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迫水久常の情報 (さこみずひさつね)
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【6月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

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迫水 久常さんについて調べます

■名前・氏名
迫水 久常
(読み:さこみず ひさつね)
■職業
政治家
■迫水久常の誕生日・生年月日
1902年8月5日
寅年(とら年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

迫水久常と同じ1902年生まれの有名人・芸能人

迫水久常と同じ8月5日生まれの有名人・芸能人

迫水久常と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


迫水久常と関係のある人

矢追秀彦: 迫水久常


山下春江: 迫水久常


梶原清: 迫水久常


藤井恒男: 迫水久常


西竹一: 1915年(大正4年)4月、外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中(現・日比谷高校)に入学、同期には小林秀雄、迫水久常らがいた。


穐山篤: 迫水久常


松浦功: 迫水久常


福間知之: 迫水久常


三浦辰雄: 迫水久常


佐藤三吾: 迫水久常


大森昭: 迫水久常


鈴木和美: 迫水久常


岡田啓介: 大蔵省総務局長で女婿の迫水久常


梶木又三: 迫水久常


鶴園哲夫: 迫水久常


佐藤三吾: 迫水久常


中尾辰義: 迫水久常


青木一男: 高橋是清蔵相時代にあたる国庫課長時に、迫水久常を甲府税務署長から呼び寄せ外国為替管理法案を策定。


伊江朝雄: 迫水久常


峯山昭範: 迫水久常


和田静夫: 迫水久常


瀬島龍三: 弟の瀬島利四夫は、松尾新一(松尾伝蔵の長男で清子の兄、妻の喜与は迫水久常の妹)とともに東京ピアノ工業(イースタイン)を興し、2代目社長を務めた。


和田静夫: 迫水久常


藤井恒男: 迫水久常


福間知之: 迫水久常


藤井恒男: 迫水久常


岡田啓介: 小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。


板垣正: 迫水久常


藤井恒男: 迫水久常


矢追秀彦: 迫水久常


迫水久常の情報まとめ

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迫水 久常(さこみず ひさつね)さんの誕生日は1902年8月5日です。鹿児島出身の政治家のようです。

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エピソード、略歴などについてまとめました。事件、事故、卒業に関する情報もありますね。

迫水久常のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人として知られる。

大蔵官僚(大蔵省銀行保険局長)を経て内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。また、渋谷再開発協会の前身である渋谷再開発促進協議会(理事長は五島昇)の設立時に会長も務めた。

東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部を経て大蔵省入省。「知性の迫水」とも云われ当時を代表する高級官僚であった。また、企画院への出向を通して統制経済への策定にも関わった、当時の革新官僚を代表する人物である。企画院時代には、毛里英於菟、美濃部洋次と共に「企画院三羽烏」と呼ばれた。

1933年、青木一男国庫課長の下、甲府税務署長から引き抜かれ外国為替管理法案策定に携わり、同法は1933年5月1日に施行された。

1936年、岳父である岡田内閣内閣総理大臣秘書官在任中に二・二六事件に遭遇し、義弟松尾伝蔵の身代わりで難を逃れ首相官邸の女中部屋に隠れていた岡田首相の救出に同じく秘書官だった福田耕や憲兵の小坂慶助とともに奔走し岡田は無事に救出された。また、終戦時の鈴木貫太郎内閣では早期和平を目指す岡田の強い意向で内閣書記官長に就任し御前会議での聖断に至る事務手続きの責任者などとして終戦工作の一翼を担い、更に終戦詔書の起草にも携わった。

戦後は右翼の三浦義一と共に「日本金銀運営会」の利権を握る。公職追放期間中は実業家や弁護士として生計を立て、その後衆議院議員、参議院議員を務め、郵政大臣、経済企画庁長官、自由民主党参議院幹事長などを歴任。1971年(昭和46年)、鍋島直紹・新谷寅三郎らとともに反重宗雄三グループ「桜会」のメンバーとして、河野謙三参議院議長の実現に動く。また、財団法人日本盲導犬協会の初代理事長を始め多くの団体の会長を務めるなど自民党参議院議員の大物として長く活動した。

終戦当時の回想は、二・二六事件当時の話と合わせて1964年に著書『機関銃下の首相官邸』に発表したほか、内外のドキュメンタリー番組や、公開講演でたびたびおこなった。国立国会図書館東京本館に二・二六事件、終戦当時を証言した迫水のインタビューの録音テープが保存・公開されている(インタビュー当時は、二・二六事件や宮城事件の関係者が存命していたので、関係者の迷惑にならないように、30年後に公開することを条件にインタビューと、その録音に応じた)。二・二六事件の当日の状況、様子を鮮明に伝えた貴重な資料となっている。娘によると、迫水は晩年に『機関銃下の首相官邸』を新たな内容を加えて改稿する構想を抱いており、そのために準備も進めて75歳で政界を退く予定でいたが、実現を見ずに74歳で病没した。墓所は多磨霊園(9-1-8)。

戦後に国会議員になった迫水は天皇主催の園遊会で毎年決まった場所から終戦時苦難を共にした昭和天皇を遠く拝していた。迫水が亡くなった翌年の園遊会で昭和天皇は「いつもあそこに迫水がおったね。もう今年はいないんだね」と入江相政侍従長に語ったという。

エピソード

義兄である岡田貞外茂海軍中佐が海軍航空機墜落事故で殉職した事が影響してか迫水は大の飛行機嫌いとして知られ、東京と自身の選挙区の鹿児島との往復には必ず列車で移動し決して飛行機を利用しなかったとのことである。

大蔵官僚時代の福田赳夫が赴任先のロンドンで着任の挨拶に訪れた津島壽一財務官邸の風呂に勝手に入り大声で草津節を歌って大目玉を喰らった際、とりなしたのが先に赴任していた迫水だった。

日本がポツダム宣言を受諾し終戦が決定づけられた昭和20年8月9日の御前会議での聖断に至るシナリオを書いた一人である。御前会議の開催には梅津美治郎参謀総長と豊田副武軍令部総長の花押と書類が必要であったが迫水は重大局面下での時間短縮を理由に「使用する際は必ず事前連絡して承諾を得る」ことを条件に9日の午前中に署名花押を二人から受け取っていた。結果として事前連絡も承諾も得ずに言わば騙し討ちの格好で(迫水は自分の独断だとしている)聖断を仰ぐことを目的とした御前会議は召集され、その知らせを受けて抗議に訪れた阿南惟幾陸相に迫水は「今度の会議は陛下に出席者の考えを聞いていただくもので結論を出すものではない」と虚偽の説明をした(阿南は「それならよい」と納得してそれ以上は何も言わなかったが謝罪する前に阿南が自決してしまったことを迫水は生涯悔いていた)。 また本来は御前会議に参加しない平沼騏一郎枢密院議長を構成員に加えたのも迫水である。事前に平沼がポツダム宣言受諾に傾いているという情報を得ていた迫水は従来の6人の参加者から議長役で発言権のない鈴木総理を除いた5人の意見が受諾反対3(阿南陸相、梅津総長、豊田総長):受諾賛成2(東郷茂徳外相、米内光政海軍大臣)に分かれ、そこに受諾賛成の平沼の1票を加えて3:3の膠着状態に持ち込みその状況打開のために鈴木総理が昭和天皇に聖断を促すという筋書きを練り、御前会議の決定を枢密院に諮る手間と時間の省略を名目に平沼をメンバーに加えたのだ。果たして目論見通りに会議は展開し会議前の打ち合わせで鈴木から内々に聖断を請われていた昭和天皇によってポツダム宣言受諾の聖断が下され日本は終戦へ向かうこととなった。

昭和20年8月15日終戦の日の未明、戦争継続を狙う勢力に首相官邸が襲撃された。官邸に居た迫水は実弟の久良と警備の警官とともに官邸に掘られていた脱出用のトンネルで避難した。昭和35年の安保闘争の際、デモ隊に囲まれた官邸から岸信介首相を同じトンネルで逃そうと試みられたが出口にもデモ隊が溢れていて断念した。トンネルはその後埋め立てられたが官邸から続く一部は残っているという。

好角家としても知られており、公職追放中の1948年から同じ鹿児島出身の鶴ヶ嶺道芳率いる井筒部屋の後援会会長を務めていたこともある。会長になった当時の井筒部屋は関取の数が少なく、面倒を見るようになって見込みの薄い者は次々と故郷に帰し続けることとした迫水は、幕下でうろうろしていてパッとしない部屋頭の鶴嶺山(後の鶴ヶ嶺昭男)の処遇を思案していたところ、部屋付きの甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げたことにより、多少半信半疑のところがあったようだが鶴嶺山の現役続行が決まった。のち、鶴嶺山改め鶴ヶ嶺は、実際に栃錦から4個の金星を奪う実力者となった。1961年には雑誌『相撲』の企画で、当時大関の柏戸剛と対談。柏戸に対しては、自身が最年少で書記官長になっていずれは最年少の大臣かと思っていたところに公職追放、浪人生活があったことを引き合いに出して「史上最年少の横綱を狙う必要はない」とし、「横綱に推薦しますといわれたら、いや、私はまだその器ではありませんから、もう一場所大関でとらせていただきますって、いうくらいのまあ気持ちでやらなきゃ。」「なりたい、なりたいと思ったら、必ず焦りが出てくるよ」と激励している。柏戸の師匠であり、先代柏戸の柏戸秀剛のファンでもあった。

略歴

1902年(明治35年) : 東京市に生まれる。鹿児島県鹿児島市出身。

1925年(大正14年):東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業、大蔵省入省。

1930年(昭和5年):甲府税務署長。

1934年(昭和9年):岡田内閣 内閣総理大臣秘書官。

1937年(昭和12年):大蔵省理財局金融課長。

1941年(昭和16年):企画院へ出向。企画院第一部第一課長。

1942年(昭和17年):大蔵省総務局長。

1943年(昭和18年):内閣参事官。

1944年(昭和19年):大蔵省銀行保険局長。

1945年(昭和20年):鈴木貫太郎内閣 内閣書記官長兼総合計画局(企画院の後身)長官。貴族院勅選議員に任じられる。

1947年(昭和22年):公職追放。

1951年(昭和26年):公職追放解除。昭電疑獄(昭和電工事件)で起訴されるが小原直が担当弁護士となる。第一審段階で唯一無罪となる。

1952年(昭和27年):自由党から第25回衆議院議員総選挙鹿児島県第1区に立候補し衆議院議員となる。

1956年(昭和31年):第4回参議院議員通常選挙に立候補し参議院議員に転じる。

1960年(昭和35年):第1次池田内閣、第2次池田内閣 経済企画庁長官。

1961年(昭和36年):第2次池田内閣 郵政大臣。

1966年(昭和41年):鹿児島工業短期大学(1973年廃止)の学長に就任。

1977年(昭和52年):死去(74歳)。叙正三位、叙勲一等旭日大綬章。

2024/06/21 21:47更新

sakomizu hisatsune


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