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今井 正さんについて調べます
■名前・氏名 |
今井正と関係のある人
芥川也寸志: 同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。 久保酎吉: 警部補・杉山真太郎〜吉祥寺署事件ファイル(2015年) - 今井正 役 藤本真澄: 1940年助監督となるが、関連会社の南旺映画に出向して撮った1941年の『結婚の生態』(原作石川達三、監督今井正、主演原節子)を初プロデュースして製作に転じた。終戦までに成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』や島津保次郎監督の『母の地図』、今井正監督の『望楼の決死隊』、山本薩夫監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした。 河合絃司: 戦後、GHQ進駐軍に勤めながら俳優・竹内良一に師事し演技を学び、1956年(昭和31年)に今井正監督『真昼の暗黒』に映画初出演したのをきっかけに1957年(昭和32年)3月に東映東京撮影所に専属となり 数多くの東映東京作品や『キイハンター』、『Gメン'75』、『特捜最前線』、『西部警察』などのアクション物や刑事ドラマ。 田宮二郎: 1968年(昭和43年)、今井正の監督映画『不信のとき』(有吉佐和子原作)の宣伝ポスター(原案)において、主役(130シーン中94シーンに出演)の田宮の名が4番手扱いになっていた。 依田義賢: 1963年 - 武士道残酷物語 鈴木尚之との共作 原作南條範夫、監督・今井正 マキノ光雄: また、製作会議で起用しようとした映画監督(一説に今井正とされる)が思想的に「左翼であるから」と嫌う周囲を笑って、「右も左もあるかい。 谷よしの: 今井正監督作品)- 旅一座の座員 河村亮: 2007年(平成19年)の箱根駅伝の実況の際、今井正人選手が芦ノ湖にトップでゴールする際に、「今、山の神、ここに降臨!その名は今井正人!」と実況し、その映像が翌年のニューイヤー駅伝の放送中、今井選手を紹介する際に(映像提供 日本テレビという形で)TBSにて放送される。 水木洋子: ひめゆりの塔(今井正監督) 東恵美子: 武士道残酷物語(1963年) - 監督:今井正。 佐久間良子: 1960年以降は、社会派の巨匠、今井正監督『白い崖』(1960年)、家城巳代治監督『秘密』、自ら映画化を希望した村山新治監督『故郷は緑なりき』と着実に出演を重ねた。 山下耕作: 内出好吉・内田吐夢・吉村公三郎・佐々木康・河野寿一・沢島忠・今井正らの助監督を経て、1961年 『若殿千両肌』で監督デビュー。 丘さとみ: 武士道残酷物語(監督:今井正) 大川栄子: 今井正アワー「下町の青春」(1966年、NET) 山田洋次: 邦画では黒澤明『七人の侍』、小津安二郎『東京物語』、溝口健二『西鶴一代女』、成瀬巳喜男『浮雲』、山中貞雄『人情紙風船』、木下恵介『二十四の瞳』、今井正『また逢う日まで』、野村芳太郎『張り込み』、浦山桐郎『キューポラのある街』、宮崎駿『となりのトトロ』を選んでいる。 戸上城太郎: 東宝京都撮影所俳優養成所で学び、1939年に今井正監督の『沼津兵学校』でデビュー。 志村喬: 1945年(昭和20年)、朝鮮映画社製作の今井正監督作品『愛と誓ひ』ロケで韓国に渡る。 住吉正博: 今井正アワー / 下町の青春(1966年) - 協賛会長 デビュー作 水木洋子: また逢う日まで(今井正監督) 川添麻美: 2010年9月12日、系列新聞(毎日新聞・スポニチ)で仕事を通じて知り合ったトヨタ自動車九州陸上競技部の今井正人と結婚することが報じられた。 水木洋子: あれが港の灯だ(今井正監督) エンゲルベルト=ケンペル: 今井正による日本語訳はドーム版を底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なっている。 草薙幸二郎: 56年、八海事件を扱った今井正監督「真昼の暗黒」に主役で抜擢され、老夫婦殺害の主犯として死刑を宣告され、「まだ最高裁があるんだ」と絶叫する植村清治の役を迫真的に演じ、第1回製作者協会新人賞を受ける。 飯泉征貴: 戦争と青春(監督・今井正、1991年、松竹)- 花房新一 役 いまむらいづみ: 1951年、「今村いづみ」の芸名で今井正監督の映画『どっこい生きてる』に出演。 木暮実千代: 青い山脈(監督:今井正。 阿部九州男: 『武士道残酷物語』: 監督今井正、1963年 木下華声: 同じ隊に、木谷実、並木一路、今井正がいた。 岡田英次: 1950年、今井正監督の『また逢う日まで』で久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びる。 |
今井正の情報まとめ
今井 正(いまい ただし)さんの誕生日は1912年1月8日です。東京出身の映画監督のようです。
映画、現在、卒業、結婚、退社、事件、テレビ、ドラマ、家族、解散、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1991年に亡くなられているようです。
今井正のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本の映画監督。 戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。東京帝国大学中退後、東宝の前身J.O.スタヂオに入り、入社2年で監督に昇進。戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、キネマ旬報ベスト・テンでは5本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、賞歴も多く作品の評価は高い。日本映画復興会議初代議長でもある。主な監督作に『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。 1912年(明治45年)1月8日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院に、その住職である父・六助と母・カネの長男として生まれる。父は岐阜県の農家の3男で、子供の頃にお寺の小僧に出されて上京し、日露戦争出征を経て、霊泉院の住職になった。母は近くの香林院の住職の妻の妹で、北里研究所の前身である痘苗製造所に勤めた経験のある人だった。生後、今井は中耳炎にかかり、右耳の鼓膜がなくなり聴覚を失っている。 渋谷町立臨川小学校を経て、1924年(大正13年)に旧制芝中学校に入学する。この頃から映画を多く観るようになり、本人の回想では新宿武蔵野館でジャック・カトラン(英語版)主演の『嘆きのピエロ(フランス語版)』などを観たという。チャップリンの喜劇もほとんど観ており、英文でファンレターを書いて出したこともあった。 1929年(昭和4年)、中学を卒業して旧制水戸高校に入学。在学中、マルクス主義に関心を持ち、雑誌『戦旗』に感激してからは学内の秘密組織読書会のメンバーとなった。翌年、特高に連行され、1年間の停学処分を受ける。1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美術史科に入学。学内の秘密組織に入り、同年に本富士警察署に検挙される。翌1934年(昭和9年)にまた1年間の停学処分を受け、そのまま中退する。 1935年(昭和5年)4月、京都のJ.O.スタヂオの入社試験を合格して入社。500人近くの応募者の中から選ばれたのは今井と京大卒の3人のみだった。初任給は50円、当時の同僚に市川崑と岸松雄がいた。伊丹万作監督の『新しき土』で初めてロケハンに参加。石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に1作ずつ助監督についた。 1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となったが、所長の渾大防五郎に抜擢されて入社2年目で監督昇進を指名される。異例のスピード出世となった。処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年(昭和14年)に公開された。陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。1943年(昭和18年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となったが、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった。同年、教育召集のため麻布の歩兵第1連隊に入隊、3ヶ月で除隊した。 戦後の映画界は、GHQが間接的に干渉し民主主義啓蒙映画の製作を指示されていた。1946年(昭和21年)の戦後第1作『民衆の敵』もその1本であり、戦中の財閥の腐敗を描いた。続いて作った『人生とんぼ返り』は、撮影技師中尾駿一郎と初めてコンビを組んだ作品で、榎本健一と入江たか子が主演した人情喜劇となった。 1949年(昭和24年)、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督。戦後民主主義を高らかに謳い上げ、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。今井も第1級の監督として注目される。この頃から自由に作品を作りたいと感じ、『青い山脈』製作後に東宝を退社してフリーとなる。 1950年(昭和25年)に連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、今井も追放対象者としてリストアップされたが、フリーの立場で『また逢う日まで』を監督。戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンが話題となった。 作品はキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞に輝いた。 その後、GHQの指令で左翼系映画人たちを映画会社5社から締め出すレッドパージが施され、それによって仕事ができなくなると感じた今井は、生計を立てる為に屑物の仕切り屋を開業するが、集めた鉄くずが朝鮮戦争の兵器に使われることを知るとこの仕事を辞めた。その頃、レッドパージで追放された映画人が次々と独立プロを立ち上げて活動するようになり、今井も1951年(昭和26年)に山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督する。当時ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者たちの生活を描いた作品である。 1953年(昭和28年)、東映に招かれて『ひめゆりの塔』を監督。沖縄戦で看護婦として前線に送られたひめゆり学徒隊の悲劇を描いた本作は大ヒットを記録し、発足以来赤字に悩んでいた会社を救った。その後、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』、高崎市民オーケストラの草創期を描いた『ここに泉あり』など、独立プロ運動の1番手としてヒューマニズム映画の傑作を発表する。 1956年(昭和31年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。映画化にあたっては入念な調査を行い、裁判で死刑を宣告された被告の無罪を主張、警察・検察・裁判所の非を徹底的に批判した。製作時は裁判が継続中だったため、最高裁判所から圧力がかかるも、今井はそれに屈せず作品を作り上げ、キネ旬1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。 1957年(昭和32年)、東映で『米』を監督。霞ヶ浦や湖岸の田園風景を背景に農村の貧困を描き、今井にとって初のカラー作品となる。同年公開の『純愛物語』は、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画で、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞した。1958年(昭和33年)の『夜の鼓』は独立プロで製作し、近松門左衛門の『堀川波鼓』を映画化した今井の初の時代劇である。この作品は封建時代の武士の妻の姦通事件を扱い、武家社会をリアリズムで描き出した異色作として評価された。 1959年(昭和34年)、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』を監督。黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、本作は今井の代表作となった。今井は戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。 1961年(昭和36年)、『あれが港の灯だ』を再び東映で撮り、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描いた。1962年(昭和37年)の『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』では老人問題を取り上げている。1963年(昭和38年)、中村錦之助主演で『武士道残酷物語』を監督。封建社会の残酷さを7つの物語で描き、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞する。 テレビの進出で映画が斜陽化する中、今井もテレビドラマに進出し、1966年(昭和41年)から「今井正アワー」で5本のドラマを演出。翌1967年(昭和42年)には渥美清主演の『渥美清の泣いてたまるか』で4本を演出し、後に『天皇の世紀』でも2本を演出している。 1968年(昭和43年)2月、住井すゑ原作の『橋のない川』を映画化するために図書月販の傍系会社ほるぷ映画を設立し、その社長に就任する。翌1969年(昭和44年)に『橋のない川』第一部、1970年(昭和45年)に第二部を製作するが、第二部製作中に今井が党員の日本共産党と部落解放同盟の対立により、同盟から妨害を受け、公開後も上映阻止運動が起きた。1971年(昭和46年)、永年にわたって幽閉生活を強いられている家族を描いた『婉という女』を監督するが、完成後に資金難からほるぷ映画は解散する。 その後は、渥美清企画・主演の『あゝ声なき友』、古巣の東宝で8.15シリーズの第6作『海軍特別年少兵』、小林多喜二の生涯を描いた『小林多喜二』、室生犀星原作の『あにいもうと』などを監督するが、1950年代の時と比べると不遇だった。 1982年(昭和57年)、胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受ける。この4年後には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明する。ほかにも脳血栓や心臓大動脈瘤など次々と病気を発症した。 1991年(平成3年)、遺作『戦争と青春』を監督、一般市民から一口10万円の出資を募るクラウドファンディング方式で製作した。同年、上映キャンペーンのため全国各地を回るが、埼玉県草加市での上映挨拶に向かう途中、車中でくも膜下出血に倒れ、11月22日午後3時20分に草加市立病院で死去。79歳没。墓所は渋谷区瑞泉山墓地。 1992年、第15回日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。 イタリア映画におけるネオ・リアリズムの影響を受けた映画監督の一人でもあり、厳しい演技指導や映像へのこだわりでも知られた。例えば潮健児は自伝で、『米』のラストシーンの収録に、船の帆の貼り具合や船の位置、果ては雲の位置までを気にするあまり1週間かかったなどのエピソードを紹介している。 日本共産党員であり、娯楽色豊かなヒット作を連打し、党派を超えた巨匠として日本映画に君臨した点では、山本薩夫と双璧だが、最後まで大手からの監督依頼が絶えなかった山本に比べると、晩年は若干不遇であった。今井正は「70歳を過ぎると艶っぽい画が撮れなくなる」と言って自ら監督業に消極的になっていた。 個人賞の受賞 毎日映画コンクール
1953年:監督賞『にごりえ』 1956年:監督賞『真昼の暗黒』 1957年:監督賞『米』 ブルーリボン賞
1953年:監督賞『ひめゆりの塔』 1956年:監督賞『真昼の暗黒』 1957年:監督賞『米』『純愛物語』 キネマ旬報ベスト・テン
1957年:日本映画監督賞『米』 1959年:日本映画監督賞『キクとイサム』 日本アカデミー賞
1958年:第8回ベルリン国際映画祭 銀熊賞 (監督賞)『純愛物語』 1990年:第8回日本映画復興賞 特別賞 1991年:第4回日刊スポーツ映画大賞 特別賞『戦争と青春』 作品の受賞 毎日映画コンクール
1953年:日本映画大賞『にごりえ』 1956年:日本映画大賞『真昼の暗黒』 1957年:日本映画大賞『米』 1959年:日本映画大賞『キクとイサム』 ブルーリボン賞
1956年:作品賞『真昼の暗黒』 1957年:作品賞『米』 1959年:作品賞『キクとイサム』 キネマ旬報ベスト・テン
1953年:日本映画ベスト・ワン『にごりえ』 1956年:日本映画ベスト・ワン『真昼の暗黒』 1957年:日本映画ベスト・ワン『米』 1959年:日本映画ベスト・ワン『キクとイサム』 1956年:第9回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 世界の進歩に最も貢献した映画賞『真昼の暗黒』 1963年:第13回ベルリン国際映画祭 金熊賞『武士道残酷物語』 1969年:第6回モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟賞『橋のない川 第1部』 1991年:第15回モントリオール世界映画祭 エキュメニカル賞『戦争と青春』 沼津兵学校(1939年、東宝映画) われらが教官(1939年、東宝映画) 多甚古村(1940年、東宝映画) 女の街(1940年、東宝映画) 閣下(1940年、東宝映画) 結婚の生態(1941年、南旺映画) 望楼の決死隊(1943年、東宝映画) 怒りの海(1944年、東宝) 愛の誓ひ(1945年、東宝) 民衆の敵 (1946年、東宝) 人生とんぼ返り(1946年、東宝) 地下街二十四時間(1947年、東宝) 青い山脈(1949年、東宝) 女の顔(1949年、太泉映画) また逢う日まで(1950年、東宝) どっこい生きてる(1951年、新星映画) 山びこ学校(1952年、八木プロ) ひめゆりの塔(1953年、東映) にごりえ(1953年、新世紀プロ・文学座) 愛すればこそ 第二話 とびこんだ花嫁(1955年、独立映画) ここに泉あり(1955年、中央映画) 由紀子(1955年、中央映画) 真昼の暗黒(1956年、現代ぷろだくしょん) 米(1957年、東映) 純愛物語(1957年、東映) 夜の鼓(1958年、現代ぷろ) キクとイサム(1959年、大東映画) 白い崖(1960年、東映) あれが港の灯だ(1961年、東映) 喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、M・I・Iプロ) 武士道残酷物語(1963年、東映) 越後つついし親不知(1964年、東映) 仇討(1964年、東映) 砂糖菓子が壊れるとき(1967年、大映) 不信のとき(1968年、大映) 橋のない川 第一部(1969年、ほるぷ映画) 橋のない川 第二部(1970年、ほるぷ映画) 婉という女(1971年、ほるぷ映画) あゝ声なき友(1972年、松竹) 海軍特別年少兵(1972年、東宝映画) 小林多喜二(1974年、多喜二プロ) 妖婆(1976年、永田プロ) あにいもうと(1976年、東宝映画) 子育てごっこ(1979年、五月舎) ゆき(1981年、にっかつ児童映画) ひめゆりの塔(1982年、芸苑社) 戦争と青春(1991年、こぶしプロ) 映画の本工房ありす編『今井正「全仕事」 スクリーンのある人生』 ACT、1990年 ISBN 4938652099 新日本出版社編集部編『今井正の映画人生』 新日本出版社、1992年 ISBN 4406020802 高部鐵也『燃えつまみれつ 映画監督今井正物語』 文芸社、2002年 ISBN 483553722X。普及版2013年 今井正監督を語り継ぐ会編『今井正映画読本』 論創社、2012年 ISBN 484601147X 崔盛旭『今井正 戦時と戦後のあいだ』 クレイン、2013年 ISBN 4906681387 ^ 川本三郎・筒井清忠『日本映画 隠れた名作 昭和30年代前後』(中公選書、2014年)での川本の発言によれば、後年気の毒だったのは、この映画のことを蒸し返されて、「左翼のくせにあんな映画を作って」と若い批評家に批判されたという。双葉十三郎は「気の毒ですよ。レッド・パージに遭って屑屋の親方ぐらいのことまでした人を、そんなに責めてはいけないですよ」と擁護している ^ 今井は「ジャーナリストには常に『レッドパージ」で東宝を追い出されたうんぬん』と書かれて来た。私はすすんでフリーになったのだ。おそらく監督としては、日本で初めてのフリー、実質的なフリー第1号であったと思う。それを私は心ひそかに誇りにしている」と語っている ^ 「日鉄社長に今井氏」日本経済新聞・2024年1月12日、第1面。 ^ "日本製鉄 社長就任挨拶(代表取締役社長兼COO 今井 正)" (Press release). 日本製鉄株式会社. 1 April 2024. 2024年4月4日閲覧。 ^ 論創社2012、p.10 ^ 論創社2012、p.11 ^ 論創社2012、p.14 ^ キネマ旬報1976、p.53 ^ 論創社2012、p.16-17 ^ 論創社2012、p.18 ^ 論創社2012、p.22 ^ 論創社2012、p.24 ^ 論創社2012、p.178 ^ 論創社2012、p.26 ^ 論創社2012、p.30-31 ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、37頁。ISBN 9784309225043。 ^ 論創社2012、p.98-99 ^ キネマ旬報1976、p.54 ^ 『今井正の映画人生』、新日本出版社、1992年、p.40 ^ 論創社2012、p.234 ^ 論創社2012、p.48 ^ 論創社2012、p.245 ^ 論創社2012、p.50 『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年。 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』、日外アソシエーツ、2007年。ISBN 9784816920356。 今井正監督を語り継ぐ会 編『今井正映画読本』論創社、2012年。ISBN 9784846011475。 今井正 - 日本映画データベース 今井正 - allcinema 今井正 - KINENOTE 週刊シネママガジン 映画監督 巨匠の歴史 第30回 今井正 表 話 編 歴 沼津兵学校 われ等が教官 多甚古村 女の街 閣下 結婚の生態 望楼の決死隊 怒りの海 愛の誓ひ 民衆の敵 人生とんぼ返り 地下街二十四時間 青い山脈 続・青い山脈 女の顔 また逢う日まで どっこい生きてる 山びこ学校 ひめゆりの塔 にごりえ 愛すればこそ 第二話 とびこんだ花嫁 ここに泉あり 由紀子 真昼の暗黒 米 純愛物語 夜の鼓 キクとイサム 白い崖 あれが港の灯だ 喜劇 にっぽんのお婆あちゃん 武士道残酷物語 越後つついし親不知 仇討 砂糖菓子が壊れるとき 不信のとき 橋のない川 第一部 橋のない川 第二部 婉という女 あゝ声なき友 海軍特別年少兵 小林多喜二 妖婆 あにいもうと 子育てごっこ ゆき ひめゆりの塔 戦争と青春 表 話 編 歴 今井正(1950、1953、1956、1957) 小津安二郎(1951) 成瀬巳喜男(1952) 溝口健二(1954) 豊田四郎(1955) 田坂具隆(1958) 市川崑(1959) 市川崑(1960、1962) 伊藤大輔(1961) 今村昌平(1963) 勅使河原宏(1964) 山本薩夫(1965) 山田洋次(1966) 深作欣二(1975) 山根成之(1976) 山田洋次(1977) 野村芳太郎(1978) 今村昌平(1979) 鈴木清順(1980) 根岸吉太郎(1981) 深作欣二(1982) 森田芳光(1983) 伊丹十三(1984) 黒澤明(1985) 熊井啓(1986) 原一男(1987) 和田誠(1988) 舛田利雄(1989) 篠田正浩(1990) 北野武(1991、1996、1998) 周防正行(1992) 滝田洋二郎(1993) 神代辰巳(1994) 金子修介(1995) 原田眞人(1997) 大島渚(1999) 阪本順治(2000) 行定勲(2001) 崔洋一(2002) 森田芳光(2003) 是枝裕和(2004、2008) 佐藤純彌(2005) 西川美和(2006、2009) 周防正行(2007) 石井裕也(2010) 新藤兼人(2011) 内田けんじ(2012) 大森立嗣(2013) 呉美保(2014) 橋口亮輔(2015) 片渕須直(2016) 白石和彌(2017、2018) 真利子哲也(2019) 中野量太(2020) 西川美和(2021) 早川千絵(2022) 石井裕也(2023) 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) 作品賞 監督賞 主演男優賞 主演女優賞 助演男優賞 助演女優賞 新人賞 表 話 編 歴 今井正(1946) 黒澤明(1947) 木下惠介(1948) 小津安二郎(1949) 吉村公三郎(1950) 成瀬巳喜男(1951) 渋谷実(1952) 今井正(1953) 木下惠介(1954) 成瀬巳喜男(1955) 今井正(1956) 今井正(1957) 木下惠介(1958) 山本薩夫(1959) 市川崑(1960) 小林正樹(1961) 市川崑(1962) 今村昌平(1963、1967) 勅使河原宏(1964) 内田吐夢(1965) 山本薩夫(1966) 岡本喜八(1968) 山田洋次(1969) 山本薩夫(1970) 篠田正浩、山田洋次(1971) 斎藤耕一(1972) 山田洋次(1973、1977) 野村芳太郎(1974) 新藤兼人(1975) 山本薩夫(1976) 野村芳太郎(1978) 長谷川和彦(1979) 黒澤明(1980、1985) 小栗康平(1981) 深作欣二(1982) 大島渚(1983) 伊丹十三(1984) 熊井啓(1986) 原一男(1987) 大林宣彦(1988) 舛田利雄(1989) 市川準(1990) 山田洋次(1991) 東陽一(1992) 市川準(1993) 神代辰巳(1994) 新藤兼人(1995) 周防正行(1996) 今村昌平(1997) 平山秀幸(1998) 森田芳光(1999) 阪本順治(2000) 宮崎駿(2001) 平山秀幸(2002) 崔洋一(2003) 黒木和雄(2004) 緒方明(2005) 根岸吉太郎(2006) 周防正行(2007) 若松孝二(2008) 園子温(2009) 三池崇史(2010) 富田克也(2011) 吉田大八(2012) 石井裕也(2013) 呉美保(2014) 塚本晋也(2015) 西川美和(2016) 富田克也(2017) 上田慎一郎(2018) 石川慶(2019) 河瀨直美(2020) 濱口竜介(2021) 三宅唱(2022) 石井裕也(2023) 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) 表 話 編 歴 成瀬巳喜男(1955) 今井正(1956、1957、1959) 木下惠介(1958) 市川崑(1960、1962) 羽仁進(1961) 今村昌平(1963、1968) 勅使河原宏(1964) 黒澤明(1965) 山本薩夫(1966) 小林正樹(1967) 篠田正浩(1969) 山田洋次(1970、1977) 大島渚(1971) 熊井啓(1972) 斎藤耕一(1973) 熊井啓(1974) 新藤兼人(1975) 長谷川和彦(1976) 東陽一(1978) 今村昌平(1979) 鈴木清順(1980) 小栗康平(1981) 深作欣二(1982) 森田芳光(1983、1985) 伊丹十三(1984) 熊井啓(1986) 伊丹十三(1987) 黒木和雄(1988) 今村昌平(1989) 中原俊(1990) 山田洋次(1991) 周防正行(1992) 崔洋一(1993) 原一男(1994) 新藤兼人(1995) 小栗康平(1996) 望月六郎(1997) 平山秀幸(1998) 原田眞人(1999) 阪本順治(2000) 行定勲(2001) 山田洋次(2002) 黒木和雄(2003) 崔洋一(2004) 井筒和幸(2005) 根岸吉太郎(2006) 周防正行(2007) 滝田洋二郎(2008) 木村大作(2009) 李相日(2010) 園子温(2011) 周防正行(2012) 石井裕也(2013) 呉美保(2014) 橋口亮輔(2015) 片渕須直(2016) 大林宣彦(2017) 瀬々敬久(2018) 白石和彌(2019) 大林宣彦(2020) 濱口竜介(2021) 高橋伴明(2022) ヴィム・ヴェンダース(2023) 表 話 編 歴 ロバート・アルドリッチ(1956) マリオ・モニチェリ(1957) 今井正(1958) 黒澤明(1959) ジャン=リュック・ゴダール(1960) ベルンハルト・ヴィッキ(1961) フランチェスコ・ロージ(1962) ニコス・コンドゥロス(英語版)(1963) サタジット・レイ(1964、1965) カルロス・サウラ(1966、1968) ジヴォジン・パウロヴィッチ(英語版)(1967) ジャン=ピエール・ブラン(英語版)(1972) セルゲイ・ソロヴィヨフ(英語版)(1975) マリオ・モニチェリ(1976) マヌエル・グティエレス・アラゴン(英語版)(1977) ゲオルギ・ジュルゲロフ(英語版)(1978) アストリズ・ヘニング=イエンセン(英語版)(1979) サボー・イシュトヴァーン(1980) マルクス・インホフ(英語版)(1981) マリオ・モニチェリ(1982) エリック・ロメール(1983) エットーレ・スコラ(1984) ロバート・ベントン(1985) ゲオルギー・シェンゲラーヤ(英語版)(1986) オリバー・ストーン(1987) ノーマン・ジュイソン(1988) ドゥシャン・ハナック(英語版)(1989) ミヒャエル・フェアヘーフェン(英語版)(1990) ジョナサン・デミ/リッキー・トニャッツィ(1991) ヤン・トロエル(1992) アンドリュー・バーキン(1993) クシシュトフ・キェシロフスキ(1994) リチャード・リンクレイター(1995) イム・ホー/リチャード・ロンクレイン(1996) エリック・ホイマン(フランス語版)(1997) ニール・ジョーダン(1998) スティーヴン・フリアーズ(1999) ミロス・フォアマン(2000) リン・チェンシン(英語版)(2001) オタール・イオセリアーニ(2002) パトリス・シェロー(2003) キム・ギドク(2004) マルク・ローテムント(2005) マイケル・ウィンターボトム/マット・ホワイトクロス(英語版)(2006) ヨセフ・シダー(2007) ポール・トーマス・アンダーソン(2008) アスガル・ファルハーディー(2009) ロマン・ポランスキー(2010) ウルリッヒ・コーラー(ドイツ語版)(2011) クリスティアン・ペツォールト(2012) デヴィッド・ゴードン・グリーン(2013) リチャード・リンクレイター(2014) ラドゥ・ジュデ(英語版)/マルゴスカ・シュモウスカ(英語版)(2015) ミア・ハンセン=ラヴ(2016) アキ・カウリスマキ(2017) ウェス・アンダーソン(2018) アンゲラ・シャーネレク(英語版)(2019) FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz ドイッチェ・ビオグラフィー 日本の映画監督 東宝の人物 日本共産党の人物 東京都区部出身の人物 1912年生 1991年没 旧制水戸高等学校出身の人物 芝中学校・高等学校出身の人物 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 ウィキデータにあるallcinema人物識別子 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/24 12:00更新
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imai tadashi
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