米川泰夫の情報(よねかわやすお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
米川 泰夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
米川泰夫と関係のある人
白木義一郎: シーズンでは米川泰夫(23勝)に次ぐ、14勝(13敗)防御率3.38(リーグ11位)を記録している。 林義一: この年は4勝中2勝が東映戦で挙げたものであり、いずれも敗戦投手は米川泰夫であった。 須藤豊: 初安打はプロ2打席目に米川泰夫から左中間にライナーで打ち、2打席目は同級生の富永格郎から打った。 江藤愼一: また、かつて営んでいた料理屋によく飲みに来ていた関係で交流があった米川泰夫を一軍投手コーチに招聘し、大洋からは打撃投手兼通訳の古賀英彦を連れてきて、古賀は一軍投手コーチ補佐に就任。 河原明: パ・リーグでは、1956年の米川泰夫以来の連続リーグ最多敗戦投手となった。 清水貢: 1947年、立命館専門学校(のちの立命館大学)に進学、野球部では米川泰夫と同級生であった。 江藤慎一: また、かつて営んでいた料理屋によく飲みに来ていた関係で交流があった米川泰夫を一軍投手コーチに招聘し、大洋からは打撃投手兼通訳の古賀英彦を連れてきて、古賀は一軍投手コーチ補佐に就任。 |
米川泰夫の情報まとめ
米川 泰夫(よねかわ やすお)さんの誕生日は1927年12月17日です。大阪出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2007年に亡くなられているようです。
米川泰夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 米川 泰夫(よねかわ やすお、1927年12月14日 - 2007年3月30日)は、大阪府大阪市天王寺区下味原町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた時代の東映フライヤーズのエース。下位に低迷するチームにあって先発・抑えに大車輪の活躍で天皇の愛称で呼ばれた。1950年代前半に3度に亘って20勝を挙げるも、1955年・1956年と2年連続リーグ最多敗戦投手になるなど、パ・リーグ記録となるシーズン20敗を4度も記録している。また、延長22回、264球(無失点)という1試合最多投球回・投球数のパ・リーグ記録も持つ。 浪華商業卒業後、甲種予科練に合格して、1944年に松山海軍航空隊に入隊。松山航空隊が空襲で焼失してからは浦戸海軍航空隊に移った。復員後の1948年に野球部の勧誘を受けて立命館大学に進学。実家の立地が良かったことから、野球の傍らで自宅で運動具店・喫茶店を経営する。ほかに、あちこちで軟式野球が行われているのに目を付け、「軟式野球の情報を活字にして大阪中にばらまいたら売れるはずだ」と考えて「軟式週報社」という週刊の新聞社も作った。軟式野球をやっている所へ行って売り歩いたが、皆が回し読みするために1ヶ所で1部づつしか売れず、2ヶ月ほどで廃刊になってしまったという。 1948年秋に立命館大が関西六大学リーグで優勝すると、阪急と東急から勧誘を受ける。米川は地元の阪急に入団しても良いと考えたが、阪急との入団交渉に臨んだ際、当日扁桃腺が腫れていたことから喉にガーゼを巻き、進駐軍のセーター姿に下駄を履いて約束の場所である阪急本社の貴賓室へ訪れたため、「失礼な男だ」と球団幹部を激怒させ、話は流れた。その後は筒中セルロイドを経て、1949年7月に契約金20万円、初任給2万円で東急へ入団し、同20日の大映戦(後楽園)で初めて東急のユニフォームを着る。この試合の6回表に二番・三村勲のピッチャーライナーを腹部に受けて東急先発の黒尾重明が突如降板したため、米川が後を受けて緊急登板する。米川は2ヶ月ほどまともに練習していなかった上に無死満塁の場面での初登板となったが、3番・小鶴誠、4番・大岡虎雄、5番・加藤正二のクリーンナップを打ち取ってピンチを切り抜けた。同年9月25日の阪急戦(後楽園)で初勝利を挙げると、閉幕までに3勝を挙げている。同年オフのセ・パ両リーグ分立に際して、米川は大洋ホエールズ・大映スターズから引き抜き攻勢にさらされる。そこで、東急球団代表・猿丸元は箱根早雲山の麓にあった自分の別荘に、次いで伊東温泉に米川の身柄を隠したという。 2年目の1950年には白木義一郎に代わってエースとなり、リーグ最多の363回2/3を投げて、23勝23敗、防御率3.24(リーグ7位)を記録。207奪三振はリーグトップであったが、シーズン最多失点182、投手シーズン最多失策12のパ・リーグ記録も残している。3年目の1951年も40試合登板で27完投19勝(12敗)、2年連続となるリーグ最多投球回数の294回2/3を投げ、防御率2.35でリーグ5位に入った。同年11月13日には岡山県野球場のこけら落しとなった日米野球第4戦に全パの3番手で登板し、「とにかくアメリカさんになめられちゃいかんから全力でいった」と渾身の投球で2回2/3を投げ3奪三振の力投を見せ、日本の1勝目に貢献。 1952年は故障でわずか1勝に留まるが、翌1953年は復活して16勝(21敗)を挙げ、180奪三振で2度目のリーグ最多奪三振を記録する。1954年は35回連続無失点を記録したほか、10月10日の近鉄戦(大阪)では延長22回、264球を投げて無失点に抑え(23回からリリーフの上野重雄が打たれチームはサヨナラ負け)、1試合最多投球回・投球数のパ・リーグ記録を作る。シーズンでは1950年に並ぶ自己最多の23勝(14敗)をマークし、防御率も2.43でリーグ9位に入った。翌1955年も22勝(21敗)と2年連続20勝を挙げるとともに、防御率2.26(リーグ6位)と好成績を残している。 1956年はリーグ4位の182奪三振を奪うも、10勝21敗、防御率3.13(リーグ12位)といずれもリーグ最下位に沈むと、以降1957年は9勝、1958年は5勝と年々成績を落とした。 1958年オフに10年選手制度を利用して西鉄ライオンズへ移籍。移籍に当たって、東映の大川博オーナーからボーナスとして千円札1万枚で1,000万円を受け取り、この際に大川から「君を西鉄に送り出すのは、将来東映の監督として戻ってきてほしいためだ。日本一になった西鉄のあり方を勉強してきてほしい」と言われたという。西鉄への移籍については、米川が西鉄に強かったために他チームに取られてはまずいとの、三原脩監督の意向があったともされる。西鉄では阪急から移籍してきた阿部八郎と共にワンポイントリリーフとして活躍が期待されたが、1959年夏頃から外角低めのスライダーが曲がらずに甘く入るようになる。結局、シーズンでも僅か1勝に終わり、同年限りで現役を引退。 引退すると、同年12月に株式会社米川建設を設立し、立正佼成会や青山学院大学野球部合宿などを建築する。さらに隣接地で不動産業や婦人服専門店も営んだほか、渋谷の恋文横丁でコックをやっていた男性を引き抜いて府中市内に餃子専門店「米川」も開いたが、1964年に米川建設はアイスクリーム工場の建設にあたって3000万円の不渡手形を掴ませられて倒産。 1965年に今度は中央区日本橋人形町に料理屋「米川」を開店し、後にステーキハウスも併設した。客商売を10年以上続けたが、馴染み客を大事にするより、ターミナル駅に出て一見客を相手にしている方が楽で儲かるようになってきたことに嫌気がさして閉店。 1973年からはかつての監督であった井野川利春の伝で、井野川と岡山の同郷で明治大学の同窓である石津謙介のヴァンヂャケットに入社。 一時期は日本教育テレビ解説者も務めるも、実業家として野球を離れていた。米川が営んでいた料理屋に江藤慎一がよく飲みに来ていた関係で交流があり、1975年に江藤が太平洋クラブライオンズの選手兼任監督に就任すると、江藤の招聘で米川は一軍投手コーチに就任。西鉄時代以来のAクラス入りを果すも、江藤の退任に伴って米川も1年でコーチを辞任。 親族の話に依ると、2007年3月30日、東京都羽村市神明台4丁目2番地2にある特別養護老人ホーム神明園にて老衰で死亡した。埋葬又は火葬の年月日は、2007年6月24日であった。埋葬先は、神奈川県鎌倉市十二所512にある鎌倉霊園であったが、2023年に墓地が返還された後、二女とその配偶者により宮崎県宮崎市青島沖に海洋散骨された。 落ちる"ヨネボール"を得意とし、沢村栄治を彷彿とする投球フォームで人気を博した。最盛期の1954年には延長22回、264球を投げて無失点に抑えるなど、無尽蔵のスタミナを武器としていた。 各年度の太字はリーグ最高 東急(東急フライヤーズ)は、1954年東映(東映フライヤーズ)に球団名を変更 最多奪三振:2回 (1950年、1953年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは1989年より表彰 初勝利:1949年9月25日、対阪急ブレーブス15回戦(後楽園球場) 100勝:1955年8月21日、対毎日オリオンズ14回戦(駒澤野球場) 1試合最多投球数:264、1954年10月10日、対近鉄パールス戦、22回 ※パ・リーグ記録 1試合最多投球回:22、1954年10月10日、対近鉄パールス戦 ※パ・リーグ記録 1試合最多被安打:19、1951年10月7日、対大映スターズ戦 ※パ・リーグ記録 シーズン最多失点:182、1950年 ※パ・リーグ記録 シーズン最多失策:12、1950年 ※パ・リーグ記録(投手) シーズン20敗以上の回数:4、1950年、1953年、1955年、1956年 ※パ・リーグ記録 オールスターゲーム出場:4回 (1951年、1953年 - 1955年) 1 (1949年) 19 (1950年 - 1959年) 73 (1975年) ^ 『背番号の消えた人生―栄光の名選手はいま……』313頁 ^ 『背番号の消えた人生』303-304頁 ^ 『背番号の消えた人生』306頁 ^ ついに勝った!全パ軍、全米選抜チームから歴史的初勝利! ^ 『背番号の消えた人生』307-308頁 ^ 『大下弘 虹の生涯』285頁 ^ 年度別成績 1950年 パシフィック・リーグ ^ 年度別成績 1953年 パシフィック・リーグ ^ 2011年にダルビッシュ有が更新するまで球団記録 ^ 『プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉』175頁 ^ 『背番号の消えた人生』308-309頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』785頁 ^ 『背番号の消えた人生』310頁 ^ 『背番号の消えた人生』310-317頁 ^ 『背番号の消えた人生』317頁 ^ 『ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで』ベースボール・マガジン社、2010年5月1日、ISBN 4583616856、121頁 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑―日本プロ野球史を彩った“もうひとつ”のドラマ』86頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』764頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』308頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』875頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』938頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』858頁 近藤唯之『背番号の消えた人生』新潮文庫、1985年、ISBN 4101322031 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉』講談社、1993年、ISBN 4062061082 『日本プロ野球トレード大鑑―日本プロ野球史を彩った“もうひとつ”のドラマ』ベースボールマガジン社、2001年、ISBN 4583611242 辺見じゅん『大下弘 虹の生涯』新潮文庫、1995年 大阪府出身の人物一覧 立命館大学の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 個人年度別成績 米川泰夫 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 今井達也 表 話 編 歴 1946 一言多十 1947 白木義一郎 1948 吉江英四郎 1949 白木義一郎 1950 白木義一郎 1951 米川泰夫 1952 寺川昭二 1953 米川泰夫 1954 米川泰夫 1955 米川泰夫 1956 牧野伸 1957 米川泰夫 1958 牧野伸 1959 土橋正幸 1960 土橋正幸 1961 久保田治 1962 富永格郎 1963 土橋正幸 1964 久保田治 1965 久保田治 1966 尾崎行雄 1967 森安敏明 1968 森安敏明 1969 高橋善正 1970 森安敏明 1971 金田留広 1972 藤原真 1973 金田留広 1974 渡辺秀武 1975 高橋直樹 1976 高橋直樹 1977 高橋直樹 1978 佐伯和司 1979 高橋直樹 1980 高橋直樹 1981 高橋一三 1982 高橋一三 1983 工藤幹夫 1984 田中幸雄 1985 津野浩 1986 津野浩 1987 津野浩 1988 西崎幸広 1989 西崎幸広 1990 西崎幸広 1991 西崎幸広 1992 柴田保光 1993 西崎幸広 1994 西崎幸広 1995 西崎幸広 1996 岩本勉 1997 西崎幸広 1998 岩本勉 1999 岩本ツトム 2000 岩本ツトム 2001 金村曉 2002 岩本勉 2003 C.ミラバル 2004 金村曉 2005 C.ミラバル 2006 金村曉 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 斎藤佑樹 2013 武田勝 2014 吉川光夫 2015 大谷翔平 2016 大谷翔平 2017 有原航平 2018 B.ロドリゲス 2019 上沢直之 2020 有原航平 2021 上沢直之 2022 北山亘基 2023 加藤貴之 2024 伊藤大海 日本の野球選手 大阪体育大学浪商高等学校出身の野球選手 立命館大学硬式野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 最多奪三振 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 20世紀日本の実業家 大阪市出身の人物 1927年生 2007年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/22 00:22更新
|
yonekawa yasuo
米川泰夫と同じ誕生日12月17日生まれ、同じ大阪出身の人
TOPニュース
米川泰夫と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「米川泰夫」を素材として二次利用しています。