新社、2014年8月。ISBN 978-4309023182。 梶尾文武『否定の文体――三島由紀夫と昭和批評』鼎書房、2015年12月。ISBN 978-4907282233。 吉田和明『三島由紀夫』〈フォー・ビギナーズ・シリーズ 35〉、現代書館、1985年11月。ISBN 978-4768400357。 井上豊夫『果し得ていない約束――三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本、2006年10月。ISBN 978-4906380800。- 著者は元楯の会会員。 鈴木亜繪美(著)『火群のゆくへ――元楯の会会員たちの心の軌跡』田村司(監修)、柏艪舎、2005年11月。ISBN 978-4434070662。 西村繁樹『三島由紀夫と最後に会った青年将校』並木書房、2019年10月。ISBN 978-489063-3913。 平岡梓『伜・三島由紀夫』〈文春文庫〉、文藝春秋、1996年11月。ISBN 978-4167162047。- 初刊版は1972年5月NCID BN04224118。月刊誌『諸君!』1971年12月号-1972年4月号に連載されたもの。 平岡梓『伜・三島由紀夫(没後)』文藝春秋、1974年6月。NCID BN03950861。- 絶版 坊城俊民『焔の幻影――回想三島由紀夫』角川書店、1971年11月。NCID BN09275670。- 絶版 松浦芳子(著)『今よみがえる三島由紀夫――自決より四十年』松浦博(監修)、高木書房、2010年12月。ISBN 978-4884710866。- 増補版(高木書房)は2020年11月 三谷信『級友 三島由紀夫』〈中公文庫〉(再刊版)、中央公論新社、1999年12月。ISBN 978-4122035577。- 初刊原版(笠間書院)は1985年7月 NCID BN01049725 村上建夫『君たちには分からない――「楯の會」で見た三島由紀夫』新潮社、2010年10月。ISBN 978-4103278511。 村田春樹『三島由紀夫が生きた時代――楯の会と森田必勝』青林堂、2015年10月。ISBN 978-4792605322。 持丸博、佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存―たった一度の対決』文藝春秋、2010年10月。ISBN 978-4163732503。 森田必勝『わが思想と行動――遺稿集』(新装版)、日新報道、2002年11月。ISBN 978-4817405289。- 初版は1971年 NCID BA51175945 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』日本文芸社、1980年6月。NCID BN10688248。 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』講談社、2001年6月。ISBN 978-4062107815。 湯浅あつ子『ロイと鏡子』中央公論社、1984年3月。ISBN 978-4120012761。- 著者は幼馴染で、ロイ・ジェームス夫人。 三島由紀夫研究会(編)、2010年10月『「憂国忌」の四十年――三島由紀夫氏追悼の記録と証言』並木書房。ISBN 978-4890632626。 三島由紀夫研究会(編)、2020年10月『「憂国忌」の五十年』啓文社書房。ISBN 978-4899920717。 荒木精之『初霜の記――三島由紀夫と神風連』日本談義社、1971年11月。 石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』新潮社、1991年3月。ISBN 978-4103015079。 石原慎太郎『わが人生の時の人々』文藝春秋、2002年1月。ISBN 978-4163580906。 井上隆史、佐藤秀明、松本徹(編)、2011年5月『同時代の証言 三島由紀夫』鼎書房。ISBN 978-4907846770。- 編者らによる関係者への聞き書き(上記『三島由紀夫研究』に連載) 川島勝『三島由紀夫』文藝春秋、1996年2月。ISBN 978-4163512808。- 著者は講談社での三島担当編集者。 北杜夫『人間とマンボウ』〈中公文庫〉、中央公論新社、2022年4月。ISBN 978-4122071971。 初刊版(中央公論社)は1976年9月 ISBN 978-4120004940 木下恵介『戦場の固き約束』主婦の友社、1987年8月。ISBN 978-4079265133。 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』大空社、1995年7月。ISBN 978-4756800077。- 初刊原版は『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ、1982年6月)NCID BN05251513 小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』〈ちくま文庫〉、筑摩書房、1996年4月。ISBN 978-4480031822。- 初刊原版(構想社)は1980年5月 NCID BN05256969 櫻井秀勲『三島由紀夫は何を遺したか』きずな出版、2020年11月。ISBN 978-4866631288。 椎根和『完全版 平凡パンチの三島由紀夫』茉莉花社(河出書房新社)、2012年10月。ISBN 978-4309909639。- 初刊原版(新潮社)は2007年3月 ISBN 978-4103041511。新訂版(茉莉花社)は2020年12月 ISBN 978-4309922195。著者は平凡パンチの元編集者。 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』〈中公文庫〉、中央公論社、1986年11月。ISBN 978-4122013773。- 初刊原版(立風書房)は1983年12月 NCID BN02999027 堂本正樹『回想回転扉の三島由紀夫』〈文春新書〉、文藝春秋、2005年11月。ISBN 978-4166604777。 徳岡孝夫、ドナルド・キーン『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』中央公論社、1973年7月。NCID BN05300550。- 文庫版(中公文庫)は1981年11月 NCID BN06844951。改題新版は『三島由紀夫を巡る旅:悼友紀行』(新潮文庫、2020年2月 ISBN 978-4101313566 徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』〈文春文庫〉、文藝春秋、1999年11月。ISBN 978-4167449032。- 初刊版は1996年11月。文庫新版(文春学藝ライブラリー)は2015年10月 ISBN 978-4168130533 ドナルド・キーン『思い出の作家たち――谷崎・川端・三島・安部・司馬』新潮社、2005年11月。ISBN 978-4103317067。文庫版(新潮文庫)は2019年4月 ISBN 978-4101313559 ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』中央公論新社、2007年7月。ISBN 978-4120038457。- 改訂再刊版は『ドナルド・キーン自伝』(中公文庫、2011年)ISBN 978-4122054394 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』PHP研究所、2008年11月。ISBN 978-4569705378。- 増補版(戎光祥出版)は2020年12月 ISBN 978-4864033732 林房雄『悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌』文藝春秋、1972年3月。NCID BN08146344。- 『対話・日本人論』(夏目書房、2002年3月)に抜粋再録 林房雄、伊澤甲子麿『歴史への証言――三島由紀夫・鮮血の遺訓』恒友出版、1971年。NCID BN06124759。 福島次郎『三島由紀夫――剣と寒紅』文藝春秋、1998年3月。ISBN 978-4163176307。- 著作権の無断転載で回収・絶版 美輪明宏『紫の履歴書』水書房、1992年11月。ISBN 978-4943843641。- 初刊版(大光社)は1968年9月 NCID BN15222464 美輪明宏『愛の話 幸福の話』集英社、2002年6月。ISBN 978-4087803570。 村松英子『三島由紀夫 追想のうた ――女優として育てられて』阪急コミュニケーションズ、2007年10月。ISBN 978-4484072050。 矢代静一『旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志』新潮社、1985年2月。ISBN 978-4103257042。 『近代作家追悼文集成〈42〉三島由紀夫』ゆまに書房、1999年4月。ISBN 978-4897146454。 『新潮 臨時増刊 三島由紀夫読本』、新潮社、1971年1月。ASIN B00QRZ32NO。 小野好恵 編『ユリイカ 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜』第11巻、第8号、青土社、1976年10月。ASIN B00UYW77RS。 梶山季之(編)、1972年8月「〈特別レポート〉三島由紀夫の無視された家系」『月刊噂 八月号』第2巻第8号、噂発行所、48–62頁。 坂本忠雄 編『新潮 12月特大号 没後二十年 三島由紀夫特集』第12巻、第87号、新潮社、1990年12月。 佐藤辰宣 編『群像』第3巻、第72号、講談社、2017年3月。ASIN B01NH2WT0X。 中島和夫 編『群像 二月特大号 特集・三島由紀夫 死と芸術』第2巻、第26号、講談社、1971年2月。 長谷川泉(編)、1971年3月『現代のエスプリ 三島由紀夫』至文堂。NCID BN09636225。 藤島泰輔 編『浪曼 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英書の原題は、"The Life and Death of Yukio Mishima"(1974年) ヘンリー・S・ストークス、加瀬英明(著)『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』〈祥伝社新書〉、藤田裕行(訳・構成)、祥伝社、2012年8月。ISBN 978-4396112875。 ジョン・ネイスン(著)『新版 三島由紀夫─ある評伝』野口武彦(訳)(改訂版)、新潮社、2000年8月。ISBN 978-4864100281。- 初刊版(絶版・回収)は1976年6月 NCID BN05986010
マルグリット・ユルスナール(著)『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』〈河出文庫〉、澁澤龍彦(訳)、河出書房新社、1995年12月。ISBN 978-4309461434。 - 初刊版は1982年5月。のち『澁澤龍彦翻訳全集15』(同、1998年)に収録。ISBN 978-4309707457
ジェニフェール・ルシュール(著)『三島由紀夫─ガリマール新評伝シリーズ』〈祥伝社新書〉、鈴木雅生(訳)、祥伝社、2012年11月。ISBN 978-4396112998。
ヘンリー・ミラー(著)『ヘンリー・ミラー・コレクション15 三島由紀夫の死』松田憲次郎ほか(訳)、水声社、2017年12月。ISBN 978-4801000049。- エッセイ集10編の1つ イルメラ・日地谷・キルシュネライト(編)、2010年11月『MISHIMA!――三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト』昭和堂。ISBN 978-4812210642。 エレノア・コッポラ(著)『ノーツ―コッポラの黙示録』原田眞人、福田みずほ(訳)、マガジンハウス、1992年8月。ISBN 978-4838703944。- 英語版の原書(改版)は1991年に出版(初刊版はヘラルド出版、1980年)。 エレノア・コッポラ(著)『『地獄の黙示録』撮影全記録(ノーツ)』〈小学館文庫〉、岡山徹(訳)(新訳版)、小学館、2002年1月。ISBN 978-4094025668。 自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧
三島由紀夫研究会 三島由紀夫研究会 (@yukokuki) - X(旧Twitter) 三島由紀夫電子博物館 - ウェイバックマシン(2007年7月3日アーカイブ分) 三島由紀夫文学館 三島由紀夫 - IMDb(英語) 三島由紀夫研究会メールマガジン 隠し文学館 花ざかりの森 Nomination Database Yukio Mishima(2017年現在、1966年分まで公開). ノーベル賞公式サイト. (英語) 三島由紀夫 - NHK人物録 『三島由紀夫』 - コトバンク 『三島 由紀夫』 - コトバンク 表 話 編 歴 盗賊 仮面の告白 純白の夜 愛の渇き 青の時代 禁色 夏子の冒険 にっぽん製 恋の都 潮騒 女神 沈める滝 幸福号出帆 金閣寺 永すぎた春 美徳のよろめき 鏡子の家 宴のあと お嬢さん 獣の戯れ 美しい星 愛の疾走 肉体の学校 午後の曳航 絹と明察 音楽 複雑な彼 三島由紀夫レター教室 夜会服 命売ります 豊饒の海
奔馬 暁の寺 天人五衰 酸模―秋彦の幼き思ひ出 彩絵硝子 花ざかりの森 苧菟と瑪耶 世々に残さん 夜の車(中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃) 中世 煙草 岬にての物語 軽王子と衣通姫 夜の仕度 サーカス 家族合せ 宝石売買 魔群の通過 日曜日 椅子 翼 手長姫 真夏の死 美神 雛の宿 ラディゲの死 鍵のかかる部屋 詩を書く少年 志賀寺上人の恋 海と夕焼 橋づくし 女方 百万円煎餅 愛の処刑 スタア 憂国 雨のなかの噴水 剣 月澹荘綺譚 三熊野詣 仲間 英霊の聲 荒野より 蘭陵王 路程 東の博士たち 火宅 近代能楽集
綾の鼓 卒塔婆小町 葵上 班女 道成寺 熊野 弱法師 源氏供養 Long After Love 附子 只ほど高いものはない 夜の向日葵 若人よ蘇れ 白蟻の巣 鹿鳴館 薔薇と海賊 熱帯樹 十日の菊 黒蜥蜴 喜びの琴 恋の帆影 サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 わが友ヒットラー 癩王のテラス 地獄変 鰯売恋曳網 熊野 芙蓉露大内実記 むすめごのみ帯取池 椿説弓張月 王朝心理文学小史 芝居日記 戦後語録 わが世代の革命 重症者の兇器 アポロの杯 小説家の休暇 新恋愛講座 亀は兎に追ひつくか? わが思春期 裸体と衣裳 不道徳教育講座 文章読本 社会料理三島亭 第一の性 私の遍歴時代 芸術断想 反貞女大学 太陽と鉄 をはりの美学 お茶漬ナショナリズム 葉隠入門 F104 小説とは何か 若きサムラヒのための精神講話 文化防衛論 自衛隊二分論 日本文学小史 行動学入門 問題提起 果たし得てゐない約束―私の中の二十五年 革命哲学としての陽明学 独楽 討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 源泉の感情 尚武のこころ 檄 九官鳥
第五の喇叭 独白 星座 九官鳥 凶ごと 悲壮調 祝婚歌 からつ風野郎 お嬢さん 黒蜥蜴の歌 用心棒の歌 薔薇刑 男の死 造花に殺された舟乗りの歌 イカロス 起て!紅の若き獅子たち 辞世の句 炎上 からっ風野郎 人斬り 黒蜥蜴 ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ 春の雪 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち 三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜 平岡太吉(曽祖父) 平岡定太郎(祖父) 平岡なつ(祖母) 平岡梓(父) 平岡倭文重(母) 平岡美津子(妹) 平岡千之(弟) 平岡瑤子(妻) 平岡紀子(長女) 平岡威一郎(長男) 橋健行(伯父) 平岡萬次郎(大伯父) 大屋敦(大叔父) 平岡萬寿彦(父の従兄) 磯崎叡(父の従弟) 永井三明(父の従弟) 松平乗尹(義五世祖父) 松平頼救(五世祖父) 平岡太左衛門(高祖父) 三好長済(高祖父) 永井尚志(義高祖父) 松平頼位(高祖父) 永井岩之丞(曽祖父) 橋健堂(曽祖父) 橋健三(祖父) 杉山寧(岳父) 喜びの琴事件 劇団NLT 浪曼劇場 楯の会 三島事件 三島由紀夫賞 三島由紀夫文学館 憂国忌 経団連襲撃事件 日本浪曼派 文藝文化 雲の会 鉢の木会 末げん 三島由紀夫 小説 戯曲 原作映画作品 表 話 編 歴 第1回
八代目松本幸四郎 間宮芳生 第2回
土門拳 第3回
小林正樹 安川加壽子 第4回
内村直也 八代目坂東三津五郎 第5回
新藤兼人 第6回
三島由紀夫 第7回
市川崑 第8回
滝沢修 岡田謙三 第9回
第10回
茂木草介 東山魁夷 岩田藤七 第11回
平野謙 棟方志功 第12回
山田洋次 第13回
白川義員 第14回
宇野重吉 第15回
第16回
山田五十鈴 第17回
倉本聰 第18回
森繁久彌 第19回
黒川紀章 第20回
飯沢匡 林忠彦 第21回
篠山紀信 前進座 第22回
篠田一士 若杉弘 越路吹雪 第23回
藤原新也 第24回
八代目松本幸四郎 林康子 第25回
朝比奈隆 三代目市川猿之助 磯崎新 第26回
佐々木昭一郎 山本安英 第27回
第28回
安藤忠雄 NHK交響楽団 第29回
深町幸男 第30回
吉田簑助 渥美清 第31回
木下順二 第32回
本多秋五 森光子 第33回
第34回
佐々木昭一郎 山田太一 第35回
松村禎三 橋田壽賀子 第36回
幸田弘子 横尾忠則 第37回
江成常夫 ひょうご舞台芸術「GHETTO」 第38回
小栗康平 黒柳徹子 馬場あき子 第39回
入沢康夫 五代目坂東玉三郎 宮崎駿 第40回
森澄雄 十三代目片岡仁左衛門 第41回
岡井隆 河野多惠子 高倉健 第42回
大島渚 吉永小百合 第43回
麻実れい 鷹羽狩行 第44回
小澤征爾 清岡卓行 第45回
七代目竹本住大夫 第46回
前登志夫 観世栄夫 沼尻竜典 第47回
三木卓 奈良岡朋子 西村朗 李禹煥 第48回
篠弘 司修 二代目中村吉右衛門 篠原有司男 第49回
野田秀樹 平岩弓枝 細江英公 森山良子 第50回
舟越桂 永井路子 七代目尾上菊五郎 石内都 第51回
隈研吾 関正人 辻原登 遠山慶子 金子兜太 第52回
大峯あきら 村上龍 森村泰昌 吉田都 加山雄三 第53回
菊畑茂久馬 津島佑子 豊竹咲大夫 坂茂 由紀さおり 第54回
辰野登恵子 谷村新司 テレビマンユニオン 十代目坂東三津五郎 荒木経惟 第55回
平幹二朗 青木野枝 佐伯一麦 永六輔 第56回
鍵和田秞子 隠崎隆一 船本芳雲 柳家小三治 松浦寿輝 第57回
桐竹勘十郎 庄司紗矢香 菅木志雄 宮城谷昌光 是枝裕和 第58回
河口龍夫 黒沢清 筒井康隆 堤剛 坂本冬美 第59回
遠藤利克 髙村薫 仲川恭司 山路和弘 熊川哲也 第60回
栗木京子 内藤礼 永井愛 宮本輝 大林宣彦 第61回
逢坂剛 草笛光子 佐藤俊介 塩田千春 今野勉 第62回
西澤徹夫 鵜山仁 鴻池朋子 高樹のぶ子 水原紫苑 「半沢直樹」 第63回
皆川博子 下谷洋子 高橋睦郎 三島喜美代 吉野直子 第64回
遠藤彰子 加藤健一 桐野夏生 永田和宏 表 話 編 歴 猶存社 ∴愛國公黨 玄洋社 大日本国粋会 金鶏学院 勤皇まことむすび 血盟団 黒龍会 大日本生産党 東方会 大東塾 国粋大衆党 桜会 原理日本社 立憲養正會 東亜連盟同志会 全日本愛国者団体会議 日本皇民党 日本青年社 大日本愛国党 大日本朱光会 憂国清心同友会 大行社 正氣塾 勇魂舎 司政会議 防共挺身隊 楯の会 一水会 統一戦線義勇軍 青年民族派
全国学生自治体連絡協議会 日本学生会議 日本青年協議会 国家社会主義日本労働者党 風の会 維新政党・新風 神州蛇蝎の会 超国家主義『民族の意志』同盟 国民戦線社(維新革命主義国民戦線) 社会の不条理を糾す会 頑張れ日本!全国行動委員会 主権回復を目指す会 在日特権を許さない市民の会 日本を護る市民の会 チーム関西 排害社 日本第一党 日本国民党 参政党 つばさの党 新党くにもり 日本保守党 日本を守る会 元号法制化実現国民会議 生長の家本流運動 国際勝共連合 黒龍会 (2008年-) 呉竹会 國民會館 国民文化研究会 国柱会 日本国体学会 革新右翼 観念右翼 復古神道 天皇主権 皇道 一君万民論 国体の本義 八紘一宇 五族協和 戦陣訓 大アジア主義 反共主義 反米 反中 嫌韓 国粋主義 国家主義 超国家主義 国家社会主義 農本主義 ファシズム ナチズム テロリズム 愛国心 一殺多生/一人一殺 社稷 在日特権 自虐史観 昭和維新 正常化 売国奴 反日 YP体制 肉体言語 血盟団事件 浅沼稲次郎暗殺事件 三無事件 嶋中事件 三島事件 児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件 経団連襲撃事件 スパイ粛清事件 皇民党事件 赤報隊事件 長崎市長銃撃事件 村井秀夫刺殺事件 石井紘基刺殺事件 建国義勇軍事件 加藤紘一宅放火事件 京都朝鮮学校公園占用抗議事件 徳島県教組業務妨害事件 水平社博物館前差別街宣事件 ロート製薬強要事件 板垣退助 頭山満 村野常右衛門 朝日平吾 赤尾敏 阿形充規 葦津珍彦 阿部勉 渥美勝 磯部浅一 犬塚博英 井上日召 上杉慎吉 大島竜珉 笠木良明 影山正治 影山庄平 北一輝 北昤吉 金友隆幸 鹿子木員信 木村三浩 倉田百三 黒田大輔 児玉誉士夫 権藤成卿 後藤映範 佐郷屋嘉昭 里見岸雄 桜井誠 佐久間五郎 笹川良一 四元義隆 四宮正貴 鈴木邦男 鈴木信行 田中智學 橘孝三郎 橘樸 中野正剛 中村武彦 西村修平 西田税 蜷川正大 野村秋介 畑時夫 針谷大輔 深作清次郎 蓑田胸喜 満川亀太郎 水島総 三井甲之 三上卓 三島由紀夫 見沢知廉 三浦義一 三浦重周 村中孝次 保田與重郎 山口二矢 山田一成 任侠右翼 街宣車 過激派 過激派保守主義 菊タブー 上部工作 反韓デモ/反ソ連デー/反中共デー ネット右翼 ヘイトスピーチ 日本の新左翼 アジアポータル 日本ポータル 東京都ポータル 文学ポータル 映画ポータル 舞台芸術ポータル LGBTポータル 人物伝ポータル FAST ISNI VIAF
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2024/11/20 00:07更新
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mishima yukio
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