石浜純太郎の情報(いしはまじゅんたろう) 歴史学者(東洋史) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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石浜純太郎の情報まとめ
石浜 純太郎(いしはま じゅんたろう)さんの誕生日は1888年11月10日です。大阪出身の歴史学者(東洋史)のようです。
卒業に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1968年に亡くなられているようです。
石浜純太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年〉11月10日 - 1968年〈昭和43年〉2月11日)は、日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。石浜、石濱など、複数の漢字表記が見られるが、正式には「石濵」である。 1888年(明治21年)、大阪府で生まれた。堂島で製薬業を営んでいた石濵豊蔵の長男として生まれ、住吉区墨江二丁目に住んだ。1897年に漢学塾泊園書院(現・ 関西大学)へ10歳で入って、藤沢南岳の下で学んだ。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に進み、中学校では画家の小出楢重、作曲家の信時潔らと同級であった。 1908年、大学は東京へ出て、東京帝国大学文科大学支那文学科に入学。卒業論文『欧陽脩攻究』を提出して、1911年7月に同大学を卒業。 大学卒業後は大阪へ戻り、1915年に西村天囚に誘われ漢詩文愛好者による結社「景会」に入会。会や交遊を通じて長尾雨山、武内義雄らと知り合った。 1921年に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)が開校すると、蒙古語部選科生としてモンゴル語を学んだ。 1923年6月、大阪外国語学校で「大阪東洋学会」を創設。また、京都帝国大学の内藤湖南にも師事し、1924年7月より内藤湖南が渡欧した際には随伴した。1927年9月、ニコライ・ネフスキー、高橋盛孝、浅井恵倫、笹谷良造らとともに発展させ、「静安学社」に改名。自らは幹事を務めた。静安学社の名は、結成直近に亡くなった西夏学者王国維の字「静安」からとったものであった。またこの頃、ネフスキーらと共に西夏語の研究を開始。また、1942年には、「大阪言語学会」を設立した。 龍谷大学講師を務め、また関西大学では助教授、教授(1949年就任)を務めた。1957年、学位論文『支那学論攷』を関西大学に提出して文学博士号を取得。1959年、関西大学教授を定年退任し、名誉教授となった。 また学外では、1953年に日本西蔵学会が設立されると会長を務めた。 1954年:なにわ賞を受賞。 従来の漢学の枠にとどまらず、東洋学に新たな分野を開拓した。女真語や契丹語など東洋の諸古語に関心を持ち、また西域出土の仏典や古文献の研究を進めた。また、義兄の藤沢章次郎(藤沢黄坡)とともに、「泊園書院」の維持・発展につくした。 西洋・東洋の別を問わず様々な分野の書籍を研究のために収集した。4万冊を超える東洋学関係の蔵書は、大阪大学図書館に「石濱文庫」として所蔵されている。 東洋史関係の研究者以外では、作家の織田作之助とは長年に亘り親交が深かった。 父:石濵豊蔵は丸石商会(現丸石製薬)創業者。 息子:石濵恒夫は作家、作詞家 甥:藤沢桓夫 は小説家。姉の子。 孫:石濵紅子はエッセイスト、大阪市立海洋博物館「なにわの海の時空館」初代館長。 遠縁:石濱裕美子はチベット史研究者。早稲田大学教育学部教授。 古稀を記念した『東洋學論叢』に「石濱純太郎先生著作目録」がある。 『敦煌石室の遺書』(私家版, 1925年) 『富永仲基』(創元社「創元選書」, 1940年) 『欧米に於ける支那研究に就て(南満洲鉄道大阪事務所, 1941年) 『浪華儒林傳』(全國書房, 1942年) 『支那學論攷』(全國書房, 1943年) 『東洋學の話』(創元社, 1943年) 『續・東洋學の話』(高田時雄編, 臨川書店「映日叢書」, 2018年)遺文 『大壺讀書記』(高田時雄編, 臨川書店「映日叢書」, 2023年) 『世界の言語』 アントゥアヌ・メイエ・マルセル・コーアン(英語版)監修、石濱共訳、泉井久之助編、朝日新聞社 1954 『大阪漢學大会研究報告』(典籍之研究社, 1938年) 『石濱先生還暦記念論文集』(関西大学東西学術研究所, 1954-1958年) 『東洋學論叢』(石濱先生古稀記念会, 1958年) 記念国際シンポジウム論文集『内藤湖南と石濱純太郎:近代東洋学の射程』(玄幸子編,東西学術研究所研究叢刊, 関西大学出版部, 2023年) 記念国際シンポジウム論文集『東西学術研究と文化交渉:石濱純太郎没後50年』(吾妻重二編, 東西学術研究所研究叢刊, 関西大学出版部, 2019年) 「石濱シューレに集う人々: 四半世紀後に」(長田俊樹,『日本研究』64, 国際日本文化研究センター, 2022年:123-158)doi(日文研オープンアクセス) 日本人名大辞典 ^ “財団法人住吉隣保館ニュース№11”. 財団法人住吉隣保館. 2021年3月20日閲覧。 ^ “「三世四代」の院主と石濱純太郎”. 泊園書院. 関西大学. 2022年9月19日閲覧。 ^ 『大阪外国語学校一覧 自大正十二年至大正十三年 附第五臨時教員養成所一覧』大阪外国語学校、1924年2月20日、102頁。 ^ [ネフスキーは1922年4月から大阪外国語学校に赴任。高橋盛孝は教え子。] ^ CiNii(学位論文) ^ [1] ^ 後に関西大学初名誉教授。 ^ 大阪大学図書館報 vol.43 no.3 ^ “【ベテラン記者のデイリーコラム・石野伸子の読み直し浪花女】含羞の帝塚山派(2)女神の前髪に包まれ…大高、東大、原稿料で暮らす新進作家の学生”. 石野伸子(産経新聞). (2014年5月29日). https://www.sankei.com/west/news/140529/wst1405290052-n1.html 2021年3月20日閲覧。 ^ “石濱純太郎先生と私”. 2022年1月22日閲覧。 ^ 富永仲基「翁の文」-『近世思想家文集 日本古典文学大系 97』岩波書店、1966年。水田紀久・大庭脩と共校注 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 人物の画像提供依頼 日本の東洋学者 関西大学の教員 龍谷大学の教員 関西大学出身の人物 東京大学出身の人物 大阪府立市岡高等学校出身の人物 大阪府出身の人物 1888年生 1968年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/17 16:14更新
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ishihama juntarou
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