吉川一雄の情報(よしかわかずお) ゴルフ 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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吉川一雄の情報まとめ
吉川 一雄(よしかわ かずお)さんの誕生日は1946年11月2日です。兵庫出身のゴルフ選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。吉川一雄の現在の年齢は78歳のようです。
吉川一雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉川 一雄(よしかわ かずお、1946年11月2日 - )は、京都府出身のプロゴルファー。 5歳からゴルフを始める。高校卒業後に戸田藤一郎に師事し、戸田最後の門下生と言われる。1969年に23歳でプロテストに合格し、尾崎将司と同期となる。1972年には美津濃トーナメント・関西オープンに勝ち、1973年にはオールスターゴルフトーナメントを制するなどすぐに頭角を現し、中村通・山本善隆・宮本康弘と共に「関西四天王」とも呼ばれた。 1973年、ダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる「全日空フェニックストーナメント」では、宮本と最後まで激しいデッドヒートを繰り広げ、最終日の16番で首位に立ったが、17、18番で痛恨のボギーを叩く。尾崎将司と並んでの2位タイに終わるが、優勝した宮本を祝福している。 1976年の日本プロマッチプレーでは、4日目の準決勝で鈴木規夫と対戦し、1アップで最終18番を迎え、グリーンエッジでチップインバーディーを決めて勝ち上がる。新井規矩雄との決勝では1番でバーディー、2,3番では新井のボギーでスタートから3ホール連続アップして有利に試合を進めた。その後は、新井が5、10番、吉川が9、13番で取って吉川3アップのまま終盤に入る。15番で新井がとって2アップになった吉川は、ここを取れば勝ちとなる17番パー3でピン手前15ヤードにオン。新井はグリーン手前に外し、チップインを狙って打ったが僅かにショートした。吉川はロングパットを30cmに寄せ、パーパットを沈めて2-1で決着。2代目のマッチプレー王者、吉川にとっては初めての日本タイトル奪取になった。師匠である戸田譲りのアイアンの切れの良さを大会随所で見せ、特に決勝では新井よりドライバー飛距離が劣るが、先にピンに絡めて行くことで、プレッシャーをかけた。試合後には「出だしで楽になりました。10番で新井さんにいきなり長いパット(10m)を決められた。11番パー5で4オンのパーでしたけど、新井さんがバーディーパットを外してくれたので」と日刊スポーツに展開を振り返り、「300万円(2位賞金)でも最高やと思っていたし、(優勝賞金600万円は)女房も喜ぶでしょう」と笑顔を見せた。 1979年には井上幸一と共にワールドカップ日本代表に選出され、団体でヘール・アーウィン&ジョン・マハフィー(アメリカ合衆国)、ケン・ブラウン&サンディ・ライル(スコットランド)、アントニオ・ガリード&マヌエル・ピニェロ(スペイン)、ハイメ・ゴンザレス&ラファエル・ナバロ(ブラジル)、陳志明&呂西鈞(中華民国)、エディ・ポーランド&デス・スミス(アイルランド)に次ぎ、マーク・ジェームス&マイケル・キング(イングランド)、ジャン・ガライアルド&ベルナール・パッカシオ(フランス)を抑え、ダン・ホールドソン&ジム・ネルフォード(カナダ)と並んで7位に入る。個人ではアーウィン、ベルンハルト・ランガー(西ドイツ)、ライル、ゴンザレス、ガリード、マハフィー、ラモン・ムニョス(ベネズエラ)に次ぎ、ブラウン、呂と並んで8位タイに入った。 1980年の日本オープン4日目ではまったく逆方向の風が吹きすさぶ中、序盤からバーディを重ね4アンダーまでスコアを伸ばし菊地勝司から首位を奪うが、13番で3パットのボギーを叩くと、人が変わったようにショットが乱れ始める。15番でボギー、16番でダボ、17番でボギーと大きく崩れ通算1オーバーでフィニッシュし、最終的には青木功と並んでの2位タイに終わった。 1982年の日本アジア航空ゴルフトーナメントでは初日を陳志・宮本・許勝三(中華民国)と並んでの2位タイでスタートし、3日目には6位に着け、最終日には藤木三郎・呂西と並んでの5位タイに入った。 1992年のブリヂストン阿蘇オープンを最後にレギュラーツアーから引退し、その後はシニアツアー入り。 不整脈が出て検査入院し、ニトログリセリンを携帯しながらプレーしたこともあったが、2016年の日本プロゴールドシニアでは初日に5バーディー、3ボギーの2アンダー70で首位に並ぶ。スタートの10番で2m、12番でも2mとショットが冴え、14番では上から5mを入れて3つ伸ばす。15番でダブルボギーになりそうな2mのボギーパットを沈めて落ち着き、後半をイーブンで回った。最終日は9番からボギー、ダボ、ボギーで、10番は折り返しで待たされてOBを打ってしまう。その後は立て直して15、16番でバーディーを取り、1打差2位と健闘。 1972年 - 美津濃トーナメント、関西オープン 1973年 - オールスタートーナメント 1976年 - 日本プロマッチプレー 1985年 - 兵庫県オープン ^ 第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年) ^ 第2回 1972年(昭和47年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン ^ 大会概要(大会歴史) | 関西オープンゴルフ選手権 ^ 毎日放送40年史編纂室(編集)『毎日放送の40年』毎日放送、1991年、258頁。 ^ 朝日新聞縮刷版p318 昭和48年12月10日朝刊14面「宮本プロ入り初優勝 1打差 2位に吉川・尾崎 フェニックス・ゴルフ」 ^ 吉川一雄(田辺) 男子プロゴルファー “全日空フェニックス・トーナメントゴルフ” 最終日 ^ 1973年12月09日 吉川に祝福される宮本 全日空フェニックスゴルフ ^ 1980年日本オープン最終日 青木功の悲願を打ち砕いた菊地勝司の神業ショートゲーム【名勝負ものがたり】 ^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】 ^ 毎日新聞縮刷版p323 昭和57年12月10日朝刊19面 ^ 毎日新聞縮刷版p389 昭和57年12月12日朝刊19面 ^ 毎日新聞縮刷版p416 昭和57年12月13日朝刊18面 ^ 吉川 一雄選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site ^ 〔1R・ゴールド〕かつての関西四天王・吉川が首位に並ぶ ^ 〔FR・ゴールド〕1打差2位に終わった吉川一雄 吉川 一雄選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site 表 話 編 歴 75 村上隆 76 吉川一雄 77 橘田規 78 青木功 79 青木功 80 安田春雄 81 青木功 82 青木功 83 中嶋常幸 84 中村通 85 高橋勝成 86 中嶋常幸 87 高橋勝成 88 デビッド・イシイ 89 尾崎将司 90 尾崎直道 91 東聡 92 中嶋常幸 93 山本善隆 94 トッド・ハミルトン 95 友利勝良 96 芹澤信雄 97 丸山茂樹 98 桑原克典 99 小山内護 00 横尾要 01 ディーン・ウィルソン(英語版) 02 佐藤信人 03 トッド・ハミルトン 日本の男子プロゴルファー 京都府出身の人物 1946年生 存命人物 典拠管理識別子が1つもない記事
2024/11/20 22:36更新
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