横井玉子の情報(よこいたまこ) 教育者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
横井 玉子さんについて調べます
■名前・氏名 |
横井玉子と関係のある人
吉岡弥生: 津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。 佐藤志津: そのような折、私立女子美術学校創設者で舎監兼幹事である横井玉子から、本郷区(現東京都文京区)弓町に開校して半年で経営危機に陥った女子美術学校への支援要請があり、玉子の情熱を感じ取った志津は学校創設の翌年1901年(明治34年)に学校主となり、経財面での支援を始めた。 山崎光夫: 『二つの星 横井玉子と佐藤志津女子美術大学建学への道』講談社 2010 戸川秋骨: 1888年(明治21年)(17歳)、従弟の大野豊太(洒竹)と第一高等中学校を受験するも共に不合格となり(洒竹は後に合格)、叔母横井玉子の仲介で明治学院普通部本科2年に編入学し、島崎藤村と、のち馬場孤蝶と同級になり、1891年卒業した。 |
横井玉子の情報まとめ
横井 玉子(よこい たまこ)さんの誕生日は1855年10月22日です。熊本出身の教育者のようです。
結婚に関する情報もありますね。1903年に亡くなられているようです。
横井玉子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)横井 玉子(よこい たまこ、安政2年9月12日(1855年10月22日) - 明治36年(1903年)1月4日)は、日本の教育者。女子美術大学の創立者。 肥後熊本藩支藩の肥後新田藩家老、原尹胤の次女として江戸鉄砲州に生まれ育ったが、原家は明治元年(1868年)に主君に従って高瀬(熊本県玉名市)へ移住する。明治5年(1872年)に横井小楠の甥で養子となった横井左平太(時治)と結婚。左平太は弟の太平と共に熊本洋学校の設立に尽力し、妻を置いて渡米する。熊本では横井家の親族と同居し、横井時雄、みや兄妹、徳富初子らと共に洋学校に通い、ジェーンズ夫妻から英語と洋裁、西洋料理を学ぶ。 明治8年(1875年)に左平太が帰国し元老院権少書記官となったが結核を患い、上京した玉子の看病のかいなく死去した。 未亡人となった玉子は東京に滞在し、明治12年(1879年)東京葺手町教会のワデル牧師により受洗する。明治18年(1885年)海岸女学校の教員となり、同年、亡夫の親戚の矢嶋楫子の依頼で新栄女学校事務監督となって礼式と裁縫を教授。明治19年(1886年)東京師範学校で高等裁縫と高等女礼式の教授資格を取り、本多錦吉郎と浅井忠に水彩画と油絵を学ぶ。明治23年(1890年)に学校合併した女子学院で寄宿舎監督となり、礼式、裁縫、洋画、料理を教授した。明治32年(1899年)には白馬会に入会している。 明治34年(1901年)、藤田文蔵、田中晋、谷口鉄太郎らと女子美術学校 (後の女子美術大学) を創立。初代校長の藤田文蔵は東京美術学校の教授で、女子学院とも交流のあった牛込教会の長老でもあった。思ったように生徒が集まらず、藤田が自腹を切ったりもしたが、会計担当の使い込みなどもあり、開学早々に資金面から経営難に陥り、順天堂院長の妻佐藤志津に協力を要請し、玉子の情熱に感銘した志津は全面的支援を約束、玉子と藤田は発起人を辞任して志津に権利を譲り、志津が校主となった。 玉子は数年前から体調を崩していたが、明治36年(1903年)胃癌により入院先の順天堂医院で死去した。 甥に文学者の戸川秋骨(兄の子)と俳人の大野洒竹(姉の子)がいる。 『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年 ^ 明治後期に興った女子の専門学校 ( 4 2 )女子美術学校創設の人々長本裕子、広島大学『月刊ニューズレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』 第87号 2022年3月15日 VIAF 日本 オーストラリア 19世紀日本の女性教育者 20世紀日本の女性教育者 日本の美術教育者 日本の女性教育の歴史 女子美術大学の人物 日本のプロテスタントの信者 長老派の信者 横井小楠家 幕末熊本藩の人物 熊本県出身の人物 胃癌で亡くなった人物 1855年生 1903年没 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事
2024/11/17 22:26更新
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yokoi tamako
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