梁瀬次郎の情報(やなせじろう) 経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
梁瀬 次郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
梁瀬次郎と関係のある人
梁瀬次郎の情報まとめ
梁瀬 次郎(やなせ じろう)さんの誕生日は1916年6月28日です。東京出身の経営者のようです。
父親、卒業、結婚、現在に関する情報もありますね。2008年に亡くなられているようです。
梁瀬次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日 - 2008年〈平成20年〉3月13日)は、日本の実業家。位階は従四位。勲等は勲二等。 梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。 東京府出身の実業家である。父親・梁瀬長太郎が設立したヤナセグループの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた 。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。 1916年生まれ、東京府出身である。1923年に関東大震災が発生し、父の郷里である群馬県碓氷郡豊岡村(現高崎市)に避難した。のちに麹町小学校、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部(旧制)にて学ぶ。1939年、慶應義塾大学経済学部を卒業し、梁瀬自動車に入社した。 1941年には取締役として名を連ねた。なお、この年に梁瀬自動車は梁瀬自動車工業に商号変更している。 1945年、再び梁瀬自動車に商号変更した。同年、社長に就任した。なお、それまで社長として会社を率いてきた梁瀬長太郎は会長に退いた。 1970年にはヤナセに商号変更しているが、次郎は引き続き社長を務めた。1985年、稲山孝英に社長の座を譲り、次郎は会長に就任した。しかし、1987年になると、社長を務めていた稲山が副会長に退くことになり、次郎が会長のまま社長も同時に兼務することになった。1997年、稲山が再び社長に就任することになり、次郎は会長のみ務めることになった。2004年には米国の自動車殿堂入りを果たした。2008年3月13日、肺炎のため東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、91歳没。 2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続き、5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。殿堂入りの祝賀会では、「私はかつて吉田茂翁(元首相)にお目にかかり、地下資源に恵まれない日本が繁栄するにはまず自分の国を愛する愛国心を失ってはいけない、それには世界諸国の理解を深め、仲良くお付き合いする国際心が無ければならない、ということを学んだ。戦後、日本経済の復興のために輸出が奨励され、輸出が愛国心であるなら、輸入は国際心であることを学び、一生懸命に仕事に努力した」とスピーチした。 1997年1月30日、藤岡信勝、西尾幹二らによって「新しい歴史教科書をつくる会」が設立されると、各界著名人が賛意を表し、同年6月6日時点の賛同者は204人を数えた。梁瀬もその中に名を連ねた。 梁瀬家について、次郎によれば「梁瀬家の先祖は甲州武田家の遺臣だった。武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ高崎の一歩手前の豊岡村に土着した。二十数代、代々農業、精米、養鯉などを家業としていた。父が私をしかる時に『お前は武田勝頼以下だ。お前の顔など見たくない』とどなった」という。また、母について、次郎によると「母ちゃう(利子)は群馬県多野郡多胡村大半地(現・高崎市吉井町 )で生まれた。母の祖父は群馬県で一番のたばこの栽培業者で、いわゆる吉井のお大尽だった。黒沢家は相場の失敗、浪費によって身代を失い母は上京し浅草の府立第一女学校に通い卒業後父と結婚二男五女をもうけた」という。また、次郎の妻は、明治政府外交官津田五郎の長女であった。次郎の長女は、元経団連会長稲山嘉寛三男稲山孝英の妻となった。次郎の二女は、元鹿島建設会長鹿島守之助長男昭一の妻となった。なお、下記以外にも係累縁者が多数存在するが、ここでは次郎の親族に該当する著名人のみを列挙した。 梁瀬孫平(祖父) - 農家 漆山一(義兄) - 実業家 近山金次(義兄) - 歴史学者 尾澤金藏(義弟) - 実業家 鹿島昭一(娘婿) - 実業家 稲山孝英(娘婿) - 実業家 梁瀬泰孝(孫・養子) - 実業家 赤地に太字が本人、緑地は本人以外の梁瀬家の当主である。 係累縁者が多いため、梁瀬次郎の親族に該当する著名人のみ氏名を記載した。 梁瀬泰孝は稲山孝英の息子であり、梁瀬次郎の養子となった。 1916年 - 東京府東京市にて誕生。 1939年 - 慶應義塾大学経済学部卒業。 1939年 - 梁瀬自動車入社。 1941年 - 梁瀬自動車工業取締役。 1945年 - 梁瀬自動車社長。 1970年 - ヤナセ社長。 1985年 - ヤナセ会長。 1987年 - ヤナセ社長。 2002年 - ヤナセ名誉会長。 2008年 - 東京都港区にて死去。 1999年 - バーデン=ヴュルテンベルク州経済功労賞。 2004年 - 自動車殿堂顕彰。 2008年 - 交通栄誉章緑十字金賞。 1974年 - 藍綬褒章。 1974年 - ドイツ功労勲章一等功労十字章。 1985年 - バイエルン州功労勲章。 1985年 - フランス芸術文化勲章。 1987年 - 勲二等瑞宝章。 1987年 - ドイツ大功労十字章。 2008年 - 従四位。 『じゃんけんぽん』 図書出版社 1992年 『あそびの匂い』 時事通信社、1993年 『旅の匂い』 時事通信社、1993年 『アメリカの匂い』 時事通信社、1993年 『ひとの匂い』 時事通信社、1994年 『心を創る七つの言葉』 時事通信社、1998年 ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像8』 232頁 ^ AGN ヤナセ、梁瀬次郎会長が「米国自動車殿堂」入り ^ 梁瀬次郎氏、米国自動車殿堂入り祝賀会を開催 - Response. 2004年11月19日(金) 20時05分版 ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像8』 232頁には「大正5年群馬県生れ」と記載されている ^ 貝裕珍. “「新しい歴史教科書をつくる会」のExit, Voice, Loyalty” (PDF). 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部. 2022年6月13日閲覧。 ^ 斉加尚代『教育と愛国―誰が教室を窒息させるのか』岩波書店、2019年5月30日、22-23頁。 ^ 「同会賛同者名簿(一九九七年六月六日現在)」 『西尾幹二全集 第17巻』国書刊行会、2018年12月25日。 ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像8』 232頁 ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像8』 234頁 『私の履歴書 昭和の経営者群像8』 231-298頁、日本経済新聞社、1992年 ヤナセ 梁瀬次郎【やなせ・じろう】ヤナセ社長・会長【偉人データ】 輸入開始から53年「梁瀬次郎、メルセデス・ベンツとの歩み」開催 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の自動車実業家 日本の自動車の先駆者 日本自動車殿堂殿堂者 米国自動車殿堂殿堂者 ヤナセの人物 従四位受位者 勲二等瑞宝章受章者 藍綬褒章受章者 梁瀬家 私の履歴書の登場人物 吃音の人物 慶應義塾大学出身の人物 慶應義塾幼稚舎出身の人物 東京都区部出身の人物 1916年生 2008年没 プロジェクト人物伝項目 すべてのスタブ記事 人物関連のスタブ項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/18 23:49更新
|
yanase jirou
梁瀬次郎と同じ誕生日6月28日生まれ、同じ東京出身の人
TOPニュース
梁瀬次郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「梁瀬次郎」を素材として二次利用しています。