稲山嘉寛の情報(いなやまよしひろ) 経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
稲山 嘉寛さんについて調べます
■名前・氏名 |
稲山嘉寛と関係のある人
永野重雄: 新会社の社長には八幡製鐵社長・稲山嘉寛が就任した。 篠原三代平: (H・T・パトリック・渡部経彦・有沢広巳・内田忠夫・稲山嘉寛)『私の日本経済論』(日本経済新聞社、1965年) 松沢卓二: 会長となると稲山嘉寛経団連会長からの求めに応じ、財政金融委員長に就いたほか、臨時行政改革推進審議会委員の瀬島龍三からの懇請を受け、83年10月、国鉄監査委員会委員長となり、最後の委員長も務めた。 藤井丙午: しかし、社内方針を巡り永野重雄と鋭く対立、稲山嘉寛を巻き込む社内紛争に発展し、結局三者揃って退陣することで決着する。 斎藤英四郎: 1986年、同じ新日鉄の稲山嘉寛の後を継いで第6代経団連会長に就任。 勝俣孝雄: 「ゴードファーザー」こと永野重雄、稲山嘉寛の二人が1983年に引退宣言。 安岡正篤: 葬儀は1984年(昭和59年)1月25日に青山葬儀所で、葬儀委員長に岸信介、同副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四によって執行。 平井富三郎: 1973年より稲山嘉寛の後の社長に就任し、統合後の新日鉄を軌道に乗せるべく尽力した。 千速晃: 稲山嘉寛、永野重雄といった重鎮に秘書として仕える。 鮎川義介: 『稲山嘉寛・嶋田卓弥・林房雄・諸橋轍次・鮎川義介』日本経済新聞社〈私の履歴書 第24集〉、1965年6月。 |
稲山嘉寛の情報まとめ
稲山 嘉寛(いなやま よしひろ)さんの誕生日は1904年1月2日です。東京出身の経営者のようです。
現在に関する情報もありますね。1987年に亡くなられているようです。
稲山嘉寛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月2日 - 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の実業家、財界人。第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年 - 1986年)。 東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。銀行を始めたのは祖父稲山久仙で千葉県の農家の二男として生まれ幕末、11歳の時江戸へ出て働くうちに見込まれ、稲山家の養子になり勤倹貯蓄のすえ、小なりとはいえ銀行をつくった。 入学試験・入社試験には苦労し続け、泰明小を経て、中学受験では東京府立一中、府立四中、開成中、麻布中に落ち、神田の錦城中に入学する。その後も府立一中の転入試験を二度受け、二度目の受験時には制服制帽も買い揃えていたが失敗。高校入試も水戸高等学校に落ち、翌年仙台の第二高等学校に入る。大学は当時新設学科のため無試験だった東京帝国大学経済学部商業学科に入学することができたが、就職活動でまた一苦労する。大蔵省、鉄道省、日本銀行、三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)、三井銀行(現・三井住友銀行)その他に立て続けに落ち続け、ようやく商工省より高等文官試験パスを条件に内定を獲得、見事高文に合格し、1927年官営八幡製鐵所に入所する。 入所後販売畑を歩み、1946年日本製鐵(日鉄)営業部長、1950年日鉄分割によって発足した八幡製鐵常務兼営業部長、1960年副社長を務めた後、1962年社長に就任する。社長就任後は日鉄時代の上司である富士製鐵社長の永野重雄とともに、旧日鉄の復活を目指し、公正取引委員会他の反対を乗り越えながら、1970年八幡・富士合併による新日本製鐵(現:日本製鉄)誕生を実現させた。稲山が合併推進に尽力したのは、1960年代後半から鉄鋼業界の過当競争が激しくなり、価格安定のためには1位・2位メーカーが合併して需給調節をするしかないという結論に至ったからであった。このように、つねに「競争より協調を目指すべき」という信念が経済人稲山の行動原理として貫かれており、「ミスター・カルテル」の異名を取るに至った。 稲山は新日鉄の初代社長(1970年~1973年)、会長(1973年~1981年)を務めたのち、1980年土光敏夫の後継として第5代経団連会長に就任する。1980年代より欧州・米国との間で貿易摩擦問題が発生したが、稲山は国際協調を重視し「我慢の哲学」を押し出して自動車・VTR等の輸出自主規制を指導した。また「増税なき財政再建」を目指すべく「行革推進5人委員会」のメンバーとなり、土光臨調をバックアップした。1982年勲一等旭日大綬章受章。 銀行頭取の御曹司だけあり、若い頃から小唄・常盤津節をたしなむなど洒脱であったが、私生活は質素であり、死去まで約40年近く世田谷の新日鉄社宅に住み続けた。 1987年10月9日、肺癌のため逝去。享年83。 浦項総合製鉄(現在のポスコ)の当時の社長の朴泰俊(のち名誉会長、韓国首相)は「物を盗むのは泥棒で悪いことだが、心を盗むのは良いことで戦略的なこと」と誇り、稲山を「いろいろと助けてくれた。心が開かれた方だった」とした。 103万トンの1次高炉が成功した後、稲山に会いにいった時、朴が日本の最新流行歌を多く知っていたので、稲山が自分の車に同乗させ、歌ってみろと言ったので歌ってみせると「『よくやった』と言って大喜びした。 それほど親しかった」とエピソードを明かし「親しくなってこそ全てを持ってこられる。こうした戦略がなければ技術は導入できない。このように人間の心を盗んでこそ技術まで、願うものを持ってくることができる」と語っている。 朴曰く、稲山は全面支援を約束したが、製鉄所の現場は世界最高の技術をなぜ他人に譲らなければいけないのかと、上からの命令に抵抗した。製鉄所のアイデンティティーといえる規定集(製鉄技術マニュアル集)、図面設計、機械の性格を日本の先進製鉄所からほとんどすべて導入することができた。 朴は稲山が「日本が数十年にわたった韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも、同事業(浦項製鉄の事業)に協力するのが当然であると力説された」と述べている。 なお稲山の死後、1990年代には新日鉄を退職した技術者がポスコに技術を流出させ、のちにポスコと新日鉄住金は訴訟で争うこととなった。 三男 稲山孝英(ヤナセ第3代社長) – 妻はヤナセ第2代社長梁瀬次郎の娘 その他の親戚 赤城宗徳(政治家)、鹿島守之助(実業家)など 稲山氏 中曽根康弘 ┃ ┣━━━┳美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━蔦子 ┃ ┗美恵子 ┏渥美昭夫 ┃ ┃ ┃ 渥美育郎━━━╋渥美謙二 ┃ ┃ ┃ ┗渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 ┃ 鹿島守之助 ┃石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣よし子 鹿島精一 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━卯女 ┣三枝子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━いと ┗鹿島昭一 ┃ ┃ ┏公子 梁瀬長太郎━梁瀬次郎━━━━┫ ┗弘子 ┃ ┃ ┏稲山孝英 稲山伝太郎━稲山嘉寛━━━┫ ┗稲山繁孝 ┃ ┃ ┏赤城正武━━━━博子 ┃ ┗赤城宗徳 脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
表 話 編 歴 石川一郎1948-1956 石坂泰三1956-1968 植村甲午郎1968-1974 土光敏夫1974-1980 稲山嘉寛1980-1986 斎藤英四郎1986-1990 平岩外四1990-1994 豊田章一郎1994-1998 今井敬1998-2002 諸井貫一1948-1968 三鬼隆1949-1952 加藤正人1949-1963 桜田武1960-1979 大槻文平1979-1987 鈴木永二1987-1991 永野健1991-1995 根本二郎1995-1999 奥田碩1999-2002 奥田碩2002-2006 御手洗冨士夫2006-2010 米倉弘昌2010-2014 榊原定征2014-2018 中西宏明2018-2021 十倉雅和2021- 表 話 編 歴 牧野伸顕1924-1946 津島壽一1955-1967 足立正1967-1973 佐藤喜一郎1973-1974 田実渉1974-1982 稲山嘉寛1982-1987 朝田静夫1993-1996 今井敬2004- FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 20世紀日本の実業家 日本の商工官僚 日本経済団体連合会会長 日本製鐵の人物 新日本製鐵の人物 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 肺癌で亡くなった人物 私の履歴書の登場人物 東京大学出身の人物 旧制第二高等学校出身の人物 錦城学園高等学校出身の人物 東京都出身の人物 1904年生 1987年没 言葉を濁した記述のある記事 (いつ)/2021年7月-8月 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/02 16:35更新
|
inayama yoshihiro
稲山嘉寛と同じ誕生日1月2日生まれ、同じ東京出身の人
TOPニュース
稲山嘉寛と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「稲山嘉寛」を素材として二次利用しています。