石井忠亮の情報(いしいただあきら) 官僚 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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石井忠亮の情報まとめ
石井 忠亮(いしい ただあきら)さんの誕生日は1840年8月4日です。佐賀出身の官僚のようです。
1901年に亡くなられているようです。
石井忠亮のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)石井 忠亮(いしい ただあきら / ただすけ、天保11年7月7日(1840年8月4日) - 1901年(明治34年)1月1日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政府高官。位階勲等は従三位勲二等。日本国営電話事業の創始者。旧逓信省初代電信局長、錦鶏間祗候。鉄道の井上勝、郵便の前島密、電信の石丸安世と並ぶ「逓信四天王」の一人。通称・貞之進。 元佐賀藩士で、中牟田倉之助らとともに藩営三重津海軍所の教官として勤務した。明治元年(1868年)3月に開催された、日本初の観艦式では、旗艦電流丸(佐賀藩)に座乗し、5隻とフランス海軍から派遣された1隻の計6隻からなる受閲艦隊の総指揮官を務めた。戊辰戦争では、政府軍に属して佐賀藩海軍の陽春丸船将として箱館に出征。その戦功を明治天皇より賞され、戦功禄50石を下賜される。 海軍中佐のとき、軍務を去り、工部省に移籍する。土木・電信の事業に関わり、1875年(明治8年)には、ヨーロッパ各国の電信事情を視察する。1880年(明治13年)には電信局長に就任する。1883年(明治16年)には上海に出張し、現地の電話交換局を視察した。日本においても早急なる電話事業開設の必要性を感じ、帰国後、工部卿佐々木高行に対し、国営電話事業の開設を建言する。この結果、国営の電話事業が始まり、忠亮は日本で最初に電話通話を行なった。 1885年(明治18年)、ドイツで開催された万国電信会議には、日本政府代表として出席した。1887年(明治20年)には逓信省電信局長から元老院議官に抜擢された。1889年(明治22年)には和歌山県知事に転任する。1891年(明治24年)に非職、1892年(明治25年)4月28日、依願免本官となり退官した。1896年(明治29年)1月16日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。晩年は和歌山県で余生を送った。1901年(明治34年)死去。 1883年(明治16年)6月28日 - 従五位 1893年(明治26年)2月28日 - 正四位 1901年(明治34年)1月2日 - 従三位 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章 1889年(明治22年)
12月27日 - 勲三等瑞宝章 1901年(明治34年)1月2日 - 勲二等瑞宝章 ^ 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』39頁。 ^ 『官報』第2649号、明治25年4月30日。 ^ 『官報』第3763号、明治29年1月17日。 ^ 『官報』第7号「叙任及辞令」1883年7月9日。 ^ 『官報』第2898号「叙任及辞令」1893年3月1日。 ^ 『官報』第5251号「叙任及辞令」1901年1月7日。 ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。 表 話 編 歴 津田正臣 参事→権令 北島秀朝 権令→県令 神山郡廉 権令→県令 松本鼎 松本鼎 石井忠亮 千田貞暁 沖守固 久保田貫一 野村政明 小倉久 椿蓁一郎 清棲家教 伊沢多喜男 川上親晴 川村竹治 鹿子木小五郎 池松時和 小原新三 佐竹義文 長谷川久一 清水徳太郎 宮脇梅吉 野手耐 友部泉蔵 蔵原敏捷 唐沢俊樹 清水良策 藤岡長和 吉永時次 清水重夫 今松治郎 広瀬永造 小林千秋 小池卯一郎 金井正夫 川上和吉 高橋良麿 小野真次 大橋正雄 仮谷志良 西口勇 木村良樹 仁坂吉伸 岸本周平 肥前石井氏 佐賀藩海軍の人物 箱館戦争の人物 大日本帝国海軍軍人 工部省の人物 日本の逓信官僚 和歌山県知事 日本の元老院議官 錦鶏間祗候 従三位受位者 勲二等瑞宝章受章者 勲三等瑞宝章受章者 勲四等旭日小綬章受章者 1840年生 1901年没 2024/11/23 08:38更新
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ishii tadaakira
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