河上丈太郎の情報(かわかみじょうたろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
河上 丈太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
河上丈太郎と関係のある人
鈴木茂三郎: 鈴木は委員長として、河上丈太郎派と協力しながら穏健な路線を追求し、自由民主党に代わる政権政党へと日本社会党を脱皮させようと努力した。 浅沼稲次郎: 中間派の指導者だった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。 今和次郎: また、政治的活動は日本社会党北多摩支部長を長きにわたり勤め、党政拡大の貢献により河上丈太郎から表彰されているが、シンパシーは当時民社党のほうであったという。 田邊誠: 河上丈太郎委員長以来、26年ぶりの右派出身の委員長であり、自民党や中道政党とも太いパイプを持つ田邊は、社会党を政権交代可能な政党へと脱皮させる人物としてマスコミなどから期待された。 島上善五郎: 社会党再統一後、1962年河上丈太郎委員長の下で党国会対策委員長に就任し、1963年まで務める(後任は横路節雄)。 戸叶里子: 後に日本社会党に入党、河上丈太郎派に所属する。 山口二矢: 1960年(昭和35年)6月17日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。 佐々木更三: 1964年(昭和39年)、浅沼暗殺後に就任した河上丈太郎委員長の下で導入された中央執行副委員長に和田博雄と共に就任する。 三輪寿壮: 昭和30年(1955年)、鈴木茂三郎、河上丈太郎らと左右社会党の統一を成し遂げる。 土肥隆一: 日本社会党所属の衆議院議員・河上民雄(河上丈太郎の子)の秘書をつとめた縁で、河上の引退後に地盤を引き継ぐ。 賀屋興宣: 日本社会党の委員長を務めた河上丈太郎とは旧制第一高等学校時代からの友人で、河上が死去したときは追悼文を書いたことでも知られている。 福家俊一: 日本再建連盟の結成にあたっては、河上丈太郎や三輪寿壮といった右派社会党の面々に接触し、参加を打診した。 幸徳秋水: 同年2月1日に、秋水に心酔していた第一高等学校の弁論部の河上丈太郎・森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演したが、校長である新渡戸稲造らの譴責問題に発展し、校内で騒動となった。 戸叶里子: 翌1931年から、河上丈太郎の妻・末子が開いた勤労者のための英語教室「愛宕塾」で教師を務める。 森戸辰男: 弁論部で活躍し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催。 徳冨蘆花: この講演を依頼した学生が、戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。 加藤勘十: 河上丈太郎、加藤勘十、西村榮一『追従外交と独善政治の正体を曝く』日本社会党出版部〈国会闘争シリーズ 1〉、1953年3月。 河上民雄: 関西学院教授・河上丈太郎の長男として生まれる。 和田博雄: 1964年、佐々木更三とともに社会党副委員長に選出され、翌年、河上丈太郎委員長が病気のため辞任すると、後継委員長の有力候補とされるが、和田はもはや社会党委員長から政権を狙う気力を失っており、佐々木に委員長の座を譲って、1967年、政界を引退した。 賀屋興宣: 一高の同級生には英法科では河上丈太郎、神川彦松、河合栄治郎(経済学者)、渋沢正雄、ほか独法科の田中耕太郎、永野護など。 阪本勝: 同年に賀川豊彦、河上丈太郎らの勧めで兵庫県会議員選挙に日本労農党から出馬して当選する(1期目は神戸市、2期目以後は尼崎市)。 安井吉典: 右派の河上丈太郎派に属し、後に若手議員を主体としたグループ「新しい流れの会」の会長を務めた。 八百板正: 河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。 榎本健一: 400万円の税金が払えず、銀行からやっとこそさ借りて収めたという話が、当時の池田勇人首相の耳に入り、ショックを受けた池田が同情し、自ら発起人代表になって、政界、財界、芸能界へ支援を呼びかけ、1964年10月29日に東京丸の内の東京會舘で「榎本健一君を激励する会」が開かれ、河上丈太郎(社会党)や西尾末広(民主社会党)らも出席し、珍しく政党の枠を超えた呉越同舟の支援が行われた。 |
河上丈太郎の情報まとめ
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう)さんの誕生日は1889年1月3日です。東京出身の政治家のようです。
エピソードなどについてまとめました。退社、卒業、結婚、家族、テレビに関する情報もありますね。
河上丈太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。丈太郎が学校に上がると、字の読めない父は、毎晩丈太郎に旧約聖書を一章ずつ読ませた。後年父は「立派な政治家になって、神と人のために尽くしてくれ」と遺言して逝去した。 立教中学に通っている時に、『万朝報』に掲載された、堺利彦と幸徳秋水が掲載した「退社の辞」に感銘を受け、社会主義思想に関心を持つようになった。 1908年、第一高等学校英法科入学。一高英法科の同級生に賀屋興宣、河合栄治郎などがいる。 1915年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。就職先として、朝鮮総督府が用意されたが、その武断統治を嫌って、立教大学の講師となった。後に同僚の勧めで関西学院に教授として赴任した。関西学院教授時代、賀川豊彦と出会った河上は労働学校の講師をつとめるようになり、次第に社会主義の実践運動にのめりこんでいった。 なお、関西学院教授時代に東京帝国大学法学部法律学科に学士入学して、弁護士資格を取得している。 関西学院の教授をしていた1918年、手紙のやり取りだけで一度も会うことがないまま、平岩末子と結婚することを2人で決めた。末子の父は日本メソヂスト教会第二代監督平岩愃保であったが、末子が勝手に結婚相手を決めたことに怒り、丈太郎が変人だということで反対した。末子は二晩かかって父に懇願してゆるしてもらった。 丈太郎も家族に相談もなく決めたので、父に大反対された。父は教養ある女性に偏見があった。しかし易者に見てもらったところ、いい相性だと言われ賛成した。 結婚式場は青山学院の大講堂と一旦決まったのに、「人生は小さなところから出発すべきだ」と丈太郎が言い張ったので、そばの5坪ほどのハリス館に変更された。狭かったので参列者は座ることもできなかった。結婚指輪もなく、記念の写真撮影もしなかった。式後、河上家の帳場で夜の家庭礼拝をした。 1928年の第1回普通選挙に河上は日本労農党公認で出馬して当選し、8人の無産党代議士の一人となった。その後、1932年の総選挙で落選するが、1936年の総選挙で返り咲き、以後、公職から追放された時期を除き、死ぬまで、衆議院議員であり続けた。その後日本大衆党・全国大衆党・全国労農大衆党に所属した。 1932年に日本の無産政党が社会大衆党として統一されると、河上も社会大衆党に属し、社会大衆党の国家社会主義的な政策を支持した。1940年、斎藤隆夫による反軍演説では、同じ社会大衆党の浅沼稲次郎、河野密らと共に斎藤の議員除名決議に賛同した。この年、社会大衆党内で国家社会主義的な政策を推進していた麻生久(麻生良方の父)が亡くなると、麻生の名代として大政翼賛会総務となった。これらが理由で、戦後河上は戦争に協力したとして、公職追放を受ける。 1951年、公職追放を解除されると、翌1952年に右派社会党の委員長に推された。このとき、河上は「委員長は十字架である」と演説して、「十字架委員長」の異名をつけられた。「十字架委員長」と呼ばれてからまもなく丈太郎は国会内の祈禱会を始めた。毎週木曜の午前八時十分から、第二会館議員会議室で、クリスチャンの議員が集まり続けられるようになった。 同年の第25回衆議院議員総選挙では、支持者に対して「私は長い追放生活を終えて、ようやくこうして諸君と相まみえることができるようになった。私の公職追放は、私がある団体に関与していたからである。私の真情をいえば、必ずしも進んでその団体に参加したわけではないが、今は多くを弁解しない。諸君の中に、私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、自らの戦争責任を謝罪した。この選挙では、公職追放を解除された政治家が多く立候補したが、自らの戦争責任を認めたのは河上ただ一人であったと言われている。 1955年、社会党再統一となると、委員長の座を左派社会党の鈴木茂三郎に譲り、自らは党の顧問となった。その後の河上は平和運動に邁進し、戦時中に商工大臣だった岸信介が首相に就任すると、自らの戦争責任を認めた上で、岸に対しても戦争責任を認めるよう追及するなどしている。 1960年6月17日、衆議院議員面会所で請願を受けていた際に、右翼に左肩を刺され負傷。 1960年、西尾末広が民社党を結成すると、動揺した河上派の国会議員の一部が民社党に走った。その際、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して、「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相である。しかし、河上派の動揺を抑えるため、河上は同年の委員長選挙に出馬し、鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して、河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功した。しかし、河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい(浅沼刺殺後は江田三郎が委員長代行)、翌年、河上が委員長となった。 晩年、遊説中に病に倒れ病状が悪化する中で、そのような状態で委員長を続ければ、後世に「地位に恋々とする政治家だったとの酷評を受けることになる」として、長男の河上民雄が委員長辞任届けを社会党に提出した。 1965年(昭和40年)1月過労で倒れ、12月3日、温泉病院で、片時も離さなかった聖書を枕元においたままこの世を去った。発病の10日前、NHKのテレビ党首対談で丈太郎は「日本国民は、原爆を浴びた最初の国だ。だからこそ、神のみこころである平和運動の先頭に立つのも日本国民だ。この世界平和を達成するために、私は私の全生涯を捧げる」と語った。死因はくも膜下出血だった。享年76。墓所はあきる野市西多摩霊園。 エピソード当時、新聞記者の間で政治家の話題が出たときは、呼び捨てにするか愛称で呼ぶのが普通だったが、新聞記者の間でも河上は人格者として知られており、誰もが河上のことを「河上さん」とさん付けで呼んだというエピソードが残っている。また、河上は学者出身らしく、遊説の合間に外国の新聞や雑誌に目を通し、常に政策の勉強を怠らなかったといわれている。 河上が死去したとき、旧制第一高等学校以来の友人である賀屋興宣は追悼文の中で理想、信念、信仰、正義、熱情、純情、善意等の言葉で河上のことを評した。 (以上のエピソードは石川真澄 著 『人物戦後政治』 岩波書店、1997年、ISBN 4-00-023314-9、151〜152頁より) 2024/06/15 00:34更新
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kawakami joutarou
河上丈太郎と同じ誕生日1月3日生まれ、同じ東京出身の人
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