もしもし情報局 > 4月2日 > 洋画家

熊谷守一の情報 (くまがいもりかず)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

熊谷守一の情報(くまがいもりかず) 洋画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

熊谷 守一さんについて調べます

■名前・氏名
熊谷 守一
(読み:くまがい もりかず)
■職業
洋画家
■熊谷守一の誕生日・生年月日
1880年4月2日
辰年(たつ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
岐阜出身

熊谷守一と同じ1880年生まれの有名人・芸能人

熊谷守一と同じ4月2日生まれの有名人・芸能人

熊谷守一と同じ出身地岐阜県生まれの有名人・芸能人


熊谷守一と関係のある人

湯沢三千男: このほかメモや日記を遺しており、昭和天皇が終戦に際して街頭で国民に直接話してもよいと語った(松平康昌からの伝聞)ことや、画家熊谷守一との交流など、政治史や美術史の秘話も記されている。


曾宮一念: 1929年(昭和4年) 窮する一念のために熊谷守一や友人ら34名が新宿紀伊国屋で「一念会」寄贈画展。


山﨑努: 「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展(東京国立近代美術館)についてインタビュー。


山崎努: モリのいる場所(2018年、日活) - 主演・熊谷守一


山﨑努: モリのいる場所(2018年、日活) - 主演・熊谷守一


和田三造: 青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。


山崎努: 「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展(東京国立近代美術館)についてインタビュー。


棟方志功: 『孤高の画人 私の履歴書 画家Ⅱ』 熊谷守一・中川一政・東郷青児共著、日経ビジネス人文庫、2007年 ISBN 4532193818


信時潔: 「別冊太陽 気ままに絵の道 熊谷守一」 2005, 平凡社, ISBN 4-582-94487-6 , pp.120-121 - 信時潔「熊谷さんのこと」:画家の熊谷守一と信時潔とは子供同士が結婚した仲である。


熊谷守一の情報まとめ

もしもしロボ

熊谷 守一(くまがい もりかず)さんの誕生日は1880年4月2日です。岐阜出身の洋画家のようです。

もしもしロボ

作風、趣味などについてまとめました。兄弟、父親、解散、結婚、離婚、現在、趣味に関する情報もありますね。

熊谷守一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。

1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。製紙工場のほか春牛社牧牛場などを経営する孫六郎は政治や商売に忙しく、守一が3歳のときに祖母や母から引き離して他の兄弟とともに熊谷製糸工場に隣接する岐阜市内の邸宅に住まわせ、妾の一人を「おかあさん」と呼ばせて養育させた。同家には、孫六郎の二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らしていた。岐阜県尋常小学校に入学し、11歳のとき、濃尾地震で友人を多数亡くす。12歳ころより水彩画を描きはじめ、14歳で岐阜市尋常中学校に進学する。

17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897年(明治30年)に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入し、1学期間だけ通って中退する。

1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集、徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。

1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をする。

1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。

1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。

1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。

1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。

1922年(大正11年)42歳で18歳下の大江秀子(1898-1984)と結婚。秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれ。大江家は近在きっての豪商で、山林地主だった。大正9年に遠縁の美大生、原愛造と結婚している。原愛造との婚約時代に、熊谷守一と音楽グループを通して知り合い、守一は秀子をモデルに『某婦人像』を描き二科展に出品。大江秀子が24歳のときに原愛造と離婚。守一と秀子の間に5人の子供、長男・黄、次男の陽(1925~28、肺炎で3歳で死亡)、長女の萬(1924~47、肺結核で23歳で死亡)、次女の榧は画家・日本山岳画協会会員、三女の茜(1930〜1932、病死)を設けたが、熊谷は絵が描けず貧乏が続き「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。

1929年(昭和4年)二科会の番衆技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。

1932年(昭和7年)後々池袋モンパルナスと称される地域の近く(現在の豊島区千早)に80坪に満たない土地を借り、家を建てる。

1938年(昭和13年)同じ二科会会員の濱田葆光のつよい薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。熊谷守一の最初の個展は、意外にも墨絵(日本画(毛筆画))であった。

1947年(昭和22年) 二紀会創立に参加。

1951年(昭和26年) 二紀会退会。無所属作家となる。

1956年(昭和31年)76歳 軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。(熊谷守一自身が「約30年間 家から出ていない」などの言葉を残しているが、実際はこの脳卒中以降というのが正しい。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉を残しているが実際はずっと狭かった。)

1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。 1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。 1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。墓所は多磨霊園。

1985年に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる(2007年に豊島区に寄贈し区立の美術館となる)。2004年には長男・黄(こう)が『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈。2015年に中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立される。

作風

写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。

4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの(「陽の死んだ日」1928年/大原美術館)、結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)の病床の顔を描いた作品、その萬が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948-55年/岐阜県美術館)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」1948年/豊島区立熊谷守一美術館 寄託作品(個人蔵))なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。

自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。

熊谷は、昭和46年6月14日〜7月12日まで連載された日本経済新聞の私の履歴書において(現在は『へたも絵のうち』と題され平凡社ライブラリーより文庫化されている)「二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。」「結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。」と言っている。

晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。(現在庭は残っていない。旧居跡地には1985年に熊谷守一美術館が建てられた。)

熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のスケッチブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には 作品を見るものに【昆虫の目】を持たせてくれる。

面と線だけで構成された独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ている。

趣味

自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家。作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と熊谷の息子が結婚するほど親しい間柄だった。一頃は絵を描くことをせず信時の資料を元に音の周波数の計算に熱中していた。

2024/06/14 06:44更新

kumagai morikazu



TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


熊谷守一と近い名前の人

熊谷 真実(くまがい まみ)
1960年3月10日生まれの有名人 東京出身

熊谷 真実(くまがい まみ、1960年〈昭和35年〉3月10日 - )は、日本の女優。 東京都杉並区高円寺出身。静岡県浜松市在住。石井ふく子プロデュース作品に起用されることが多く、いわゆる「石井組(…

熊谷 知花(くまがい ちか)
1988年12月5日生まれの有名人 栃木出身

熊谷 知花(くまがい ちか、1988年12月5日 - )は、日本の女優、歌手、タレント。 栃木県下野市出身。かつてオフィスジュニアに所属していた。現在はDMMの専属タレントとして活動。愛称は「くまち…

熊谷 ちか(くまがい ちか)
1986年7月14日生まれの有名人 長野出身

熊谷 ちか(くまがい ちか、1986年7月14日 - )は、長野県出身のグラビアアイドル。 幼い頃から芸能界に憧れてを抱いていたものの、特にオーディションなどを受けたりはしなかったが、上京したとこ…

熊谷 奈美(くまがい なみ)
1977年3月22日生まれの有名人 大阪出身

熊谷 奈美(くまがい なみ、本名同じ、1977年3月22日 - )は、関西を中心に活動するタレント、リポーター。昭和プロダクション所属。 兵庫県西宮市出身。血液型A型。身長153cm。愛称「奈美ち…

熊谷 浩二(くまがい こうじ)
1975年10月23日生まれの有名人 青森出身

熊谷 浩二(くまがい こうじ、1975年10月23日 - )は、青森県十和田市出身の元サッカー選手。サッカー指導者。青森県立三本木農業高等学校を卒業後、鹿島アントラーズ、ベガルタ仙台で活躍した。ポジシ…

熊谷 麻衣子(くまがい まいこ)
1970年8月10日生まれの有名人 宮城出身

「めざましテレビ」 中学校・高等学校教諭免許状、書道7段 小型船舶操縦士2級 スキューバーダイビング免許 Novice1 普通自動車運転免許 野菜ソムリエ ジュニア・ベジタブル&フルーツマイ…

熊谷 富由美(くまがい ふゆみ)
1950年6月18日生まれの有名人 香川出身

熊谷 富由美(くまがい ふゆみ、1950年〈昭和25年〉6月18日 - )は、元西日本放送のアナウンサー。 香川県高松市出身。慶應義塾大学文学部在学中に文化放送でアルバイトを経験。自分の思っている…

熊谷 元一(くまがい もといち)
1909年7月12日生まれの有名人 長野出身

熊谷 元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 2010年11月6日)は、日本の写真家、童画家。 戦前戦後を通じて写真撮影を続け、1955年には、『一年生 ある小学教師の記録』(岩波書店…

熊谷 弘(くまがい ひろし)
1940年6月25日生まれの有名人 静岡出身

熊谷 弘(くまがい ひろし、1940年6月25日 - )は、日本の政治家、通産官僚。 参議院議員(1期)、衆議院議員(6期)、通商産業大臣(第55代)、内閣官房長官(第57代)、保守新党代表(初代)…

熊谷 ニーナ(くまがや にーな)
1963年7月18日生まれの有名人 大阪出身

熊谷 ニーナ(くまがや ニーナ、1963年7月18日 - )は、日本の女性声優。大阪府出身。81プロデュース所属。 声優になるために、奈良県立生駒高等学校在学中に地元の養成所に通っていたが、高校卒…

熊谷 勇希(くまがい ゆうき)
1月14日生まれの有名人 出身

熊谷 勇希(くまがい ゆうき、1月14日 - )は、日本の男性声優、俳優。 血液型 A型。以前は、劇団すごろくに所属。現在は、有限会社 USPに所属。 2008年 あたしンち(TVの声、男性B…

熊谷 健太郎(くまがい けんたろう)
1994年2月16日生まれの有名人 沖縄出身

熊谷 健太郎(くまがい けんたろう、1994年2月16日 - )は、日本の男性声優。埼玉県生まれ、沖縄県出身。ヒューマンアカデミー卒業。東京俳優生活協同組合所属。 3人兄弟の長男であり、埼玉県で誕…

熊谷 岳大(くまがい たけひろ)
1978年2月12日生まれの有名人 神奈川出身

熊谷 茶(くまがい ちゃ、1978年2月12日 - )は、日本のお笑いタレントである。相方は福島善成。 お笑いコンビガリットチュウのツッコミ担当。身長174.5cm、体重72kg。本名および旧芸名は…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
熊谷守一
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

predia THE ポッシボー SixTONES Kis-My-Ft2 アリス十番 9nine TEAM★NACS Timelesz ももクロ ベイビーレイズ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「熊谷守一」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました