田代義徳の情報(たしろよしのり) 医学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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田代義徳の情報まとめ
田代 義徳(たしろ よしのり)さんの誕生日は1864年8月27日です。栃木出身の医学者のようです。
結婚、卒業に関する情報もありますね。1938年に亡くなられているようです。
田代義徳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる。同年秋、長兄の勧めもあり上京し英語学校やドイツ語学校に通い、1879年(明治12年)東京大学予備門に入学した。 1883年(明治16年) 医師(後に軍医総監)の田代基徳の養子となり「田代義徳」と改名し、基徳の長女春子と結婚する。1889年(明治22年)7月優秀な成績(席次6位)で東京帝国大学医科大学(学制変更により分化大学制となる)を卒業し、同大第一外科講座に入りユリウス・スクリバ(Julius Karl Scriba)教授の助手となる。また、同年済生学舎において外科学講座を担当した。1891年(明治24年)4月田代病院を設立すると共に義父基徳が主宰していた「医事新聞」の発刊を継承した。1893年(明治26年)田代病院に専念のため大学を依願退職するが、1896年(明治29年)東京帝国大学に戻り緒方正規教授に指示し細菌学を学ぶ。1900年(明治33年)文部省留学生としてドイツ・オーストリアに向かい、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)他で外科学・病理学を学ぶ。 1903年(明治36年)9月留学先で東京帝国大学医学部(学制変更により学部制となる)助教授に任じられ、翌年3月帰国。同年9月論文提出により医学博士号を授与され、同月外科学第二講座担当を命じられる。1905年(明治38年)9月佐藤三吉教授の訪欧に際し外科学第一講座担当となり、その頃日露戦争による傷病兵を収容した東京陸軍予備病院にて治療を行う。1906年(明治39年)5月東京帝国大学医学部教授となり日本初の整形外科専門の教室を担当、同年10月整形外科としての診療を開始する。1907年(明治40年)富山県氷見地方に出張し、同県下で発生している奇病を調査する。1908年(明治41年)三井慈善病院(現三井記念病院)創立と共に初代院長兼外科部長に就任し、翌年第10回日本外科学会において会長に推される。1912年(大正元年)11月東京田代病院新本館が落成する。 1916年(大正5年)7月欧米に第一次世界大戦における戦傷者治療の実際を視るため出張し、翌年8月帰国する。1921年(大正10年)4月東京帝国大学評議員に就任し、同月日本初の肢体不自由児療養施設クリップル・スクール「柏学園」創設に尽力し同学園顧問に就任する。また、同月日本レントゲン学会会長となる。1923年(大正12年)9月関東大震災により東京田代病院が全焼する。同年10月定年により大学を退官し、翌11月名誉教授となる。なおこの年、レントゲン技術者の養成を目指し日本レントゲン協会を設立した。 1925年(大正14年)下谷区会議員に当選し、次いで下谷区医師団等の推薦により東京市会議員に当選し3期議員を務める。市議として医事衛生から電気・水道・ガス問題等の委員となり、特に肢体不自由児童への対応に力を尽くし、1932年(昭和7年)6月1日に日本初の肢体不自由児専門小学校である東京市立光明学校(現・東京都立光明特別支援学校)創設を成し遂げた。また、東京府社会事業委員会第三部(救援)部長として、協会附属病院(現城東社会保険病院)開設に注力し初代病院長兼外科部長に就任した。1936年(昭和11年)1月脳溢血に倒れ、東京帝国大学時代の盟友入沢達吉が主治医として治療を行い一時快方に向かうが、1938年(昭和13年)12月1日逝去する。墓所は谷中霊園の天王寺墓地。 1923年(大正12年)12月28日 - 正四位 「新纂医術後期試験問題答案軌範」(田代義徳・山田良叔閲 誠之堂 1893年) 「外科類症鑑別」(桂秀馬・田代義徳閲 朝香屋 1896年) 「外科手術関鍵」(エスマルヒ著、岡田和一郎・田代義徳訳 松崎留吉 1896年) 「外科手術篇」(田代義徳著 半田屋書店 1893年) 「摘要外科各論」(木村鉞太郎著・田代義徳閲 南江堂 1897年) 「摘要外科全書」(木村鉞太郎著・田代義徳閲 南江堂 1900年) 「智兒曼斯氏外科總論 卷1-巻3」(チルマンス原著・田代義徳譯 南江堂書店 1903年-1904年) 「臨床応用按摩術指南」(田代義徳著他 誠之堂 1909年) 「近世診療技術」(入沢達吉・田代義徳閲 南江堂 1911年) 「最新結核病論 結核性股関節炎療法 田代義徳」(山谷徳治郎編 日新医学社 1915年) 「整形外科学図譜 第1輯」(田代義徳著 高木憲次 1921年) 「体育学理講演集 第2輯 姿勢に就て 田代義徳」(体育学理研究会 1922年) 「脊椎「カリエス」患者の心得」(田代義徳著 克誠堂 1926年) 「医学常識 第3巻 畸形の療法 田代義徳」(東西医学社 1931年) 「東京医学会雑誌(20)22 1906年11月 富山県下ニ於ケル所謂奇病ニ就テ 田代義徳」(東京医学会) 「日本外科学会誌 7(1) 1906年12月 稀有ナル膀胱結石ノ二例(附圖第二表甲)討論 山下隆 田代義德他」(南江堂) 「第9回日本外科学会雑誌 1908年 腱移植術 田代義徳」(日本外科学会) 「第15回日本外科学会雑誌2号 1914年 骨及び関節結核 田代義徳」(日本外科学会) ^ 「先考遺影」(田代秀徳編 南江堂 1963年) ^ 「月刊整形外科(17)5 1966年5月1日 田代義徳先生生誕100年祭」(南江堂) ^ 「小学校3・4年生社会科副読本 のびゆく足利かつやくした先人たち」http://kyouiku.ashi-s.ed.jp/senjin/g_tashiro.html ^ 「東京帝国大学一覧 1912年」(東京帝国大学) ^ 「学位大系博士録 昭和15-16年版」(発展社出版部) ^ 「整肢療護園のあゆみ」http://www.ryouiku-net.com/introduction/ayumi1.pdf ^ 『官報』第3416号「叙任及辞令」1924年1月15日。 ^ 日本外科学会「日本外科学会の足跡」 http://www.jssoc.or.jp/aboutus/society/sokuseki.html ^ 社団法人大阪市南医師会「日本医事史抄・医師法成立以前3」http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi15.html 「伽羅山荘随筆 田代義徳君を語る」(入沢達吉著 改造社 1939年) ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 19世紀日本の医学者 20世紀日本の医学者 戦前日本の学者 日本の外科医 日本の整形外科医 東京大学の教員 東京市会議員 下谷区会議員 明治時代の人物 東京大学出身の人物 下野国の人物 栃木県出身の人物 正四位受位者 1864年生 1938年没 谷中霊園に埋葬されている人物 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/24 19:32更新
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tashiro yoshinori
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