嶋田章弘の情報(しまだあきひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
嶋田 章弘さんについて調べます
■名前・氏名 |
嶋田章弘と関係のある人
笘篠賢治: 1984年は同期のエース江本晃一を擁し春季近畿大会に進むが、1回戦で嶋田章弘を擁する箕島高に延長12回サヨナラ負け。 杉本正志: 箕島高校では同期の嶋田章弘とともに投の二本柱として活躍。 米崎薫臣: 1994年に嶋田章弘とのトレードで阪神へ移籍し、打撃が伸び悩んでいた久慈照嘉との競争が期待された。 嶋田宗彦: 1984年ロサンゼルスオリンピックの野球競技金メダリストで、実弟は元プロ野球選手(投手・外野手)の嶋田章弘。 江本晃一: 上宮高では、1学年下の西山秀二とバッテリーを組み、エースとして1984年春季近畿大会に進むが、1回戦で嶋田章弘を擁する箕島高に延長12回サヨナラ負け。 ダーネル=コールズ: 応援歌は嶋田章弘のものが流用されたが、これとは別に関東限定の応援歌も存在した(爽健美茶のCMの替え歌)。 高橋雅裕: 初安打:同上、9回裏に嶋田章弘から二塁打 岩村敬士: 兄弟同年同時ドラフト指名は1984年の嶋田宗彦・嶋田章弘兄弟(阪神タイガース)以来2組目だった。 谷本稔: 引退後は阪神で二軍バッテリーコーチ(1969年 - 1974年)、一軍バッテリーコーチ(1979年 - 1981年)、二軍監督(1982年)、関西・四国地区担当スカウト(1975年 - 1978年、1983年 - 2000年)を歴任し、スカウト時代には嶋田章弘・宗彦兄弟や藤川球児などを担当。 北村俊介: 1996年3月、嶋田章弘との交換で近鉄バファローズへ移籍。 |
嶋田章弘の情報まとめ
嶋田 章弘(しまだ あきひろ)さんの誕生日は1966年6月27日です。和歌山出身の野球選手のようです。
兄弟、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。嶋田章弘の現在の年齢は58歳のようです。
嶋田章弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 嶋田 章弘(しまだ あきひろ、1966年6月27日 - )は、和歌山県有田市出身の元プロ野球選手(投手・外野手)。 実兄の宗彦に続いて和歌山県立箕島高等学校へ進学すると、2年時(1983年)夏の第65回全国高等学校野球選手権大会3回戦で、津野浩を擁する高知商業を相手に吉井理人(1学年先輩)の後を受けて登板。この時のチームメイトには、山下徳人(吉井と同期の右翼手)もいた。選手権の全国大会には、3年時(1984年)の第66回大会にも「右投左打のエース兼3番打者」として出場。控え投手には同期の杉本正志などがいて、自身は2回戦(初戦)で取手二高の石田文樹などと投げ合ったが、チームは3対5というスコアで敗れた。 左打席からの強打や足の速さも当時から高く評価されていたが、1984年のNPBドラフト会議では、「投手」として阪神と広島東洋カープから1巡目で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、阪神が章弘への独占交渉権を獲得した。さらに阪神は、夏のロザンセルスオリンピック・野球競技で日本代表チームのメンバーとして金メダルを獲得していた宗彦を4巡目で指名。いずれも、指名との交渉を経て入団に至った。ちなみに、自身は入団の当初に背番号15を着用。その一方で、章弘の控え投手だった杉本は、広島から1巡目で改めて指名された末に入団している。 登録上は一貫して「右投左打」であったが、実際には、投手として阪神へ在籍していた時期に右打ちへ転向していた。入団の当初に指導を受けていた投手コーチから、「打者として左打席に立つ限り、(投球で使う)右肩に死球を受ける危険性がある」と指摘されたことによる。 1985年には、8月3日の対読売ジャイアンツ戦で、7回表から救援投手として一軍公式戦にデビュー。4点ビハインドからの登板ながら、3イニングを被安打1の無失点に抑えた。8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、一軍の公式戦に初先発。この試合では、「右打者」として臨んだ第1打席で、一軍公式戦における初安打をライト前に放っている。レギュラーシーズン全体では、高卒1年目ながら一軍公式戦10試合に登板。先発での登板は3試合で、9月15日の対中日ドラゴンズ戦(いずれも阪神甲子園球場)では8回まで中日打線をノーヒットノーランに抑えていたが、いずれの登板でも勝敗は付かなかった。 1986年には、4月25日の対中日戦(甲子園)で宗彦との「兄弟バッテリー」が初めて実現。一軍公式戦には前年を上回る13試合に登板したものの、シーズンの途中に右肩を痛めたことを境に、未勝利のまま実戦から遠ざかった。 1988年には、アメリカで右肩の手術を受けた後に、リハビリへ専念する目的でNPBから任意引退選手として公示。後に支配下登録選手へ復帰したものの、1989年には背番号を60に変更している。 1990年に外野手へ転向。これを機に、左打席でのバッティングを本格的に再開した。「外野手」として正式に登録された1991年には、投手時代の1986年以来5年振りに一軍公式戦へ出場すると、27試合の出場で打率.221ながら6打点をマーク。その一方で、亀山努が右翼手として一軍で台頭した1992年には、故障の影響もあって2試合の出場にとどまった。 1993年には、亀山がシーズンの途中から故障で戦線を離脱したことを背景に、主に「2番・右翼手」として44試合にスタメンで出場。しかし、シーズンの終了後に、米崎薫臣との交換トレードで近鉄バファローズへ移籍した。近鉄では背番号35を割り当てられた。 1996年のレギュラーシーズン開幕前(3月)に北村俊介との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。日本人の選手としては珍しく、移籍を機に背番号42を着用したが、この年限りで現役を引退した。 1997年から2003年まで中日で先乗りスコアラーを務めた。 2004年からスコアラーとして阪神へ復帰。 2018年頃からチーフスコアラーを任されている。ちなみに、宗彦は1992年で現役を引退してからも、ブルペン捕手やバッテリーコーチとして阪神球団に一貫して在籍。現場を離れた2012年以降は、2023年に一軍のバッテリーコーチとして現場へ復帰するまで、兄弟揃ってスコアラーを務めていた。 15 (1985年 - 1988年) 60 (1989年 - 1993年) 35 (1994年 - 1995年) 42 (1996年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、270ページ ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ “【内田雅也の追球】阪神・村上「へきれき」の一打に、DH制のないセ・リーグの醍醐味が詰まっている”. スポーツニッポン. (2023年7月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/07/29/kiji/20230729s00001173131000c.html 2023年8月2日閲覧。 ^ 『'92プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社、1992年、139頁頁。 ^ 「【虎のソナタ】残酷…裏方さん達必死の努力が…」『サンケイスポーツ』2018年4月9日、2面。2023年8月2日閲覧。 ^ 「阪神 007シャッフルでライバル“丸裸” セ担当スコアラー全員変更」『スポーツニッポン』2019年1月7日。2023年8月2日閲覧。 ^ "コーチのフロントへの転任について" (Press release). 阪神タイガース. 2 November 2011. 2023年8月2日閲覧。 ^ "嶋田バッテリーコーチ、馬場内野守備走塁コーチ、水口打撃コーチ就任会見" (Press release). 阪神タイガース. 22 October 2022. 2023年8月2日閲覧。 和歌山県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 個人年度別成績 嶋田章弘 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:嶋田章弘 2位:佐藤秀明 3位:和田豊 4位:嶋田宗彦 5位:大野久 6位:山口重幸 日本の野球選手 和歌山県立箕島高等学校出身の野球選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 和歌山県出身のスポーツ選手 1966年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/23 15:54更新
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shimada akihiro
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