鈴木善幸の情報(すずきぜんこう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鈴木 善幸さんについて調べます
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鈴木善幸と関係のある人
佐藤栄作: 鈴木善幸も首相在任中、佐藤の別荘を借りていた。 保岡興治: 大平正芳内閣の国土政務次官、鈴木善幸内閣の大蔵政務次官や衆議院建設委員長などを歴任。 園田直: 1976年、党内の反三木首相連合によるグループ・挙党協の福田派代表として、大平派代表の鈴木善幸、田中派代表の江崎真澄と共に「三木おろし」の最前線に立つ。また、大平正芳、鈴木善幸と話をつけて「大福一本化(大福密約)」をまとめた功績を買われ、その活躍もあって、同年の福田内閣誕生では園田の悲願でもあった首相の女房役である内閣官房長官に就任した。 山口六郎次: 横川重次秘書を経て、1947年に埼玉2区から第23回衆議院議員総選挙に立候補し当選当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。 山内一郎: 1980年7月鈴木善幸内閣で郵政大臣に就任。 小川平二: 以後1976年に福田赳夫内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官、1981年に鈴木善幸改造内閣で文部大臣を歴任。 田中角栄: その後の鈴木善幸内閣発足を支持。 菅義偉: 憲政史上(前身の内閣書記官長含め)、内閣官房長官経験者で首相に就任したのは、鳩山一郎、佐藤栄作、大平正芳、鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一、小渕恵三、福田康夫、安倍晋三に続いて10人目となった。 斎藤邦吉: 1978年に第1次大平内閣が誕生すると、大平は田中政権以来久々に、総裁派閥から鈴木善幸を党幹事長に据えようとしたが、鈴木と田中角栄の親密さに関して反主流派が反発し断念した。 田中六助: 田中は領袖の死を悲しむ一方で冷静に事態の収拾に動き、渋る伊東正義内閣官房長官を内閣総理大臣臨時代理に就かせ、大平の選挙区(旧・香川2区)には女婿の森田一(首相秘書官)を擁立、大平の死の影響もあり自民党は圧勝し、後継総理総裁に宏池会代表(会長の名称は、伊東の意見により大平に弔意を表すため控えた)に就任した鈴木善幸を担ぎ出す。 安倍晋太郎: 1982年(昭和57年)10月12日、鈴木善幸は首相退陣を表明。 渡邊良夫: 1947年の衆議院議員総選挙に旧新潟2区から日本自由党公認で出馬し初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。 宇野宗佑: 宇野内閣発足直後の同年6月4日、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した。 後藤田正晴: 鈴木善幸内閣のとき、韓国が60億ドルを要求していた「経済支援」の金額(日本側は40億ドルを提示)について話し合うため、竹下登とともに訪韓している。 塩川正十郎: 塩川も鈴木善幸内閣で運輸大臣として入閣したのを皮切りに文部大臣(第3次中曽根内閣)、内閣官房長官(宇野内閣)、自治大臣・国家公安委員会委員長(宮澤内閣)を務めた。 中曽根康弘: 2004年(平成16年)7月19日に鈴木善幸元首相が死去したことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。 東野英治郎: 同年4月29日、長年光圀役を演じた事で鈴木善幸内閣は勲四等旭日小綬章を叙勲した。 安藤忠夫: 以後、宮城県警察本部刑事部防犯少年課長、千葉県警察本部刑事部捜査第二課長、兵庫県警察本部刑事部捜査第二課長、建設省道路局路政課課長補佐、警視庁警備部参事官兼警備第一課長、同警務部参事官兼第一方面本部長、鈴木善幸内閣総理大臣秘書官、警視庁警備部長、警察庁交通局交通企画課長、同警務局人事課長、警視庁総務部長、千葉県警察本部長、警視庁副総監、警察庁警務局長などを歴任。 二階堂進: 中曽根再選をめぐり、これに反対する福田赳夫、シャム双生児といわれたほど仲の良かった鈴木善幸前総理ら党の最高顧問に加え、公明党、民社党も関与する「二階堂擁立構想」が持ち上がる。 三木武夫: 結局鈴木善幸の仲裁により、前尾から大平に派閥の領袖が交代することになった。 三木武夫: 選挙後、大平派の幹部で総務会長を8期務め、党内調整役として定評があった鈴木善幸が政権の座に就く。 鯨岡兵輔: 鈴木善幸内閣の環境庁長官として、日中渡り鳥保護協定への調印や水俣病患者との対話を行った。 堀内光雄: 自民党総務会長の在籍日数は歴代2位の1251日(1位は同じ宏池会の鈴木善幸)。 中曽根康弘: 1980年(昭和55年) - 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任。 瓦力: 1980年(昭和55年)7月 - 内閣官房副長官(鈴木善幸内閣)。 佐々木良作: 一方1984年の二階堂擁立構想では、佐々木は自民党内の反中曽根派(鈴木善幸・福田赳夫・三木武夫ら)の倒閣工作に同調。 真鍋賢二: 1981年11月 - 鈴木善幸改造内閣で通商産業政務次官に就任 伊東正義: 大平が就いていた宏池会会長についてもただちに鈴木善幸が継承することには異を唱え、当面は鈴木が会長ではなく代表の肩書で派を率いることで収まった。 小山邦太郎: 葬儀には鈴木善幸首相(当時)や三木武夫元首相、関係自治体の首長をはじめ政財界人が参列したほか、同日に勅使より正三位の伝達式と祭粢料の下賜も合わせて行われた。 野田毅: 自治大臣(第52代)、国家公安委員会委員長(第62代)、経済企画庁長官(第45代)、建設大臣(第53代)、通商産業政務次官(鈴木善幸内閣)、経済企画政務次官(第1次大平内閣)、衆議院商工委員長、衆議院議員(16期)、自由民主党税制調査会長、同衆議院議員総会長、同国民運動本部長、同商工部会長、保守党党首(第2代)、同幹事長(初代)、自由党幹事長(初代)、新進党政策審議会長(初代)などを歴任。 |
鈴木善幸の情報まとめ
鈴木 善幸(すずき ぜんこう)さんの誕生日は1911年1月11日です。岩手出身の政治家のようです。
卒業、病気、解散、テレビ、引退、事件、現在に関する情報もありますね。2004年に亡くなられているようです。
鈴木善幸のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年〈明治44年〉1月11日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。 郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第42代)、自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。 岩手県下閉伊郡山田町で、アワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。鈴木家は屋号「黒米屋」と呼ばれる米屋も兼ねていた。父の善五郎は日露戦争に従軍した際の戦傷で漁に出られなくなったこともあり、男手の無かった妻・ヒサの実家の商売を切り盛りしていた。岩手県立水産学校を経て水産講習所(元・東京水産大学 現・東京海洋大学)に入学。肋膜炎を患い1年休学し実家での療養中に昭和三陸地震津波に遭遇し、地元における被害の大きさを目の当たりにしたことが、後に政治家を志すきっかけとなる。 学生時代に弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったことがあり、就職時に思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想とみなされた)。 水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷以知二郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には秋田県の歩兵連隊に赤紙召集され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産物の供出とか集荷とか、水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。 1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法や水産業協同組合法の成立など戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風、アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至る。 一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。 1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、第1次佐藤第1次改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。 その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。『三木おろし』では大平派(宏池会)の参謀として、福田派の園田直、田中派の二階堂進らと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。三木武夫の退陣後の『大福密約』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめる。 1978年総裁選では大平派の選挙戦を指揮し、田中派と連携して大平正芳を総理総裁に押し上げる。この論功行賞として自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。 これらの間、自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路の整備に影響力を発揮した。盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線・久慈線・盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル(仙岩道路)の建設、国民休暇村の雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされる。さらには、東北自動車道、三陸縦貫自動車道の整備にも影響力を行使するなど、利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。 自民党総務会長として、日中国交正常化後3度訪中し当時の中国の最高指導者であった鄧小平とも会談しており、第1次大平内閣の1979年5月の会談では尖閣諸島の領有権問題の棚上げと、日中両国による海底資源の共同開発の提案があったという。改革開放論者であった鄧はさらに鈴木に、日本からの政府借款を受け入れたいという旨と、土地を提供するから共同で中国国内に兵器工場を作りましょうという話を持ち出してきた。鈴木は「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてない、と即座に断った」「この話は単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。(中略)日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」と語っている。 1980年(昭和55年)5月、社会党提出の大平正芳内閣不信任案の採決が行われた。多数の自民党反主流派議員が欠席したため、不信任案は可決された。これに対抗して大平は衆議院を解散(ハプニング解散)した。しかし大平は選挙中に死亡、選挙は自民の圧勝となった。選挙後にポスト大平を選出することになったが、田中派は依然として総裁を出しにくく、不信任を誘発した福田派・三木派もその点は同様だった。中曽根康弘は本命の一人だったが、まだキングメーカー田中角栄の信頼を勝ち得ていなかった。そこで引き続き宏池会からの総裁選出の流れとなったが、首相臨時代理を務めていた伊東正義は本人が消極的で、やがて派閥を継承することが有力だった宮澤喜一は田中に好かれておらず、また生前の大平と必ずしも関係が良好でなかったこともマイナスに働いた。そこで宏池会で田中と近く、また大平政権を支えた鈴木が自然と浮上した。形式的には自由民主党副総裁の西村英一が次期総裁に鈴木善幸を指名したことで、鈴木が総理総裁に就任した(西村裁定)。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある唯一の自民党総裁である。 首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。 自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助・斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋を付けることになったが、「和の政治」からの昇華以上に、中曽根行革では新自由主義に邁進することになる。 金権選挙の問題があった参議院の全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。また財政難から月例給の4.58%給与引き上げの人事院勧告の実施を見送り、国家公務員の60歳定年制を導入した。 鈴木内閣発足時、国債残高が82兆円まで達しており財政再建は目下の課題であった。1981年3月、土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会が発足する。鈴木は「昭和57年度予算編成への具体的改革案を今夏までに求める」と臨調に要請し、また日本商工会議所の総会において行政改革に「政治生命をかける」と発言し並々ならぬ意欲を見せた。鈴木の意向を受けた大蔵省では前年度予算からの伸び率をゼロにする、ゼロシーリングが正式に決定された。7月には第二臨調が医療の適正化や行政の合理化を唱えた一次答申を示し、臨調の答申を最大限尊重し実施することが閣議決定された。鈴木はまとめられる省庁の歳出削減事項を一本化した法律にまとめて成立させる方向で、行革関連特例法として10月には衆議院で11月には参議院を通過して成立した。こうした中成立した昭和57年度予算は稀にみる抑制予算となった。 翌昭和58年度予算は原則5%のマイナスシーリングの導入と、臨調の第三次答申の尊重と実施を図ることが閣議決定されたが、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ5~6兆円の税収不足の恐れが出てきたため、1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続く第1次中曽根内閣へと引き継がれていく。 デタントの時代が終焉し米ソ冷戦が激しくなる中で鈴木は、「わが国は平和憲法のもと、非核三原則を国是とし、シビリアンコントロールのもとに専守防衛に徹した施策をとっており、近隣諸国に脅威を与えるような軍事大国になる考えは毛頭持っておりません」「わが国に対する核の脅威や攻撃に対しては、米国との安全保障体制に基づき、米国の核の抑止力に依存するとともに、これを抑止することが最も賢明な道と考えるものでございます。政府としては、このような考え方を変える考えは持っておりません。」と、米国の核の傘の下で専守防衛の原則を貫き、防衛計画の大綱に基づく着実な防衛力の整備を示した。鈴木はロナルド・レーガン大統領との会談で専守防衛の日本の防衛政策を「吼えるライオンより、賢いハリネズミでありたい」と表現している。また大平政権のブレーンであった高坂正堯らの唱えた『総合安全保障』の概念を導入し、軍事力のみに頼らない経済や外交を含めた総合的な安全保障体制を目指すとして、1980年12月、国防会議とは別の組織として内閣に総合安全保障関係閣僚会議を設置した。 元々社会党から政界入りしたこともありハト派スタンスだったが、外交や安全保障面での経験が乏しいまま総理になったため、しばしば躓きを見せた。1981年(昭和56年)5月7・8日のレーガン大統領との会談後の共同声明では、日本の公式文書では初めて『同盟関係』という文言が記されたことから、新たな軍事的密約を懸念したマスコミ側から記者会見の場で「今度は同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」と、質問がなされた。鈴木は「自由と民主主義、自由市場の経済体制という価値観では日米は全く同じだ。これを守っていこうという立場を含めて同盟関係といっている。軍事的意味合いは持っていない。日本は、平和憲法のもとに、自衛のための防衛力しか持てない。専守防衛に徹する。軍事大国にはならないという点をはっきりさせているので、軍事同盟ということは全然、共同声明の中にも入っていない。」と発言。 鈴木の帰国後、国会などで、『同盟』は軍事同盟を意味し個別自衛権から集団的自衛権への逸脱ではないかと問う声が共産党や社会党から起こり、5月11日の外務委員会において伊東正義外相は社会党の土井たか子の「日米軍事同盟、安保条約という意味を含んだ同盟ということを認識せざるを得ない」という質問に対し、 「軍事的な何らかの関係のあるものを同盟というような言葉を使うのだということであれば、片務的とはいえ安保条約というのは軍事的に関係がありますから、同盟と使ってもいいと私は思うのでございまして」 「軍事というのを日本で考えますと憲法でも制約があるわけでございまして、日本は日本を守ることしかできないのだというのはもうはっきりしているわけでありますから、それ以上広げて軍事同盟なんということはできない、日本は軍事的には個別自衛権しかないのだということはもうはっきりしていることでございます。さっきから土井先生と私がやりとりしております片務的な安保条約、それが軍事的な同盟のようなものじゃないかと言われれば、安保条約を結んだときからこれはあるわけでありますから、それは何も否定しませんが、広い意味ではこれはそういうことも入った軍事関係だということを先ほどから申し上げているわけでございまして」 などと発言。日米安全保障条約や同盟の解釈を巡り、軍事的意味はないとする鈴木の発言との相違が問題視された。また高島益郎外務事務次官も「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟はナンセンス」と鈴木を批判。また鈴木も共同声明文が有馬龍夫ら外務省の事務側で一方的に作成され、自身の意向が全く反映されていないことに対し強い不満を示した。外務省内では米側の反応も受けて緊急の協議が行われ、13日、日本政府は統一見解を発表し、『同盟には軍事的側面はあるものの新たな軍事的意味を持つものではない』として鈴木の発言を事実上修正した。 政府見解を受けた14日の外務委員会では伊東外相も、「日本とアメリカの間には日米安保条約がありますことは、これはもう厳然たる事実でございますので、そういうことを前提にしておりますことが中に入っているということは、これはもう間違いない、だれもが否定することではないわけでございます。そういう関係を同盟関係と、広い関係を同盟関係という言葉で表明したわけでございまして、そういう言葉を使ったから、何か日米関係の中に新しい枠組みをつくって、そしてそれが従来の枠組みを変えて、新しい枠組みをつくって新しい軍事的意味を持たせる、そういうような意味でこの言葉を使ったのではなく、安保条約の五条関係は憲法からしても個別自衛権であることは間違いないのであり、これを集団自衛権とかそういうものに直していこうとか、そういう意図は毛頭ない」と説明するも、翌15日の閣議では中川一郎・渡辺美智雄・鯨岡兵輔ら閣僚から外務省側の対応に批判の声が上がり、翌16日、責任を取る形で伊東外相・高島次官の両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。この問題では、鈴木は同盟の解釈について「新たな軍事的意味を持つものではない」「米国の対ソ軍事戦略に巻き込まれるものではない」「わが国が集団的自衛権の行使を前提とするような軍事的な役割りを分担するといったようなことを意味するようなものでは全くない」「安保条約が日米双方による集団的自衛権の行使を前提とする条約に該当しないことは明らかであり、日米双方とも、安保条約の性格をいかなる意味でも変える考えのないことは一致しているところである」などと、軍事同盟を否定する考えを一貫して示した。 1981年5月18日、毎日新聞朝刊に元駐日アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーが、古森義久(当時毎日新聞記者)に対して語った「非核三原則の規定する持ち込みとは陸揚げを指し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない」「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」「これについては日米安保条約の規定する"事前協議"の対象とならないことを日本側も了解していた」との発言が報道され、「非核三原則」違反を大使まで務めた外交官が認めたとして日本国内で騒動になった。「国防情報センター」のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)による「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「ライシャワー発言」であり、「日米核持ち込み問題」の一つである。20日、園田直外相はマイケル・マンスフィールド駐日大使と会談。ラロック証言を否定したロバート・スティーヴン・インガーソル国務長官代理による米政府見解を確認しライシャワー発言を否定したが、同20日、鈴木は日本記者クラブの昼食会で「日本政府は核の持ち込みについて一貫して航空機であろうと艦船であろうと事前協議の対象となる、という立場を堅持している」と言明したうえで、「事前協議は現実的に対処する。事前協議は予見できるものではなくイエスもノーもある」と協議次第では核持ち込みを許容するかの発言をし、問題となる。後、官邸で宮澤官房長官らと協議し自身の発言を否定する。日米同盟問題もあり国会では社会党から「鈴木・レーガン共同声明による日米同盟なるものが、実は、対ソ同時多発報復戦略に基づく核同盟にほかならない」などと、厳しく追及され対応に追われることとなった。 元海上幕僚長の中村悌次は日本の防衛すべき範囲として東京とグアムおよび大阪とバシー海峡をそれぞれ結ぶ2本のライン(中村ライン)を提示した。この概念を元にワシントンD.C.訪問中の鈴木は「シーレーン海上交通路につきましては約1000海里、1000マイル、こういうものを憲法の了承とも照らし合わせまして、我が国自衛の範囲内としてそれを守っていく、と」と発言。翌1982年(昭和57年)3月には来日したキャスパー・ワインバーガー国防長官の「日本の防衛力は憲法の範囲内ですら不十分だ。いろいろ難しいのは分かるが日本の空とシーレーンの防衛は実質的な改善を要求する。」と発言があり、ソ連の軍事力増強とアフガニスタン紛争への介入などで米ソ関係が緊張する中で日本の防衛力強化への圧力が高まり、P-3CやF-15Jの本格配備を想定した56中業が、1982年7月の国防会議で了承された。鈴木のシーレーン防衛の発言はアメリカの国防報告(1985年度版)において、『日本の領域の防衛、その空域と1000マイルまで外のそのシーレーンが日本の憲法のもとに合法的で、実際、その国家政策であると彼が1981年5月に述べたとき、鈴木首相は日本の役割と任務のためにゴールを明確に述べた。』と肯定的に記されることとなる 。一方で米側から日本に対し武器技術の供与を求められた際は「武器が売れるといいなと思うような産業界の人をつくりたくない」という思いから、要請を拒否した。 1981年6月12日、ホノルルで日米安保事務レベル協議が開催され、米側から日本に対し、防衛計画の大綱の見直しと、1000海里シーレーンの防空・戦闘継続能力二ヶ月以上との要求がなされた。6月19日、マニラでのASEAN拡大外相会議でヘイグ米国務長官と会談した園田直外相は米側の過大な要求に対し、財政状況などから困難であるとの旨を伝えた。翌20日、ホテルの自室に集まった記者に日米間の相違について問われた園田は、先の鈴木・レーガン共同声明を「声明には鈴木総理の意思が反映されていない。声明は条約・協定・覚書とは異なる。外交上の拘束力はない。」などと発言し、新聞などで報じられ大きな問題となる。園田は緊急の記者会見を開き釈明したものの、アメリカからの対日信用を落とす形となった。日米同盟問題、非核三原則問題などと合わせ、鈴木・園田コンビが対米外交で失点を重ねたことは小室直樹など評論家から厳しく批判された。 1982年6月に起きた第一次教科書問題に直面した際には、中国と韓国からの反発を受け、近隣諸国条項を定めた。 首相就任以来、一部マスコミからは角影内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。 伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。直前まで鈴木の出馬を前提に、対抗馬の情報を盛んに報じていたメディアにとっても「寝耳に水」の事態であった。中曽根は1982年秋に渡邉恒雄に電話で「首相が中国から帰ったら政権を禅譲してくれそうだ」と言っていた。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べたが、不出馬の背景についてはそれほど明確に語っていない。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたこと、昭和59年度の赤字国債脱却目標が困難になったことなど、内政・外交の行き詰まりも背景にあるとされている。内閣官房長官だった宮澤喜一は退陣後に「なぜあそこで辞めたのですか」と何度となく鈴木に聞いた。答えはいつも「大政党の政権交代は平和裏に動くべきものだ。党内がそれに反する動きになってはいけないと考えた」だった。日本経済新聞で連載した「私の履歴書」で宮沢はこう記していた。一方で、外遊のたびに首相臨時代理に中曽根康弘を指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。首相在任記録は864日間で、同日選をきっかけに就任したこともあり、在任中に大型国政選挙を経験しなかった。これは日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。 鈴木には中曽根に対して政権を譲ったという意識があったが、中曽根が田中派一辺倒の姿勢を採り、またしばしば鈴木政権時代の外交を批判したため、中曽根および長年の田中角栄との関係が悪化した。そのため二階堂擁立構想を仕掛けて田中・中曽根体制の転覆を図ったが失敗し、擁立に加わった福田赳夫などと共に影響力を低下させた。1986年(昭和61年)、宏池会会長職を宮澤喜一に譲る。これは派内で宮澤のライバルだった田中六助の死去を受けたものであり、また中曽根の後継総裁争いに備えたものだった。1990年(平成2年)に鈴木は政界を引退した。 1992年(平成4年)2月、共和汚職事件に絡み国会の衆議院予算委員会に参考人招致された際に「カネは善意の保管者として預かった」などと発言し、物議をかもした。 2002年(平成14年)9月30日、長男の衆議院議員・鈴木俊一が第1次小泉改造内閣で環境大臣として初入閣した。91歳の鈴木はテレビカメラの前で自宅の炬燵にあたり、寝ころんでテレビの報道を見ながら「大臣になってうれしいよ」と語った。 2004年(平成16年)7月19日、肺炎のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した、93歳。墓所は山田町龍昌寺。死後、正二位・大勲位菊花大綬章が贈られた。1995年に福田赳夫が死去してから自身が死去するまで、首相経験者では最古参かつ最高齢であり、明治生まれの首相経験者としては最後の生存者だった。 渡邉恒雄が「鈴木さんの首相就任直後から日米関係がぎくしゃくし、財政再建もうまくいかない。支持率の急落もあって、2年余りで政権を投げ出そうとしていた。」と述べた通り、日米関係の悪化は鈴木内閣の失点とされることが多いが、中曽根内閣では、それをテコに日米関係修復に努めていくことになり、結果的に日米同盟は強化された。鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることは無くなった。一方、派閥リーダーでもなく調整型でこれといったビジョンの持ち主でもなかった鈴木が首相となったこと自体が、後々まで影響したという指摘も多い。八幡和郎は「誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評している。同様に池上彰は「大平正芳氏が逝去して、首相のポストが転がり込んできた鈴木善幸氏が、自民党のなかで『誰でも首相になれる』という印象を最初につけた人だった気がします。鈴木さんは外交に疎く、日米同盟についての国会答弁でしどろもどろになってしまったのを覚えています。」と評している。 1911年(明治44年):岩手県山田町に父・鈴木善五郎、母・ひさの長男として生まれる。 1935年(昭和10年):農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業、大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務。 1947年(昭和22年):日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。 1948年(昭和23年):社会党を離党、社会革新党結成に参加、秋に民主自由党(のちの自由党・自由民主党)に入党。 1960年(昭和35年):池田勇人内閣の郵政大臣で初入閣。 1964年(昭和39年):内閣官房長官就任。 1965年(昭和40年):厚生大臣就任。 1968年(昭和43年):自民党総務会長就任。 1972年(昭和47年):自民党総務会長就任。 1976年(昭和51年):農林大臣就任。農林水産省への名称変更を閣議で提案。当時から新人代議士で富士急創業者一族の堀内光雄を可愛がった。 1979年(昭和54年):自民党総務会長就任。 1980年(昭和55年):自民党総裁・内閣総理大臣就任。 1982年(昭和57年):内閣総理大臣辞任。 1990年(平成2年):政界引退(通算当選16回) 2000年(平成12年):宏池会分裂(加藤の乱)、宮澤喜一とともに堀内・古賀誠・愛息の俊一属す反加藤派を支持。 2004年(平成16年)7月19日:午後9時15分死去、93歳没 2004年(平成16年)7月19日: 大勲位菊花大綬章 妻:鈴木さち 長男:鈴木俊一 三女:麻生ちか子(麻生太郎に嫁ぐ) 『伊谷以知二郎伝』大日本水産会、1939年3月30日。
^ 善幸の母・ヒサの実家は、尾張国の出身で尾張屋半蔵(尾半:びはん)と名乗り現在の宮古市を拠点に味噌や醤油の商売をしていた間瀬家の分家にあたる。明治になり渋沢栄一が東京海上保険を設立すると、一族の間瀬半兵衛が宮古港の代理店業務も担当している。 ^ 当初佐藤からは留任するよう慰留されたものの、池田に殉じる思いからこれを固辞したという。『等しからざるを憂える。 元首相鈴木善幸回願録』p160-162 岩手日報社 2004年 ^ 当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法を議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省・運輸省・国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うんであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年 ^ この時の中国は中越戦争の勃発と、中ソ友好同盟相互援助条約の不延長という中ソ対立の悪化という状況があった。 ^ 歴代の自民党総裁で他党に在籍した経験がある人物は多いが、鈴木以外は全て自民党の前身政党または自民党に吸収された政党であり、自民党と系譜上全くつながりのない政党に在籍したことがあるのは鈴木だけである。 ^ 当時のアメリカ合衆国大統領、ジミー・カーターも1976年の大統領選挙に出馬した当初は知名度が低く、“Jimmy who?”と呼ばれた(ジミー・カーター#1976年アメリカ合衆国大統領選挙)。 ^ 鈴木は後に「真意はこういうことだ。それは日米安保条約というものがあるわけですから、日本が外国からの不測の侵略をうけるような場合には、アメリカがこれを支援協力をして防衛をするということなんだけれども、日本の自衛隊は専守防衛に徹する、と。言葉を換えるとこれは日本の個別的自衛権ということであって、アメリカとの間に日米安保条約を結んでおっても、アメリカが他の国と戦争したからといって日本が自衛隊を派遣したりしてアメリカに協力するとか、守ってやるとか、そういうことはやらない。あくまで日本の防衛は個別自衛権という範囲であって、集団的自衛権に逸脱するということは憲法の制約もあるし、日米安保条約にもはっきりうたってあるんです。その点は全然変わっていないんですよ。なにか日米同盟関係ということが新たに出ると、それまでの個別自衛権から今度はNATOのような集団的自衛権に変わったんじゃないかということが心配されますから、私はその点については従来と全然変わっていないということをいった。」と弁明している。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る』p253-254 ^ 当時国防次官代理であったリチャード・アーミテージが国防長官に宛てた報告書では『“同盟(alliance アライアンス)”という言葉が、戦後初めて日本の公式文書で使われた。これは、日本が戦時中のドイツとの関係で使って以来のことである。今や自民党の指導者達の多くは“同盟”には軍事的な意味合いがあることを知っている。今回の騒動の最大の敗者(big loser)は鈴木総理自身だ」と記している。 NHKスペシャル『日米安保50年 第3回 “同盟”への道(2010年12月11日放送)』 ^ もっとも、内閣総理大臣秘書官だった畠山襄は外務省からの説明では、「同盟関係とは政治的・経済的・社会的・文化的・その他総合的関係を云うということであって、軍事的関係は入っておりませんので。『軍事的意味合いはありません』という説明は受けてましたね」と語っている。 NHKスペシャル『日米安保50年 第3回 “同盟”への道(2010年12月11日放送)』より ^ 畠山は『鈴木善幸回願録』でも当時の外務省を批判しており、鈴木の発言は鈴木や畠山、宮澤ら官邸側に対する「同盟に軍事的意味はない」という外務官僚のレクチャー通りに答弁したものだとし、鈴木は「ナンセンスなのは彼か、ワシントンで説明した彼の部下のどちらかだ」と憤っていたという。 ^ 文藝春秋1981年8月号では田尻育三により「暗愚の帝王」と書かれていた。「暗愚の宰相」とはその後屋山太郎が名付けたものとされる。 ^ 後に鈴木が語った所によると、鈴木自身は岸信介をバックに持つ福田赳夫などの党内右派の動きに苦慮していたという。「しかし、福田は岸さんの流れをくんでいる。どちらかというと福田も右寄りだし、反田中、反大平であり、反鈴木。もしも私が総裁に再選となるとまたぞろ腹の虫が動き出すわけだ。それと一部の右寄りの国会議員たちが私の再選阻止ということで騒いだのではないか。」「これ以上居座っていても、むしろ後をやりたい連中がムズムズしてまた党内が乱れるようなことになりかねないという心配があったからだ。」と語っている。『鈴木善幸回願録』p133,166 ^ 例えば八幡「地方維新VS土着権力」文春新書、2012年、P157。鈴木以前の自民党総裁は旧帝大卒の高級官僚出身者が多く、またそれ以外の者も含めて「首相を狙う大物」と自他共に認めてきて要職を歴任した者ばかりであった(鈴木を除く昭和時代の自民党総裁は全て幹事長・外務大臣・大蔵大臣のどれかを経験している)。学歴も閣僚歴も平凡で総裁候補として全く名前が挙がっていなかった鈴木の首相就任が多くの政治家に「鈴木がなれるのなら俺も」と思わせ政治の劣化を招いた、という指摘である。 ^ “鈴木善幸元首相が死去”. 読売新聞. (2004年7月20日). オリジナルの2004年7月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040721031800/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20040719i513.htm 2020年1月25日閲覧。 ^ サンデー毎日、1980年7月27日号181頁 ^ 『鈴木善幸回願録』p153-154 ^ 『鈴木善幸回願録』p155 ^ 北岡伸一『自民党』(読売新聞社、1995年)197頁、石川真澄他『戦後政治史』(岩波新書、2010年)145頁 ^ 第93国会衆議院会議録第4号 ^ 第94国会衆議院外務委員会議録13号 ^ 第94国会参議院外務委員会議録8号 ^ 第94国会参議院会議録第18号 ^ FY 1985: Annual Report to the Congress p218 ^ NHKスペシャル ドキュメント“武器輸出” 防衛装備移転の現場から 2014年10月5日放送 ^ 内田健三『現代日本の保守政治』(岩波新書、1989年)113頁 ^ “#24渡邉恒雄(24)中曽根首相 売上税導入つまずく 主筆を兼務し社論を指揮”. 日本経済新聞. 2006年12月25日閲覧。 ^ “自民党総裁選、現職の出馬断念は菅首相が5人目 政界Zoom”. 日本経済新聞. 2021年9月17日閲覧。 ^ なぜ“首相育成システム”は崩壊したのか御厨貴・東京大学先端科学技術研究センター教授に聞く【第2回】日経ビジネス ^ 綱淵謙錠『史談 往く人来る人』(毎日新聞社のち文春文庫)所収の「ある伝記執筆者」 早川隆「鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート」 -『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 153-157頁 『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』 聞き手七宮涬三、岩手放送、1991年 『等しからざるを憂える。 元首相 鈴木善幸回顧録』 聞き手東根千万億(岩手日報社長)、岩手日報社、2004年9月 『運命の人』(2012年、演:田窪一世)- 役名は鈴森善市。 安岡正篤 田中秀征 金大中 伊藤昌哉 菅義偉(鈴木善幸以来の東北出身の総理。秋田県湯沢市出身) 放送大学学園 「故鈴木善幸」内閣・自由民主党合同葬儀における追悼の辞 鈴木内閣 行革推進 - NHK放送史 『鈴木善幸』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 中村弘毅 井上毅 土方久元 田中光顯 田中光顯 小牧昌業 周布公平 平山成信 伊東巳代治 高橋健三 平山成信 鮫島武之助 武富時敏 安広伴一郎 鮫島武之助 柴田家門 石渡敏一 南弘 柴田家門 南弘 江木翼 山之内一次 児玉秀雄 高橋光威 三土忠造 宮田光雄 樺山資英 小橋一太 塚本清治 鳩山一郎 鈴木富士彌 川崎卓吉 森恪 柴田善三郎 堀切善次郎 河田烈 吉田茂 白根竹介 藤沼庄平 大橋八郎 風見章 田辺治通 太田耕造 遠藤柳作 石渡荘太郎 富田健治 星野直樹 三浦一雄 田中武雄 広瀬久忠 石渡荘太郎 迫水久常 緒方竹虎 次田大三郎 楢橋渡 林譲治 林譲治 西尾末広 苫米地義三 佐藤栄作 増田甲子七 岡崎勝男 保利茂 緒方竹虎 福永健司 根本龍太郎 石田博英 愛知揆一 赤城宗徳 椎名悦三郎 大平正芳 黒金泰美 鈴木善幸 橋本登美三郎 愛知揆一 福永健司 木村俊夫 保利茂 竹下登 二階堂進 竹下登 井出一太郎 園田直 安倍晋太郎 田中六助 伊東正義 宮澤喜一 後藤田正晴 藤波孝生 後藤田正晴 小渕恵三 塩川正十郎 山下徳夫 森山眞弓 坂本三十次 加藤紘一 河野洋平 武村正義 熊谷弘 五十嵐広三 野坂浩賢 梶山静六 村岡兼造 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 細田博之 安倍晋三 塩崎恭久 与謝野馨 町村信孝 河村建夫 平野博文 仙谷由人 枝野幸男 藤村修 菅義偉 加藤勝信 松野博一 林芳正 表 話 編 歴 高橋是清 岡崎邦輔 早速整爾 町田忠治 山本悌二郎 町田忠治 山本悌二郎 後藤文夫 山崎達之輔 島田俊雄 山崎達之輔 有馬頼寧 櫻内幸雄 伍堂卓雄 酒井忠正 島田俊雄 近衛文麿 石黒忠篤 井野碩哉 山崎達之輔 千石興太郎 松村謙三 副島千八 和田博雄 吉田茂 木村小左衛門 平野力三 波多野鼎 永江一夫 周東英雄 森幸太郎 広川弘禅 根本龍太郎 広川弘禅 小笠原三九郎 広川弘禅 田子一民 内田信也 保利茂 河野一郎 井出一太郎 赤城宗徳 三浦一雄 福田赳夫 南条徳男 周東英雄 河野一郎 重政誠之 赤城宗徳 坂田英一 松野頼三 倉石忠雄 西村直己 長谷川四郎 倉石忠雄 赤城宗徳 足立篤郎 櫻内義雄 倉石忠雄 安倍晋太郎 大石武一 鈴木善幸 中川一郎 中川一郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 亀岡高夫 田沢吉郎 金子岩三 山村新治郎 佐藤守良 羽田孜 加藤六月 佐藤隆 羽田孜 堀之内久男 鹿野道彦 山本富雄 近藤元次 田名部匡省 宮澤喜一 畑英次郎 加藤六月 大河原太一郎 野呂田芳成 大原一三 藤本孝雄 越智伊平 島村宜伸 中川昭一 玉澤徳一郎 谷洋一 谷津義男 武部勤 大島理森 亀井善之 島村宜伸 小泉純一郎 岩永峯一 中川昭一 松岡利勝 赤城徳彦 若林正俊 遠藤武彦 若林正俊 太田誠一 石破茂 赤松広隆 山田正彦 鹿野道彦 郡司彰 林芳正 西川公也 林芳正 森山裕 山本有二 齋藤健 吉川貴盛 江藤拓 野上浩太郎 金子原二郎 野村哲郎 宮下一郎 坂本哲志 小里泰弘 江藤拓 表 話 編 歴 木戸幸一 広瀬久忠 小原直 秋田清 吉田茂 安井英二 金光庸夫 小泉親彦 広瀬久忠 相川勝六 岡田忠彦 松村謙三 芦田均 河合良成 一松定吉 竹田儀一 林譲治 黒川武雄 橋本龍伍 吉武恵市 山縣勝見 草葉隆圓 鶴見祐輔 川崎秀二 小林英三 神田博 堀木鎌三 橋本龍伍 坂田道太 渡邊良夫 中山マサ 古井喜実 灘尾弘吉 西村英一 小林武治 神田博 鈴木善幸 坊秀男 園田直 斎藤昇 内田常雄 斎藤昇 塩見俊二 斎藤邦吉 福永健司 田中正巳 早川崇 渡辺美智雄 小沢辰男 橋本龍太郎 野呂恭一 斎藤邦吉 園田直 村山達雄 森下元晴 林義郎 渡部恒三 増岡博之 今井勇 斎藤十朗 藤本孝雄 小泉純一郎 戸井田三郎 津島雄二 下条進一郎 山下徳夫 丹羽雄哉 大内啓伍 井出正一 森井忠良 菅直人 小泉純一郎 宮下創平 丹羽雄哉 津島雄二 坂口力 米窪満亮 加藤勘十 増田甲子七 鈴木正文 保利茂 吉武恵市 戸塚九一郎 小坂善太郎 千葉三郎 西田隆男 倉石忠雄 松浦周太郎 石田博英 倉石忠雄 松野頼三 石田博英 福永健司 大橋武夫 石田博英 小平久雄 山手満男 早川崇 小川平二 原健三郎 野原正勝 原健三郎 塚原俊郎 田村元 加藤常太郎 長谷川峻 大久保武雄 長谷川峻 浦野幸男 石田博英 藤井勝志 栗原祐幸 藤波孝生 藤尾正行 初村滝一郎 大野明 坂本三十次 山口敏夫 林迶 平井卓志 中村太郎 丹羽兵助 堀内光雄 福島譲二 塚原俊平 小里貞利 近藤鉄雄 村上正邦 坂口力 鳩山邦夫 浜本万三 青木薪次 永井孝信 岡野裕 伊吹文明 甘利明 牧野隆守 吉川芳男 坂口力 坂口力 尾辻秀久 川崎二郎 柳澤伯夫 舛添要一 長妻昭 細川律夫 小宮山洋子 三井辨雄 田村憲久 塩崎恭久 加藤勝信 根本匠 加藤勝信 田村憲久 後藤茂之 加藤勝信 武見敬三 福岡資麿 2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 高瀬荘太郎 塚田十一郎 武知勇記 松田竹千代 村上勇 石橋湛山 平井太郎 田中角栄 寺尾豊 植竹春彦 鈴木善幸 小金義照 迫水久常 手島栄 小沢久太郎 古池信三 徳安実蔵 郡祐一 新谷寅三郎 小林武治 河本敏夫 井出一太郎 広瀬正雄 三池信 久野忠治 原田憲 鹿島俊雄 村上勇 福田篤泰 小宮山重四郎 服部安司 白浜仁吉 大西正男 山内一郎 箕輪登 檜垣徳太郎 奥田敬和 左藤恵 佐藤文生 唐沢俊二郎 中山正暉 片岡清一 村岡兼造 大石千八 深谷隆司 関谷勝嗣 渡辺秀央 小泉純一郎 宮澤喜一 神崎武法 日笠勝之 大出俊 井上一成 日野市朗 堀之内久男 自見庄三郎 野田聖子 八代英太 平林鴻三 片山虎之助 竹田儀一 野溝勝 岩本信行 木村小左衛門 木村小左衛門 本多市郎 岡野清豪 岡野清豪 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 太田正孝 田中伊三次 郡祐一 青木正 愛知揆一 青木正 石原幹市郎 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 野田武夫 秋田大助 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 片山虎之助 後藤田正晴 江﨑真澄 玉置和郎 山下徳夫 高鳥修 金丸三郎 池田行彦 水野清 塩崎潤 佐々木満 岩崎純三 鹿野道彦 石田幸四郎 山口鶴男 江藤隆美 中山正暉 中西績介 武藤嘉文 佐藤孝行 小里貞利 太田誠一 続訓弘 片山虎之助 片山虎之助 麻生太郎 竹中平蔵 菅義偉 増田寛也 鳩山邦夫 佐藤勉 原口一博 片山善博 川端達夫 樽床伸二 新藤義孝 高市早苗 野田聖子 石田真敏 高市早苗 武田良太 金子恭之 寺田稔 松本剛明 鈴木淳司 松本剛明 村上誠一郎 表 話 編 歴 山口好一 中島守利 前尾繁三郎 金光義邦 青柳一郎 中井一夫 小林絹治 大矢省三 門司亮 矢尾喜三郎 鈴木善幸 浜地文平 西村英一 浜田幸雄 園田直 永田亮一 北沢直吉 森田重次郎 中馬辰猪 岡崎英城 亀山孝一 吉川久衛 鹿野彦吉 菅太郎 大野市郎 谷垣専一 上村千一郎 伊能繁次郎 大西正男 小山省二 地崎宇三郎 木村武千代 松野幸泰 塩谷一夫 左藤恵 中山利生 田村良平 大石千八 高鳥修 福島譲二 石橋一弥 松本十郎 西田司 小沢潔 島村宜伸 森田一 中島衛 中馬弘毅 粟屋敏信 川崎二郎 平林鴻三 穂積良行 加藤卓二 坂井隆憲 斉藤斗志二 増田敏男 廃止 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 石井光次郎 砂田重政 佐藤栄作 河野一郎 益谷秀次 石井光次郎 保利茂 赤城宗徳 藤山愛一郎 中村梅吉 前尾繁三郎 福永健司 椎名悦三郎 橋本登美三郎 鈴木善幸 中曽根康弘 鈴木善幸 灘尾弘吉 松野頼三 江﨑真澄 中曽根康弘 倉石忠雄 鈴木善幸 二階堂進 田中龍夫 細田吉蔵 金丸信 宮澤喜一 安倍晋太郎 伊東正義 水野清 唐沢俊二郎 西岡武夫 佐藤孝行 木部佳昭 武藤嘉文 塩川正十郎 森喜朗 深谷隆司 池田行彦 小里貞利 村岡兼造 堀内光雄 久間章生 丹羽雄哉 二階俊博 笹川堯 田野瀬良太郎 小池百合子 塩谷立 細田博之 野田聖子 二階俊博 細田博之 竹下亘 加藤勝信 鈴木俊一 佐藤勉 福田達夫 遠藤利明 森山裕 鈴木俊一 表 話 編 歴 池田勇人1957-1965 前尾繁三郎1965-1971 大平正芳1971-1980 鈴木善幸1980-1986 宮澤喜一1986-1998 加藤紘一1998-2000 堀内光雄2000-2005 古賀誠・丹羽雄哉2006 古賀誠2006-2008 谷垣派と合流 加藤紘一2000-2002 小里貞利2002-2005 谷垣禎一2005-2008 古賀派に合流 古賀誠2008-2012 岸田文雄2012-2024 表 話 編 歴 日ソ国交回復と国連加盟 保守合同 初の総裁公選による選出 満洲人脈 警察官職務執行法改正案 新安保 国民皆保険 所得倍増計画 農業基本法公布 OECD加盟 1964年東京オリンピック 岸派分裂 財界四天王 日韓基本条約 非核三原則(日米核持ち込み問題) 公害国会 日本万国博覧会 沖縄返還(西山事件) 佐藤派五奉行 黒い霧事件 日通事件 日中国交正常化 日本列島改造論 第1次オイルショック 第一次角福戦争 青嵐会結成 椎名裁定 ロッキード事件 三木おろし 日中平和友好条約調印 福田ドクトリン 大福密約 第二次角福戦争 田園都市構想 総合安全保障構想 第2次オイルショック ダグラス・グラマン事件 四十日抗争 第三次角福戦争 ハプニング解散 「和の政治」 増税なき財政再建 新保守主義 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) 二階堂擁立構想 死んだふり解散 創政会結成と田中派分裂 皇民党事件 ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定 消費税導入 昭和天皇崩御 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー リクルート事件 参院選惨敗 バブル景気 自衛隊初の海外派遣 YKK 一龍戦争 一六戦争 安倍派四天王分裂と三六戦争 海部おろし バブル崩壊 東京佐川急便事件 ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 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2024/11/18 18:07更新
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suzuki zenkou
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