西寛二郎の情報(にしかんじろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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西寛二郎の情報まとめ
西 寛二郎(にし かんじろう)さんの誕生日は1846年4月5日です。鹿児島出身の軍人のようです。
卒業に関する情報もありますね。1912年に亡くなられているようです。
西寛二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)西 寛二郎(にし かんじろう、弘化3年3月10日(1846年4月5日) - 1912年(明治45年)2月28日)は、日本の陸軍軍人。教育総監、遼東守備軍司令官、軍事参議官等を歴任する。官位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。 薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。戊辰戦争等転戦し明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。初任は陸軍中尉で御親兵2番大隊付を命ぜられた。同年12月、陸軍大尉に進み1873年(明治6年)12月、陸軍少佐に任ぜられる。1874年(明治7年)の佐賀の乱には征討参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍し1877年(明治10年)の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。 その後、近衛幕僚参謀・参謀本部管東局員を経て1881年(明治14年)2月、歩兵第11連隊長に就任し、翌年、陸軍大佐に進む。大佐として名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し1889年(明治22年)8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。この戦役では山地元治中将指揮の下金州・旅順・田庄台を攻略し、その功をもって1895年(明治28年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。 1896年(明治29年)5月に威海衛占領軍司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として第2師団長に就任する。1904年(明治37年)2月の日露戦争に出征し功を挙げ同年6月に陸軍大将に進級する。同年9月の遼東守備軍司令官を経て1905年(明治38年)5月9日、陸軍三長官の一角教育総監に就任する。翌年4月には功一級金鵄勲章を受章し、1907年(明治40年)の伏見宮貞愛親王の渡欧に当たっては随員を仰せ付けられる。帰国後の9月子爵に陞爵し、1908年(明治41年)の軍事参議官の後1911年(明治44年)3月後備役となる。1912年(明治45年)2月28日薨去。没後に勲一等旭日桐花大綬章を贈られる。 墓所は東京都港区南青山・青山霊園。 明治 4年(1871年)
12月 4日 - 大尉 明治 6年(1873年)12月14日 - 少佐 明治12年(1879年) 3月20日 - 中佐 明治15年(1882年) 2月 6日 - 大佐 明治22年(1889年) 8月24日 - 少将 明治29年(1896年)10月14日 - 中将 明治37年(1904年)6月 - 大将 明治38年(1905年)5月9日 - 教育総監 明治44年(1911年)3月10日 - 後備役 1874年(明治7年)2月18日 - 従六位 1889年(明治22年)9月27日 - 従四位 1894年(明治27年)10月26日 - 正四位 1899年(明治32年)11月30日 - 従三位 1904年(明治37年)6月16日 - 正三位 1909年(明治42年)7月10日 - 従二位 1912年(明治45年)2月28日 - 正二位 1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1895年(明治28年)
8月20日 - 男爵、功三級金鵄勲章・旭日重光章 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章 1903年(明治36年)5月16日 - 勲一等瑞宝章 1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章・旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章 1907年(明治40年)9月21日 - 子爵 1912年(明治45年)2月28日 - 旭日桐花大綬章 後を嗣子の鯱男が継いだ。陸軍歩兵中尉となるが、1915年に隠居した。墓所は多磨霊園に所在。 六男 勝男 - 兄・鯱男の隠居後、家督を継承。勝男は陸軍士官学校を28期で卒業し階級は陸軍大佐に至る。 長女 アイ - 佐治喜一陸軍少将に嫁ぐ。佐治は会津藩所縁の人物で稚松会会員。 三女 ハル - 若尾謹之助(実業家・甲州財閥若尾家)に嫁ぐ。 ^ 『官報』第8313号、明治44年3月11日。 ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110 ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。 ^ 『官報』第3401号、1894年10月27日。 ^ 『官報』第4926号「叙任及辞令」1899年12月1日。 ^ 『官報』第6288号「叙任及辞令」1904年6月17日。 ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。 ^ 『官報』第8606号「叙任及辞令」1912年2月29日。 ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。 ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。 ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。 ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。 ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、298頁。 ^ 『稚松会名簿』(昭和12年12月) 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 378頁 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。 大日本帝国陸軍大将 日本の子爵 日本の男爵 戊辰戦争の人物 台湾出兵の人物 西南戦争の人物 日清戦争の人物 日露戦争の人物 鹿児島県出身の人物 幕末薩摩藩の人物 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等旭日重光章受章者 勲二等瑞宝章受章者 勲三等旭日中綬章受章者 功一級金鵄勲章受章者 功三級金鵄勲章受章者 1846年生 1912年没
2024/11/10 12:52更新
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nishi kanjirou
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