嶋田繁太郎の情報(しまだしげたろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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嶋田 繁太郎さんについて調べます
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嶋田繁太郎と関係のある人
山本五十六: また海軍大臣・嶋田繁太郎に対する10月24日付の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している。 入江英義: 山河燃ゆ(1984年) - 高橋是清、嶋田繁太郎 末次信正: 山本五十六、古賀峯一、2人の連合艦隊司令長官が戦死・殉職する悪化した戦局のなか、末次は教育局長の高木惣吉に東條内閣の倒閣に協力することを約束し、嶋田繁太郎を問い詰め回答不能に追い込んでいる。 大西瀧治郎: 大西は海軍大臣嶋田繁太郎大将が軍令部総長を兼任しているのを解いて、嶋田海相・末次信正総長・多田武雄次官・大西次長という人事の「出師の表」を作って嶋田に提出した。 荒木貞夫: 木戸幸一・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れて終身刑の判決を受ける。 山本五十六: 山本は西田を将来の戦艦「大和」艦長にしようと考るほど評価しており、海軍大臣・嶋田繁太郎に人事撤回を求めたが拒絶されている。 内田朝雄: あゝ決戦航空隊(1974年、東映) - 嶋田繁太郎 東郷茂徳: 特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海軍大臣とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となった。 木戸幸一: 木戸に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。 山本五十六: 山本は嶋田繁太郎に宛てた手紙で近衛との面会について「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。 山本五十六: 山本の同期生嶋田繁太郎大将も「長門」を訪れた際に大量の「虎屋の羊羹」を土産に持参した。 高松宮宣仁: 天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いたという。 岡田啓介: 岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。 岸信介: 同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。 東條英機: 海軍大臣・嶋田繁太郎の更迭。 東條英機: 東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、末次信正らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)。 山本五十六: すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・礼子、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた。 東條英機: 海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、海相・嶋田繁太郎が総長を兼任することになった(そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。 山本五十六: 遺族には4月20日夕刻に海軍大臣・嶋田繁太郎と秘書官・麻生孝雄が戦死を告げている。 児玉誉士夫: 1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である海軍航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。 山本五十六: 同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。 末次信正: 戦争終結を意図していた岡田啓介は、海軍大臣兼軍令部総長・嶋田繁太郎を更迭することで東條内閣倒閣の契機を掴もうと図り、米内を海軍大臣に末次を軍令部総長として現役復帰させることを提案した。 |
嶋田繁太郎の情報まとめ
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嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう)さんの誕生日は1883年9月24日です。東京出身の軍人のようです。
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年譜、栄典などについてまとめました。卒業、事件、現在に関する情報もありますね。92歳で亡くなられているようです。
嶋田繁太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。同期に山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。日露戦争に出征し、日本海海戦では防護巡洋艦「和泉」に乗り組んで偵察活動に従事する。 1910年(明治43年)、海軍大学校乙種に進み、1915年(大正4年)に海大甲種13期を卒業し少佐に昇進。1916年(大正5年)より3年間イタリア駐在武官を務める。1923年(大正12年)より海軍大学校教官を務め、1926年(大正15年)には第七潜水戦隊司令に就任。 1927年(昭和2年)に起こった美保関事件では、軍法会議で、被告となった同期生・水城圭次の特別弁護人となり、井上継松とともに責任は耳に障害のある水城を艦長に補職した海軍当局にあると論陣を張った。 1928年(昭和3年)には軽巡洋艦「多摩」、戦艦「比叡」の艦長を相次いで務めた。1929年(昭和3年)に少将に進級後は第二艦隊、次いで連合艦隊の参謀長を務め、1931年(昭和6年)に海軍潜水学校校長に就任した。 1932年(昭和7年)1月に上海事変が勃発すると、2月2日に第三艦隊参謀長に着任し、上海に出動。同年4月29日上海天長節爆弾事件に遭遇するが難を逃れる。 帰国後の6月28日に着任した海軍軍令部第三班長を皮切りに軍令部畑を歩み、同第一班長(軍令部令改正に伴い1933年(昭和8年)10月1日に第一部長に改称)を経て1935年(昭和10年)に軍令部次長に就任した。海軍軍令部第三班長として、アメリカ本土の諜報を指導した。 嶋田の軍令部第一部長在任中に、兵32期同期生である堀悌吉が大角人事によって予備役に追われた際は、他の同期生らと連携し、軍令部第一部長の職を賭して堀を擁護したが、力及ばなかった。この時の嶋田の奔走について、渡辺滋(2021年現在、山口県立大学国際文化学部准教授)は下記のように評する。 1937年(昭和12年)に第二艦隊司令長官に親補されてからは、呉鎮守府、支那方面艦隊、横須賀鎮守府の司令長官を歴任した。 1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の海軍大臣を拝命。打診された際は辞退したが、伏見宮博恭王の勧めで受諾した。就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信(この時、海軍はアメリカが来春には米領フィリピンのルソン島に300機のB17爆撃機を増強することをつかんでおり、国防上、それよりも前に開戦しなければならないと考えていたとされる)、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際、戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為に戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万トンで対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。対米開戦直前、海兵同期の山本五十六は「嶋ハンはおめでたいんだから」と慨嘆したという。 11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。この時、召喚された際には昭和天皇の問いに「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております。先日上京した山本連合艦隊司令長官の話によりますと、訓練も出来上がり、将兵の士気旺盛、自信あり、ハワイ作戦には張り切っていると申しておりました」「今度の戦争は、石にかじりついても勝たねばならぬと考えております」と述べた。これに対し天皇が「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうするかね」と訊ねると「ドイツは真から頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、どうにかやってゆけると思います」と述べたとされる。 しかし、政治的な情勢を見る目は優れていた。山本の推し進める真珠湾攻撃作戦を開戦時の作戦としてあまりにも挑発的な側面がある事を危惧していたらしく、同時に大戦への参入を意図して、敵対的な外交姿勢を貫いてくるアメリカ合衆国政府の態度に鑑みて、この状況での真珠湾攻撃作戦はアメリカが日本の軍事的挑戦を受けたという政治的状況を生み出し、アメリカ政府に参戦への大義名分を与えることに気付き、むしろ(被害を出すことを覚悟しても)アメリカ側の攻撃によって戦争が始まったという状況を生み出したほうがアメリカ国民の戦意を低下させられるのではないかとの見方を持っており、真珠湾攻撃について議会で報告をした際の政治家をはじめとする国民の熱狂ぶりを見て「これからが大変なんだ」と周囲に漏らし、その楽観振りに嘆息するなど、軍政家として優れた見識を見せていたという。 1942年(昭和17年)11月、第三次ソロモン沖海戦において戦艦「比叡」と運命を共にしなかった艦長・西田正雄に対し、査問会も開催せずに予備役編入・即日召集という懲罰人事を行った。山本五十六はこの措置に「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる」と抗議したが、山本と不仲でもあった嶋田はそれを無視した。1942年12月15日正三位。 嶋田は第二号艦(戦艦「武蔵」)建造を中止すべきと毎々意見していたが、待たれたしという意見によって抑えられていた。 陸軍との対抗意識の強い海軍内では、対米戦争に突入してなお、嶋田の戦争遂行における陸軍との協力的姿勢は批判にさらされた。嶋田が陸軍の東條英機より歳は1歳上ながらも東條に追従する腰巾着の如き振る舞いとして揶揄され、「(東條首相の)嶋田副官」のあだ名が付き、中には「東條の男メカケ」とまで酷評する声もあった。海軍部内における、他のあだ名として、「しまはん」「ズベ」などと呼ばれていた。南方方面及び中部太平洋方面のアメリカの反攻に伴い海軍部内では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、連合艦隊長官・古賀峯一は、嶋田と軍令部総長・永野修身に対し陸兵力の同方面進出をたびたび要求するが、困難であり、二人への不満は高まっていった。海軍省でも軍務局2課を中心に「嶋田は東條に従属しすぎる」という声があった。1944年(昭和19年)2月、昭和19年度航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、大型機の多い海軍は陸軍より航空機を生産できなくなったとして、嶋田と永野に対する不満はさらに高まった。実際には日本は生産力を失い、減らされた量での航空機の生産計画すら現実には達成できなかった。 2月19日、嶋田は責任上辞任を考慮し、後任の海相を豊田副武、軍令部総長を加藤隆義にする意向を東條に伝えるが、東條の参謀総長兼任の決意を知り、嶋田も決意と趣旨に賛同して自らは永野修身を更迭し、自分が軍令部総長も兼任する決心をした。 2月21日、軍令部総長を兼任。嶋田の兼任は戦局が不利なこともあり、部内の風当たりは強く、東條に従属しすぎるという批判を著しく刺激する結果になった。岡田啓介は東條内閣の倒閣のため嶋田の更迭を考慮するようになる。嶋田は着任すると陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などのXYZ問題の研究を即時打ち切って、研究も禁止した。情報部の実松譲が「アメリカは戦時生産から平時生産にシフトし始めている」という情報を配布したところ、嶋田に「敵のことを好く書いている。まるで役に立たん」と配布禁止を食らった。 6月のマリアナ沖海戦の敗北で、サイパン放棄を決定し、6月25日、その後の方針を決めるための元帥会議に出席。会議後、嶋田は、手筈を定め今後の対策を迅速に行うこと、陸軍航空機を海上へ迅速に引き出すこと、(特攻兵器を含む)奇襲兵器促進掛を設けて実行委員長を定めることを省部に指示した。これによって7月1日、大森仙太郎が海軍特攻部長に発令された。 サイパン陥落で反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月17日に海相を辞任。8月に軍令部総長も辞任。8月2日に軍事参議官となる。1945年(昭和20年)1月20日、予備役編入。 終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」などと回答した。 極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と主張。しかし、東郷元外相は、海軍は米側に対する無通告攻撃を考えているので最後まで外務省は対米交渉を続けていて欲しいと嶋田から依頼を受けたこと、さらに、巣鴨拘置所でこのことを話せば身のためにならないと脅されたことを暴露した。これに対し、嶋田は、「身のためにならない」とは米軍からどのような目にあわされるか、文字通り東郷の身を心配をして言ったものだと主張、「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と反論している。 裁判の終わりごろにはA級の平和に対する罪だけでは死刑になることはなく、BC級の捕虜・民間人の虐待・虐殺といった一般の戦争犯罪に該当しない限り、死刑になることはないという観測が取材記者らには広がっていた。しかし、嶋田の場合、太平洋戦争中の洋上や島嶼部での海軍による虐殺につき、中央で方針を決定したのではないかとして関与が疑われていた。結果は、この点については証拠不十分とされ、死刑は免れた。しかし、判事の投票では11人中5人が死刑賛成であった。日本と同じ大陸法系で植民地を持つ帝国主義国家でもあったオランダのベルト・レーリンク判事は、全般的に中間的立場に立つ傾向があったが、この時のレーリンクは、嶋田については、死刑賛成の立場を取っている。結局、嶋田は1948年(昭和23年)11月12日、終身禁錮刑判決を受けた。11人中5人が死刑賛成といった、僅か1票差で死刑を免れたのは、他に荒木貞夫・大島浩・木戸幸一だけだった。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと、武藤章が日記に書いている。 1955年(昭和30年)、仮釈放後赦免される。いくら頼まれても回想録の執筆も回想談も断り続け、その姿勢は「敗軍の将兵を語らず」と評された。海上自衛隊の練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。 1976年(昭和51年)6月7日、冠動脈硬化のため死去。満92歳没。墓所は豊島区盛雲寺。 妻は陸軍中将・筑紫熊七の娘・ヨシ、義弟に海軍少将・光延東洋がいる。 年譜1904年11月14日 - 海軍兵学校卒業(32期)、卒業成績191人中27番 1905年8月31日 - 海軍少尉に任官 1907年9月28日 - 海軍中尉に進級 1909年10月11日 - 海軍大尉に進級 1910年5月23日 - 海大乙種学生 1913年12月1日 - 海大甲種学生 1915年 - 海軍大学校卒業(13期)
1916年2月10日 - 駐イタリア大使館(イタリア語版)付武官 1920年12月1日 - 海軍中佐に進級 1923年12月1日 - 海軍大学校教官 1924年12月1日 - 海軍大佐に進級 1926年12月1日 - 第七潜水隊司令 1928年8月20日 - 軽巡洋艦「多摩」艦長
1929年11月30日 - 海軍少将に進級。第二艦隊参謀長 1930年12月1日 - 連合艦隊参謀長 兼 第一艦隊参謀長 1931年12月1日 - 海軍潜水学校校長 1932年2月2日 - 第三艦隊参謀長
11月15日 - 海軍軍令部第一班長 1933年10月1日 - 軍令部第一部長 1934年11月15日 - 海軍中将に進級 1935年12月2日 - 軍令部次長 1937年12月1日 - 第二艦隊司令長官に親補される 1938年11月15日 - 呉鎮守府司令長官に親補される 1940年5月1日 - 支那方面艦隊司令長官に親補される
11月15日 - 軍事参議官に親補される 1941年9月1日 - 横須賀鎮守府司令長官に親補される
1944年2月21日 - 兼ねて軍令部総長に親補される
1945年1月20日 - 予備役編入 栄典1905年(明治38年)10月4日 - 正八位 1907年(明治40年)11月30日 - 従七位 1909年(明治42年)12月20日 - 正七位 1915年(大正4年)1月30日 - 従六位 1920年(大正9年)3月30日 - 正六位 1930年(昭和5年)1月16日 - 正五位 1934年(昭和9年)12月1日 - 従四位 1937年(昭和12年)12月15日 - 正四位 1940年(昭和15年)12月2日 - 従三位 1942年(昭和17年)12月15日 - 正三位 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)
ドイツ国ドイツ鷲大十字勲章 - 1937年(昭和12年)11月22日
中華民国政府 特級同光勲章:1943年(昭和18年)6月2日
2024/06/17 09:47更新
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shimada shigetarou
嶋田繁太郎と同じ誕生日9月24日生まれ、同じ東京出身の人
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