瀬島龍三の情報(せじまりゅうぞう) 軍人、経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
瀬島 龍三さんについて調べます
■名前・氏名 |
瀬島龍三と関係のある人
佐々淳行: この際、伊藤忠社員時代の瀬島龍三をソ連のスパイとして捜査していた。 越後正一: 1960年(昭和35年)の社長就任後は瀬島龍三らを重用し、伊藤忠の「総合化と国際化」を掲げ、非繊維部門の拡充と海外進出を推進した。 永野重雄: 五島へのバトンタッチは、永野と小山五郎、瀬島龍三、大槻文平の4人の話し合いで円滑に行われた。 岡田啓介: 瀬島龍三は松尾伝蔵の女婿。 角川春樹: その後、瀬島龍三の仲裁の下、1992年に角川歴彦は角川書店を退社した。 居島一平: 父親は朝日新聞社の記者、母親は元朝日新聞社、新潮社の校正部員、父方の祖父は大日本帝国陸軍の軍人で、陸軍学校の同期に元伊藤忠商事瀬島龍三、二・二六事件において包囲軍として参加し、包囲していた反乱部隊の中に五代目柳家小さんが居たと回想している。 小宮山重四郎: 五島慶太・小佐野賢治・瀬島龍三らとともに「政商」の一人に数え上げられることも多く、竹下派ら政界関係者とも深くかかわりを持ち、重四郎の政界進出を後援した。 岡田啓介: 参謀本部部員で松尾伝蔵の女婿の瀬島龍三 徳間康快: 同映画祭は岡田や瀬島龍三らを中心に創設されたため、徳間は瀬島とも付き合うようになった。 魚住昭: 同年、共同通信の社会部のチームで書いた『沈黙のファイル -「瀬島龍三」とは何だったのか- 』により日本推理作家協会賞を受賞する。 五島昇: 五島を永野や瀬島龍三に紹介したのは雑誌・経済界の主幹・佐藤正忠である。 児玉誉士夫: ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。 松沢卓二: 会長となると稲山嘉寛経団連会長からの求めに応じ、財政金融委員長に就いたほか、臨時行政改革推進審議会委員の瀬島龍三からの懇請を受け、83年10月、国鉄監査委員会委員長となり、最後の委員長も務めた。 板垣正: ^ 共同通信社社会部編「沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか」 竹田恒徳: 後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三陸軍中佐である。 鹿内春雄: 岡田茂の後ろ盾には五島昇や永野重雄、今里広記、瀬島龍三らがおり、鹿内同様「財界四天王」に繋がる人で、財界フィクサーだった今里広記を囲む「今里会」を岡田が作って、これが「岡田学校」に発展し、若手経営者を集めて彼らの兄貴分のようになった。 米倉功: 1971年には、瀬島龍三専務(のち会長)の指名によって、米国ゼネラルモーターズといすゞ自動車との資本提携プロジェクトの担当部長に起用され、GMとの提携交渉を手掛けた。 土光敏夫: 2003年(平成15年)3月に「アーカイブス特選」として、この番組が再放送された際、ゲスト出演した瀬島龍三によれば、ある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区の婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と瀬島に手渡したという。 魚住昭: 1994年に共同通信・戦後50年企画として人員、取材費、テーマの一切を任されたため瀬島龍三をテーマに70回の長期連載を手がける。 岸信介: 時の韓国大統領朴正煕もまた満洲国軍将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満洲人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。 高倉健: 久保はインドネシアの戦後補償を巡り、瀬島龍三とタッグを組み、デヴィ・スカルノを使って、池田勇人とスカルノを繋いだ政商である。 清原武彦: 「第8次選挙制度審議会」(1989~91年)、「第3次臨時行政改革推進審議会」(1991~92年)、「外交強化懇談会」(瀬島龍三会長、91年)、「大蔵省の行政の在り方に関する懇談会」(瀬島龍三座長、1998年)、「日本研究・知的交流事業諮問委員会~国際交流基金の諮問会議(2007~12年)」等。 石原吉郎: この収容所には日本人が収容されており、例えば瀬島龍三も同収容所の21分所に収容され、左官の仕事をさせられていた。 |
瀬島龍三の情報まとめ
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)さんの誕生日は1911年12月9日です。富山出身の軍人、経営者のようです。
卒業、テレビ、事件、結婚、父親、母親、姉妹、映画、ドラマ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2007年に亡くなられているようです。
瀬島龍三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸士44期次席・陸大51期首席。位階・勲等は従三位・勲一等瑞宝章。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。最終階級は中佐。伊藤忠商事会長・相談役、亜細亜大学理事長、日本電信電話顧問等を歴任。退職後は中曽根康弘元首相の顧問など多くの職に就任し、「昭和の参謀」と呼ばれた。 1934年(昭和9年)10月 - 陸軍歩兵中尉に進級。 1935年(昭和10年)1月 - 4月 陸軍歩兵学校通信学生。
同年12月 第9師団通信隊附。 1936年(昭和11年)8月 陸軍士官学校予科生徒隊附。
1937年(昭和12年)11月 陸軍歩兵大尉に進級。 1938年(昭和13年)12月 陸軍大学校卒業(第51期首席)。 1939年(昭和14年)1月 第4師団参謀。
11月22日 - 参謀本部部員(作戦課)。 1941年(昭和16年)10月1日 - 陸軍少佐に進級。 1944年(昭和19年)8月 - 1945年(昭和20年)6月 兼 軍令部部員。
1945年(昭和20年)2月 - 兼 聯合艦隊参謀。
7月1日 - 関東軍参謀。 亜細亜大学理事長 財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長 財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会名誉会長 サーチファーム・ジャパン株式会社名誉顧問 地域伝統芸能活用センター会長 日本戦略研究フォーラム会長 財団法人花と緑の農芸財団会長 日本美術協会会長 昭和聖徳記念財団理事 全国旅行業協会理事 日本会議顧問 日本電信電話株式会社顧問 日本ツーリズム産業団体連合会顧問 稲盛財団相談役 日本国際フォーラム顧問 理想教育財団理事 五島記念文化財団理事 伊藤謝恩育英財団会長 同台経済懇話会会長 軍事史学会特別顧問 日本テレビ放送網監査役 妻の清子(1916-2007)は、松尾伝蔵(陸軍歩兵大佐。二・二六事件に際し、義兄である岡田啓介首相の身代わりとなって反乱部隊に殺害された)の長女で岡田啓介の姪。1935年に陸軍将校だった龍三と結婚。父親殺害の際は、龍三が満州駐在中だったため福井の実家におり、母親とともに上京した。岡田啓介の娘婿である迫水久常とは妻同士が従姉妹の関係。 娘に繁代、淑子がおり、繁代の夫・緒方威(1935年生)は、鹿児島県出身、東大法学部卒業後伊藤忠入社、同社重役を経て半導体製造・電子システムのイノテック会長。アイ・シー・エフ取締役なども務めた。繁代との間に三女をもうけた。 弟の瀬島利四夫は、松尾新一(松尾伝蔵の長男で清子の兄、妻の喜与は迫水久常の妹)とともに東京ピアノ工業(イースタイン)を興し、2代目社長を務めた。 日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた。 1996年の回顧録にて大東亜戦争を振り返り と書いている。 晩年にフジテレビの番組『新・平成日本のよふけ』に出演し、自らの人生や日本のこれからについて滔々と語った。この中で太平洋戦争について、個々の局面においては判断ミスがあったことを認め、戦火の拡大、日本国民及び周辺諸国への被害の拡大、敗戦についての責任の一端は自分にあるとの発言をしたが、計画戦争ではなくアメリカに石油を止められた「窮鼠猫をかむ」という防衛戦争であり、あの状況(ABCD包囲網・ハル・ノート)ではあれ(真珠湾攻撃)しかなかったし、あの状況に日本を追い込んだのはアメリカの強硬政策であると開戦については不可避であったとの認識を示した。 と語っている シベリア抑留について瀬島は「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」と述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、「断じて実施すべきではなかった」と述懐している。さらにシベリア抑留について6つの項目を上げて、他の連合国の戦後の日本に対するの扱いと全く違っていることを説明している。日ソ平和条約(日露平和条約)締結の場合、シベリア抑留についてのソ連(ロシア)からの陳謝が必要であり、それが平和条約の原点になると述べている。 同台経済懇話会常任幹事野地二見には、「最期の最期まで国のために尽くせよ」と語った。 阿南陸相の義弟で軍事課の竹下正彦中佐(陸士42期)によれば、瀬島の案文は手を入れる必要がないほど完璧で、無修正のまま班長、課長、部長、参謀総長の判子が押されたほどで、竹下は「瀬島君は作戦課の若手課員だったが、我々は陰で瀬島参謀総長と自嘲気味に呼んでいました」と語っている。瀬島は「私は起案する前に上司の意図がどこにあるかをじっくり考え、私情を入れずに起案していたので、結果的にフリーパスになっただけですよ」と答えている。秦郁彦は、このような瀬島は同じ作戦課出身でも独断専行の横紙破りを重ねた辻政信(陸士36期首席)とは対照的としている。 終戦直前、瀬島と4ヶ月間行動を共にした千早正隆海軍中佐は「本当に心を打ち明けられた陸軍関係者は瀬島中佐だけ」としているが、太平洋戦争における日本陸海軍の協力体勢についての瀬島の戦後証言には不満を述べている。 日本海軍史研究家の戸髙一成は、「海軍では、瀬島龍三の名前を聞いただけで「あいつは嘘つきだから」と即座に反応するような人もかなりいました。「瀬島龍三の言うことは、俺は信用しない」と、直接言う人がいたのです」と書いている。 ヨシフ・スターリンは8月16日のべリア文書で「日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土に運ぶことはしない」と命令していた。しかし、斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)によると、「ソ連軍に対する瀬島参謀起案陳情書」には、日本の兵士が帰還するまでは「極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います」との申し出が記述されており方針が変更され、ソ連との停戦交渉時、瀬島も同行し日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約が結ばれた。 瀬島は1996年の著書『幾山河』で「『密約説』を唱える人たちは、明確な根拠を示して欲しい」と述べている。また、瀬島は、停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかったと反論している。またロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない。 2002年、政治学者である田久保忠衛が、モスクワのロシア国立社会政治史文書館で「国家防衛委員会決議No.9898CC「日本人捕虜五十万人の受入、収容、労働利用に関する決議」(1945年8月23日付)を確認した。このスターリンが自ら署名した文書には、「労働のためにやって来る捕虜の受入、収容、労働利用の実施を行うよう次の人民委員に命ずる」と強制労働命令について明記されており、この文書によって極東ソ連軍の権限でなく、ソ連中央政府からの命令であったことが判明しており、密約説は否定された。この命令の背景にはスターリンの北海道北半分の占領要求をアメリカが拒否していたことあったとみられている。 野地二見によれば、密約説とは、「瀬島ら関東軍参謀が天皇を助ける為のバーターとして一般市民を売ったと強制労働収容所の被害者に思い込ませ洗脳させるソ連の工作であった」と述べている が、その根拠、証拠は示されていない。また、瀬島が著書『幾山河』の草稿を秦に依頼した際に、秦が瀬島に関する仮説に対する反論を注文したところ、瀬島は、「自身のための弁明はいさぎよしとしない」と抵抗したが、説き伏せ、シベリア抑留11年間の9つの収容所に滞在した期間の「抑留十一年の年譜」を作った。秦はこの年譜をたどれば、スパイ訓練所は存在しないと証明でき、瀬島回想録の刊行後は「悪意ある流言」は消えうせたと述べた。 1954年の「ラストボロフ事件」の際、ソビエト連邦代表部二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが亡命先のアメリカのCIAでの証言において、瀬島を含む11人に「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」と証言した(ほかには朝枝繁春、志位正二、種村佐孝、平沢道則などの名前が挙げられた)。 内閣安全保障室長の佐々淳行も、瀬島が伊藤忠の平社員時代からラストボロフ事件に関与しており、その後の中曽根政権時代の東芝機械ココム違反事件に至るまで関与していたと証言している。なおこのラストヴォロフのCIAでの証言はアメリカやイギリスなど西側諸国でも報道され、日本でもこの事件以降、瀬島を「かくれ共産主義者で、ソ連工作員」とみなす論が松本清張 はじめ多数ある。 また「ワールド・インテリジェンス」誌の黒井文太郎は、コードネーム「クラスノフ」はKGB正式エージェントであるが「実名不記載。著名な財界人」として瀬島とは特定していないとしている。 また、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している。國民新聞社の山田惠久によれば、1979年10月にレフチェンコ事件に関する記事によれば、レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコと瀬島が深い仲だと証言している。 保阪正康は、瀬島はしばしば自らを大物に見せるトリックを使い、たとえば山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公は実際には複数の人間を総合して造形したものであるのに、同作の影響によって瀬島だけがモデルであるとのイメージが世間に定着していったことを指摘している。 野地二見は「瀬島を批判する評論家たちは、参謀本部での作戦計画は開戦から終戦まで、まるで瀬島が全て計画し、それが敗戦に導いたかのように思ったりしている。これこそが瀬島認識の根本的誤解であり、とんでもない瀬島大参謀神話の元になっている。これは陸軍の統帥の中枢である参謀本部の伝統、組織、能力、そして作戦・計画作成の実態について、あまりにも無知と言わねばならない。」と批判し、作戦課での一少佐でしかない瀬島は自ら計画を作り決定する立場ではなかったし、記録役という班長補佐役の仕事を通じて各作戦計画について知ることができたに過ぎないと述べている。 伊藤忠商事では、帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした、直属の部下を率いていた。これは「瀬島機関」と呼ばれていた が、瀬島自身は、マスコミの造語であるとしている。 田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」 という昭和天皇の発言を自著に記している。 一方、1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王と昭和天皇長女東久邇成子の子)と伊藤忠商事社員との結婚式で、瀬島龍三夫妻が媒酌人として執り行われることとなった。それを受けて、スリランカ民主社会主義共和国大統領が来日しその歓迎晩餐会が宮中において催された際、宮殿の別室に於いて同じく招待を受けた瀬島龍三夫妻は昭和天皇に拝謁した。その席で「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母(東久邇成子)と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も良子も大変喜んでいる。どうか宜しくお願い申し上げたい」という言葉を発し、瀬島夫妻に孫娘の結婚に際する御礼を述べられたと瀬島は自著で主張しているが、実際にこの様な言葉があったのかは不明である。 『幾山河 瀬島龍三回想録』産経新聞ニュースサービス、1995年。ISBN 4-594-01809-2。 『祖国再生 : わが日本への提案』 PHP研究所、1997年、ISBN 4-569-55534-9。 『大東亜戦争の実相』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、ISBN 4-569-57427-0。 「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」全5巻、昭和48年〜昭和49年。防衛庁防衛研究所。 『戦略なき国家に明日はない : 戦後50年の日本の検証と今後の行方を示唆』 加藤寛共著、日本政経文化社、1995年、ISBN 4-89041-264-6。 『91歳の人生論 : 「本分」を極める生き方とは?』 日野原重明共著、扶桑社、2003年、ISBN 4-594-04200-7。 『瀬島龍三 日本の証言 : 新・平成日本のよふけスペシャル』番組スタッフ編、フジテレビ出版、2003年、ISBN 4-594-03880-8。 瀬島は東映の岡田茂に頼んで「昭和天皇」の映画を製作しようとしたことがある。これは当時、東映が『二百三高地』や『大日本帝国』『海ゆかば』といった戦争大作を次々製作していたため、その仕上げとしての意味で、笠原和夫の力を入れた脚本は書き上がっていた。しかし宮内庁の反対を受けて頓挫したという。瀬島は岡田からの要請で『二百三高地』の監修を行なっている。 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。 韓国のドラマ『第五共和国』には瀬島をモデルとした人物が登場する。 コミックス「ゴルゴ13」(作:さいとう・たかを、出版:小学館)単行本 第103巻収録「第323話 モスクワの記憶」 - 瀬島龍三をモデルに創作された元関東軍副参謀長・政財界フィクサー「二階堂洋介」が登場する。 ^ “瀬島龍三(1911~2007 / 伊藤忠商事会長)が「大震災を生き抜く」で述べた危機管理の名言 [今週の防災格言478]”. 防災意識を育てるWEBマガジン「思則有備(しそくゆうび)」. 2024年5月11日閲覧。 ^ ITmediaエグゼクティヴ「瀬島龍三氏、「マネジメントの真髄」を語る――メディア取材の最後の勇姿」2007年10月26日 11時00分 更新 ^ 日本戦略研究フォーラム『季報 瀬島龍三特集』平成20年,vol.36 ^ 秦 2005, pp. 625–631, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-6.陸軍士官学校卒業生 ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引 ^ “瀬島龍三氏、「マネジメントの真髄」を語る――メディア取材の最後の勇姿”. ITmedia エグゼクティブ. (2007年10月26日). オリジナルの2020年2月18日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2020-0218-2219-19/https://mag.executive.itmedia.co.jp:443/executive/articles/0710/26/news006.html 2020年2月18日閲覧。 ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生 ^ 秦 2005, p. 88, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-瀬島龍三 ^ 秦 2005, p. 81, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-島村矩康 ^ #千早インタビューp.6 ^ #千早インタビューp.7 ^ 田久保忠衛「遺されたこころざし 滅私奉公」日本戦略研究フォーラム『季報 瀬島龍三特集』2008年,vol.36,p21-22. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、190頁。ISBN 9784562049318。 ^ 瀬島龍三 2003『日本の証言』(フジテレビ出版)第4章。 ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、216頁。NDLJP:1276156。 ^ 瀬島龍三1995『幾山河』第3章。 ^ 瀬島龍三 1995『幾山河』「東京裁判」、『極東国際軍事裁判速記録』(雄松堂1968) ^ 『シベリア抑留から生還した黒幕「瀬島龍三」がフラれた「寂光院の女」』 週刊新潮 2011年2月24日創刊55周年記念特大号 ^ #沈黙のファイル ^ 秦郁彦「瀬島龍三の役割と責任」日本戦略研究フォーラム『季報 瀬島龍三特集』2008年,vol.36,p18-20. ^ #保阪、207-215頁 ^ #沈黙のファイル、47頁 ^ #幾山河、351-353頁 ^ 松井志郎『五島昇 財界革新を狙う東急グループの総帥』ぱる出版、1986年、223頁。 ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『瀬島龍三』 - コトバンク ^ 野地二見「遺されたこころざし」日本戦略研究フォーラム『季報 瀬島龍三特集』平成20年,vol.36,p23-25 ^ “瀬島龍三氏死去/元伊藤忠商事会長、元大本営参謀”. 四国新聞社 (2007年9月4日). 2020年11月26日閲覧。 ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩, 実業之日本社, 2017/07/25「岡田啓介」の章 ^ イノテック株式会社@Engineer ^ 株式会社アイ・シー・エフ 取締役就任および監査役就退任に関するお知らせ News2uリリース2005年01月28日 ^ 大東亜戦争、こうすれば勝てたp.195-196 ^ 幾山河―瀬島龍三回想録 1996/7 ^ 瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル p259 2003/2 ^ 『産経新聞』2007年9月5日8時3分配信 ^ #千早インタビューp.8 ^ 日本軍がアメリカの空母を沈めたはずがない…大敗北・レイテ決戦前の「握りつぶされた報告」 文春オンライン 2020年7月30日 ^ 斎藤六郎「シベリアの挽歌 全抑協会長の手記」終戦史料館出版部 ^ 『日本の証言』フジテレビ出版 ^ 瀬島龍三 2003『日本の証言』フジテレビ出版第4章 ^ 「KGBの対日工作⑥ レフチェンコ・メモの中身」『国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ』2007/07/13(金) 08:58:35 ^ 加藤昭の取材「瀬島龍三・シベリアの真実」『文藝春秋』1992年2月号(創刊70周年記念2月特別号) ^ 「コミンテルンに嵌められた大東亜戦争」第19130号 國民新聞 2007年12月25日(火曜日) ^ “本誌秘蔵フィルムで綴る 20世紀の偉人列伝 第13回 瀬島龍三(1911年―2007年)”. 経済界. 2015年9月7日閲覧。 ^ “インテリジェンスを軽視するな 故・瀬島龍三氏の情報力(2) | 東京レポート”. NETIBニュース (データ・マックス). 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sejima ryuuzou
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