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岡田啓介の情報 (おかだけいすけ)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

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岡田 啓介さんについて調べます

■名前・氏名
岡田 啓介
(読み:おかだ けいすけ)
■職業
軍人
■岡田啓介の誕生日・生年月日
1868年2月14日 (年齢1952年没)
辰年(たつ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
福井出身

岡田啓介と同じ1868年生まれの有名人・芸能人

岡田啓介と同じ2月14日生まれの有名人・芸能人

岡田啓介と同じ出身地福井県生まれの有名人・芸能人


岡田啓介と関係のある人

床次竹二郎: 岡田啓介は政友会の切り崩しを狙って床次に入閣を促し、党内の反対を押し切った床次は逓信大臣として入閣し政友会を除名された。


鈴木貫太郎: 鈴木は、どういうふうに組閣をするのか事務的なことはわからず、親友であった岡田啓介にいきなり電話をかけ、「軍需大臣になってほしい」と頼み込んだ。


有川正治: 226(1989年、フィーチャーフィルムエンタープライズ) - 第31代内閣総理大臣・岡田啓介


米内光政: 1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一、斎藤実、岡田啓介、林銑十郎、阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。


若槻礼次郎: 重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。


岸信介: 宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。


鈴木貫太郎: 若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。


大角岑生: 海軍出身の首相・岡田啓介、内大臣・斎藤実、侍従長・鈴木貫太郎が襲撃されたため(斎藤は死亡、鈴木は重傷、岡田は死亡と報道されたが無事であった)、海軍省内では反乱軍との徹底抗戦論が沸き起こった。


大角岑生: 犬養の後継に首班指名されたのが海軍の重鎮である斎藤実大将であったことと五・一五事件の収拾を図る必要があったことから、大角はあえて長老の岡田啓介大将を後任に指名した


望月圭介: 岡田啓介首相は各党に協力を求め、立憲政友会鈴木喜三郎総裁と初めて会談した際に、逓相に床次竹二郎、農林相に望月の入閣を要請した。


末次信正: 4月1日、首相・濱口雄幸は海軍首脳の岡田啓介、加藤寛治、山梨勝之進に了解を求める。


近衛文麿: 近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。


木戸幸一: かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。


加賀山之雄: 甥に加賀山朝雄、遠縁に岡田啓介などがいる。


末次信正: 七割論は艦隊派、条約派を問わず支持するところであったが、日米の国力差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進、堀悌吉ら条約派であり、加藤友三郎の次の言葉がその考えを象徴している。


後藤文夫: 1936年(昭和11年)2月、二・二六事件で内相官邸を襲撃されるが外出中で無事、消息不明となった岡田啓介総理の臨時代理を二日間にわたって務める。


永田鉄山: 永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。


末次信正: 戦争終結を意図していた岡田啓介は、海軍大臣兼軍令部総長・嶋田繁太郎を更迭することで東條内閣倒閣の契機を掴もうと図り、米内を海軍大臣に末次を軍令部総長として現役復帰させることを提案した。


米内光政: キーナンは翌月若槻禮次郎、岡田啓介、宇垣一成らとともに米内を招いてカクテルパーティーを開き、4人を「真の平和愛好者」と呼んだ。


阿部信行: 死去時点で内閣総理大臣経験者としては最年長かつ最古参であった(1952年10月17日に岡田啓介が死去した時点より最年長かつ最古参となっていた。


宇垣一成: 東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。


瀬戸口藤吉: 1895年に海軍軍楽師に任ぜられたが、その昇任試験の時、いくつかの問題に難渋し諦めかけた時、試験官であった岡田啓介に励まされ、見事合格したというエピソードがある。


平沼騏一郎: 戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍。


東條英機: 6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。


中野正剛: 議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿や岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。


近衛文麿: 1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。


金森徳次郎: 1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。


末次信正: 岡田啓介は末次を警戒し、元老・西園寺公望の秘書・原田熊雄は西園寺に対し、宮中関係者から不安視されていた真崎甚三郎になぞらえて報告している。


東條英機: 岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。


加藤寛治: 岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。


岡田啓介の情報まとめ

もしもしロボ

岡田 啓介(おかだ けいすけ)さんの誕生日は1868年2月14日です。福井出身の軍人のようです。

もしもしロボ

事件、卒業、解散、姉妹、事故、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1952年に亡くなられているようです。

岡田啓介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。

田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。

総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。

1868年(慶応4年)、福井藩士(100石)岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(現:福井県立藤島高等学校)を卒業。翌年1月に上京し、上級学校進学のために須田学舎や共立学校(現:開成中学校・高等学校)などに在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸軍士官学校受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。

1889年(明治22年)、海軍兵学校(第15期)を卒業。同期には小栗孝三郎、竹下勇、財部彪、広瀬武夫らがいた。日清戦争に防護巡洋艦「浪速」分隊長として豊島沖海戦、黄海海戦、日露戦争では装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦、第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに従軍した。

1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。

1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織するが、立憲政友会は入閣した高橋是清・床次竹二郎などを除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃されることになった。

岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹婿・松尾伝蔵大佐と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。

岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。

粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「狸」とあだ名された。吉田茂は岡田を「国を想う大狸」と評している。

1936年(昭和11年)1月21日に野党・政友会が内閣不信任案を提出、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた第19回総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は二・二六事件で襲撃を受ける。

二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。反乱軍は岡田を殺害したと誤認したが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。

岡田の生存を察知した秘書官の福田耕・迫水久常(岡田の女婿)は憲兵曹長の小坂慶助らと提携し、首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。

二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、昭和天皇に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年(昭和11年)3月9日、岡田内閣は総辞職した。

その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。

開戦後の岡田は、

大本営参謀の長男・岡田貞外茂

大蔵省総務局長で女婿の迫水久常

参謀本部部員で松尾伝蔵の女婿の瀬島龍三

の3名と、岡田宅で月に1回ほど会食するのを例として、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。

1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。

東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で1944年(昭和19年)12月26日には息子の貞外茂がマニラの戦いで戦死している。

1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。

小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田はポツダム宣言受諾決定の御前会議の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。

戦後、岡田は相変わらず質素な生活を続け、むしろ戦前より戦後の方が貧乏だったという。昭和21年(1946年)12月中旬に次男の貞寛が戦地から帰還した際、父として我が子に会った岡田は「貴様、よく帰ったなあ。まあ飲め」と言っただけで、貞寛がアメリカ軍の捕虜になっていたことには一言も触れなかった。

昭和22年(1947年)1月15日、数えで80歳の誕生日に岡田は宮中から「80歳の高齢につき、特に宮中杖差し許さる」という御沙汰書と金一封が届けられた。

極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田と米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。

公職追放を経て、1952年(昭和27年)3月4日追放解除。同年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しGHQによる占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日に死去。享年84。戒名の「真光院殿仁誉義岳啓道大居士」は二・二六事件の時につけられたものだった。墓所は多磨霊園。

岡田には軍人らしい英雄譚が皆無であり、晩年に口述した『岡田啓介回顧録』にも軍人の伝記にありがちな豪快なエピソードはない。しかしこのことは岡田が豪傑を気取ったりすることのない常識人であったことを強く示唆している。

海軍少尉のころ軍楽隊の分隊長に配属された岡田は艦隊勤務から外されたのが不満で訓練に出ずに昼寝ばかりしていた。見かねて訓練に出ることを進言してきた楽長に「音楽なんておもしろくないから出ないのだ」と言うと楽長は「おもしろくないのは音楽が分からないからです。私が分かるようにしてあげます」と毎日部屋に来て音楽について面白く話をしたり、訓練に連れ出して演奏を聴かせたりした。岡田はその時のことを「なかなか偉い楽長だったよ、上官にむかってそういうことはちょっと言いにくいものだ」そして「そうやって聞いているうちに、まんざらおもしろくないこともないようになった。のちわたしが首相になったとき、食事の席上、演奏を聞きながら音楽の話をしたので、みんなびっくりして、音楽のことも知っているのですか、といっていたがこういうことがあったせいだ」と語っている。

岡田と親しかった藤田尚徳(海兵29期、海軍大将)によると、井出謙治(海兵16期、海軍大将)と並び、岡田は海軍きっての記憶力を持つことで知られていた。岡田はメモを一切取らずに、複雑なデータや文書の所在を正確に記憶していた。岡田の卓越した記憶力を、藤田は「一種の天才であったと思う。」と評している。

人情肌なところもあり、戦後二・二六事件を巡る座談会に出席した際には、自身を襲撃した青年将校たちの心情に同情的な発言もしている。

従軍した青島の戦いでは、麾下の巡洋艦「高千穂」を撃沈される被害があった。岡田は後に沈没場所に赴き、戦死者の追悼法要を行っている。

私腹を肥やすようなことは全く無く、生涯を清貧で通した。総理大臣就任の日に組閣費用が底を突いてしまい、官邸に集まった番記者たちに振舞う恒例の酒が買えず「これで君たちの好きな酒を冷やしてくれ」と氷だけを配ったという逸話がある。親任式の際に着用したシルクハットも女婿・迫水久常からの借り物で、晴れ着や余所行きの洋服もほとんど持っていないほどの貧乏だった。実際、今日に残る岡田の写真はそのほとんどが海軍の軍服か日常の着物を着たもので、洋服を着たものはほとんどない。

岡田は海軍の大物の例に洩れず、無類の酒好きで有名だった。自宅を訪問する客にも金が許す限りいつも酒でもてなしていた。

先妻:ふさ - 旧姓・川住。旗本の家の次女。1男2女を産んだ後、1910年(明治43年)に死別。夏目漱石の妻・夏目鏡子とは従姉妹

後妻:郁 - 薩摩藩士・迫水久中の三女で、迫水久常の叔母。1男2女を産む。

長男:貞外茂 - 海兵55期を次席で卒業した後、海軍中佐・大本営参謀。視察先のフィリピンで搭乗機事故により戦死(一階級特進により最終階級は大佐)。

長女:田鶴 - 15歳で早世

次女:万亀 - 迫水久常夫人

三女:喜美子 - 鈴木英夫人

次男:貞寛 - 海軍主計少佐。戦後すぐのフィリピンで残留日本兵への投降説得にあたった。回想記『父と私の二・二六事件』がある。

四女:不二子 - 早世

迫水久常は女婿。二・二六事件では首相秘書官として岡田の救出にあたった。終戦時には鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長を務めた。戦後は参議院議員として、経済企画庁長官や郵政大臣を歴任した。回想記『機関銃下の首相官邸』がある。

丹生誠忠は迫水久常の従弟。歩兵中尉。二・二六事件での指導的役割が軍法会議で問われ刑死した。

松尾新一は松尾伝蔵の長男。二・二六事件の前年まで二・二六事件に加わった麻布第三連隊の中隊長だった。その妻は迫水久常の妹である。

瀬島龍三は松尾伝蔵の女婿。1941年(昭和16年)7月から1945年(昭和20年)7月まで、太平洋戦争のほとんどの期間を、大本営陸軍部参謀(参謀本部作戦課員)として勤務した。

二・二六事件で暗殺された高橋是清は、若き日は共立学校の英語教員を務めており、岡田の恩師でもあった。

1889年(明治22年)- 4月20日 海軍兵学校卒業(15期)

1890年(明治23年)- 7月9日 海軍少尉任官

1892年(明治25年)- 12月21日 海軍大学校丙号学生

1894年(明治27年)- 12月9日 海軍大尉進級

1898年(明治31年)- 4月29日 海大乙種学生

1899年(明治32年)- 3月22日 海大甲種学生、9月29日 海軍少佐進級

1901年(明治35年)- 6月7日 海軍大学校教官

1904年(明治38年)- 7月13日 海軍中佐進級

1906年(明治40年)- 5月11日 海軍水雷学校教官

1908年(明治42年)- 9月25日 海軍大佐進級、海軍水雷学校校長

1910年(明治44年)- 7月25日 装甲巡洋艦「春日」艦長

1912年(大正元年)- 12月1日 戦艦「鹿島」艦長

1913年(大正2年)- 12月1日 海軍少将進級

1915年(大正4年)- 12月13日 海軍省人事局長

1917年(大正6年)- 12月1日 海軍中将進級

1920年(大正9年)- 10月1日 艦政本部長

1923年(大正12年)- 5月25日 海軍次官

1924年(大正13年)- 6月11日 海軍大将進級、軍事参議官、12月1日 第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官

1926年(大正15年)- 12月10日 横須賀鎮守府司令長官

1927年(昭和2年)- 4月20日 海軍大臣

1929年(昭和4年)- 7月2日 軍事参議官

1932年(昭和7年)- 5月26日 海軍大臣

1933年(昭和8年)- 1月21日 後備役編入

1934年(昭和9年)- 7月8日 内閣総理大臣、拓務大臣を兼務(〜10月24日)

1935年(昭和10年)- 9月9日 逓信大臣を兼務(〜9月12日)

1936年(昭和11年)- 3月9日 内閣総辞職

1938年(昭和12年)- 1月21日 退役

1891年(明治24年)12月14日 - 正八位

1894年(明治27年)12月28日 - 従七位

1898年(明治31年)3月8日 - 正七位

1899年(明治32年)11月2日 - 従六位

1904年(明治37年)8月30日 - 正六位

1908年(明治41年)12月11日 - 従五位

1914年(大正3年)1月30日 - 正五位

1917年(大正6年)12月28日 - 従四位

1923年(大正12年)2月10日 - 正四位

1925年(大正14年)2月28日 - 従三位

1927年(昭和2年)12月15日 - 正三位

1952年(昭和27年)10月17日 - 正二位

1895年(明治28年)

    11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章

    11月18日 - 明治二十七八年従軍記章

    1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章

    1915年(大正4年)

      11月7日 - 功三級金鵄勲章・旭日重光章・大正三四年従軍記章

      11月1日 - 勲二等瑞宝章

      1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章

      1933年(昭和8年)1月21日 - 旭日桐花大綬章

      1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章

      1928年(昭和3年)5月29日 - ポーランド:ヴィルッチミリタリー勲章シュヴァリエ

      1930年(昭和5年)

        1月28日 - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス

        3月4日 - スペイン王国:海軍有功白色第四級勲章

        1933年(昭和8年)5月30日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ

        『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1950年12月。 NCID BN03308143。全国書誌番号:51000344。 

          今井清一 編「岡田啓介回顧録」『昭和の動乱』筑摩書房〈現代日本記録全集 20〉、1969年8月。 NCID BN02337372。全国書誌番号:73001117。 

          岡田貞寛 編『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1977年12月。 NCID BN00367237。全国書誌番号:78003588。 

          岡田貞寛 編『岡田啓介回顧録』中央公論社〈中公文庫〉、1987年4月。ISBN 9784122014145。 NCID BN02452993。全国書誌番号:87035439。 

          岡田貞寛 編『岡田啓介回顧録』(改版)中央公論社〈中公文庫〉、2001年9月。ISBN 9784122038998。 NCID BA53933625。全国書誌番号:20222068。 

          岡田貞寛 編『岡田啓介回顧録』(改版)中央公論社〈中公文庫〉、2015年2月。ISBN 9784122060746。 NCID BB18184651。全国書誌番号:22549243。 

          豊田穣『最後の重臣岡田啓介 終戦和平に尽瘁した影の仕掛人の生涯』光人社、1994年5月。ISBN 9784769806745。 

          仙石進『巨木は揺れた 岡田啓介の生涯』近代文芸社、1994年9月。ISBN 9784773332551。 

          上坂紀夫『宰相岡田啓介の生涯 2・26事件から終戦工作』東京新聞出版局、2001年2月。ISBN 9784808307301。 

          岡田貞寛『父と私の二・二六事件』講談社、1989年2月。ISBN 9784062042697。 

            岡田貞寛『父と私の二・二六事件 昭和史最大のクーデターの真相』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年2月。ISBN 9784769821861。 

            山田邦紀『岡田啓介 開戦に抗し、終戦を実現させた海軍大将のリアリズム』現代書館、2018年7月。ISBN 9784768458365。 

            重臣と青年将校 陸海軍流血史(1958年、演:山田長正)

            二・二六事件 脱出(1962年、演:柳永二郎)

            激動の昭和史 軍閥(1970年、演:落合義雄)

            226(1989年、演:有川正治)

            日本のいちばん長い日(2015年、演:吉澤健)

            燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝(1976年、フジテレビ、演:若宮大祐)

            熱い嵐(1979年、TBS、演:巌金四郎)

            山河燃ゆ(1984年、NHK大河ドラマ、演:築地博)

            そして戦争が終った(1985年、TBS、演:久米明)

            落日燃ゆ(2009年、テレビ朝日、演:窪田弘和)

            会津屋八右衛門(江戸時代の廻船問屋。本来は「今津屋」だったが昭和10年(1935年)建立の「八右衛門氏頌徳碑」に岡田が「會津屋」と揮毫したため、そのまま「会津屋」が広まったという説がある)

            青山貞 (明治期の内務官僚。伯父にあたる)

            佐々木栄 (福井藩出身の海援隊隊士。親戚の岡田に海軍への入隊を勧めた)

            大森房吉(地震学者。福井市旭小学校の同級生)

            ^ 当時の時刻では2月13日(旧暦1月20日)深夜。旧暦では、夜明けを以て1日の始まりとしたため。

            ^ 但し、高橋に就いては総裁経験者でもあったことから、党内の混乱を避けるため「離別」としている。

            ^ 大本営参謀(昭和17年7月 - )。昭和19年12月26日、マニラ上空で戦死。

            ^ 参謀本部作戦課、昭和14年11月 - 昭和20年7月。

            ^ 太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦当時、東條英機・首相 兼 陸相は、内政・外交・戦局の情報を独占していた。よって、重臣といえども、戦局について真実を何も知らないのが普通であった。

            ^ 半藤 2013, 位置番号 3965-3975、海軍大将略歴:岡田啓介

            ^ 秦 2005, p. 194, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-岡田貞外茂

            ^ 秦 2005, p. 88, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-瀬島龍三

            ^ 工藤 2013, pp. 251–253, 第四章 学習院長時代 - 嶋田海相更迭計画

            ^ 山田邦紀。P303

            ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、61頁。NDLJP:1276156。 

            ^ 『朝日新聞』1952年3月4日夕刊一面

            ^ 藤田 1987, pp. 68–85, 御意思に遠い重臣の奏上

            ^ 藤田 1987, pp. 20–29, 酒と侍従

            ^ “【戦争秘話】終戦後、命がけで残留日本兵の捜索に当たった男がいた!(神立 尚紀) @gendai_biz”. 現代ビジネス (2020年9月13日). 2023年12月21日閲覧。

            ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日

            ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。

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            ^ 『官報』第6355号「敍任及辞令」1904年9月3日。

            ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」明治41年12月12日

            ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。

            ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。

            ^ 『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。

            ^ 『官報』第3790号「叙任及辞令」大正14年4月14日

            ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。

            ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日

            ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。

            ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。

            ^ 『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。

            ^ 『官報』第979号「叙任及辞令」大正4年11月4日

            ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。

            ^ 『官報』第1817号「叙任及辞令」1933年1月23日。

            ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日

            ^ 『官報』第427号「叙任及辞令」昭和3年6月1日

            ^ 『官報』第924号「叙任及辞令」昭和5年1月30日

            ^ 『官報』第953号「叙任及辞令」昭和5年3月6日

            ^ “天保竹嶋一件-今津屋八右衛門について”. 2021年12月19日閲覧。

            工藤美知尋『海軍良識派の支柱 山梨勝之進 忘れられた提督の生涯』芙蓉書房出版、2013年。ISBN 9784829505755。 

            秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 

            半藤一利 他『歴代海軍大将全覧』(Amazon Kindle)中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。 

            藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。 

            山田邦紀『岡田啓介 開戦に抗し、終戦を実現させた海軍大将のリアリズム』現代書館、2018年7月。ISBN 9784768458365。 

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            『岡田啓介』 - コトバンク

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            岡田啓介 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館

            岡田啓介 内閣総理大臣(第31代) - 首相官邸

            岡田啓介像 - 福井商工会議所

            岡田啓介生誕地 - 福井商工会議所

            伊藤博文

            黑田淸隆

            山縣有朋

            松方正義

            大隈重信

            桂太郎

            西園寺公望

            山本權兵衞

            寺内正毅

            原敬

            高橋是清

            加藤友三郎

            清浦奎吾

            加藤高明

            若槻禮次郎

            田中義一

            濱口雄幸

            犬養毅

            齋藤實

            岡田啓介

            廣田弘毅

            林銑十郎

            近衞文麿

            平沼騏一郎

            阿部信行

            米内光政

            東條英機

            小磯國昭

            鈴木貫太郎

            東久邇宮稔彦王

            幣原喜重郎

            吉田茂

            片山哲

            芦田均

            鳩山一郎

            石橋湛山

            岸信介

            池田勇人

            佐藤榮作

            田中角榮

            三木武夫

            福田赳夫

            大平正芳

            鈴木善幸

            中曽根康弘

            竹下登

            宇野宗佑

            海部俊樹

            宮澤喜一

            細川護煕

            羽田孜

            村山富市

            橋本龍太郎

            小渕恵三

            森喜朗

            小泉純一郎

            安倍晋三

            福田康夫

            麻生太郎

            鳩山由紀夫

            菅直人

            野田佳彦

            菅義偉

            岸田文雄

            石破茂

            1872-1873

            勝安芳1873-1875

            1875-1878

            川村純義1878-1880

            榎本武揚1880-1881

            川村純義1881-1885

            西郷従道1885-1890

            樺山資紀1890-1892

            仁礼景範1892-1893

            西郷従道1893-1898

            山本権兵衛1898-1906

            斎藤実1906-1914

            八代六郎1914-1915

            加藤友三郎1915-1923

            財部彪1923-1924

            村上格一1924

            財部彪1924-1927

            岡田啓介1927-1929

            財部彪1929-1930

            安保清種1930-1931

            大角岑生1931-1932

            岡田啓介1932-1933

            大角岑生1933-1936

            永野修身1936-1937

            米内光政1937-1939

            吉田善吾1939-1940

            及川古志郎1940-1941

            嶋田繁太郎1941-1944

            野村直邦1944

            米内光政1944-1945

            高島鞆之助

            田中義一

            松田源治

            原脩次郎

            若槻禮次郎

            秦豊助

            永井柳太郎

            岡田啓介

            兒玉秀雄

            永田秀次郎

            結城豊太郎

            大谷尊由

            宇垣一成

            近衛文麿

            八田嘉明

            小磯國昭

            金光庸夫

            小磯國昭

            松岡洋右

            秋田清

            豊田貞次郎

            東郷茂徳

            井野碩哉

            廃止

            榎本武揚

            後藤象二郎

            黒田清隆

            渡辺国武

            白根専一

            野村靖

            末松謙澄

            林有造

            芳川顕正

            星亨

            原敬

            芳川顕正

            曾禰荒助

            大浦兼武

            山縣伊三郎

            原敬

            堀田正養

            後藤新平

            林董

            後藤新平

            元田肇

            武富時敏

            箕浦勝人

            田健治郎

            野田卯太郎

            前田利定

            犬養毅

            藤村義朗

            犬養毅

            安達謙蔵

            望月圭介

            久原房之助

            小泉又次郎

            三土忠造

            南弘

            床次竹二郎

            岡田啓介

            望月圭介

            頼母木桂吉

            山崎達之輔

            兒玉秀雄

            永井柳太郎

            塩野季彦

            田辺治通

            永井柳太郎

            勝正憲

            村田省蔵

            寺島健

            八田嘉明

            小松茂

            塩原時三郎

            塩原時三郎

            松前重義

            (心得)新谷寅三郎

            一松定吉

            三木武夫

            冨吉榮二

            降旗徳弥

            小沢佐重喜

            樺山資紀1886-1890

            伊藤雋吉1890-1898

            斎藤実1898-1900

            斎藤実1900-1903

            斎藤実1903-1906

            加藤友三郎1906-1909

            財部彪1909-1914

            鈴木貫太郎1914-1917

            栃内曽次郎1917-1920

            井出謙治1920-1923

            岡田啓介1923-1924

            安保清種1924-1925

            大角岑生1925-1928

            山梨勝之進1928-1930

            小林躋造1930-1931

            左近司政三1931-1932

            藤田尚徳1932-1934

            長谷川清1934-1936

            山本五十六1936-1939

            住山徳太郎1939-1940

            豊田貞次郎1940-1941

            沢本頼雄1941-1944

            沢本頼雄事務取扱 1944

            岡敬純1944

            井上成美1944-1945

            多田武雄1945

            三戸寿1945

            皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 柳川平助 - 小畑敏四郎※ - 秦彦三郎 - 山下奉文 - 山岡重厚 - 土橋勇逸 - 牟田口廉也統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 小磯國昭 - 建川美次 - 梅津美治郎 - 池田純久満洲派:石原莞爾 - 板垣征四郎 - 花谷正 - 片倉衷清軍派:重藤千秋 - 橋本欣五郎 - 長勇 - 小原重孝(※は「バーデン=バーデンの密約」参加者)

            野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 香田清貞 - 北一輝 - 西田税

            岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕

            昭和天皇 - 秩父宮雍仁親王 - 伏見宮博恭王 - 西園寺公望 - 徳川義親 - 加藤寛治 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 鈴木貞一 - 馬奈木敬信 - 匂坂春平 - 小坂慶助 - 迫水久常 -斎藤瀏 - 広田弘毅 - オイゲン・オット - リヒャルト・ゾルゲ

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            岡田啓介

            日本の内閣総理大臣

            昭和時代戦前の閣僚

            日本の海軍大臣

            拓務大臣

            逓信大臣

            大日本帝国海軍大将

            海軍次官

            連合艦隊司令長官

            横須賀鎮守府司令長官

            海軍省人事局長

            19世紀の軍人

            20世紀の軍人

            日清戦争の人物

            日露戦争の人物

            第一次世界大戦期の日本の軍人

            第二次世界大戦期の政治家

            二・二六事件の人物

            公職追放者

            正二位受位者

            勲一等旭日桐花大綬章受章者

            勲一等旭日大綬章受章者

            勲二等瑞宝章受章者

            勲六等瑞宝章受章者

            功三級金鵄勲章受章者

            功五級金鵄勲章受章者

            ロイヤル・ヴィクトリア勲章

            レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者

            福井県立藤島高等学校出身の人物

            海軍兵学校 (日本)出身の人物

            海軍大学校出身の人物

            越前国の人物

            福井県出身の人物

            上士階層出身の明治期の著名人

            1868年生

            1952年没

            多磨霊園に埋葬されている人物

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2024/11/21 10:34更新

okada keisuke


岡田啓介と同じ誕生日2月14日生まれ、同じ福井出身の人

酒井 哲夫(さかい てつお)
1934年2月14日生まれの有名人 福井出身

酒井 哲夫(さかい てつお、1934年(昭和9年)2月14日 - )は、日本の政治家。福井市長(3期)、福井県議会議員(6期)を務めた。 福井県生まれ。福井県立高志高等学校卒業。福井県庁職員を経て、…


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岡田啓介と近い名前の人

岡田 圭右(おかだ けいすけ)
1968年11月17日生まれの有名人 大阪出身

岡田 圭右(おかだ けいすけ、1968年〈昭和43年〉11月17日 - )は、日本のお笑いタレント。お笑いコンビ・ますだおかだのツッコミ担当(一発ギャグでボケるケースもある)。相方は増田英彦。大阪府大…

岡田 茂_(三越)(おかだ しげる)
1914年8月3日生まれの有名人 京都出身

岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 - 1995年〈平成7年〉7月20日)は、日本の実業家。三越社長(1972年 - 1982年)。 1972年(昭和47年)から老舗百貨店・三…

岡田 茂_(東映)(おかだ しげる)
1924年3月2日生まれの有名人 広島出身

岡田 茂(おかだ しげる、1924年〈大正13年〉3月2日 - 2011年〈平成23年〉5月9日)は、日本の映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て20…

岡田 奈々_(1997年生のアイドル)(おかだ なな)
1997年11月7日生まれの有名人 神奈川出身

岡田 奈々(おかだ なな、1997年〈平成9年〉11月7日 - )は、日本の女優、歌手、YouTuberであり、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーである。2017年3月から2022年3月にか…


岡田 太郎_(テレビプロデューサー)(おかだ たろう)
1930年7月20日生まれの有名人 東京出身

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岡田 吉夫(おかだ よしお)
1926年8月11日生まれの有名人 兵庫出身

岡田 吉夫(おかだ よしお、1926年8月11日 - 2002年6月22日)は兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。元丸紅参与。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸…

岡田 武史(おかだ たけし)
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岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国…

岡田 れえな(おかだ れえな)
1987年5月23日生まれの有名人 東京出身

岡田 れえな(おかだ れえな、1987年5月23日 - 2014年4月26日)は、日本のタレント・女優である。東京都世田谷区出身。所属事務所はディスカバリー・エンターテインメント。 父は鮫島秀樹で、…

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岡田 理江(おかだ りえ、1973年12月9日 - )は、日本のタレント、女優。本名同じ。 岐阜県揖斐郡大野町出身。キャストパワー所属(業務提携)。以前はアミューズ→ジャパン・ミュージックエンターテ…


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