奥田民生の情報(おくだたみお) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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奥田民生の情報まとめ
奥田 民生(おくだ たみお)さんの誕生日は1965年5月12日です。広島出身のミュージシャンのようです。
人物、エピソードなどについてまとめました。解散、卒業、ドラマ、映画、兄弟、テレビ、母親、現在、趣味、引退、父親、結婚に関する情報もありますね。奥田民生の現在の年齢は59歳のようです。
奥田民生のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)奥田 民生(おくだ たみお、1965年〈昭和40年〉5月12日 - )は、日本の歌手、ミュージシャン、シンガーソングライター、ギタリスト、音楽プロデューサー。ロックバンド・ユニコーンのメンバー。身長171cm。広島県広島市東区尾長出身。血液型はB型。既婚。 1987年、ロックバンド「UNICORN」のボーカリストとしてデビュー。「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」など、数々のヒット曲を世に送り出し、バンドブームの寵児ともいわれ、その中心的な役割を果たした。バンドは1993年に解散(2009年に再結成)。その後、約1年間の充電期間を経て、1994年からソロ活動を開始。 以降、ソロ活動の傍ら、「PUFFY」のプロデュースや「井上陽水奥田民生」をはじめとした様々なミュージシャンとのコラボレーションなど、バンド、ソロ、プロデュースあらゆる音楽活動において大きな成功を収めている。 ソロ活動においての代表曲は、『愛のために』、『イージュー★ライダー』、『さすらい』など。 広島市立尾長小学校、広島市立二葉中学校、広島皆実高校卒業。 1979年、中学生の頃に、初めてバンドを結成。 「当初は端でベースを弾いていたが、女の子がキャーキャー言い始めたため、引っぱり出されてフロントマンになった」とされる『INLIFE 男の履歴書』の記述は誤りで、「最初からギターです」と宝島社『smart』2018年8月号にて語っている。子供の頃からビートルズファンで、ハモリは早い時期からやってはいた。歌に専念という形になったのは高校に入ってからで、当時のバンドのボーカルが受験勉強で抜けたため、自然に歌うようになったという。「最初は恥ずかしくて、今でもギターに専念した方が良かったかなと思う」と話している。 高校時代には、アーチェリー部に所属、県の新人戦で優勝した経験がある。広島電子専門学校に進学後も、音楽活動を継続(後に専門学校は中退)。『夕やけニャンニャン』の息っ子クラブメンバーオーディションに参加するも、落選。 1986年、ユニコーンにボーカルとして加入。同年7月にソニーミュージックのオーディションに合格。1987年、ユニコーンは広島から上京、アルバム『BOOM』でデビュー。 1989年に発表したファーストシングル『大迷惑』の大ヒットをきっかけにブレイク。以降、「働く男」「ヒゲとボイン」「雪が降る町」「すばらしい日々」などのヒット曲を生み出す。 1990年、期間限定で「THE BAND HAS NO NAME」を結成、同じ事務所のBe-Modernを解散した直後の3人(現SPARKS GO GO)とともにアルバム『BAND HAS NO NAME』をリリース。 1992年、同じ広島県出身であるJUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人とのユニット「寺田」を結成してツアーを行う。リリースはない。2004年、後述の「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」の後夜祭にて、同郷のCHEMISTRYの堂珍嘉邦を交えて3人で「寺田堂」を結成。その後もイベント等でしばしば寺田として登場し、さまざまな曲のカバーを中心に演奏している。 『夢で逢えたら』のテーマ曲にユニコーンが起用され、同番組にも何度か出演。その後『ダウンタウンのごっつええ感じ』にて、阿部義晴と共に準レギュラーとして「民生くんとアベくん」のコーナーを担当。 1993年9月21日、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)内で、ユニコーンは解散を発表、7年間の活動に終止符を打つ。 およそ半年間の充電期間の後、1994年にシングル「愛のために」でソロ活動を開始。同曲は、ソロデビューシングルにして、自身初のミリオンセラーを達成。 1996年、音楽プロデューサーとして、女性デュオ「PUFFY」をデビューさせる。彼女たちの特異な脱力感、無気力感、気だるそうな立ち居振る舞いが話題になり、大ヒット。プロデューサーとしても注目を集める。 1997年、井上陽水とのコラボレーションユニット「井上陽水奥田民生」を結成。アルバム『ショッピング』を発表し、年末まで活動。浜田雅功のソロシングル「春はまだか」のプロデュースも行い、浜田の番組『人気者でいこう!』にも出演した。 1998年、ギター一本の弾き語りライブ「ひとり股旅」ツアーを行う。 2000年、北海道のローカル番組『鈴井の巣』(HTB)に出演、大泉洋率いる「大泉バンド」のデビュー曲「負け戦」を作曲。 2001年、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2001」に出演。 2002年、東京スカパラダイスオーケストラのシングル「美しく燃える森」に、ゲストボーカルとして参加。Charと山崎まさよしとの3人によるユニット「三人の侍」を結成し、北海道のフェスに参加。 2003年、真心ブラザーズのYO-KINGらと4人組バンド「O.P.KING」を結成し、ミニアルバム『O.P.KING』を発表。「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2003」に2回目の出演。 2004年、ソロ10周年を記念して、広島市民球場にてコンサート「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」を敢行、唯一、広島市民球場でのコンサートを実現させた歌手となった。また、自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組『OH! MY RADIO』(J-WAVE、奥田は月曜日担当)も12月に復帰(3月で卒業)。 2005年、広島球場でのドキュメンタリーにドラマを加えた映画『カスタムメイド10.30』が公開。「THE BAND HAS NO NAME」を15年ぶりに再開、アルバム『II』をリリースし、フェスにも参加。同年10月7日、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2005」3回目の出演。 2006年、「三人の侍」の全国ツアーを、4月から神戸を皮切りに行う。9月には、阿部義晴の40歳記念ツアーにジェット機らとともに参加。また、9年振りに井上陽水奥田民生を再結成し、12月にシングル「パラレル・ラブ」をリリース。2007年にかけてユニットとしては初のツアーを行う。アメリカのバンド「The Verbs」にサポート参加し「The Verbs + 奥田民生」としてフェスなどに出演。 2007年、デビュー20周年を迎える。井上陽水奥田民生名義のセカンドアルバム「ダブルドライブ」を発表。10月24日にトリビュートアルバム『ユニコーン・トリビュート』、『奥田民生・カバーズ』が発売。12月8日には、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2007」に4回目の出演。12月14日に過去のアルバム(ユニコーン時代のコンピレーションは除く)を紙ジャケ仕様で再発。 2008年、自身最高傑作と豪語するアルバム『Fantastic OT9』を発表、1年で2度の全国ツアーに出る。12月8日には、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2008」に5回目の出演。 2009年、ユニコーン活動再開。ユニコーンの活動と並行して、夏フェスでは「ひとり股旅(北海道ではひとりポックル)」として参加し、また同年11月公開の映画『僕らのワンダフルデイズ』の音楽アドバイザーおよび劇中歌の楽曲提供、主題歌を担当するなどソロ活動も精力的に行っている。7月1日に所属事務所のソニー・ミュージックアーティスツ(Sony Music Artists、略称SMA)顧問に就任する。また、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2009」に6回目の出演。 2010年、東京スカパラダイスオーケストラのシングル「流星とバラード」に、8年ぶり2度目のゲストボーカルとして参加。3月よりレコーディングソロツアー『ひとりカンタビレ』開催。通常のライブとは違い、各会場で新曲の制作を行うレコーディング・ライヴであり、観客の前ですべての楽器を自身でプレイ、レコーディングし、できた楽曲を配信リリースするという企画である。追加公演を含む全10公演、10曲のレコーディングを完了させた。これらの楽曲は後にスタジオでリミックスされ、8月4日に10thアルバム『OTRL』としてリリースされた。 プロデュース業も並行して行い、髭(HiGE)のシングルおよびアルバム「サンシャイン」の収録曲の数曲をプロデュース。 The Verbsへの正式加入が発表され、来日公演に参加。基本、奥田は国内での活動となっているが、2015年に米ツアーに参加することが発表された。 2011年、2004年以来となる「ひとり股旅スペシャル」を広島・厳島神社にて開催。 映画『マイ・バック・ページ』の主題歌として、真心ブラザーズとのユニット「真心ブラザーズ+奥田民生」名義でシングル「My Back Pages」リリース。 2012年、上記の延長として3人による新ユニット「地球三兄弟」の結成、リリースとツアーを発表。 2013年、地元、広島にある企業・マツダとのタイアップにより、「風は西から」リリース。同曲はマツダの企業CM・「Be a driver.」のCMソングとして書き下ろされた。 2013年、5月、岸田繁(くるり)伊藤大地とともに、「サンフジンズ」として『JAPAN JAM』に登場した。 2015年、5月に生誕50年記念ライブ「OT50祭"もみじまんごじゅう"」公演を開催。 長年在籍したソニー系レーベルを離れ自主レーベル「ラーメンカレーミュージックレコード」設立を発表。 同年11月28日にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にて「奥田民生ひとり股旅スペシャル@マツダスタジアム」公演を開催。ライブ中盤にてサプライズ的に広島東洋カープの前田健太、大瀬良大地が登場し、打者に奥田、捕手に大瀬良、投手に前田と言う形式で「始球式」が行われた。 2016年、スキマスイッチの「全力少年」をプロデュース(リアレンジ)した楽曲が「全力少年 produced by 奥田民生」のタイトルでリリースされる。 2020年、日本テレビ系テレビアニメ『ハクション大魔王2020』の主題歌を担当。「サテスハクション」を書き下ろした。 同年12月、マキシマム ザ ホルモン主催の企画「ホルモンの新曲俺ならこう歌う選手権!!」に参加。 人物性格若い頃はテレビから音楽の情報を仕入れており、『ザ・ベストテン』の広島からの中継は、ほぼ見に行ったという(二葉中学からの西城秀樹、広島三越前(賀茂鶴オアシス)からの沢田研二、広島駅新幹線口からの田原俊彦他)。 さとう珠緒がグラビアを中心に活動していた頃、大ファンで「どんな人かは知らないけど笑顔がいい。頑張ろうという気持ちになる」とのことから自身のライブ用の機材にグラビアの切抜きを片っ端から貼り付けていた時期があった。 小泉今日子の大ファンであり、『HEY!HEY!HEY!』で共に出演した際にはまともに彼女を見ることも出来ず、司会のダウンタウンの2人に冷やかされるほどガチガチに緊張してしまった。 井上陽水は普段の奥田の性格を非常に寡黙であると語っている。同放送では、井上、奥田、トータス松本が飲んでいた際、松本が音楽に対するモチベーションの低下からミュージシャンを辞めて俳優転向を考えていると洩らしたところ、奥田は非常に厳しい言葉で松本を引き止めたというエピソードが井上から語られた。井上は、普段寡黙である奥田からは考えられないようなキツい物言いをすることに驚き、松本に謝罪するよう諭したとも語った。 音楽性ROCKIN'ON JAPAN誌からは、「日本一のロック大将」と称えられ、朝日新聞からは「J-POPの大立者」ともいわれている。ROCK IN JAPAN FESTIVALには10年連続参加しており、数少ない皆勤賞のアーティストである。その他にも、毎年多くのフェス、イベントに参加し、他のアーティストとの交流は多いようである。特に同年代のアーティストとはよく絡み、トータス松本、草野マサムネ、山崎まさよし、斉藤和義、桜井和寿、岡野昭仁、吉井和哉とはしばしばテレビ、雑誌などで共演することがある。 音楽遍歴は雑多な音楽を聴いて育ったと話す。自宅にビクターの一体型ステレオがあり、母親はエルヴィス・プレスリーや西城秀樹のファンで、他にニール・セダカなどのアメリカンポップス、青江三奈などムード歌謡、演歌やイージーリスニング集などを聴く。意識してレコードを買ったのは、小中学の先輩で地元が生んだスーパースター・西城秀樹。ヒデキが『月刊明星』などの取材で、尾長小学校に凱旋した際、ヒデキに体に絡んだエピソードは双方から語られる。小さい時はヒデキや沢田研二のファンで、10歳の時、親戚のおばさんがガットギターを買ってくれ、『週刊明星』や『週刊平凡』に付いていた“歌本”を見てコード進行を覚え、ヒデキやかぐや姫など、色々な曲のコピーを始めた。初めてのライブ観戦はダウン・タウン・ブギウギ・バンド。洋楽で最初にガツンときたのはビートルズ。ビートルズやキッス、ボストン、レインボーなどをコピーした。また「歌番組世代」と話すように『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』は欠かさず見た。在学中に中学の校庭から『ザ・ベストテン』の生中継があり、ヒデキが「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌った。Char、原田真二、世良公則&ツイストの「ロック御三家」には「彼らのテレビでの生演奏は衝撃的だった」と話している。高校に入ってLOUDNESS、EARTHSHAKER、44MAGNUMなどを好んで聞いたが、この時期に一番影響を受けたのは子供ばんどだという。専門学校時代(READY)からユニコーン加入までに影響を受けたのが安全地帯とポリス。 音質に関してCDの音質に満足出来ず、カーオーディオにDAT搭載モデルがない事を嘆いていた。アルバム『FAILBOX』以降はほぼ全ての作品をアナログ盤でもリリースしている。2002年以降に、レコード会社各社が導入したコピーコントロールCDについても、ミュージシャン側で導入前から音質面に大きな問題がある事を把握していた、数少ない人物の1人であった。 ギターコレクターであり、かなりの数のギターを所有している。中でも、ギブソン社製のギターが多く、名器・1959年製レスポール・スタンダードを長年に渡りメインで使用してきた。なお、40歳の誕生日に、ギブソン社からカスタムショップ製作のレスポール・スタンダード(キャンディレッド)を贈呈され、2008年8月には、近年メインで使用しているレスポール・スペシャル(P-90ピックアップ、ビグスビー、TVホワイト・フィニッシュ)を忠実に再現した、カスタムショップ製作の「Gibson Custom Shop The INSPIRED BY Series Okuda Tamio Les Paul OT Special」が100本限定で製造・販売された(2008年8月1日現在。奥田民生公式ホームページにて発表)。2013年の「SPICE BOYS」ツアーでは、前述の1959年製レスポール・スタンダードを忠実に再現したギブソン・カスタムショップ製のレプリカモデルを(パイロットランとして)使用し、2015年に同モデルが限定生産という形で市販された。 歌詞に関しては、数々のインタビューにおいて、あまり重要視していないと語っているが、意味がないようでさまざまに解釈できるため、曲の魅力を引き立てるものとなっている。また、「それはなにかとたずねたら」という曲において、「なべつかみ」という単語を入れたことを自慢していたらしい(スタッフ談)。その他にも、ユニークでナンセンスな歌詞が多い。楽曲自体にも多数見受けられるが、楽曲のタイトルもまた、有名な書籍や楽曲などのタイトルのパロディとなっているものが多数ある。例:「ワインのばか」(元ネタはロシアの民話『イワンのばか』)、「AND I LOVE CAR」(ビートルズの「AND I LOVE HER」)、「怒りの別件」(ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』)等。 PUFFYプロデュースの動機は、90年代半ば、小室哲哉や小林武史らがアーティストとして活動する傍ら、プロデューサー業に乗り出して目覚ましい活躍を納めていたことが大きい。同様のことが自分に出来るかどうか挑戦してみたかった、と著書で述べている。これによりプロデューサーとして評価され、浜田雅功や木村カエラ、HiGEのプロデュースも手がけたことがある。 趣味趣味は、釣りと車。広島の著名海釣りスポットである能美や倉橋には今も行くことがあるという。バスプロの今江克隆、河辺裕和とは、兼ねてから親交がある。車に関しては、レーサーの脇阪寿一とも交流がある。小さい頃からしょっちゅう親戚の修理工場に預けられていたことから、4歳の頃に車のエンジン音を聞いただけで「ありゃルーチェじゃろ。ありゃぁシルビアじゃろ。」と言い当てた、という逸話を持つ車好きである。「もちろん今はもう、まったくわからない」と話す。歌詞の中にも、度々車やバイクに関するネタが登場し、それらの曲を集めたコンピレーション・アルバム『CAR SONGS OF THE YEARS』を発表している。愛車は、ダッジ・マグナム、初代カマロなどの外車のほか、最近は黒のスバル・R1に乗っており、タイヤとホイールとマフラーの交換や、パドルシフト仕様への改造など、車へのこだわりが垣間見られる(カーライフスタイル誌デイトナや、BSフジの番組『所さんの世田谷ベース』でも、奥田のR1が取り上げられた)。また、2012年にプロデュースしたチャットモンチーの「CHA-CHA-CHA(石井明美ver.のカバー)」では、曲冒頭で愛車カマロのエンジン音が録音されている。 過去に男性ファッション誌「BOON」の企画において、リーのジーンズやコンバースのスニーカーなどの奥田仕様の別注モデルを制作したことがある。G-SHOCKの奥田民生モデルも限定販売を行ったことがある。 オン・オフ問わずサングラスを着用していることが多い(もともと視力は良い)が、本人曰くサングラスを着用するのは「照れ隠し」とのこと。近年はフォーナインズのフレームを愛用している。 出身地にまつわるエピソード父は元広島市議会議員(日本共産党)(引退後は飲食店経営)だったため、子供時代は『赤旗(現『しんぶん赤旗』)』配達などを手伝っていた。「民生(たみお)」の名も音読みが同じ「民青(みんせい)」から来ている。父親の選挙の応援時にミニライブを行ったことがある。 広島のプロスポーツチームである広島東洋カープ・サンフレッチェ広島の大ファンである。
カープのマスコット「カープ坊や」の顔を奥田のイラストに変えた「民生坊や」をカープが公式グッズとして販売している(選手応援セットとして入場券とセットで販売)。また、マツダスタジアムで試合開始前・7回裏に放映される「それ行けカープ」のカープファンリレー映像にも2015年版で名を連ねている。 2004年10月30日には、初代の広島市民球場において、同球場史上初のコンサート「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」を行った。なお、本ライブの開会宣言を行ったのは、当時広島東洋カープ監督であった山本浩二であった。 2015年にマツダスタジアムにおいて、同球場開場以来初のコンサート「ひとり股旅スペシャル@マツダスタジアム」を行い、ライブ発表当日(2015年シーズンの開幕戦)の始球式では松井一實広島市長の投じた球を受ける捕手役を務めた。 2012年元旦の中国新聞朝刊の「カープV逸20年 私の提言」にて『負けたとき,もっと怒ろう』と題し、ファンを過激に叱咤激励する内容の寄稿を行っている。また、2015年に黒田博樹がメジャーリーグから復帰した際には、所属事務所を通じて「私は泣いています」というメッセージを寄せている(ちなみに3月29日の復帰後公式戦初登板はマツダスタジアムにて現地観戦している)。 2003年、アルビレックス新潟の応援チャントとして使われているユニコーン時代の曲「I'M A LOSER」の替え歌「アイシテルニイガタ」をサポーターズCDに収録するために許諾を奥田に求めたところ、奥田は「サンフレッチェ広島の敵に曲を提供することはできない」と許諾を拒否したという(当時新潟と広島は共にJ2に所属しており、昇格争いのライバルだった)。現在も「アイシテルニイガタ」は新潟のサポーターズCDに収録されていない。 お好み焼きは実家近くの「まるめん」を薦める。 吉川晃司(寺田堂(前述)で「モニカ」と「Y.M.C.A.」のパロディーを披露)、元T-BOLANの森友嵐士は同級生。吉川は奥田が高校生のときにデビューしてすぐに大スターになり、当時は広島出身のスターが多かったため、「ついに同い年のヤツまで!」と尻を叩かれる思いだったという。広島皆実高校の先輩には吉田拓郎(ひとり股旅スペシャル@広島市民球場で「唇をかみしめて」をカバー)、後輩に磯部正文(元HUSKING BEE)、MEG、為末大、森重真人、久保田智子、石川みなみらがいる。 エピソードデビュー前、アルバイト先の喫茶店で「民生スペシャル」という鶏肉中心の定食メニューを考案した。 1995年9月8日、5歳年上のユニコーン当時のスタイリスト美由紀(旧姓佐野)と結婚。8月25日には音楽仲間の世良公則、井上陽水、渡辺満里奈らを招いて披露宴も開催。 ユニコーン在籍時、ソロ活動もまだの段階で『PATi PATi』発の単行本『奥田民生ショウ』(ソニー・マガジンズ、1992年)という奥田個人の本が出た(なお、13年後の2005年には本著の続編となる『奥田民生ショウ2』が発売された) 奥田のファンだと言う木村拓哉とテレビで共演した時、木村が一番好きな曲と言うPUFFYに書いた「海へと」を演奏した。この時、木村が「こんないい曲、何で自分で歌わないんですか」と聞くと「いやぁ時間が無くて」と締め切りに間に合わず、やむなくPUFFYに渡したことを明かした。後に「海へと」自体はライブ盤で民生バージョンがCD化された。 大のゲーマーで、ユニコーン時代に雑誌に連載を持つほどであった。『電気グルーヴのオールナイトニッポン』では「スーパーファイヤープロレスリング」でピエール瀧との熱戦を繰り広げた。『ダウンタウンのごっつええ感じ』において、松本人志と「テトリス」や「ぷよぷよ」「マリオカート」で対決し勝利したこともある。シンプルなゲームが好きなようで一時期はWindowsのピンボールに熱中しており、毎日2時間はプレイしていたという。 Charと山崎まさよしとの3人によるユニット「三人の侍」の全国ツアーの際、ステージにはユニットの家紋が飾られ、刀を携え、侍語のアピールに、歌詞以外は外来語を禁止、ビートルズの歌を歌う時は「次はかぶとむしの歌でござる」、「アレルギーの特効薬」という曲は「腫れ物全般の特効薬」などと紹介していた。 奥田と親交のある小原礼・尾崎亜美夫妻がホスト役を務めた日本BS放送(BS11)の音楽番組『MUSICA〜音のおもてなし〜』では、毎年、新年最初の放送に奥田がゲスト出演するのが恒例となっていた。 ユニコーンでのデビュー前、おニャン子クラブの男性版「息っ子クラブ」のオーディションを受けていたことが、元息っ子クラブのメンバーのインタビュー記事内で明らかになっている。 2024/06/14 20:13更新
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okuda tamio
奥田民生と同じ誕生日5月12日生まれ、同じ広島出身の人
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