山田節男の情報(やまだせつお) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山田節男の情報まとめ
山田 節男(やまだ せつお)さんの誕生日は1898年12月26日です。広島出身の政治家のようです。
卒業、事件、姉妹に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1975年に亡くなられているようです。
山田節男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 1975年1月8日)は、日本の政治家。広島市長(公選第6、7代)、参議院議員(3期)。 広島県賀茂郡高屋町(現東広島市)出身。修道中学校、第六高等学校を経て東京帝国大学経済学部を1923年卒業し、1930年オックスフォード大学に留学、同大学政経学部卒。1931年から1年か2月、ジュネーブ国際労働機構(ILO)調査官、帰国後は東京市社会局第一方面事務所長、陸軍司政官などを歴任。第二次世界大戦中は北ボルネオ(現:東マレーシア)での軍政に関与しクチン州の総務部長を務めた。その関係もあって戦後は、同地で起こった連合国軍捕虜虐待及び殺害事件のC級戦争犯罪裁判の弁護人を務め、帰国後の1946年には社会思想研究会に参加。このことから日本社会党、殊に社会党右派、更には民主社会党に至る流れとの繋がりが出来る。 1947年第1回参議院選挙に広島地方区から日本社会党公認で当選、3期務める。国会時代は世界連邦運動推進団体である世界連邦日本国会委員会第3代事務総長を歴任。社会党を離党して民主社会党に加わった後の1965年参院選で落選するが、1967年に浜井信三の後継として社会、民社両党の推薦で広島市長に当選。 市長在任中は核兵器廃絶と核実験の即時全面禁止を訴え続けた。広島市長が核保有国の核実験に抗議する電報を打ったのは山田のときで、1968年9月にフランスが相次ぎ水爆実験を強行したことに対し、当時のフランス大統領シャルル・ド・ゴールに対し「貴国の実験は国際的核競争をあおり、その結果は人類の全面的破滅をもたらす」と打電した。以後、核実験に対する抗議電を出すのが慣例になった。それまでの核兵器の「禁止」「廃棄」などに代わる訴えとして「廃絶」という表現を初めて登場させ、片仮名による「ヒロシマ」表記をさせた。1968年、被爆者に対する特別措置法が成立した。 1969年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章。 1970年に、原爆死没者慰霊碑の碑文をめぐり「原爆慰霊碑を正す会」と「碑文を守る会」の論争が巻き起こったが、山田は「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」という見解を示し、碑文の意図する内容は日本人の謝罪ではなく特定の国の枠を超えて、全ての人間が再び核戦争をしないことを誓うためのものであるとするのが公式見解となった。 広島市とヴォルゴグラード市との姉妹縁組、原爆養護ホーム開設、広島市立中央図書館、広島市安佐動物公園、広島バスセンター建設の他、都市基盤整備のために西部開発臨海埋立事業や基町再開発事業(市営基町高層アパート・広島市中央公園)や段原地区再開発事業、安佐郡など、周辺広域合併を推進して、政令指定都市へ基礎を作った。 1974年に市役所で執務中に倒れた。すでに肺癌が腰周辺に転移しており手遅れであった。1975年1月8日に死去、76歳。死没日をもって従五位から正四位に叙され、銀杯一組を賜った。 1971年9月、レッド・ツェッペリンチャリティーコンサートを広島で行い、メンバーが広島市役所を訪問、当時の金額にして約700万円の売上金を目録にして山田に手渡した。若いときにオックスフォード大学に留学した経験のある山田は英語が流暢で、通訳なしでメンバーと喋るので、周りにいる人はみんな何を話しているかさっぱり分からなかったが、ツェッペリンのメンバーよりキレイな英語で喋ったと言う。 「ケースワーク」「ヘルスセンター」という用語を日本へ紹介したといわれる。 ^ #広島県大百科事典691-692頁 ^ 「山田 節男」。https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%20%E7%AF%80%E7%94%B7。コトバンクより2023年2月23日閲覧。 ^ 『官報』号外第53号2頁 昭和44年4月30日号 ^ 『官報』第14415号12-13頁 昭和50年1月22日号 ^ 「レッド・ツェッペリン・イン・ヒロシマ 有言実行"愛と平和"」『スポーツニッポン』1971年9月28日、10面。、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、44年ぶりに広島訪問 ^ 「週刊朝日」、2013年9月13日号、111-112頁 山本朗『広島県大百科事典(下)』中国新聞社、1982年。 2011ヒロシマ - 関連記事 - <時代映す平和宣言3>歴代市長 ... - 中国新聞 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分) 表 話 編 歴 中尾正名1878.11.1-1884.5 栗原幹1884.5.28-1889.4.1 三木達1889.8-1889.11 伴資健1889.11-1895.11 佐藤正1895.1-1896.4 伴資健1896.4-1906.8 高束康一1906.8-1909.4 小田貫一1909.5-1909.7 渡辺又三郎1909.9-1910.7 長屋謙二1910.7-1913.2 豊島陽蔵1914.1-1914.4 武岡充忠 職務管掌1914.3-1915.1 吉村平造1915.1-1916.12 田部正壮1917.10-1921.10 佐藤信安1922.4-1925.1 川淵龍起1925.8-1929.8 伊藤貞次1930.5-1934.5 井田完二 職務管掌1934.3-1935.1 横山金太郎1935.2-1939.2 藤田若水1939.12-1943.5 粟屋仙吉1943.7-1945.8 木原七郎1945.10-1947.3 浜井信三1947.4-1955.4 渡辺忠雄1955.5-1959.5 浜井信三1959.5-1967.5 山田節男1967.5-1975.1 荒木武1975.2-1991.2 平岡敬1991.2-1999.2 秋葉忠利1999.2-2011.4.7 松井一實2011.4.10- 表 話 編 歴 下條康麿 奥主一郎 谷口弥三郎 前之園喜一郎 岩男仁藏 奥むめお 東隆 小林亦治 山田節男 小松正雄 田中一 千葉信 三浦義男 高野一夫 小西英雄 西川甚五郎 上原正吉 佐藤芳男 岸田幸雄 相澤重明 鈴木壽 横川正市 柴谷要 藤原道子 鶴園哲夫 亀田得治 木村禧八郎 松本賢一 森元治郎 足鹿覺 成瀬幡治 田中寿美子 前川旦 瀬谷英行 鈴木力 茜ケ久保重光 寺田熊雄 志苫裕 野田哲 和田静夫 竹田四郎 安恒良一 佐藤三吾 丸谷金保 菅野久光 穐山篤 安永英雄 千葉景子 及川一夫 久保田真苗 大渕絹子 三上隆雄 前畑幸子 今井澄 浦田勝 野沢太三 宮崎秀樹 久世公堯 鎌田要人 谷川秀善 岩井國臣 中原爽 鴻池祥肇 中島真人 泉信也 小川敏夫 家西悟 神本美恵子 鶴保庸介 山本順三 金子原二郎 小坂憲次 小泉昭男 石井正弘 岡田広 二之湯智 石井みどり 二之湯智 中川雅治 野村哲郎 松村祥史 佐藤信秋 表 話 編 歴 新設 原虎一 山田節男 原虎一 赤松常子 中村正雄 吉田法晴 椿繁夫 栗山良夫 藤原道子 廃止 新設 向山一人 田辺哲夫 石川弘 野村五男 笹野貞子 足立良平 勝木健司 星野朋市 廃止 表 話 編 歴 佐々木鹿蔵↓ 山下義信 楠瀬常猪↑ 山田節男 岩本月洲 山田節男 仁田竹一 永野護 山田節男 岩沢忠恭↓ 松本賢一 中津井真↑ 中津井真 松本賢一 永野嚴雄 浜本万三 永野嚴雄↓ 小西博行 宮澤弘↑ 宮澤弘 小西博行 宮澤弘 栗原君子 亀井郁夫 柳田稔 柳田稔 亀井郁夫 宮澤洋一 柳田稔 宮澤洋一 柳田稔 宮澤洋一 三上絵里 山下義信 宮澤喜一 宮澤喜一 藤田進 藤田正明 藤田進 藤田正明 藤田進 藤田正明 藤田進 藤田正明 浜本万三 浜本万三 藤田雄山↓ 溝手顕正↑ 溝手顕正 菅川健二 柏村武昭 溝手顕正 佐藤公治 溝手顕正 溝手顕正 森本真治 森本真治 河井案里† 宮口治子↑ VIAF 日本 広島市長 広島県選出の参議院議員 民社党の参議院議員 日本社会党の参議院議員 昭和時代の参議院議員 在任中に死去した市町村長 陸軍司政官 正四位受位者 従五位受位者 勲二等旭日重光章受章者 オックスフォード大学出身の人物 東京大学出身の人物 岡山大学出身の人物 修道中学校・高等学校出身の人物 広島県出身の人物 1898年生 1975年没 肺癌で亡くなった人物 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/24 01:02更新
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