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土門拳の情報 (どもんけん)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

土門拳の情報(どもんけん) 写真家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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土門 拳さんについて調べます

■名前・氏名
土門 拳
(読み:どもん けん)
■職業
写真家
■土門拳の誕生日・生年月日
1909年10月25日
酉年(とり年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
山形出身

土門拳と同じ1909年生まれの有名人・芸能人

土門拳と同じ10月25日生まれの有名人・芸能人

土門拳と同じ出身地山形県生まれの有名人・芸能人


土門拳と関係のある人

水越武: 1999年 第18回土門拳賞 写真集「森林列島」


野町和嘉: 1984年、「バハル アフリカが流れる」、「サハラ悠遠」で第3回土門拳


岩田専太郎: 『私の履歴書 芸術家の独創』、田河水泡・土門拳・横尾忠則と共著、日本経済新聞出版社、日経ビジネス人文庫、2008年1月7日 ISBN 4532194342


木村伊兵衛: 特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。


入江泰吉: 土門拳が非常に多くシャッターを切るのと対照的であったという。


長倉洋海: 1993年、土門拳賞受賞。


植田正治: 植田作品は人をオブジェのように配する構図や、逆に物を擬人化するなどの特徴を持ち、土門拳や名取洋之助の時代以降の主観や演出を重視した日本の写真傾向と合致し、また、その後に大きく興隆する 広告写真、ファッション写真とも親近性があったこともあり、次第に評価が高まった。


佐藤時啓: 土門拳記念館館長。


坂田栄一郎: 2005年には今までの人物写真等の功績が讃えられ、「PIERCING THE SKY-天を射る」で第24回土門拳賞、日本写真協会作家賞をダブル受賞した。


山端庸介: 山端のほか、松重美人、土門拳、東松照明などによる「原爆写真」の系譜。


新正卓: 土門拳賞受賞記念講演会・ニッコールクラブ主催、於:新丸ビル


三留理男: この功績が認められ、1982年に第一回土門拳賞を受賞した。


高梨豊: 2012年 第31回土門拳賞(「IN'」)


十文字美信: 尾形光琳の「扇面貼交手箱」の撮影をきっかけに日本の黄金美術に興味を持ち、作品集『黄金 風天人』(1990) を上梓して、土門拳賞を受賞。


濱谷浩: 翌年には瀧口修造、兄の田中雅夫らと前衛写真協会を、また土門拳、林忠彦らとともに青年報道写真研究会を結成する。


木村伊兵衛: また写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じて、アマチュア写真の指導者として土門拳とともにリアリズム写真運動を推進した。


江成常夫: 1985年、土門拳


桑原甲子雄: 戦後は一転してアルス『カメラ』の編集長に就任して長く勤め、月例写真の選者に土門拳と木村伊兵衛を起用した。


本橋成一: 1998年 写真集『ナージャの村』で第17回土門拳賞受賞。


佐藤時啓: 2023年(令和05年) - 土門拳記念館館長。


三木淳: 顧問には木村伊兵衛と土門拳を迎えた。


今森光彦: 2009年 第28回土門拳


梅本忠男: 1938年7月に、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、光墨弘、加藤恭平 (写真家)、杉山吉良らとともに青年報道写真研究会を設立し、活躍した。


新正卓: 土門拳記念館


三木淳: しばらくすると、亀倉は写真の技術的なことを、土門拳に教えてもらうように勧めた。


東松照明: 1954年 - 愛知大学法経学部経済学科在学中、土門拳・木村伊兵衛が審査員を務める「カメラ(CAMERA)」の月例コンテストに応募。


藤本四八: 1937年(昭和12年) - 名取洋之助が主催する日本工房に入り、『NIPPON』誌上で土門拳らと共に活動する。


新正卓: 第5回「土門拳賞」受賞『遥かなる祖国』写真展・写真集


福田勝治: 1936年には「女の写し方」という写真撮影技法に関する連載を「アサヒカメラ」誌上で行い、1937年に書籍として出版し、その人気は木村伊兵衛、土門拳を上回るほどだったという。


三木淳: そのなかから6万円を奮発し、新品のライカを土門拳にプレゼントした。


土門拳の情報まとめ

もしもしロボ

土門 拳(どもん けん)さんの誕生日は1909年10月25日です。山形出身の写真家のようです。

もしもしロボ

作風、名取洋之助との対立などについてまとめました。卒業、兄弟、趣味、現在、事件、退社に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

土門拳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。

リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。

1909年10月25日 - 山形県飽海郡酒田町鷹町(現・酒田市相生町)に父熊造、母とみえの長男として誕生。

1916年 - 一家で東京へ移住。

1917年 - 麻布区飯倉小学校に入学。

1918年 - 一家で横浜市磯子区へ移転、磯子小学校へ編入。

1921年 - 一家で同市の神奈川区へ移転、二ッ谷小学校へ編入。絵画を描きはじめる。

1926年 - 土門が描いた十五号の薔薇の油彩が横浜美術展覧会で入選。審査員は安井曾太郎。

1927年 - 考古学に興味を持ち、学校の周囲で土器や石器掘りに熱中する。

1928年 - 旧制神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)卒業。日本大学専門部法科に進学するが中退、 逓信省の倉庫用務員になる。

1929年 - 三味線に熱中し、常盤津の師匠に弟子入りする。

1932年 - 農民運動に参加し、検挙される。

1933年 - 遠縁にあたる宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。

1935年 - 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選した。またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募、名取のもとで報道写真を撮り始めた。

1936年 - 日本工房発行の欧文雑誌『NIPPON』の記事作成のため、伊豆を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や、「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作に数えられる。

1937年 - 早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。なお同書は2009年に復刻された。

1938年 - 土門が撮影した、当時の外務大臣・宇垣一成のルポルタージュ、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」9月5日号に掲載される。濱谷浩、藤本四八、光墨弘、田村茂、林忠彦、加藤恭平、杉山吉良らと「青年報道写真研究会」を結成。

1941年 - 文楽の撮影を開始する。対米宣戦布告の号外を見たのは、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋でのことだった。徴兵検査を受けるが不合格となり帰郷。

1943年 - 第1回アルス写真文化賞受賞。荻原守衛の彫刻作品を撮影する。

1946年 - 戦後はじめてとなる古寺の撮影を開始する。

1949年 - 写真雑誌「カメラ」の企画で桑原甲子雄編集長とともに大阪、中国地方の旅に出る。大阪でははじめて安井仲治のオリジナルプリントの作品にふれる。鳥取では植田正治らと撮影会をおこなう。

1950年 - 木村伊兵衛とともに「カメラ」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱。また木村とともに三木淳の結成した「集団フォト」の顧問になる。

1953年 - 江東区の子どもたちを撮りはじめる。写真集『風貌』(アルス社)刊行。このころからカラーフィルムを使いはじめる。

1954年 - 写真集『室生寺』(美術出版社)刊行。

1957年 - 広島を取材。

1958年 - 写真集『ヒロシマ』(研光社)刊行。同社のカメラ誌「フォトアート」月例審査員を1963年まで断続的に務める。

1959年 - 筑豊炭鉱労働者を取材する。

1960年 - 写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)を100円で刊行。続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社)を完成直後、脳出血を発症。回復後、ライフワークとなる大型カメラによる『古寺巡礼』の撮影を開始。古美術商の近藤金吾の知己を得、骨董に興味を持つ。

1961年 - 「芸術新潮」に『私の美学』を連載。

1962年 - 装幀家の菅野梅三郎との交流がきっかけとなり古陶磁の撮影を始める。

1963年 - 写真集『古寺巡礼』第一集(美術出版社)を刊行。7月に創刊された平凡社の雑誌「太陽」の連載記事「日本のあけぼの」の写真を手がける。後年『日本人の原像』として単行本化。

1964年 - 京都の東寺(教王護国寺)を撮影する。

1965年 - 写真集『信楽大壺』(東京中日新聞社)、『古寺巡礼』第二集(美術出版社)、『大師のみてら 東寺』(東寺保存会 非売品)刊行。

1966年 - 草柳大蔵とのコンビで、平凡社「太陽」に『日本名匠伝』を連載。土門が撮影を担当した勅使河原蒼風の作品集「私の花」(講談社)刊行。考古学研究書『日本人の原像』(平凡社)刊行。芹沢長介と坪井清足がテキストを執筆、福沢一郎が挿画、土門が写真を担当した。同年、日本リアリズム写真集団の顧問に就任。

1967年 - 1月秋田県木地山のこけし職人小椋久太郎を撮影する。『太陽』の依頼で2月と6月の二回にわたり屋久島を訪れ、藪椿や石楠花を撮影。同じく3月に東大寺二月堂のお水取りを撮影。11月には羽田闘争を撮影(最後の報道写真)する。

1968年 - 前年に取材した東大寺のお水取りの模様が平凡社「太陽」1月号に特集記事として掲載される。10年ぶりに再び広島を取材。6月、東京・ニコンサロンで、作品展「憎悪と失意の日日、ヒロシマは続いている」を開催。写真集『古寺巡礼』第三集(美術出版社)刊行。6月、雑誌「太陽」の取材で滞在していた山口県萩市で二度目の脳出血を発症し、九州大学付属病院に緊急入院。右半身不随となるが、左手で水彩画を描いたりしてリハビリテーションに励む。撮影は助手として同行していた弟の牧直視が引き継ぎ、同誌の9月号に特集記事として掲載される。なお、写真のクレジットは牧直視名義となっており、土門の作品が使用されているかは不明。

1969年 - 6月、長野県鹿教湯温泉にある東京大学療養所に転院。リハビリテーションを続ける。

1970年 - 車椅子にて撮影を再開。風景写真を数多く撮る。

1971年 - 写真集『古寺巡礼』第四集(美術出版社)、『薬師寺』(毎日新聞社)、『荻原守衛』(筑摩書房)刊行。『古寺巡礼』の業績に対し第19回菊池寛賞受賞。

1972年 - 写真集『文楽』(駸々堂)刊行。本文は武智鉄二が担当した。同年、紫綬褒章を受章した。

1973年 - 写真集『東大寺』(平凡社)刊行。平凡社「太陽」に『骨董夜話』を連載。

1974年 - 写真集『古窯遍歴』(矢来書院)、『日本名匠伝』(駸々堂)を刊行。初めての随筆集『死ぬことと生きること』正・続(築地書館)刊行。酒田市の名誉市民第一号となる。

1975年 - 写真集『古寺巡礼』第五集(美術出版社)、『私の美学』(駸々堂)、随筆集『骨董夜話』(共著、平凡社)刊行。

1976年 - 初めての風景写真集『風景』(矢来書院)刊行。写真集『子どもたち』(ニッコールクラブ 非売品)、写真論集『写真作法』(ダヴィッド社)刊行。5月より箱根 彫刻の森美術館の野外彫刻の撮影を始める。

1977年 - 日本経済新聞の「私の履歴書」を25回分連載。随筆集『三人三様』(共著、講談社)刊行。写真集『土門拳自選作品集』全三巻(世界文化社)を翌78年にかけ刊行。

1978年 - 3月、初めて雪景の室生寺を撮影。またこの時初めてストロボを使用する。写真集『女人高野室生寺』(美術出版社)、『日本の美』(伊藤ハム栄養食品 非売品)、『生きているヒロシマ』(築地書館)刊行。カメラ誌の月例審査をまとめた『写真批評』(ダヴィッド社)刊行。

1979年 - 写真集『現代彫刻』(サンケイ新聞社)、随筆集『写真随筆』(ダヴィッド社)刊行。7月に生前最期の撮影地となった福井県丹生郡にて越前甕墓や越前海岸などを撮影。これらの写真は「カメラ毎日」1979年11月号などに掲載された。9月11日に脳血栓を発症、昏睡状態となる。

1980年 - 勲四等旭日小綬章を受章した。

1990年 - 9月15日、心不全のため、虎の門病院で死去。80歳。墓所は八柱霊園。

作風

この節は言葉を濁した曖昧な記述になっています。Wikipedia:言葉を濁さないおよびWikipedia:避けたい言葉を参考に修正してください。(2011年12月)
リアリズム写真 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。木村は「写真はメカニズムである」と捉えたのに対し、土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。土門は様々なジャンルの写真作品を撮影しているが、いずれにおいても、完全な没個性(無記名)という報道写真ではなく、自分の個性を重視した。 月例土門
カメラ雑誌『フォトアート』の月例審査のために写真を選んでいる土門拳。1956年撮影。
土門はまた、アルス社の「カメラ」誌の月例写真コンテスト審査員として、写真一枚一枚について詳細な批評を加え、懇切丁寧にアマチュア写真家を指導した。(月例土門と称された。)そのことを通じて自らの社会的リアリズムを一つの運動として盛り上げようと試みた。その結果、土門は一時、絶大な支持と人気を集めることには成功したが、運動の成果は土門の満足の行くものではなかった。投稿者にはのちに著名となる東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らがいた。 日本文化への傾斜 彼は日本工房在籍時から日本人が造った物に深い愛情と憧憬を抱き続け、フリーになってからは仏像や寺院、古陶磁などの伝統工芸品や風景など、一貫して日本の美を撮り続けた。周囲には、彼がとりあげる被写体の変化を趣味または退行と見なす者もいたが、土門は「古いものから新しいものを掬い上げる」報道として捉えていた。 「乞食写真」 土門の「社会的リアリズム」に対しては当時、さまざまな誤解や非難もなされた。一つにはリアリズムを単なるスナップ写真と解釈する者がいた。また、「パンパン」や浮浪児、傷病兵など、当時の社会の底辺にカメラを向ける土門やその影響下にあるアマチュア写真家の一群の写真を評して「乞食写真」という批判をなす者もいた。 女性ポートレート ライバルとされた木村伊兵衛は浅い被写界深度でソフトなタッチで女性を撮影し好評を博したのに対し、土門は女性のポートレートにおいても「リアリズム」を発揮し、深い被写界深度でシワやシミなども遠慮会釈なく映し出したので、被写体となった女性たちから不評を買うことも少なくなかったが、その一方でどうしても土門に写真を撮ってもらいたいという女性もいた。 土門が選んだ世界の写真家ベスト10 1948年に土門は『カメラ』12月号のアンケートに答えて、世界の有名写真家ベスト10を挙げている(現在、当該記事は『写真随筆』(ダヴィッド社)に所収)。
    第1位 - エドワード・スタイケン

第2位 - ムンカーチ・マールトン

第3位 - マン・レイ

第4位 - ブラッシャイ

第5位 - アーウィン・ブルーメンフェルド

第6位 - セシル・ビートン

第7位 - ハーバート・リスト

第8位 - エドワード・ウェストン

第9位 - ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン

第10位 - マーガレット・バーク=ホワイト

追求と寛容

土門は完全主義者としても知られており、生来の不器用さを逆手に取り、膨大な出費や労力をいとわず、何度も撮影を重ねることによって生まれる予想外の成果を尊んだ。撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。撮影中は飲まず食わずで弟子にも厳しく、「鬼の土門」と称されるほどの鬼気迫る仕事ぶりであったが、人を惹き付ける魅力があり、多くの後進を育てた。

弟子には、芹沢長介、八木下弘、三木淳、北沢勉、牧直視、牛尾喜道、藤森武、西川孟、毛利秀之らがいる。

写真集へのこだわり

土門は、作品発表の場として展覧会よりも写真集を重視し、『古寺巡礼』全五集(美術出版社、1963年-1975年)などでは撮影から製本の一部始終にまでこだわった結果、定価も第一集が23,000円と、大卒者の初任給が40,000円程度であった当時、大変高価なものになった。

使用機材

ダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判

ジナーS4x5in判

ニコンSP+ニッコール85mmF1.5、35mmF2.8、28mmF3.5

ミランダT

ライカM3+ズミクロン50mmF2、沈胴式エルマー90mmF4

ニコンF2フォトミック+マイクロニッコール105mmF4

名取洋之助との対立

写真は芸術か?

2人が対立したのは、著作権の帰属が原因であった。名取洋之助は、ドイツのウルシュタイン社で報道写真家として活躍していた背景から、写真は芸術でも個人の作品でもなく、編集者ひいては雇用者である企業が著作権を持つ物であると考えていた。これに対し写真は表現手段の1つであり、個人の芸術的な所産だと土門は考えていた。この対立には、西洋と東洋、絵画と写真、芸術性・個人性と社会性・集団性・企業性など様々な思想の対立が背景にある。

ライフ投稿事件

土門が日本工房で働いていた4年間はプロの写真家としてはまだ駆け出しの頃にあたる。この時代、土門と名取の相性はすこぶる悪く、1936年に土門が伊豆を撮った一連の写真は別にしても、名取は土門の写真をまるで評価していなかった。傍目から見ても、名取は土門をいじめているように見えたという。

名取と土門の対立を決定的にした事件は1937年に起こった。当時アメリカ滞在中だった名取は、グラフ誌『ライフ』に土門の作品を名取名義で発表したのである (1937年8月の『ライフ』の特集の中で、名取の作品の中に土門の写真が組み込まれていたが、すべてが名取の名前で公表されていた)。ただ、これは名取に一方的な非があったわけではない。当時は海外配信システムが日本政府によって統制されており、土門の場合に限らず、写真の発表は名取の名前で配信することになっていためやむを得ない面があった。いずれにしても、撮影者の名前でではなく名取の名前で発表されることに土門は不満だった。

このことに土門は怒り、1年後の1938年、土門はタイムライフ社からの依頼により、当時の外相の宇垣一成を取材。同時に取材していた木村伊兵衛を出し抜き、「ライフ」誌に「KEN DOMON」の特注のスタンプを捺した自分の作品を投稿した。土門は、名取が中国に出張中で不在だった時期を狙って写真を送った。土門の写真は採用され、Japan's foreign minister, posed at home and ahorse, asks help against China〈LIFE Magazine - September 5, 1938 Fall Fashions〉の記事内で使用された。ライバルの木村はもとより、名取への大きな反撃となった。しかし、この当時、日本政府の統制下にあって、対内外宣伝写真の撮影は秘密厳守が求められており、土門のこの行動は政府による規制に違反していた。当然、名取は激怒した。程なくして土門は日本工房を退社、名取との関係に自ら終止符を打った。こうして2人の仲は決裂し、土門は師の名取の葬儀にも参列をしぶる程になってしまった。しかし、土門は写真家としての名取には敬意を払っていたようで、名取の写真集『麦積山石窟』(1957年出版)は、自著で評価を与えている。また名取も、滅多に人を褒めなかったが、土門が辞めたのち『NIPPON』8号に掲載した土門の作品『伊豆』を「傑作だよ。あれはそうそう撮れるもんじゃねぇ」と激賞していたという。

2024/06/23 18:59更新

domon ken


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