正木ひろし弁護士の情報(まさきひろし) 弁護士 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
正木 ひろしさんについて調べます
■名前・氏名 |
正木ひろしと関係のある人
山田火砂子: 1955年(昭和30年) の 正木ひろしのベストセラー「裁判官―人の命は権力で奪えるものか」(カッパ・ブックス、八海事件の弁護体験に基づいたルポルタージュ)を原作とする『真昼の暗黒』の製作を山田典吾が立案。 前坂俊之: 『人権擁護に生涯をかけた正木ひろし弁護士をしのんで』月刊『公評』2013年11月号 前坂俊之: 『正木ひろしの戦時下の言論抵抗』『国際関係・比較文化研究第3巻第1号』静岡県立大学国際関係学部発行 2004年9月刊 清沢洌: 『正木ひろし・清沢洌』家永三郎責任編集、日本図書センター〈日本平和論大系 12〉、1994年4月。 小林桂樹: 首(1968年、東宝) - 正木ひろし 高木彬光: 作品の参考にするため刑法・刑事訴訟法にはかなり通じており、丸正事件で被疑者以外の人物を真犯人として名指しし名誉毀損で訴えられた弁護士正木ひろしの特別弁護人を引き受けたこともある。 蜷川虎三: 旧制東京府立第三中学(現:東京都立両国高等学校・附属中学校、同学年に正木ひろし(弁護士)がおり、英語教諭だった北昤吉(北一輝の弟)の授業を受ける)、農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学、1923年に卒業。 前坂俊之: 『ジャーナリストとしての正木ひろし』『国際関係・比較文化研究第1巻第2号』 静岡県立大学国際関係学部発行、2003年3月刊 山田典吾: 1955年(昭和30年) の 正木ひろしのベストセラー「裁判官―人の命は権力で奪えるものか」(カッパ・ブックス、八海事件の弁護体験に基づいたルポルタージュ)を原作とする『真昼の暗黒』の製作を山田典吾が立案。 今井正: 1956年(昭和31年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。 |
正木ひろしの情報まとめ
正木 ひろし(まさき ひろし)さんの誕生日は1896年9月29日です。東京出身の弁護士のようです。
生涯などについてまとめました。事件、映画、現在、卒業に関する情報もありますね。
正木ひろしのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年(明治29年)9月29日 - 1975年(昭和50年)12月6日)は、日本の弁護士である。 第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に起こった八海事件の弁護を担当し、その事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。 なお本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。 生涯弁護士開業まで1896年(明治29年)、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)林町に生まれる。父の義淏は元幕臣の家の出で、後に正木氏の婿養子となった郵便局員。母は東京府高等女学校を卒業後、小学校教員として勤務していたが、正木が6歳の時肺結核で病没している。 府立三中(都立両国高校の前身。同学年に蜷川虎三(京都大学教授、京都府知事)がいた。)、旧制第八高等学校(名古屋大学の前身)理科中退、旧制第七高等学校(鹿児島大学の前身)第一部英法科を卒業し、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部に入学、同大学在学中から千葉県立佐倉中学校(佐倉高校の前身)、長野県飯田中学校(飯田高校の前身)の英語教員として勤務。1923年3月、大学卒業後の1925年には弁護士事務所を東京・麹町に開業した。主に民事事件を扱い経済的には裕福だったという。また一種の受験ノウハウ本『上級学校選定より突破まで』を著したりもした。 個人雑誌「近きより」1937年(昭和12年)には個人雑誌「近きより」を発刊する。正木自身の「発刊の言葉」によれば、雑誌発行の目的は「自らの公共心と社交性の満足」のためであるという。当初は弁護士という職業柄「法律問答」などの記事、また交友を広げるという意味からか「お婿さん募集」「書生希望者紹介」などの雑記事も多かった。 やがて1939年4月に一か月にわたって旅行した戦地、中国大陸で、正木は日本軍将兵が中国人を抑圧する有様を目撃する。彼が「近きより」に(注意深い筆致で)著した旅行記は検閲、発禁の対象となる。以後、正木はこの雑誌を拠点として、時の首相東條英機への苛烈な批判など、日本の行く末を憂える言説を繰り広げることとなる。度重なる廃刊要請を無視して「近きより」はほぼ月刊を維持、敗戦後の1949年まで発行された。 なお雑誌寄稿者中には長谷川如是閑、内田百閒、武者小路実篤、馬場恒吾、読後感想を寄せた購読者には宇垣一成、小林一三、坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、ラス・ビハリ・ボースなどの名前もあり、正木の交友関係の広さをうかがわせる。 1944年に警察による被疑者への暴行致死疑惑(首なし事件)が発生した時は、取調べ中に死亡した被疑者の遺体の首を持ち帰って医師の鑑定をし、特別公務員暴行陵虐致死罪で警察官を告発。「近きより」紙上でもキャンペーンを張るなど、当時は公然の秘密だった官憲の拷問というタブーに立ち向かったことで注目された。警察官は1955年に有罪が確定した。 敗戦後の正木戦後の正木は教員時代からの反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護を行うなど共和主義の立場から先鋭な言論を展開した。また、八海事件など数多くの冤罪事件の弁護を担当し、自身は反共主義者でありながら三鷹事件と菅生事件では共産党員の被告人を弁護するなど、反権力派弁護士として幅広い活動を続けた。 丸正事件では1960年の最高裁判所による有罪確定直後に、判決確定者以外の者を真犯人であるとして名指しする『告発 犯人は別にいる』(鈴木忠五との共著)を出版。それによって翌年に名誉毀損罪で起訴された。正木は「刑事弁護人は、時に自らの職を賭して弁護しなければならないときがある」と主張していたが、同刑事裁判で一審、控訴審とも有罪判決を受け、その上告中の1975年、満79歳で他界した。墓所は亀戸の宝蓮寺。正木は他界した時点で、高裁で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人の地位にあった。 なお、死去後の1979年、旺文社文庫から刊行された完全版『近きより』(全5巻) が、毎日出版文化賞特別賞を受賞。 2024/06/07 03:51更新
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masaki hiroshi
正木ひろしと同じ誕生日9月29日生まれ、同じ東京出身の人
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