武内実江アナウンサーの情報(たけうちみえ) アナウンサー/新潟放送 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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武内 実江さんについて調べます
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武内実江の情報まとめ
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武内 実江(たけうち みえ)さんの誕生日は1985年10月18日です。山梨出身のアナウンサーのようです。
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沿革、災害当時の放送体制などについてまとめました。テレビ、現在、映画、事件、事故に関する情報もありますね。今年の情報もありました。武内実江の現在の年齢は38歳のようです。
武内実江のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)株式会社新潟放送(にいがたほうそう、英: BROADCASTING SYSTEM OF NIIGATA INCORPORATED 略称 BSN)は、新潟県を放送対象地域とするラテ兼営の特定地上基幹放送事業者である。 ラジオ(中波放送〈AMラジオ放送〉およびFM補完放送〈ワイドFM〉)はJRNとNRNのクロスネット局。コールサインはJODR(新潟 1116kHz)を筆頭に全3通り。 テレビはJNNの単独ネット局。コールサインはJODR-DTV(新潟 17ch)、リモコンキーIDはキー局のTBSテレビと同じ「6」。 テレビではデータ放送を実施しており、番組表サービス「Gガイド」を配信している。 系列新聞は新潟日報(ラジオのローカルニュースの名称『新潟日報ニュース』)。 また、特定地上基幹放送事業者で唯一の、地方ローカル局としても数少ない株式上場企業である(東証スタンダード市場、証券コード9408)。 キャッチフレーズは「走り出せ、夢たち。」で、イメージキャラクターは「ハレッタ」。 2023年(令和5年)6月1日に、民放テレビ局が4局体制の地域では初となる、認定放送持株会社体制へ移行した。これに伴い、株式上場の特定地上基幹放送事業者は消滅することとなる。 本社 - 新潟市中央区川岸町3丁目18 東京支社 - 東京都港区赤坂2丁目5-8 ヒューリックJP赤坂ビル SPACES赤坂5階 大阪支社 - 大阪市西区江戸堀1丁目9-1 肥後橋センタービル2階 長岡支社 - 長岡市千歳1丁目3-43 メディアぷらっと1階 上越支社 - 上越市木田1丁目2-4 メディアフロント2階 沿革1950年代1951年(昭和26年)
12月 新潟日報社が、当時のラジオ東京(現在のTBS)の技術企画部長である吉田稔を招いて、局舎を当時の大和新潟店7階、ラジオ送信所を新潟市山ノ下物見山付近に設置を予定。 12月22日 ラジオの放送設計を東芝に発注することを決定する。 1952年(昭和27年)
5月23日 電波監理委員会へラジオ放送の免許の申請を再提出(この時、送信所は新潟市河渡だった)。 6月20日 ラジオ放送の免許申請、送信所を綱川原に変更した上で、電波監理委員会へ免許内容変更書類を提出。 8月10日 新潟市古町7番町954番地(現・新潟市中央区古町通十字路)の大和新潟店 7階映画館跡を演奏所に改造着手。 10月14日 株式会社ラジオ新潟(略称 RNK:Radio Niigata K.K.)設立。 10月18日 ラジオ放送の予備免許を取得。 12月2日 網川原ラジオ送信所が完成。使用送信機は、東芝製SS-1163型1kW送信機1台。 12月5日 ラジオ、初の試験電波を15時30分より送信する。
12月16日 民間放送18番目の局として、ラジオ新潟に、ラジオ放送の本免許が交付される(周波数1410kc、出力は昼間1kW、夜間500W)。 12月17日 ラジオのサービス放送を開始。 12月24日 ラジオ新潟として全国18番目にラジオ局開局(初代 第1スタジオ、17坪)。ラジオ新潟開局前夜祭『証券クイズ』を新潟市公会堂から生中継。 12月25日 ラジオ、5時57分、『皇帝円舞曲』で本放送を開始。 1953年(昭和28年)
8月10日 アナログテレビ局開設免許を申請。 12月1日 ラジオ、直江津(現上越)放送局(JODO)開局。 1954年(昭和29年)9月15日 ラジオ、長岡放送局(JODE)開局。 1955年(昭和30年)10月1日 新潟大火で本社演奏所焼失。これを受け、スタジオを網川原ラジオ送信所に、本社及び営業を新潟市古町8鍋茶屋前にそれぞれ移転する。 1956年(昭和31年)
1月18日 前述の新潟大火で本社演奏所が焼失したのを受け、新たに新潟市川岸町3丁目に新設をする本社・スタジオの起工式を行う。 5月24日 川岸町の新本社第1期工事終了。ラジオ演奏所、2代目 第1スタジオ(24坪)を運用開始。 5月25日 新本社からの放送開始。 6月3日 川岸町の新本社・スタジオの竣工式を行う。 10月1日 ラジオの周波数が一斉変更(新潟(JODR):1220kHz、直江津(JODO):1560kHz、長岡(JODE):800kHzに各々変更)。更にこの日から、新潟局(JODR)の夜間の出力が、昼間と同じ1kWとなる。 11月17日 ラジオ、新潟局(JODR)の送信所を山ニツとする変更申請を、電波管理局へ提出。翌月の12月21日に免許が付与される。 12月24日 ラジオ、新潟局(JODR)山ニツ送信所運用開始(東芝製1kW送信機1台。送信球交換で最大3kWの送信が可能)。 1957年(昭和32年)
10月22日 アナログテレビの予備免許が交付される(コールサイン:JODR-TV、第5チャンネル、出力:映像 5kW、音声 2.5kW、地区半径:80km)。 1958年(昭和33年)
12月10日 川岸町新本社第2期工事終了。初代 テレビスタジオ竣工(35坪)、東芝製イメージオルシコンカメラを2台導入。 12月13日 地上アナログテレビ試験放送開始。マスター(主調整室)はNEC製。 12月21日 テレビ、『私は貝になりたい』(ラジオ東京テレビ、現在のTBSテレビ)をサービス放送する。 12月22日 アナログテレビ放送の本免許を取得。 12月24日 テレビ、『テレビ開局前夜祭』を、すでに導入済のテレビ中継車を使って新潟市公会堂から生中継する。 12月25日 テレビ、ラジオ新潟テレビとして地上アナログテレビ本放送開始。同日に、テレビのローカルニュースも開始。 1959年(昭和34年)
8月1日 テレビ、当時のラジオ東京テレビのニュースネットワークであるJNN (Japan News Network)が発足し、同局も発足当初から加盟する。 10月1日 ラジオ、新潟局(JODR)の昼間の出力が3kWに増力する(夜間は1kWのまま)。 12月1日 ラジオ、新潟局(JODR)の出力が昼夜共に常時3kWとなる。 12月14日 新潟港での北朝鮮帰還第1船の模様を、テレビ・ラジオの両方にて生中継する。テレビではJNN報道特番として、JNN系列18局に同時生中継を行う(制作には、自局を含めJNN7局が協力して行った)。 1960年代1961年(昭和36年)
6月30日 高田テレビ中継局開局 7月20日 歌詞を公募していた『新潟放送のうた』発表。選者:野坂昭如、作詞:加茂市 藤田道郎、作曲:いずみたく、歌:ブラック・キャッツ。 9月15日 ラジオ、長岡放送局(JODE)が、一部の時間帯にて、長岡放送局周辺の新潟県中越地方独自のラジオ番組を放送開始。 1962年(昭和37年)
10月 テレビ、放送用アンペックス方式の2インチVTRを初購入。 11月 ラジオ、深夜放送『ニイガタ・トゥナイト』(月〜木、日曜日24時〜25時)を放送開始。 11月6日 テレビ、2インチVTRの放送での稼働開始。 12月26日 ラジオ、新潟局(JODR)の出力が5kWとなる。 1963年(昭和38年)
4月1日 ラジオ、小林百貨店(のちの新潟三越)1階のウィンドウ内(現在の正面玄関位置)にサテライトスタジオを開設(1968年4月29日まで)。 5月9日 ラジオ、直江津局(JODO)の出力が1kWとなる。 6月27日 新潟市の老舗ホテル、ホテルイタリア軒を買収。同社の傘下に収める。 11月8日 BSN高田会館竣工。これに伴い、高田サテライトスタジオ開設され、直江津放送局(当時)(JODO)でのローカル放送を開始。 12月1日 ラジオ、長岡局(JODE)の周波数が1060kHzに変更。 1964年(昭和39年)
4月27日 テレビ、東京オリンピックの放送に備え、カラー放送の免許を申請。 6月6日 テレビ、新潟国体の開会式を生中継する。 6月16日 新潟地震発生。全社非常態勢を取る。これを受け、JNNのキー局であるTBSからのテレビ中継車派遣等の支援を受けながら、地震災害報道を行う。 6月27日 テレビ、カラー放送の予備免許を取得。 9月25日 テレビ、ネット回線受けによるカラーの試験放送を開始。 9月30日 テレビ、信越電波管理局のカラー化の変更検査に合格。これに伴い、カラー放送免許を取得。 10月1日 テレビ、カラー放送を開始(当初はネット回線受けのみ実施)。 10月10日 - 10月24日 『第18回オリンピック東京大会』の実況中継を、テレビ、ラジオの双方にて、連日放送。 12月1日 ラジオ、交通ニュース(現 交通速報)放送開始。 1965年(昭和40年)
4月30日 長岡支社が、長岡駅前のニューロンヒルビル4Fに移転。翌月(5月)5日には、同ビルの1Fに、長岡ラジオ・サテライト・スタジオを開設。 5月2日 ラジオ、東京放送(現・株式会社TBSラジオ)のラジオネットワークJRNに加盟する。 7月10日 新潟競馬場が移転・再開され、テレビによる『中央競馬中継』放送開始。 1966年(昭和41年)
8月20日 2代目 テレビスタジオ(50坪)運用開始。 10月12日 本社新館竣工。 1967年(昭和42年)
10月 新潟放送十五年のあゆみ(新潟放送社史編纂委員会・編、651ページ)を発行。 11月2日 テレビ、ローカル独自送出によるカラー放送を初めて行う。 1968年(昭和43年)
9月28日 ラジオ、『中央競馬中継』新潟競馬場から放送開始(場内外の放送も含む)。テレビも翌日の日曜日から開始。 10月3日 テレビ、前月の30日からカラー化したTBSからの同時ネット番組「JNNニュースコープ」にて、新潟県にて初のカラー取材(「小千谷の錦鯉」)が放送される。 12月1日 テレビ、カラースライド・フライング・スポット装置始動。カラースライドを使ったCMを開始。 12月16日 テレビ、NST新潟総合テレビの開局により、テレビはTBSテレビのほぼフルネットとなる。これに伴い、フジテレビ、日本テレビ、NETテレビ(現:テレビ朝日)の各系列のほとんどの番組が移行する(翌年4月まで)。 1969年(昭和44年)
5月 テレビ小型中継車導入。 1970年代1970年(昭和45年)
5月12日 BSN長岡会館が竣工(長岡市殿町1丁目)。これに伴い、長岡支社及び長岡ラジオ放送局(JODE)のマスター及びスタジオが同会館内に移転する。 6月1日 テレビ、ローカルテレビニュースをカラー化。 8月30日 テレビ、大型カラー中継車導入。 9月20日 テレビ、『中央競馬 BSN杯レース中継』(新潟競馬場からの生放送)にて、前述の大型カラー中継車を使った初の中継を行う。 10月5日 テレビ、ゴールデンタイムのテレビ番組が完全カラー化される。 10月10日 ラジオ、局初のラジオワイド番組『ハロー!!ジャンボサタデー』放送開始。初代司会は井口ひろし(タレント)。 12月31日 ラジオ『オールナイト・ハッピー・パーティー』スタジオ生放送。 1971年(昭和46年)
6月9日 ラジオ、JODOの放送局名が「直江津放送局」から「上越放送局」に変更。 10月5日 ラジオ放送にてマスターAPCが稼動し、放送が24時間化される(日曜深夜を除く)。
12月1日 テレビ、ローカルでのスタジオ全制作番組が完全カラー化される。 1972年(昭和47年)10月2日 テレビ、本社屋上に情報カメラ設置。 1973年(昭和48年)
11月1日 FM局申請却下。 1974年(昭和49年)
テレビ、ハンディカメラ、携帯用VTRを導入。 7月10日 財団法人「BSN教育文化振興基金」を設立。 9月1日 ラジオカー「スナッピー2号」運用開始。 12月21日 ラジオ、長岡放送局(JODE)の中継局として、魚沼地域に塩沢中継局が開局(周波数:1560kHz、出力:100W)。 1975年(昭和50年)
6月 FPU車運用開始。 1976年(昭和51年)
6月1日 ラジオ、文化放送・ニッポン放送系のNRNにも加盟。
11月26日 山ニツラジオ送信所 空中線事故により難聴取地域が発生。その後、1977年(昭和52年)4月に、これに関する空中線修理を完了する。 1977年(昭和52年)
10月9日 ラジオ、創立25周年記念「いつもあなたと〜交通遺児救済キャンペーン ラジソン」、25時間生放送する。 1978年(昭和53年)
5月28日 テレビ、日立製作所製の1インチVTRを導入。 11月23日 ラジオ、ITU国際電気通信連合の取り決め(それまでの10kHz刻みの周波数から、9kHz刻みの周波数に変更)に従い、午前5時、周波数が上越局(JODO)以外、 一斉に変更される(新潟局(JODR):1120kHz→1116kHz、長岡局(JODE):1060kHz→1062kHz、塩沢中継局:1560kHz→1485kHz)。 12月21日 山ニツラジオ送信所の局舎、送信設備を一新する(5kW送信機1台、予備機)。 1979年(昭和54年)
10月11日 北朝鮮帰国事業20周年記念を取材のために北朝鮮へ記者を派遣。 1980年代1980年(昭和55年)
11月中旬 NEC製のテレビ用マスターAPS設備及びネット回線設備の音声多重化改造工事を完了。 11月28日 テレビの弥彦山送信所の送信機が更新される(NEC製、音声多重放送対応)。 11月29日 テレビ音声多重放送開始(新潟県初)。
同日より、『BSNニュースワイド』内の天気予報を除くローカルの天気予報の全時間帯がステレオ化される。 1981年(昭和56年)
6月20日 テレビ、局初のステレオ制作番組『ゴールドブレンドコンサート』を放送。 9月20日 テレビ放送にてCMバンク稼動。 1982年(昭和57年)
5月17日 「BSN愛の募金」が常設される。 8月7日 ラジオ送信機能のプリエンファシス方式を『30時間ラジソン』番組生放送内(同日22時過ぎ)で切り替える。 9月13日 ラジオ、上越放送局(JODO)の送信所、上越水害で床上浸水する。 1983年(昭和58年)10月1日 テレビ、新潟テレビ21(NT21→UX)開局により、残っていたテレビ朝日系列の番組が移行。テレビ東京系列や全国独立放送協議会加盟局(いわゆる独立放送局)などの番販ネットを除いて、TBSの完全系列局になった。 1984年(昭和59年)4月7日 テレビ『土曜はヨイショ!!』放送開始。後に同局のローカルテレビの看板番組となる。 1985年(昭和60年)12月1日 緊急警報放送システム EWS運用開始。 1987年(昭和62年)
4月6日 ラジオ、テレビ共に新館局舎にマスターが移転し、放送を開始。
1989年(平成元年)
10月2日 新館局舎に3代目テレビスタジオ(102坪)が完成し、運用を開始する。 10月7日 新テレビスタジオオープン記念番組『朝までPIKAPIKA』を24時40分から6時までスタジオ公開生放送。ゲスト聖飢魔IIの黒ミサ(スタジオ生ライブ)などを放送。 10月31日 アナログ・テレビ放送に於けるクリアビジョン放送を開始。 1990年代1992年(平成4年)
10月 新潟放送四十年のあゆみ(新潟放送四十年史編纂委員会・編、566ページ)を発行。 1993年(平成5年)10月4日 ラジオの深夜放送にて、約17年半ぶりに、TBSラジオ『歌うヘッドライト』のネット受け放送が再開される(これに伴い、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』第2部のネットは打ち切りとなる) 1994年(平成6年)テレビ放送、終夜放送(天気予報フィラー)を開始。 1997年(平成9年)10月1日 テレビ文字多重放送開始。 1999年(平成11年)2月1日 テレビ放送にて、日本の地方テレビ局としては初めて、ビットキャストによるデータ多重放送「BSNデータパレード」を開始する。 2000年代2000年(平成12年)1月 テレビ、JRA主催の日曜競馬中継(当時は「スーパー競馬」)が制作局フジテレビの系列局NST新潟総合テレビに移行したのを最後に、テレビ東京系列以外の他系列番組が姿を消す。 2004年(平成16年)
10月23日 新潟県中越地震(新潟県中越大震災)発生。午後6時過ぎから24日午前0時まで震災関連をCM抜きで6時間行った。 2005年(平成17年)
4月30日 アナログ・テレビに於けるビットキャストによるデータ放送「BSNデータパレード」を終了する。 6月10日 地上デジタルテレビ放送の予備免許を取得(NHK新潟放送局、他の民放テレビ3局も同時に取得)。 9月5日
10月1日 地上デジタルテレビ放送の試験電波発射(弥彦送信所のみ。初めは出力30Wから。送信機は東芝製)。 10月25日 午前4時30分、地上デジタルテレビ放送の試験放送開始(局舎タワーのハイビジョンお天気カメラの映像のライブ放送も含む)。 11月1日 地上デジタルテレビ放送の出力が3kWになる。 12月12日 地上デジタルテレビ放送のデータ試験放送開始(県内初)。 2006年(平成18年)
2月1日 午前5時、地上波デジタルテレビ放送のサイマル試験サービス放送開始(県内初。同時にワンセグでのサイマル試験放送も開始)。ローカル番組ではニュースの一部と天気予報の一部のみハイビジョン化される。 3月30日 地上デジタルテレビ放送の本免許を取得(NST新潟総合テレビも同日に取得)。 4月1日 午前5時、地上デジタルテレビ本放送開始。
2007年(平成19年)
6月28日 同局元アナウンサーである竹石松次が同局代表取締役社長に就任。 2008年(平成20年)
11月15日 長岡支社が同市千歳1丁目3番43号の「メディアぷらっと」内に移転する。
12月頃 本社報道センターでの報道番組のハイビジョン取材を始める。 12月23日 テレビ、BSNテレビ開局50周年記念番組として『発見! 発掘! 新潟とテレビの50年』が放送された。 2009年(平成21年)
4月中旬 本社にてテレビのハイビジョンSNG・FPU中継システムを自社導入、稼動開始。同システム導入より、ローカルテレビ中継でのハイビジョン運用を開始する。 7月7日 ラジオ、HARD OFF ECOスタジアム新潟のこけら落とし試合である、セ・リーグ公式戦「広島東洋カープ対阪神タイガース」の試合を、オープニングセレモニーから試合終了まで放送した(放送時間は17時45分 - 21時54分)。中国放送の制作でJRN全国ネットにて実況生中継を行い、その際の技術協力も行った。 9月6日 テレビ、HARD OFF ECOスタジアム新潟のセ・リーグ公式戦「横浜ベイスターズ対中日ドラゴンズ」の試合のローカルテレビ生中継(同局の本格的単発中継番組)において、初のハイビジョン生中継放送を行う。 2010年代2011年(平成23年)
10月初旬頃 テレビ、TBSテレビ系列以外(テレビ東京等)からのハイビジョン・デジタル・ネット回線の受け入れ体制が整う。これに伴い、テレビ東京の番組『ウイニング競馬』のBSNテレビでの放送が漸くハイビジョン化される。 2012年(平成24年)
4月2日 ラジオ部門、インターネットIPサイマルラジオ「radiko」に参加。同日正午より、エフエムラジオ新潟、新潟県民エフエム放送と共に新潟県内のみにて実用化試験配信を開始。 7月 創立60周年の「BSNは幸せの種をまきます」をキャッチフレーズに伴い、新キャラクター「タネマキスキー」と「はぐっくま」が登場する(これに伴い、前のキャラクター「ぷる」の使用終了)。 2013年(平成25年)
8月 1966年(昭和41年)に建てられ県内最古のテレビスタジオが残されていた旧局舎の解体完了。 本社 事業局(企画事業部、コンテンツ事業部)が川岸町から万代のメディアシップの13階に移転。
2014年(平成26年)
5月1日 テレビ、フィラー時間帯に「TBSニュースバード(現在のTBS NEWS)」を開始。 11月4日 ラジオ部門が、「radiko.jpプレミアム」(エリアフリー聴取)に参加。これに伴い、同サービスを通じて、新潟県外でも有料にて、ラジオの放送を始める(日本国内のみ)。 2015年(平成27年)
10月20日 - FM補完中継局(ワイドFM)の本免許を取得。これに伴い、同放送のAMとのサイマル放送を開始。 11月1日 - FM補完中継局(ワイドFM)開局。これに伴い、ラジオ放送のキャッチコピーが、「つながるFM、ひろがるBSNラジオ」に変更される。 2017年(平成29年)
2020年代2020年(令和2年)
2021年(令和3年)
2022年(令和4年)
9月5日 株式会社新潟放送分割準備会社を設立。 10月14日 創立70周年。 12月24日 開局70周年。 2023年(令和5年)
6月1日 放送法などの手続や総務大臣の認可などを経て認定放送持株会社に移行することとし、現在の新潟放送は「株式会社BSNメディアホールディングス」に社名変更。全国で12社目、大都市圏以外でかつ民放テレビ局が4局体制の地域では初めて認定放送持株会社体制へ移行した。また「株式会社新潟放送分割準備会社」に、現在の新潟放送が持っている放送事業を吸収分割形式により承継した上で、同日付で「株式会社新潟放送」(2代目法人)に社名を変更。新会社ではテレビ放送事業とラジオ放送事業を分割せず、従来のラ・テ兼営体制を継続する。当初は4月1日に移行を予定していたが、総務省からの許認可が3月時点で得られていないため、移行日を変更していた。 2024年(令和6年)
5月31日 ゆうなび深夜便の放送打ち切り。放送終了後から開始までのフィラー放送がカメラマンが魅せた新潟の風景のみになる。 災害当時の放送体制1955年新潟大火当時の放送態勢1955年(昭和30年)9月30日 台風22号が夜半に佐渡沖を通過する恐れが出たため、定時放送終了後もフィラーを流しながら30分刻みで台風情報を伝えると同時に停電に備え、電源が安定している網川原送信所にアナウンサーが待機する。理由は、当時、ラジオ新潟本社の自家発電装置は古い自動車エンジンを使用していたため、停電が長引くと装置が不安定となり使えなかったからである。 1955年(昭和30年)10月1日1時36分 停電。網川原送信所へ台風関連の原稿が送られ放送が続けられる。 2時50分 新潟市医学町二番町、新潟県教育庁の木造庁舎から出火。強風に煽られ東中通、西堀通を延焼。 3時05分 最大瞬間風速33.6mを記録(新潟気象台)。 3時10分 本社スタジオの当直者に火事の情報が入る。 3時15分 「県庁脇、交番付近から火災発生」の一報を網川原送信所から放送、フィラーを止め火災のニュースが繰り返される。アナウンサーがデンスケを肩に下げ火災現場に向かう。放送や消防車のサイレンで火災を知った社員がスタジオに集合する。火災情報の原稿を本社から送信所へ送り、そこから放送していては情報が追い付かないと判断し、大和デパート新潟店地下に設置してある自家発電装置の始動を試みる。 「教育庁全焼」、「北村知事、自衛隊新発田駐屯地に出動を要請」、「東中通に延焼、新潟日報(当時、新潟日報社は同地にあった)も危険」の情報を網川原送信所から放送する。 3時30分 自家発電装置が始動する。「新潟日報はラジオ新潟に避難開始」、「大黒屋旅館に延焼」の情報が本社スタジオから放送される。梁取清助調整部長らが強風と火の粉が舞う中、大和新潟店7階演奏所屋上にマイクロフォンを設置する。 4時15分 丹羽国夫アナウンサーが屋上のマイクロフォンから市中心部の火災の様子を実況開始。丹羽アナウンサーの実況と共に、走り回る消防車のサイレンがラジオから流れ続ける。 4時35分 「小林デパート(前記、大和デパートのほぼ斜め向かいに位置する。のちの新潟三越)から火が出ました。では・・・実況を・・・この辺で打ち切る事にします。危険ですからこの辺で実況を打ち切ります。」と、20分間の実況放送を中止し、集合した社員達は午前中に放送された番組の収録テープや十数枚のLPレコード盤、CM原稿と2,3個の機材を持ち出し避難する。 4時36分 「JODR、こちらはラジオ新潟です。本社スタジオは火災のため放送不能となりましたが、引き続いて、ここ送信所から火災情報をお送り致します…」の第一声で網川原送信所より放送を再開。 4時50分 大和新潟店と屋上のラジオ新潟に引火、全焼。 夜が開け、網川原送信所に全社員が集合。送信所のテラスに毛布で囲まれた臨時スタジオが作られる。長岡放送局と直江津放送局から必要な放送機材を集める。 10時00分 放送機材整備のため一時間放送を休止する。 11時00分 平日番組に復旧する。 夕方過ぎ、信越放送、ラジオ東京(現・TBSラジオ)、ラジオ東北(現・秋田放送)から可搬型録音機、録音テープ、マイクロフォン、ミキサー、レコード盤、文具などの応援物資が到着する(以後、全国の民放局から応援物資が届けられる)。 新潟大火の実況放送の全ては長岡放送局で録音されており、その日のうちに長岡放送局から網川原送信所へライン送出され、無事だった新潟-東京間の専用回線でラジオ東京へ送られ全国放送された。 ラジオ新潟の仮本部は坂口献吉社長自邸に設けられ、その後、火災から免れた古町八番町の元料亭に移動する。編成制作、技術は網川原送信所に設けられた。 新潟地震当時の放送体制1964年(昭和39年)6月16日 13:01に発生した新潟地震発生後の番組編成、活動状況は下記の通り。 13時01分 ラジオ『歌で歩む50年』、テレビ『いつか青空』を放送中に地震発生、新潟市で震度6を記録する。川岸町本社は停電と、本社-送信所間の地下埋設放送線が断線したためラジオ、テレビは放送不能になる。局舎に隣接する北陸瓦斯のガスタンク2基がガス漏れにより爆発の危険が出たため全社員に避難命令が出るが、数十分後に解除される。 14時15分 テレビ放送再開。スタジオのカメラを屋上へ設置し、炎上する昭和石油からの2つの黒煙や落下した昭和大橋などを放送する。 14時33分 屋上のカメラから信濃川を逆流する180cmの津波を放送すると同時に2インチVTRにも収録する。 15時05分 ラジオ、山ニツ送信所から放送再開。大和デパート新潟店で中元取材中、地震に遭遇した報道部の藤田実記者は徒歩で山ニツ送信所へ向かい、昭和大橋の被害、昭和石油の火災、津波、国鉄が不通などの情報を放送する。 ラジオ再開後、テレビはラジオ音声を流し始める。 15時25分 本社→県警察本部(新光町)→警察庁(霞が関)→東京支社(当時は銀座にあった)経由でTBSラジオへ支援要請。 16時01分 ラジオ、県庁に設置された県災害対策本部から災害情報や尋ね人の放送を開始(本社スタジオは放送不能のため、新潟県庁に駐車したラジオカーから送信したFM波を直接山ニツ送信所で受信し放送する)。 17時15分 見舞い文に改められたラジオCM放送再開。 20時00分 ライフライン、公的情報、災害状況、尋ね人、新潟を訪れている修学旅行生の安否情報などを終夜放送する。 20時14分 川岸町本社 - 電電公社新潟電話局(現・NTT東日本新潟支店)間の電電公社の中継回線を仮復旧。『クイズ・クイズ・クイズ』のネット受けを途中から開始。 深夜、テレビは放送休止 1964年(昭和39年)6月17日 16日の応援要請を受けて、秋田放送と東京放送(TBS)から総勢57人のスタッフ、テレビ中継車と電源車、放送復旧機材等が新潟に到着。 18時00分 川岸町本社スタジオからラジオ放送を再開(本社 - 山ニツ送信所間をTBSが持参したFM広帯域一対向によって仮復旧)。特集『29時間後の新潟市から』を放送。 22時30分 ラジオ、尋ね人を約5,000人などを伝えた災害放送を終了。 この放送中に新潟市災害対策本部からの要請で県内の化学製品工場の関係者あてに化学消防車を昭和石油火災現場に派遣してほしい趣旨の救援放送を実施。ラジオを聞いていた関係者により当日深夜化学消防車が応援に駆け付けた。 新潟県中越地震当時の放送体制2004年(平成16年)10月23日 17:56に発生した新潟県中越地震発生直後の番組編成状況は下記の通り。 17時56分 地震発生後、字幕(地震情報)での対応 18時00分 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を通常通り定刻開始。 18時15分頃 上記番組を中断し、地震関連の放送開始。 これ以降、翌日午前0時頃まで予定の番組を変更し、さらに、TV-CMを全面カットして、TBSテレビ発のJNN報道特別番組を含め、BSN独自編成で地震の詳報を伝え続けた。 TBSラジオでは、24日午前0時から午前4時までの間、『JUNK』と『B-JUNK』を中止し県内向け生放送を「報道特別番組」として同時放送した。 2024/06/15 03:55更新
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takeuchi mie
武内実江と同じ誕生日10月18日生まれ、同じ山梨出身の人
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