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見坊豪紀の情報まとめ
見坊 豪紀(けんぼう ひでとし)さんの誕生日は1914年11月20日です。東京出身の国語学者のようです。
病気、卒業に関する情報もありますね。1992年に亡くなられているようです。
見坊豪紀のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - 1992年10月21日)は、日本の日本語学者・辞書編纂者。『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』の編纂者として知られ、「ケンボー先生」と親しまれる。 東京府出身(本籍は岩手県盛岡市)。青森県、福島県、当時の南満州を経て、1932年、旧制山口高校入学。1年の病気休学期間を経て卒業。 1936年、上京して東京帝国大学文学部国文科に入学。同期には後に『明解国語辞典』に補助的な立場で関わる山田忠雄がいる。1939年、卒業。その後、同大学大学院に進学。 大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に当たる。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」と冠して1943年に刊行された(1952年に改訂版)。編纂中は大学院に顔を全く出しておらず、辞書の原稿を全て預けた後に中途退学したという。 1941年、岩手県師範学校教諭、1942年助教授、1943年旧制東京高校教授、1947年岩手師範学校教授、1949年岩手大学教授に就任、1957年国立国語研究所に入り、第3研究部長。 1968年、国立国語研究所を退職。以後、現代日本語の用例採集と辞書編集に専念した。1974年には用例採集カードが100万枚を超える。作業は体調を崩した1992年2月まで続けられ、採集カードは実に約145万枚に達した。 1960年、『明解国語辞典』の項目を整理して一新した『三省堂国語辞典』(三省堂)を刊行。『三省堂国語辞典』は、日刊新聞・週刊誌・放送など生の現代語資料から、直接に用例を採集したところに特色がある。それまでの辞書は、伝統語の重視と現代語の軽視、先行辞書の引き写しなどの問題点があったが、見坊の辞書は、それらとは異なる方針を採った「同時代語の辞書」という点で画期的であった。1972年1月9日に山田忠雄と袂を分かつ。山田は『明解国語辞典』の名を引き継いだ『新明解国語辞典』を、見坊は『三省堂国語辞典』を担うことになる。 『三省堂国語辞典』初版刊行と同時に、現代日本語の実例を採集する作業をより本格化させた。毎月、何千という現代語を新聞・雑誌等から収集してカード化した。その成果は第2版(1974年)以降の版で結実し、現代語を鏡のように反映する辞書としての評価が定まった。見坊が辞書を「かがみ」であると捉え、言葉の実態を映す「鏡」(記述文法)の性格と、言葉を正す「鑑」(規範文法)の性格を認識していたことは有名である。中でも見坊が重視したのは、現代語の変化を素早く映し出す「鏡」の側面であった。また、「ことばの写生」という語義記述に特色がある。 一方、国立国語研究所在職中の1962年から、雑誌『言語生活』(筑摩書房)にコラム「ことばのくずかご」の連載を開始した。「なまの資料に語らせる現代日本語の実態」と副題にある通り、見坊自身の現代語用例収集の一端を紹介するコラムであり、特に「辞書には入りそうもない、放っておけば捨てられる運命の言葉(および言葉に関する事例)」を取り上げ、原文の文章をそのまま引用して示すところに特徴があった。流行語や言い間違いの事例などが多く含まれ、おのずと言葉のユーモラスな実例集になっていた。同誌の中でも人気のページとなり、1979年と1983年に、このコラムを選りすぐった単行本も出た。 『明解国語辞典』(三省堂 1943年)
『三省堂国語辞典』(三省堂 1960年)
第2版 - 1974年 第3版 - 1982年 第4版 - 1992年 『ことばの海をゆく』(朝日新聞社 1976年) 『辞書をつくる―現代の日本語―』(玉川大学出版部 1976年) 『辞書と日本語』(玉川大学出版部 1977年) 『ことばのくずかご』(筑摩書房 1979年) 『ことばの遊び学―ワード・ハンターが行く―』(PHP研究所 1980年) 『ことば さまざまな出会い』(三省堂 1983年) 『〈'60年代〉ことばのくずかご』(筑摩書房 1983年) 『新ことばのくずかご '84〜'86』(筑摩書房 1987年) 『現代日本語用例全集』〔未完・3巻まで刊行〕(筑摩書房 1987年 - 1989年) 『88年版ことばのくずかご』(筑摩書房 1988年) 『89年版ことばのくずかご』(筑摩書房 1989年) 『日本語の用例採集法』(南雲堂 1990年) ^ 「辞書編纂者」は「レキシコグラファー」といい、三省堂国語辞典第3版に立項してあり、「辞書編集者(=著者)。「レキシコグラファーは弁解せず」と書いてある。一部にしか使われない語を立項したのはサミュエル・ジョンソンの英語辞書のlexicographerが‘A writer of dictionaries; a harmless drudge, that busies himself in tracing the original, and detailing the signification of words.’(辞書の作者;無害な努力家、言葉の元と意味を追うのに忙しい)となっていることを意識している。 ^ 『明解国語辞典』で「ノックアウト」「フレンチドレッシング」「プロレタリアアト」「ブロンド」や「抗日」「細菌戦術」「戦傷死」「敵性」など、『三省堂国語辞典』で「ウルトラマン」「エッチ」「エー」などをいち早く立項したことで知られる。 ^ 説明を読んだ人が、その語を自然に思い浮かべることができるよう、日常語で具体的に記述することを指す。例えば「水」について、多くの辞書は「水素と酸素からなる化合物。化学式はH2O」のように学術的な説明を施しているが、見坊は「生活するのに欠かせない、透き通った冷たい液体」といった一般的認識を説明するように工夫した。 ^ 1981年まで。その後1984年に協力者とともに「新ことばのくずかご」として再開、雑誌廃刊の1988年まで継続、のち雑誌「ちくま」に移った。 ^ 見坊没後も辞書の改訂は継承され、編者としてその名が記されている。 ^ 山口高等学校 (1936), p. 191. ^ 東京帝国大学 (1939), p. 566. ^ 武藤康史 (2001). ^ 『三省堂国語辞典』第4版序文 ^ 佐々木健一 (2014), pp. 184–192. ^ 『三省堂国語辞典』第3版の序文 ^ 佐々木健一 (2014), pp. 86–88. ^ 佐々木健一 (2014). ^ 山崎誠 (2013), pp. 88–89. ^ 飯間浩明 (2020), p. 85. 山口高等学校 編『山口高等学校一覧:自昭和11年至昭和12年』山口高等学校、1936年6月。NDLJP:1463838/106。 東京帝国大学『東京帝国大学一覧:昭和14年度』東京帝国大学、1939年12月。NDLJP:1466223/291。 武藤康史 編『明解物語』三省堂、2001年4月。ISBN 4-385-35919-9。 佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』文藝春秋、2014年4月。ISBN 978-4-16-390015-5。 山崎誠「新日本語学者列伝:見坊豪紀」『日本語学』第32巻第4号、明治書院、2013年4月、84-91頁。 飯間浩明「見坊豪紀」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、82-85頁。 三省堂国語辞典 見坊行徳 - 孫。辞書マニアとして著作がある。 見坊豪紀全著述目録 1914-1992 ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 オランダ IdRef 20世紀日本の言語学者 日本語学者 日本の辞典編纂者 20世紀の辞典編纂者 岩手大学の教員 国立国語研究所の人物 東京大学出身の人物 旧制山口高等学校出身の人物 東京都出身の人物 1914年生 1992年没 プロジェクト人物伝項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/17 03:28更新
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kenbou hidetoshi
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