平忠彦の情報(たいらただひこ) オートバイレーサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
平 忠彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
平忠彦と関係のある人
ジャコモ=アゴスティーニ: その一方で1986年から1990年までは250ccクラスにも参戦、マーチン・ウィマー、平忠彦、ルカ・カダローラ、アレックス・クリビーレを起用した。 ケニー=ロバーツ: 1985年鈴鹿8時間耐久レースにヤマハ・ワークスから「現役復帰」して平忠彦と組み出場した際は、WGPの偉大なチャンピオンライダーと国内スターライダーのコンビ結成が大きな話題となり、予選日から観客動員数が飛躍的に増加した。 片山敬済: TZ350での快走や、テストもままらない500ccクラスでのプライベート・スズキRGB500での上位入賞などを背景にすると、「片山の走り」とは、どんなバイクも速く的確に乗りこなせてしまう適応性が高いタイプ(同じようなタイプは平忠彦もコメントしているエディ・ローソンが挙げられる)。 清水雅広: 平忠彦・八代俊二・清水ら日本人ワークスライダーが期待に応えられなかった一方、1990年代に入ると世界GPに対する日本人の「距離感」が劇的に変化する時期を迎える。 エディ=ローソン: 1990年に、前述の足の負傷からWGPの年間タイトル争いから脱落したため、スケジュールに入っていなかった鈴鹿8耐への出場を急遽選択、日本のヤマハのエース平忠彦と組んだ。 |
平忠彦の情報まとめ
平 忠彦(たいら ただひこ)さんの誕生日は1956年11月12日です。福島出身のオートバイレーサーのようです。
年表、鈴鹿8耐での活躍などについてまとめました。引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。平忠彦の現在の年齢は67歳のようです。
平忠彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)平 忠彦(たいら ただひこ、英: Tadahiko Taira、1956年11月12日 - )は、福島県原町市(現・南相馬市原町区)出身の元オートバイ・ロードレースライダーである。 端正な容貌、ダイナミックかつ緻密なライディング、人気と実力を兼ね備えたライダーであり、1980年代の国内ヤマハワークスでエースの地位を得た。しかしスターにありがちな派手な言動は全く無く、穏やかな人柄で男女問わず多くのファンを獲得した。速さは勿論の事、卓越したマシン開発能力がありロードレース世界選手権 (WGP、現Moto GP) に優れたマシンを供給し、ヤマハのタイトル獲得に貢献した。 父と兄の影響で幼い頃よりオートバイに興味を持ち、19歳よりレーサーとしての活動を始める。1970年代末に頭角を現し、1980年に全日本ロードレース選手権国際A級350ccクラスでチャンピオンを獲得(最初に所属した名門レーシングチームイナレーシングチームやスポーツライダーの野口種晴の下での下積みを経て、ヤマハワークスライダーとなった)。最高峰である500ccクラスにステップアップし、1983年にヤマハとワークスライダー契約を結ぶと、1983年から1985年まで3年連続全日本チャンピオンを獲得した。1985年7月に「キング・ケニー」ことケニー・ロバーツとコンビを組んで鈴鹿8時間耐久レースに出場。その話題性と、スタート失敗から追い上げトップを走行しながら残り30分でリタイアという劇的な結末(後述)は鈴鹿8耐の歴史に残る名シーンとなった。 国内最速の地位を築く一方、1984年より機をみて海外レースへのスポット参戦を始める。1986年と1987年はマールボロ・ヤマハよりロードレース世界選手権(WGP)にフル参戦し、初年度は250ccクラスで1勝(サンマリノGP)。1987年は500ccクラスで表彰台1回(3位・チェコスロバキアGP)を獲得した。その後、引退した河崎裕之からヤマハの開発ライダーとしての役割を引継ぎ徐々にレース参戦の機会を減らしていったが、地元の日本GPでは1988年と1989年に2年連続ポールポジションを獲得、1990年の鈴鹿8耐ではエディ・ローソンとのコンビで念願の優勝を果たした。1991年は久々に全日本500ccクラスにフル参戦し、1992年に35歳で現役を引退した。 引退後は静岡県浜松市中央区でオートバイショップ「タイラレーシング」を経営しつつ、ライディングスクールやツーリングイベント、講演会などでオートバイの魅力を伝える普及活動に取り組んでいる。2008年よりヤマハレーシングのチーム監督に就任。2010年はチームマネージャーという肩書ではあるが、実質的なチーム監督として全日本ロードレース選手権のJSB1000クラスに「YSPレーシングチームウィズTRC」、「TAIRA Racing」の2チームを率いて参戦し、チーム運営にも関わっていた。現在は日本モーターサイクルスポーツ協会の理事を務める。 なお、長男の平龍彦は陸上競技(走り高跳び)の選手で、2011年のインターハイで優勝するなどの活躍をしている。 2023年2月、文部科学省スポーツ庁プロスポーツ功労者(モーターサイクルスポーツ)。 年表1978年 - 全日本ロードレース選手権250ccクラス・ランキング3位(ノービス) 1979年 - 全日本ロードレース選手権350ccクラス・チャンピオン(ジュニア) 1980年 - 鈴鹿8時間耐久ロードレースに初出場・39位(三原嗣厚/ホンダ・CB750E) 1980年 - 全日本ロードレース選手権350ccクラス・チャンピオン(国際A級) 1981年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・ランキング6位(国際A級) 1982年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・ランキング4位(ヤマハTZ500) 1983年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(ヤマハYZR500-0W70) 1984年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(2年連続、YZR500-0W76)
シーズン開幕前にはアメリカ・デイトナ200に参戦(YZR700-0W69) 1985年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(3年連続、YZR500-0W81)
鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(ケニー・ロバーツ/FZR750-0W74)※17位完走扱い 1986年 - ロードレース世界選手権(WGP)250ccクラス・ランキング9位(マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ/YZR250-0W82)
鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(クリスチャン・サロン/ヤマハYZF750-0W80) WGPフル参戦初年度、開幕戦スペインGP(ハラマ)で予選2位を獲得し周囲の期待が一段と高まるも、スタートでエンジンが掛からず後続車に激突され左足を骨折。この怪我の影響と、この年YZR250の最大の欠点であった始動性の悪さに苦しめられ、シーズン中には右足も負傷してしまう。最終戦サンマリノGP(ミサノ)でも予選2位からスタートを失敗して出遅れたが、後方から猛チャージをみせてWGP優勝を飾った。この時平が付けていたゼッケン「31番」は、ヤマハワークスの後輩で、1993年にWGP250ccクラスを制した原田哲也が受け継ぐことになる。 WGPシーズン終了後は国内の500ccクラスにスポット参戦し、日本GPではワイン・ガードナー、TBCビッグロードレースではエディ・ローソンを破って連勝。 1987年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング6位(マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ/YZR500-0W86)
1988年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング15位(スポット参戦/YZR500-0W98)
鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(マイケル・ドゥーハン/YZF750-0WA0)※9位完走扱い スポット参戦したWGP開幕戦の日本GP・500ccクラスで、最高峰クラスにおいて日本人初となるポールポジションを獲得した。 1989年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング14位(スポット参戦/YZR500-0WA8)
鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(ジョン・コシンスキー/YZF750-0WA6) スポット参戦したWGP開幕戦日本GP・500ccクラスで、2年連続ポールポジションを獲得。 1990年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング23位(スポット参戦/YZR500-0WC1)
1991年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・0ポイント(日本GPのみ参戦/YZR500-0WD3)
1992年 - 現役引退。同年4月、スポーツランドSUGOにて引退式とラストランが行われた。 鈴鹿8耐での活躍平は国内ロードレースの夏の風物詩である鈴鹿8時間耐久レースで悲運に見舞われ続け、ホンダのワイン・ガードナーと共に当時の8耐人気の立役者となった。 平は無名のプライベーター時代の1980年に、チームヨシモトからホンダCB750Eで三原嗣厚とペアを組んで鈴鹿8耐に初出場を果たした。結果はトップから50周遅れの39位(完走者の中では最下位)であった。その後ヤマハワークス入りを果たし、2ストロークのレース専用マシンをメインとするレースに参戦。ヤマハが鈴鹿8耐へワークス参戦していなかったこともあり、この時期に鈴鹿8耐に参戦することはなかった。 1985年、ヤマハは本格的な4ストローク4気筒750cc市販バイクであるFZ750を発表し、そのプロモーションの一環として市販車を改造したTT-F1クラスのマシンで行われる鈴鹿8耐へ、純ワークス体制による参戦を決定した。ヤマハワークスのエースライダーである平のパートナーには、ロードレース世界選手権500ccクラスで3年連続世界チャンピオンに輝いたのちレースから引退していたケニー・ロバーツが招聘された。FZ750をレース用に改造したFZR750は、平をCMモデルに起用した資生堂「TECH21」のシンボルカラーである淡い紫色に塗られた。 ロバーツと平のペアは優勝候補とされ、予選ではロバーツがポールポジションを獲得した。決勝レースではスタートこそ出遅れたものの、レース半ばには全てのマシンを周回遅れにする圧倒的な速さで首位を独走したが、レース終了まで30分を残した平のライディング中、FZR750のエンジンが突然停止。グランドスタンド前のピットウォールにマシンを停めてリタイアした。 翌1986年、ヤマハはベース車の変更(FZ750から市販のFZR750へ)に伴いマシン名をYZF750と改称。平はフランス人GPライダーのクリスチャン・サロンとペアを組むが、互いの通常使用するシフトパターンの違い(平は逆チェンジ、サロンは正チェンジを使用していたため、ライダー交替の度にシフトパターンを変更した)やライディングスタイルの違いに起因するポジションの相違に苦しみ、強さを発揮しきれないまま、再びマシントラブルでリタイアに終わった。 1987年、平は8耐直前のフランスGPで大怪我を負い、8耐出走を断念。TECH21チームの監督として8耐に参戦したが、皮肉にも平が走らなかったこの年、ケビン・マギーと平の代役として参戦したマーチン・ウィマーのペアが快走し、トップのヨシムラ(高吉克郎)が残り5分で転倒するというアクシデントもあって、TECH21チームは劇的な逆転優勝を飾った。この勝利はヤマハの鈴鹿8耐での初勝利でもあった。 1988年は当時無名に近かったマイケル・ドゥーハンとペアを組むが、平のライディングで3位を走行中、レース終了10分前にエンジントラブルで3度目のリタイア。この年、ヤマハワークスは3台出走して1台が優勝、もう1台も上位入賞を果たしており、平のマシンだけがリタイアとなってしまった。 1989年はロバーツの秘蔵っ子であった新進気鋭のアメリカ人GPライダージョン・コシンスキーとペアを組むが、5時間過ぎにまたしてもマシントラブルで4度目のリタイアに終わった。自身が出走した過去4回は、全てマシントラブルによるリタイア。この時期、レース参戦よりもマシン開発業務が主体となっていた平にとって、鈴鹿8耐は実戦に参戦する数少ない機会であり、鈴鹿8耐制覇はそんな平に残された悲願となっていた。 1990年、ヤマハは8耐での平のパートナーとして、シーズン序盤の怪我によりWGP500ccクラスのチャンピオン獲得の望みが絶たれたヤマハのエースライダー、エディ・ローソンを起用した。最強の助っ人を得たこの年が、平にとって念願の8耐制覇を成し遂げる大きなチャンスだった。ローソンはグランプリシーズンのハードスケジュールと負傷を押しての参戦にもかかわらず、全力の走りで後続との差を広げ、平も見事な走りでそれに応えた。そしてワークス参戦開始から6年目にして、平は悲願の8耐優勝を果たし、この優勝を最後にワークスライダーとしての8耐参戦を終えた。レース終了後、平の優勝を待ち焦がれていた鈴鹿サーキットを埋め尽くすレースファンから発生した平コールの大合唱は、しばらく鳴り止む事がなかった。 5年後の1995年、すでに現役を引退していた平は8耐限定で復帰。自らが主宰するタイラレーシングからプライベーターとしてTRX850でエントリー、ペアライダーには2輪ジャーナリストの根本健を迎えた。この年はマシンの熟成不足と2気筒エンジンの馬力不足に終始泣かされ、予選では決勝進出ラインの60位までに入れず、主催者推薦枠で出走した決勝でもトラブルに見舞われ、最後まで走り切ったものの、規定周回数不足で完走扱いとはならなかった。 翌1996年はマールボロのサポートを受け、ペアライダーに丁度10年前にもペアを組んだ元GPライダーのクリスチャン・サロンを迎えて予選を自力で突破し、決勝でも安定した走りを披露して完走を果たした。 2008年の鈴鹿8耐にはYAMAHA RACINGより、中須賀克行・佐藤裕児ペアのスーパーバイザーとして8耐の現場に復帰。若手のペアを支え、5位入賞に貢献した。 2024/06/22 11:11更新
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