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福田 赳夫さんについて調べます
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福田赳夫と関係のある人
重政誠之: 1952年の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で旧広島3区から立候補し初当選、6期務める(当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・内田常雄・丹羽喬四郎・植木庚子郎・灘尾弘吉・宇都宮徳馬・加藤精三・山崎巌・今松治郎・町村金五・古井喜実など)。 越智隆雄: 父は元金融再生委員会委員長の越智通雄、祖父は第67代内閣総理大臣の福田赳夫、叔父は第91代内閣総理大臣の福田康夫。 石山賢吉: 葬儀の際、寿像を贈呈した福田赳夫は「黒い戦闘帽に白い学生カバンを肩にかけ巻脚絆姿でこの会議に精勤されたキビキビと若々しい姿だった。 安岡正篤: 安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など多くの首相が挙げられる。 吉葉山潤之輔: 横綱としてはあまり活躍できなかったが、後援者の中には三笠宮崇仁親王が含まれ、後援会長は福田赳夫が務めた。 河本敏夫: 三木の後を継いだ福田赳夫改造内閣でも通商産業大臣に任命され、鈴木善幸内閣と中曽根内閣でも経済企画庁長官を歴任した。 大竹美喜: このため借金をして会社を存続させながら、当時の金融界のフィクサーであった常盤橋経済研究所の大橋薫 (経済評論家) や当時の大蔵大臣福田赳夫を動かし大蔵省、厚生省と折衝を重ね2年半かけてようやく認可を取得した。 大島友治: 1977年科学技術政務次官(福田赳夫内閣)、参議院文教委員長、参議院内閣委員長などを経て、1990年2月第2次海部内閣の科学技術庁長官として初入閣。 三原朝雄: 1976年 - 防衛庁長官(福田赳夫内閣) 海部俊樹: 最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、1993年12月16日に田中角栄が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は福田赳夫であったため)。 小川平二: 以後1976年に福田赳夫内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官、1981年に鈴木善幸改造内閣で文部大臣を歴任。 金丸信: だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。 早坂茂三: 1985年7月に自身の事務所を開いた際、挨拶状の返信を真っ先くれたのが福田赳夫であった。福田赳夫が私に勲章をくれたのである」と綴っている。 松沢卓二: この時、折からの昭和40年不況によって、歳入欠陥が生じ福田赳夫蔵相は金額にして2000億円の赤字国債の発行を決め、当初は日本銀行が引き受けるとの計画を立てていたが、インフレーションを助長する懸念もあり、全銀協のみならずほかの経済団体も猛反対した。 村田敬次郎: しかし福田赳夫と安倍晋太郎の賛同を得られず、旧愛知4区・福田派の地盤は岡崎市出身の杉浦正健が受け継いだ。 塚田徹: 福田赳夫内閣で建設政務次官を務めた。 椎名悦三郎: 12月1日、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に指名する裁定を出した(椎名裁定)。 福田達夫: 祖父は第67代内閣総理大臣の福田赳夫、父は第91代内閣総理大臣の福田康夫。 小渕恵三: また地元の群馬県から福田赳夫の娘婿の越智通雄金融再生委員長(森派)、中曽根康弘の息子・中曽根弘文文部大臣(江藤・亀井派)、山本富雄の息子・山本一太外務政務次官(森派)といった上州戦争の関係者を起用した。 藤山一郎: また、NHKのアナウンサー出身の参議院議員でかつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三も福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った。 荒船清十郎: またこの際、上越新幹線のルート決定について「新潟県では通産大臣をやっている田中角栄、それから群馬県では外務大臣の福田赳夫、埼玉県は荒船〔ママ〕清十郎、この三人でどこに止めるか、どういうふうに通すかという特別委員になりましてきめたわけでございます」とも発言している。 宮崎勇: 『普遍的な倫理基準の探求 福田赳夫とOBサミット』宮澤喜一監修(編)日本経済新聞社 2001 田波耕治: 福田赳夫内閣の坊秀男蔵相の下で大臣秘書官を、1977年、大須敏生(のちに理財局長)から引き継いで、同改造内閣の村山達雄蔵相の下で、さらに大平内閣の金子一平蔵相の下でも同様に大臣秘書官を務めた。 塚原俊平: 自民党では福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博派(清和政策研究会)に属し、父・俊郎が保利茂系であったことから、保利に可愛がられた。 藤田小女姫: 岸信介、福田赳夫、松下幸之助、小佐野賢治などの政財界の大物を顧客として財を成した。 小和田恆: 1976年(昭和51年)(43歳)、福田赳夫内閣総理大臣秘書官 田中角栄: 愛知揆一蔵相の急死で、福田赳夫が大蔵大臣就任。 羽田孜: しかし羽田は自民党の農林部会に所属するなど農政にも関わっており、1976年には福田赳夫内閣で農林政務次官を務め、農林大臣だった鈴木善幸を助けて初年度だった稲の生産調整や200カイリ問題に取り組んだ。 木村武雄: 他派の福田赳夫への政権移譲を画策する佐藤首相に対して、木村は自派の田中角栄への後継指名を要望し続けた。 坊秀男: 東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。 |
福田赳夫の情報まとめ
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福田 赳夫(ふくだ たけお)さんの誕生日は1905年1月14日です。群馬出身の政治家のようです。
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年譜、政見・政策などについてまとめました。卒業、兄弟、病気、事件、テレビ、解散、引退に関する情報もありますね。90歳で亡くなられているようです。
福田赳夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14日 - 1995年〈平成7年〉7月5日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 大蔵省主計局長、衆議院議員、農林大臣(第2次岸改造内閣)、大蔵大臣(第1次佐藤第1次改造内閣・第1次佐藤第2次内閣・第2次佐藤第2次改造内閣・第3次佐藤内閣・第2次田中角栄第1次改造内閣)、外務大臣(第3次佐藤改造内閣)、行政管理庁長官(第2次田中角栄内閣)、経済企画庁長官(三木内閣)、自由民主党総裁(第8代)、内閣総理大臣(福田赳夫内閣)を歴任した。 群馬県群馬郡金古町(現・高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれた。日露戦争において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、「赳夫」(「赳」という字は強い・勇ましいなどという意味を持つ)と命名された。 金古町立金古小学校(現・高崎市立金古小学校)卒業後、群馬県高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に入学。同校を首席で卒業し、第一高等学校文科丙類仏法科に入学。2年生のときに野球部のマネージャーに推された。1926年(大正15年)、東京帝国大学法学部法律学科仏法科進学。 東大生時代には上杉慎吉から自身の後継者として大学に残るように言われていた(岸信介も同様である)。 高等文官試験行政科首席合格。東大卒業後、大蔵省入省。大臣官房文書課配属。 大蔵省入省から1年を経ずに、財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。当時の上司に当たる財務官は津島寿一である。3年半のイギリスでの勤務の後、帰国。戦時中は中華民国汪兆銘政権の財政顧問を務めるなどした。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めたが、1948年(昭和23年)の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、当時大蔵省主計局長で次官を目前にしていた福田は収賄罪容疑で逮捕される。1950年(昭和25年)夏ごろ、次期衆院選出馬の決意をする。無罪になったが、同年11月に大蔵省を退官した。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に群馬三区から無所属で立候補し初当選した。国会では無所属議員18人で院内会派「無所属倶楽部」をつくった。野田卯一・池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。当時は大蔵省出身の国会議員が衆参合わせて24人いた。無所属の福田を除く23人は全て吉田茂・池田勇人の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。 1953年(昭和28年)12月、自由党に入党した。やがて岸信介に仕える。1958年(昭和33年)には当選4回ながら自由民主党政調会長就任。 1959年(昭和34年)1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。 1960年(昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男・田中龍夫・一万田尚登・倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。池田から政調会長をクビにされ、福田及び同調者は池田内閣の続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう。 佐藤栄作政権下では大蔵大臣・党幹事長・外務大臣と厚遇され、福田の後見人である岸からの強い支持もあって、岸・佐藤兄弟の後継者として大いにアピールできたものの、この時から“ポスト佐藤”を巡る田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。また中華民国(台湾)と断交してでも中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して外務大臣時代にアルバニア決議に反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」をアメリカ合衆国などと共同提案したように台湾とのバランスに配慮した慎重路線を打ち出す。佐藤は任期中の国交回復と北京訪問を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、総理の座を譲ろうとしていた福田を中華人民共和国側関係者に引き合わせていた。これらの自民党右派のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会出身の総理である森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫らに引き継がれている。 1972年(昭和47年)7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂・松野頼三・園田直・藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。また、この際福田に肩入れをしていた当時の金融界のフィクサーであった大橋薫は、生前「自分が病気で入院していたために福田が負けた」と漏らしている。 発足した田中内閣においては無役となったが、同年12月の総選挙で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形で第2次田中角栄内閣に行政管理庁長官として入閣。翌1973年(昭和48年)11月の内閣改造では、田中の列島改造論とオイルショックによる経済の混乱の収束を求められ、急逝した愛知揆一の後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(1974年7月の参議院選挙後に閣僚辞任)。1974年(昭和49年)12月に発足した三木内閣でも副総理・経済企画庁長官として入閣し、経済政策の陣頭に立ったが、ロッキード事件への対応を巡って党内で三木おろしが決定的になった1976年(昭和51年)11月に閣僚辞任している。 1976年(昭和51年)、総裁選で他の立候補者がなかったため、両院議員総会での話し合いにより総裁に選出され、過半数をわずかに一票上回る得票で首班指名され、三木武夫の後任として念願の政権(福田内閣)を樹立。71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「明治三十八歳」と言って若さをアピールした。また、外交問題の解決をはじめ実務型の内閣であったことから、内閣を「働こう内閣」と表現。また、前内閣で政治改革は進む一方で外交や経済の案件が遅れていたことから、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。 党内抗争(三木おろし)において、大平正芳との間に「2年で政権を譲る」と大福密約によって総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるだけでなく自民党内でも右派の立場であったため、左派層に支持を広げにくいなどの理由から、就任当初の支持率は低かった。大平を幹事長に据えて大平派との連携により政局の安定を図ったが、国会が与野党伯仲状態である上に党をライバルに抑えられ、苦しい船出となった。 1977年(昭和52年)7月、第11回参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年夏、新たに党友組織自由国民会議創設に当たり党国民運動本部長中川一郎を通じて保守派の論客として知られる作曲家・黛敏郎に初代代表就任を要請し受諾を得る。またこのころ、王貞治を表彰する必要性から国民栄誉賞を創設した。 同年9月に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払い及び超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった。全方位外交を掲げ、中国へのODA開始や積極的な東南アジアへの開発援助を行うなど、アジア外交を重視した。その姿勢はアジア開発銀行の設立やフィリピンのマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。 国家プロジェクトでありながらも、1971年の代執行以来、三里塚闘争などによりほとんど進展がなかった成田空港問題について、「あらゆる困難を乗り越え開港を実現せよ」と指示。東山事件・芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件や成田空港管制塔占拠事件で犠牲者を出しつつも、1978年(昭和53年)5月20日の新東京国際空港(現・成田国際空港)開港にこぎつけた。 総合景気対策や15カ月予算の編成などが功を奏して、同年4月-6月期及び7月-9月期には年換算7%の経済成長を達成した。8月、元号法制化実現国民会議(現・日本会議)に元号法の制定を明言し、素案を出すよう指示。 同年10月23日、鄧小平副総理を日本に迎え、「日中平和友好条約」に調印。 こうして着実に実績を上げる中で、内閣支持率は徐々に持ち直し、福田は政権運営に自信を深め、続投の意欲を見せるようになる。派閥解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、大福密約の総理総裁2年任期後の大平への政権禅譲を拒否し、「世界が福田を求めている」として1978年11月の自民党総裁選挙に再選をかけて立候補。密約を反故にされた形の大平との一騎打ちとなった。この総裁選では現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ一人である(任期切れ時に形勢悪化などで出馬断念に追い込まれた現職総裁の例としては鈴木善幸、河野洋平、谷垣禎一、菅義偉がいる)。記者会見で「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね。まあいいでしょう! きょうは敗軍の将、兵を語らずでいきますから。へい、へい、へい」(1993年12月31日放送TBSテレビ「自民党戦国史」の映像より)の言を残して総理総裁を退く。 福田および福田派の大勢は「田中に金権選挙でしてやられた」という意識をもち、大平政権下では反主流派のリーダー格となった。1979年(昭和54年)の衆院選で自民党が議席を減らすと大平の引責を要求し、首班指名では反主流派からの投票を受ける(四十日抗争)。その後も党内抗争は続き、反主流派は大平が退陣しなければ野党提出の内閣不信任決議採決を欠席すると脅しをかけたが、大平がほとんど譲歩しなかったことから反主流派も引っ込みがつかず、決議は可決されてしまう(ハプニング解散)。この採決の直前に福田は事態収拾に動き、福田派所属代議士に採決に出席し反対票を投じることを求めたが、逆に派内の強硬派に押し切られて福田も欠席することとなった。不信任決議が可決されてしまったことで、福田は党内からも自民党支持者からも突き上げを受けた。 鈴木政権の後継を巡る党内調整では、福田が内閣総理大臣を務めずに自民党総裁のみを務めるという案が浮上したが、成案にならず総裁選に突入した。このとき、福田派は福田でなく安倍晋太郎を総裁候補として擁立し、福田は総裁争いの第一線から退く形となった。 福田は一方で、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「インターアクション・カウンシル(OBサミット)」を設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「昭和の黄門」を自認した。後に総理大臣になる森喜朗や小泉純一郎は彼の教えを受けた。 1984年(昭和59年)に二階堂擁立構想の頓挫があり、福田の発言力が低下した。この際に福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たこともあり、中曽根政権の後継争い(ポスト中曽根)において安倍晋太郎を押し立てるため、1986年(昭和61年)に派閥を安倍に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった田中龍夫が引退を決意したとされている。 リクルート事件によって竹下内閣が総辞職した際のポスト竹下には、福田の暫定政権案が浮上した。当時政界の最高実力者であった金丸信が推し、中曽根派、宮沢派なども反対しなかったため、84歳の福田の再登板が実現しかかったが、安倍の反対や、長老からの起用への消極論などもあり立ち消えとなった。福田は「こんな重大な時局を担うには、ちょっと若すぎるんじゃないかなぁ」などと述べて意欲を見せていた。また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、それも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。 1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙を機に政界引退。長男康夫が後継者となる。引退するまで連続14回当選。同じ選挙区である旧群馬3区では「上州戦争」と呼ばれるほど中曽根康弘と激しいトップ当選争いを繰り広げたが、三枝夫人の内助の功もあってほぼ毎回福田が圧勝。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の11勝3敗)。1995年(平成7年)、岩波書店から『回顧九十年』を刊行し、出版記念パーティーには元気な姿を見せたが、同年7月5日、東京都港区の東京女子医科大学附属青山病院で慢性肺気腫のため死去、90歳没。なお、葬儀は同年9月6日に内閣・自民党合同葬として執り行われた。墓所は高崎市徳昌寺。 なお、1990年1月20日に東久邇宮稔彦王が亡くなってから自身が死去するまでの間は、存命の最高齢の首相経験者となっていた他、1993年12月16日に田中角栄が死去した後は最古参の首相経験者でもあった。最古参の首相経験者と最高齢の首相経験者が同じ状態は、その後2019年11月29日に中曽根康弘が死去するまで25年11ヶ月続いた。 年譜1929年(昭和4年)4月 - 大蔵省に入省。大臣官房文書課配属。 1942年(昭和17年)12月 - 大蔵省総務局文書課長。 1944年(昭和19年)
大蔵省総務局文書課長 兼 大臣官房秘書課長 兼 大蔵大臣秘書官。 1945年(昭和20年)
9月 - 大蔵省大臣官房長 兼 大臣官房秘書課長事務取扱 兼 大蔵大臣秘書官。 1946年(昭和21年)7月 - 大蔵省銀行局長。 1947年(昭和22年)9月 - 大蔵省主計局長。 1948年(昭和23年)9月 - 昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。 1950年(昭和25年)11月 - 退官。 1952年(昭和27年)10月 - 無所属で立候補し衆議院議員に初当選。 1958年(昭和33年)
11月 - 昭電事件につき東京高裁が無罪判決(確定)。 1959年(昭和34年)
6月 - 農林大臣に就任。 1960年(昭和35年)12月 - 党政調会長。 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣に就任。 1966年(昭和41年)12月 - 党幹事長(二度目)。 1968年(昭和43年)11月 - 大蔵大臣に就任。 1971年(昭和46年)7月 - 外務大臣に就任。 1972年(昭和47年)7月 - 自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。 1973年(昭和48年)11月 - 大蔵大臣に就任。 1974年(昭和49年)12月 - 副総理・経済企画庁長官に就任。 1976年(昭和51年)12月 - 第67代内閣総理大臣に就任。 1978年(昭和53年)12月 - 内閣総理大臣を辞任。 1979年(昭和54年)1月 - 新派閥清和会旗揚げし赤坂プリンスホテルに事務局を置く。 1986年(昭和61年)7月 - 派閥を安倍晋太郎に譲り、福田派会長を辞任。 1990年(平成2年)2月 - 政界を引退。 1995年(平成7年)7月5日 - 慢性肺気腫のため死去、90歳没。 政見・政策政治理念「協調と連帯」 「政治は最高の道徳」 岸信介の直系であり、「自民党右派」と評されることが多い。 経済均衡財政志向の安定経済成長論を主張。 国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした。 1965年(昭和40年)、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて国債(赤字国債、当時で2千億円)を発行する。 外交外交理念として「全方位平和外交」を提唱。 アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。 中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた。 日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准。 靖国参拝1978年(昭和53年)の終戦の日に靖国神社を参拝。「内閣総理大臣」と記帳し、「私的参拝」であるとした。以降、4回参拝。 語録また造語・警句の名手として知られ、「狂乱物価」「昭和元禄」「視界ゼロ」「日々是反省」「福田内閣はさあ働こう内閣だ」「掃除大臣」など福田語録を残している。 2024/06/13 05:57更新
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fukuda takeo
福田赳夫と同じ誕生日1月14日生まれ、同じ群馬出身の人
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