市村則紀の情報(いちむらのりお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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市村則紀の情報まとめ
市村 則紀(いちむら のりお)さんの誕生日は1952年7月16日です。茨城出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。市村則紀の現在の年齢は72歳のようです。
市村則紀のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は、茨城県常総市出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城県の石下高校時代は、1970年の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗れる。 高校卒業後は、東洋大学へ進学し硬式野球部に入部する。東都大学リーグ通算37試合に登板し7勝8敗。1973年秋季リーグから3シーズン連続2位となるが優勝には届かなかった(卒業後の1975年春の2位を含めると4シーズン連続)。後に西武でチームメイトになる大学同期の松沼博久と、投手の二本柱として活躍した。 大学卒業後は、社会人野球の電電関東に入団。先発型の好投手が多く出場機会に恵まれなかったが、リリーフとして徐々に活躍。1981年の都市対抗ではエース田中幸雄をリリーフして好投、チームの準々決勝進出に貢献する。1982年も日本通運の補強選手として都市対抗に連続出場した。 1982年、同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けた。指名時の年齢はドラフト史上最高年齢の30歳5ヶ月であり、「子連れルーキー」として話題となった。30代でのドラフト指名は2022年までの時点で唯一の例である。 1983年から一軍に定着。左サイドスローからのスライダーを主としたクセ球が武器で、主に対左打者のワンポイントリリーフとして活躍した。 1984年には初勝利をあげるが、段々と登板機会が減る。 1986年開幕直前、鈴木康友との交換トレードで西武ライオンズに移籍。同年は、中継ぎで37試合に登板し優勝に貢献した。また、同年の珍プレー特集で、リリーフカーで登場するも交代を告げられた石井毅と間違えており、ブルペンへ戻るシーンが珍プレー大賞に輝き有名になった。この時も茨城訛りの朴訥とした話し方であった。 1988年限りで現役を引退した。翌年にスコアラーとして中日へ復帰。 1998年にはかながわ・ゆめ国体で軟式野球チームのメンバーとして出場、優勝を果たしている。 2000年に社会人野球のクラブチームである相模原クラブにコーチ兼投手として入団し、2002年まで在籍した。 それ以降は、ソフトボールに舞台を移して活躍している。 初登板:1983年4月9日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6回表1死に3番手で救援登板、2/3回無失点 初奪三振:1983年4月12日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、7回裏に屋鋪要から 初セーブ:1983年6月9日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 初勝利:1984年5月17日、対読売ジャイアンツ9回戦(郡山開成山球場)、7回裏2死に2番手で救援登板、1回1/3を無失点 37 (1983年 - 1985年) 38 (1986年) 36 (1987年 - 1988年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、50ページ 茨城県出身の人物一覧 東洋大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 個人年度別成績 市村則紀 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:鹿島忠 2位:平沼定晴 3位:市村則紀 4位:近藤満 5位:彦野利勝 6位:宮下昌己 日本の野球選手 東洋大学硬式野球部の選手 NTT関東硬式野球部及びその前身チームの選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 相模原クラブの選手 日本の野球指導者 社会人野球指導者 茨城県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 15:15更新
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ichimura norio
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