児玉誉士夫の情報(こだまよしお) 右翼活動家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
児玉 誉士夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
児玉誉士夫と関係のある人
永田雅一: これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。 笹川良一: 晩年は、世間的には児玉誉士夫や田中清玄と並ぶ右翼の巨頭と目されていた。 岸信介: 時の韓国大統領朴正煕もまた満洲国軍将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満洲人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。 賀屋興宣: 児玉誉士夫によれば、獄中でも「これまで落ちれば、寧ろさっぱりして良いですね」等と悠然としていたという。 西四辻公敬: 小佐野賢治や児玉誉士夫、川上哲治の自宅のスチームバスも同社の製品という。 落合信彦: 1977年には、『週刊文春』4月14日号に「2人の首領 笹川良一と児玉誉士夫」(単行本は「二人の首領」)を発表。 三木武夫: 数日間の間に、ロッキード社からの日本向けの工作資金は当時の為替レートで30億円を越えた額であること、そして工作資金はロッキード社の航空機売り込みを図ることをもくろみ、表の代理人役として商社の丸紅、そして児玉誉士夫を裏の代理人役として日本の政府高官に渡された、いわゆる贈賄が行われたこと。 渡邉恒雄: 児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。 水島広雄: 水島は児玉誉士夫に調停を依頼し、その謝礼として児玉に1億円相当のダイヤモンドを贈った。 田中角栄: この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。 田中伊三次: 1976年、ロッキード事件の調査のために衆議院に設置されたロッキード問題調査特別委員会の委員長に就任し、児玉誉士夫を臨床尋問。 永田雅一: 特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎、児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。 植村伴次郎: 児玉誉士夫、太刀川恒夫、徳間康快らと交友があった。 横井英樹: 小佐野は富士屋ホテルの買収に乗り出し、1年が経過したころ、横井側についていた山口家の本家側の者が徐々に小佐野側につき、取締役に入れた児玉誉士夫も小佐野側に寝返ってしまう。 佐郷屋留雄: 1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。 笹川良一: 部下に児玉誉士夫がいたこともある。 大下英治: 『児玉誉士夫闇秘録』イースト新書 2013 小林旭: あゝ決戦航空隊 監督 山下耕作(1974.9.14 東映 - 児玉誉士夫 役 チャールズ=ウィロビー: また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、後に児玉の通訳となり「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、反共活動者でもあった児玉とも何らかの密接な関係にあったと推測される。 岸信介: 次いで同年4月1日、岸は文、笹川良一、児玉誉士夫らと協力して、日本でも国際勝共連合を設立した。 辻政信: 1949年(昭和24年)には渡辺渡や児玉誉士夫のもとに身を寄せている。 宮崎邦次: 1968年(昭和43年)から翌年に掛け、神戸支店における枢要取引先である神戸製鋼所で内紛が勃発し、児玉誉士夫の介入を許す所となった。 瀬川美能留: 右翼の政商児玉誉士夫に莫大な資金を送り込んでいたことでも知られる。 大西瀧治郎: 例えば、航空機増産のための資源確保に児玉誉士夫が設立した「児玉機関」を活用した。 磯邊律男: 当時、国税庁次長の格下とされた東京国税局長のポストに移動した1975年7月には、東京地検特捜部と協力しながら田中角栄、児玉誉士夫の脱税摘発の総指揮を執り、児玉の自宅を家宅捜索する前日には、東京国税局地下の大会議室に査察官300人を集め、「税務の威信を賭けて徹底調査をやれ、すべて責任は私が負う」と訓示し、ロッキード事件の突破口を開く。 笹川良一: 1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、のちのアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国の蔣介石総統や谷正綱、元部下の児玉誉士夫らと共に設立した。 岸信介: 警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。 塚本素山: そして1949年頃に米軍の情報関係者の仲介で児玉誉士夫と知り合った。 佐賀潜: また、横井英樹による東洋精糖株買い占めに際しては、東洋精糖の顧問弁護士として、保全経済会事件で知り合った児玉誉士夫に会社防衛を依頼している。 浜田幸一: 1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。 |
児玉誉士夫の情報まとめ
児玉 誉士夫(こだま よしお)さんの誕生日は1911年2月18日です。福島出身の右翼活動家のようです。
父親、母親、卒業、事件、兄弟、現在、映画に関する情報もありますね。1984年に亡くなられているようです。
児玉誉士夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年〈明治44年〉2月18日 - 1984年〈昭和59年〉1月17日)は、日本の右翼運動家。 自称CIAエージェント。暴力団・錦政会顧問。太平洋戦争中に海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後は分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎(自民党の初代総裁、元内閣総理大臣)などの大物政治家に政治資金を提供した。「政財界の黒幕」や「政財界のフィクサー」と呼ばれた。日韓国交正常化交渉に関与した。 戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた。祖父山田兵太夫は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後に日本に戻って向島 (墨田区)の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。 児玉は1929年、赤尾敏が結成した「建国会」に入会。18歳で天皇直訴事件により服役。釈放後に津久井龍雄の急進愛国党に入会。1931年、日本主義陣営の統一組織「全日本愛国者共同闘争協議会(日協)」が結成され急進愛国党も参加(三月事件の民間動員計画)。児玉は前衛部隊の一員になった。国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし服役。1932年2月、釈放。同月9日、血盟団事件が起き、同日、警視庁は児玉を含めた国家主義運動の関係者を拘引した。釈放後、渡満。満州自治運動をしていた笠木良明の大雄峯会に参加。同年、帰国。独立青年社を設立し右翼浪人の岡田理平に誘われ頭山秀三(頭山満の三男)が主宰する天行会に出入りをした。頭山が逃げざるを得なくなり、後事を託された児玉、岡田、天行会のメンバー二人の四人で1932年、天行会独立青年社事件を起こす。当時は23歳だった児玉は3年半の判決を裁判で受けた。服役中に二・二六事件が起きた。 出所後、笠木が編集発行する『大亜細亜』に関わる。1937年、笠木から紹介された外務省情報部長河相達夫より勧められ、中国各地を視察。上海副総領事の岩井英一(東亜同文書院出身)を知り、岩井が1938年に領事館内に設置した「特別調査班」の嘱託となる。岩井の推薦で、1939年4月に陸軍参謀本部の嘱託となりハノイにいた汪兆銘の護衛を任された。石原莞爾の紹介で支那派遣軍総司令部参謀の辻政信を知り、同司令部の嘱託となる。しかし東亜連盟の動きが陸軍の方針に反すると東条英機の逆鱗に触れたことで、児玉は嘱託を解かれ1941年5月に帰国した。 1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である海軍航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。ここから児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する。戦時下の外地はインフレ状態で物流も滞り、国民感情ではナショナリズムの高まりによる排日排日貨(日貨とは日本製品)運動が起きていた。目的の重なる陸軍、艦本の機関と競合するため各方面からの干渉も予想されたが児玉は承諾し、総務部長(山縣正郷)と上海へ飛び、ここに児玉機関の本部を置いた。児玉は海軍の嘱託(佐官待遇)となる。 1942年3月、総務部長は大西瀧治郎となり、特攻生みの親とされる大西中将が敗戦後に自決する場に立ち会う縁が繋がった。 ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた。 児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から非推薦候補として立候補をして8位落選をしている。 終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉を懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。 終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には『東久邇日記』の昭和20年9月5日の日記によると東久邇宮自身は児玉をよく知らなかったが内閣参与となっていた。1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し児玉を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍により右翼をパージするGHQの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」を走るようになった。1948年12月24日に釈放され、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていたことと、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していることである。この間に公職追放となった。 児玉は児玉機関が管理してきた金やダイヤモンドなど、旧海軍の巨額の在留資産を朝日新聞が提供した社機に乗せて上海から引き上げていた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を自民党の前身にあたる鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。 1949年(昭和24年)、児玉は巣鴨拘置所から釈放されると北海道炭礦汽船の幹部、萩原吉太郎邸に「戦前、右翼の領袖から紹介してもらった」として訪問した。萩原は児玉機関の話を聞いており訪問に難色を示したが、児玉は萩原邸の裏の池で釣りをするという名目で毎朝通い始め、話をする機会を持つうちに次第に付き合いが深くなっていったという。 1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。 1954年には、鳩山一郎を総理大臣にするために三木武吉の画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった。誠心誠意嘘をつくなど名言を残した三木武吉は病の床で「こだまをよろしく」との言葉を残した。 その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(政界の黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。 岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及を止めるように圧力をかけた。今澄がこれを拒むと、今澄の政治資金の提供元と金額・使っている料理屋・付き合っている女が全て書かれていた身上調書を今澄に渡して全てを明かすとして追及を止めさせている。児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。 日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。 1962年(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」を実現させた。 1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。 1969年、青思会より独立した右翼団体日本青年社が結成。これが任侠右翼の始まりであった。 児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。 日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンラインの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石油の子会社だった日本精蠟を1974年夏に買収した。 児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない。このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年に博報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた。役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねた。広田は、福井純一博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった。太刀川は児玉の死後、東京スポーツの代表となる。 ロッキード事件と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元OSS 員が社長だったディーク・ペレラ社を利用したという興味深い事実がある。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパではHSBCやドイツ銀行がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。 児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。 そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。 この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。 ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。 しかし1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた。 しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は脳梗塞と後遺症を理由に自宅を離れなかった。 1979年(昭和54年)10月11日には3人の裁判官、検察官、弁護士が自宅を訪問して臨床尋問が行われた。「臨床」とはされたが尋問は自宅の洋間で行われ、児玉は和服を着て椅子に座って応答している。検察は小佐野との関係、ロッキード社のコンサルタントになった経緯を尋問したが、1時間ほどで児玉が喉の苦痛を訴えて取りやめとなった。 元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。 2005年に機密解除されたCIA文書で、児玉は次のように評されている。 当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。 児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。 福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」 児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」 秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」 2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。 松本清張の小説『けものみち』に登場する人物「鬼頭洪太」は、児玉をモデルにしているとする説がある。 村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』に登場する「先生」と呼ばれる架空の人物は、児玉をモデルにしているとする説がある。 児玉誉士夫『われ敗れたり』協友社、1949年 原題 "I was Defeated" (巣鴨プリズンで資料として書かされたもの) 児玉誉士夫『運命の門』鹿鳴社、1950年 児玉誉士夫『芝草はふまれても 巣鴨戦犯の記録』新夕刊新聞社、1956年 児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』弘文堂、1961年8月25日 児玉誉士夫『獄中獄外』―児玉誉士夫日記 広済堂出版、1974年 児玉誉士夫『獄中獄外』―児玉誉士夫 日記 広済堂出版、1974年 児玉誉士夫『われかく戦えり』―児玉誉士夫 随想・対談 広済堂出版、1975年 児玉誉士夫『生ぐさ太公望』―児玉誉士夫 随想 広済堂出版、1976年 『あゝ決戦航空隊』(1974年、東映)、児玉誉士夫役は、小林旭 『やくざ戦争 日本の首領』(1977年、東映)、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、内田朝雄 『日本の首領 野望篇』(1978年、東映)、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、内田朝雄 『日本の首領 完結篇』(1978年、東映)、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、片岡千恵蔵 降旗康男監督『日本の黒幕』(1979年、東映)、主人公・山岡邦盟のモデルは、児玉誉士夫。山岡邦盟役は、佐分利信 『実録 東声会 初代 町井久之』(2006年、GPミュージアムソフト)、児玉誉士夫役は曽根晴美 『実録 東声会 初代 町井久之 完結編』(2006年、GPミュージアムソフト)、児玉誉士夫役は曽根晴美 『劇場版 MOZU』(2015年、東宝)、吉田駒夫のモデルは、児玉誉士夫。吉田駒夫役は、ビートたけし 『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」(2016年)、児玉誉士夫役は苅谷俊介 ^ 後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城 ^ 日本大学皇道科を卒業したということになっている。 ^ 大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。 ^ 大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。 ^ 右翼団体・大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった吉田彦太郎や岩田幸雄、藤吉男、許斐氏利ら右翼の無法者がそろった。
^ 児玉のタングステン保有状況は、OSSの1943年12月14日付調査報告書に詳細な記述がある。
^ 児玉機関のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。 ^ 巣鴨拘置所での1947年4月21日付取調べによると、児玉機関の資産の総額は当時の日本円に換算して7000万円あったという。また、資産の2/3を吉田彦太郎に与えたとしている。
^ 「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道されたという。しかし、1953年に記録され2005年に機密解除されたCIA文書で、児玉は次のように評されている。
^ 1953年9月1日付報告書『日本人インテリジェント・サービス』が児玉の取り組んでいる課題とするものを4点掲げている。
^ 戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は児玉に処分を依頼。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。そして吉田彦太郎の管理する緑産業ビル地下に隠匿。後の本州製紙本社所在地。 ^ 町井久之ともに芸能界とのつながりも深く、特に三田佳子と親しい。 「芸能界新興勢力の首領 バーニング・プロ社長の『実力』研究」 p.18 ^ 1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)の第一波。アイゼンハワー大統領の訪日を日本政府に中止させた。 ^ 警察の動員数では大統領の移動経路を確保できなかった。 ^ このとき自民党からは6億円前後の資金が提供されていたが、右翼と暴力団の間で行方不明となった。児玉らは嫌疑をかけられ真相究明会まで設けられたが、いつしか沙汰やみになった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 79-80 ^ 田岡を兄とする ^ 顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。実名では天野辰夫や橘孝三郎、小沼正、佐郷屋留雄、笹川良一、三浦義一らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。 ^ 世界反共連盟の地域団体。後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる。「朝日ジャーナル」によれば、米国では、文鮮明-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明らかになっている。 ^ 山梨県本栖湖畔にあった全日本モーターボート競走連合会の施設で開催。 ^ 前身は楠皇道隊 ^ 朴政権の政策には統一教会が呼応し、安岡正篤が共鳴した。 ^ 統一教会に大変賛同的であったことは有名である。 ^ 当時銀座4丁目の雑居ビルに事務所を構えていた。 ^ 報酬は現金1億円だった。 ^ 日本精蝋では太刀川恒夫が役員に名を連ねたこともある。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 160 ^ 1960年10月設立。現在の実質的な持ち株会社は博報児童教育振興会。 ^ 主として電通が宣伝広告部門で独占契約をしている企業を標的にした。三越、味の素などは、広告部門の一部を博報堂に割かねばならなかった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 169-170
^ 1972年11月30日に社長就任。9日前に「亜土」という会社を設立。資本金は200万円。のちに博報堂の株式30.6%を所有するトンネル会社となる。株式保有の過程に特別背任容疑をかけられ、1975年11月27日に福井は東京地検特捜部に逮捕された。 ^ 1968年11月17日の佐藤栄作日記では、安西浩が中曽根派との協力を得るために児玉と会うことを持ちかけてきたが、佐藤は折角遠のいた児玉と再び接触を持つことや中曽根康弘が児玉の影響を受けることを嫌い、言下に断ったと綴られている。更に佐藤は腹心の福田赳夫や田中角栄に対しても児玉の動向に注意を払うよう伝えている。 ^ 同年3月23日の自宅へのセスナ機の特攻事件では、右翼から非難される退廃ぶりを露呈した。 ^ CIA Records - Name Files ^ ティム・ワイナー『CIA秘録』文藝春秋 ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店 ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社 ^ 大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 p.273 ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.185-190 ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.195-202 ^ 大下英治『黒幕 昭和闇の支配者 第1巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 4-479-30018-X p.16 ^ 『二本松市史5近世Ⅱ』 ^ 『児玉誉士夫自伝 悪政・銃声・乱世』 ^ 自著『われかく戦えり』広済堂出版、1975年、pp.321-327 ^ 共同通信社社会部 編『沈黙のファイル : 「瀬島龍三」とは何だったのか』新潮社、1999年、47頁。ISBN 4-10-122421-8。 ^ Glenn Davis and John G. Roberts 守山尚美訳 『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 p.100. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 pp.67-80. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、269頁。NDLJP:1276156。 ^ “角栄が恐れ、中曽根が泣きついた…戦後「最恐のフィクサー」児玉誉士夫の正体”. 2020年12月6日閲覧。 ^ 児玉、萩原氏宅に二か月半通う 「裏の池で釣り」が二人の出会い『朝日新聞』1978年(昭和53年)1月20日朝刊、13版、23面 ^ 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 167-169 ^ 衆議院会議録情報 第077回国会 予算委員会 第15号 1976/2/17 ^ ロ事件公判 児玉を臨床尋問 苦痛を訴え途中で中止『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月11日夕刊 3版 15面 ^ “未解決事件 File.05「ロッキード事件」”. NHK. 2022年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月14日閲覧。 ^ 権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(文藝春秋・2009年)第八章 ^ 加藤典洋編『村上春樹』(荒地出版社・1996年)p.70 「国会会議録・第046回国会 法務委員会 第30号」 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」 「国会会議録・第080回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第9号」 青谷和久『戦後日本の政財界をダメにした四人の首領』山手書房 1978年 笹川良一/小佐野賢治/児玉誉士夫/萩原吉太郎 「芸能界新興勢力の首領 バーニング・プロ社長の『実力』研究」『噂の真相』1982年4月号、pp.16-22 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川文庫、1990年、ISBN 4-04-146425-0 田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、ちくま文庫、2008年、ISBN 4-480-42440-7 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫> 2003年 ISBN 4-344-40476-9 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X 「山口組50の謎を追う」(洋泉社) 2004年 ISBN 4-89691-796-0 カプランとデュブロ『ヤクザが消滅しない理由』不空社、2006年、ISBN 4-903350-05-3 畠山清行『何も知らなかった日本人』祥伝社文庫、2007年 牛島秀彦 『力道山―大相撲・プロレス・ウラ社会』第三書館 1995年 立石勝規 『金融腐敗の原点―児玉誉士夫のダイヤモンド』徳間文庫 1997年 小柳順治・田丸ようすけ『実録日本の黒幕 右翼の巨魁 児玉誉士夫』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6907-1 ブロードウェイマンション TSK・CCCターミナルビル 久保正雄 ヘンリー・キッシンジャー フィクサー 日本プロレス - 力道山死去後に代表取締役会長を務めている。 児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件 世界平和統一家庭連合 表 話 編 歴 東京スポーツ(東京) 中京スポーツ(名古屋) 大阪スポーツ(大阪) 九州スポーツ(福岡) やまと新聞 東京スポーツ杯2歳ステークス プロレス夢のオールスター戦 東京スポーツ映画大賞 プロレス大賞 AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜 ALL TOGETHER みこすり半劇場 タイガーマスク・ザ・スター ビートたけし 安藤勝己 中村均 児玉誉士夫 吉田彦太郎 永田雅一 山田隆 桜井康雄 門馬忠雄 江尻良文 柴田惣一 アントニオ猪木 松井秀喜 小橋建太 ストロング小林 塩崎利雄 高橋三千綱 田原成貴 プロレス(全日本プロレス / 新日本プロレス) 飛ばし FAST ISNI VIAF WorldCat イスラエル アメリカ 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research SNAC 大陸浪人 日中戦争の人物 太平洋戦争の人物 日本の政治運動家 日本の右翼活動家 日本の反共主義者 帝都日日新聞社の人物 やまと新聞の人物 衆議院議員総選挙の立候補経験者 A級戦犯容疑者 公職追放者 脱税した人物 ロッキード事件の人物 東京スポーツの人物 日本プロレスの関係者 暴力団関係者 力道山 アメリカ中央情報局の人物 福島県出身の人物 1911年生 1984年没 世界基督教統一神霊協会 2024/11/21 15:21更新
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kodama yoshio
児玉誉士夫と同じ誕生日2月18日生まれ、同じ福島出身の人
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