金野昭次の情報(こんのあきつぐ) ノルディックスキー/ジャンプ 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
金野 昭次さんについて調べます
■名前・氏名 |
金野昭次と関係のある人
インゴルフ=モルク: 上述の通り札幌オリンピックの70m級ジャンプにて日の丸飛行隊(笠谷幸生、金野昭次、青地清二)が1位から3位までのメダルを独占した時の4位の選手である。 青地清二: 金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次と共に日本人3人で表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。 菊地定夫: その後、雪印の監督を長く務めるなど後進の指導に尽し、1972年札幌オリンピック当時は全日本スキー連盟ジャンプ部門強化委員長を務め、笠谷幸生、金野昭次、青地清二らによる70m級メダル独占の原動力となった。 笠谷幸生: 銀の金野昭次、銅の青地清二と共に日本勢で表彰台を独占し、日の丸飛行隊と呼ばれた(この時実況を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーは、「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ!……飛んだ決まった!!見事なジャンプ!!」という名ゼリフを残している)。 |
金野昭次の情報まとめ
金野 昭次(こんの あきつぐ)さんの誕生日は1944年9月1日です。北海道出身のノルディックスキー
ジャンプのようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。2019年に亡くなられているようです。
金野昭次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)金野 昭次(こんの あきつぐ、1944年9月1日 - 2019年9月5日)は、北海道札幌市西区出身の元スキージャンプ選手。母方の血縁に大倉山ジャンプ競技場初代バッケンレコード保持者の浜謙二がいる。 小学3年生の時にスキージャンプを始める。北海高校から日本大学に進学し、同大スキー部監督の八木祐四郎の指導を受ける。卒業後は北海道拓殖銀行に入行。 1968年グルノーブルオリンピックで五輪初出場。しかし、70m級で24位、90m級で20位に終わる。(4年後に札幌オリンピックの開催が決まっていた日本は、この大会に過去最高の62選手を送り込んだが、メダルはおろか6位入賞すら果たせなかった。) 1972年の札幌オリンピックで2度目の五輪出場を果たし、70m級で銀メダルを獲得。金メダルの笠谷幸生、銅メダルの青地清二と共に日本人3人で表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。また日本人選手の中で一番初めに飛び、見事な大ジャンプを見せ「日本の切り込み隊長」と呼ばれた。(90m級では12位だった。)この頃の金野のジャンプは162cm、53kgと小柄ながらサッツ(踏切)のキレが非常に良く、「カミソリサッツ」と呼ばれていた。 1976年インスブルックオリンピックでも日本代表に選ばれたが、70m級・90m級とも出場する4選手にはエントリーされなかった。 現役引退後はスキーから離れ、銀行の営業マンとなった。 1998年長野オリンピックの聖火リレーでは、1月6日に札幌市でスタートした東日本ルートの最初のランナーを務めた。また開会式では、猪谷千春、笠谷幸生、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美と共に8人で五輪旗を持って入場した。 2019年9月5日、下咽頭がんのために北海道札幌市の病院にて亡くなった。75歳没。 ^ “金野昭次さん死去 75歳 札幌五輪「日の丸飛行隊」の銀メダリスト”. 毎日新聞 (2019年9月9日). 2020年8月5日閲覧。 ^ “【冬季オリンピックメモリーズ】 歴代日本代表選手名簿:1972年札幌大会”. web.archive.org (2016年6月29日). 2020年3月27日閲覧。 ^ "「日の丸飛行隊」金野さん死去 75歳 札幌五輪で銀". どうしん電子版. 北海道新聞社. 9 September 2019. 2019年9月9日閲覧。 日本の冬季オリンピック銀メダル 1972年札幌オリンピックのスキージャンプ競技 金野昭次 - 国際スキー連盟のプロフィール (英語) 金野昭次 - Olympedia(英語) 日本のスキージャンプ選手 オリンピックスキージャンプ日本代表選手 スキージャンプのオリンピックメダリスト 日本のオリンピック銀メダリスト 北海道拓殖銀行の人物 北海高等学校出身の人物 日本大学出身の人物 札幌市出身の人物 1944年生 2019年没 癌で亡くなった人物
2024/11/19 21:03更新
|
konno akitsugu
金野昭次と同じ誕生日9月1日生まれ、同じ北海道出身の人
TOPニュース
金野昭次と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「金野昭次」を素材として二次利用しています。