桜井七之助の情報(さくらいしちのすけ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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桜井七之助の情報まとめ
桜井 七之助(さくらい しちのすけ)さんの誕生日は1918年11月4日です。神奈川出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。
桜井七之助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、三塁手、外野手。 神奈川工業学校在籍中は、快速球とカーブを兼ね備えた好投手として知られており、1935年夏の大会の甲神静大会予選では準決勝の静岡中学戦でノーヒットノーランを達成。決勝の甲府中学戦で五味芳夫(のち金鯱)と投げ合い、4-5で惜敗して惜しくも甲子園出場は成らなかった。 翌1936年に大東京軍の結成に参加。1936年秋季シーズンでは開幕投手を務めるなど、ドロップやカーブを武器に、チームの主戦投手として活躍した。しかし、同シーズンの大東京は歴史に残る大不振で、5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)しか残せず、桜井自身も1勝10敗、防御率5.20と散々な成績に終わった(最多敗戦投手及びリーグワースト防御率〈規定投球回達成者19人中〉でもあった)。同年9月18日の大阪戦(甲子園球場)では8回完投したものの12与四球・17失点の日本プロ野球ワースト記録(当時)を樹立。翌1937年9月12日の金鯱戦(後楽園球場)でも8回完投したが自身2度目の日本タイ記録となる12与四球を記録するなど、制球難に苦しんだ。坪内道典の著書によれば「140km台の速球を持っていたが、ボールの回転が素直でよく打たれた。しきりに投球姿勢と走者を気にして落ち着かなかった。」と、打者に読まれやすかった球種とマウンド度胸の無さを指摘されている。 投手登録ではあったが、1938年からは、ほぼ野手として出場。一塁を守ってキビキビしたプレーは中々人気があった。1939年まで現役を続けたが、1軍の試合に出場したのは1938年が最後である。1939年に引退した。 各年度の太字はリーグ最高 大東京(大東京軍)は、1937年秋にライオン(ライオン軍)に球団名を変更 大東京(大東京軍)は、1937年秋季にライオン(ライオン軍)に球団名を変更 初登板から白星なしの連敗:11 ※史上初 ※成田啓二、松崎伸吾と並びプロ野球記録 14 (1936年 - 1939年) 神奈川県出身の人物一覧 松竹ロビンスの選手一覧 ^ 職業野球!実況中継(13年秋 ライオンvs名古屋 3回戦) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、246ページ ^ このシーズンの大東京軍で勝ち星を挙げた投手は、他に遠藤忠二郎(4勝5敗、防御率3.03)しかいなかった。 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」634ページ ^ プロ野球歴代ゲーム記録 投手ゲーム記録('10年まで) ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」619、635ページ ^ 職業野球!実況中継(14年 南海vsタイガース 8回戦) 個人年度別成績 桜井七之助 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1936春夏 近藤久 1936秋 桜井七之助 1937春 遠藤忠二郎 1937秋 菊矢吉男 1938春 菊矢吉男 1938秋 菊矢吉男 1939 菊矢吉男 1940 福士勇 1941 菊矢吉男 1942 内藤幸三 1943 林安夫 1944 内藤幸三 1946 井筒研一 1947 池田善蔵 1948 真田重男 1949 井筒研一 1950 小林恒夫 1951 井筒研一 1952 荻原隆 日本の野球選手 松竹ロビンス及びその前身球団の選手 神奈川県出身の人物 1918年生 没年不明 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/22 15:51更新
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sakurai shichinosuke
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